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私は聡次郎さんの部屋を出るとエレベーター横の非常階段から1つ下の階に下りた。5階の部屋のチャイムを鳴らすと中から社長夫人である麻衣さんが顔を出した。

「あれ、梨香さんどうしたの? 今日は聡次郎さんとお出かけなんじゃ?」

私よりも1回り近く年上だろう整った顔立ちの麻衣さんはサラサラなセミロングの髪を揺らして首をかしげた。

「実は今聡次郎さんの部屋でご飯作ってて、でも聡次郎さんの部屋には調理器具が全然なくて……申し訳ないのですがお借りしたいんですが……」

情けないほど暗い声で事情を話す私に麻衣さんは微笑んだ。

「聡次郎さん料理しないからね。何が必要かしら?」

「フライパンとフライ返しを貸していただければなんとかなります」

最低限それだけあればいい。ハンバーグは作れるだろう。

「ちょっと待っててね。中に入って」

麻衣さんに促され玄関に入って待たせてもらうことにした。
部屋の奥に入っていった麻衣さんに視線を向けると、ドアの向こうに少しだけ見えるリビングは綺麗に片付いている。
聡次郎さんの必要最低限のものだけあるシンプルな部屋とは違って、物はあるけれど整理整頓されている。
まだ子供がいない社長夫婦は跡継ぎ問題で悩んでいるのだとパートさんたちから聞いていた。この老舗企業も例に漏れず大変なのだろう。
子供がいないから麻衣さんは会社を手伝っているのかもしれない。店舗に関する事務処理全般を担い、本店店長である花山さんが休みの日は本店のサポートもしてくれている。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

麻衣さんはフライパンとフライ返しを持って戻ってきた。

「聡次郎さんが女の子を部屋に招くなんて初めてじゃないかな」

「そうなんですか?」

「今まで恋人はいたんだろうけど、家族に紹介したことはなかったみたい。慶一郎さんは梨香さんを紹介されたとき喜んでたの」

歓迎されているのは嬉しい。だからこそ、偽の関係が申し訳なく思うのだ。

「婚約してるならもう一緒に住んじゃえばいいのに」

「いえ、そこまでは……」

聡次郎さんと同棲なんてとんでもない。ストレスが溜まりそうで、それだけはどんなに大金を積まれても勘弁してほしい。

「龍峯でのお仕事も順調そうで良かったわ」

「そうでしょうか……」

「そうよ。今日も梨香さんがお休みだったから、赤城さん久々に玉露を淹れたらしくて戸惑ってたわ」

「私もまだ上手く淹れられるわけではないです……」

きっと私がいたって美味しい玉露は淹れることができない。賞味期限が近づいて販売することができなくなった玉露を練習用に淹れてもよいと言われたので何度か練習した。けれど川田さんが淹れたお茶よりも玉露のうま味を引き出すことができない。

「頑張ってね。聡次郎さんよりもお茶に詳しくなるくらいに」

「はい……」

知識はあってもお茶を淹れるのが下手な聡次郎さんよりは私の方が技術は上かもしれない。
今は淹れ方の他に川田さんから借りたテキストで製造工程や歴史、流通まで勉強し始めたところだ。

聡次郎さんの部屋まで戻ると相変わらずソファーでマンガを読んでいた。
私が戻ってきたのに気づいた聡次郎さんはちらっと私を見て小さく「ありがとう」と呟いた。たまにはお礼も言えるじゃん、と私は感心した。
思えば聡次郎さんにお礼を言われたことは少ない。契約を交わすと言ったときに「ありがとうございます」とビジネス感満載に言われたことならあるのだけれど。

「梨香、腹減ったー」

こういうところは子供だ。

「はいはい、作りますよ」

いい加減な返事をしながらIHコンロにフライパンを置いた。

ハンバーグの材料をこねているときも「今何してんの?」と聞いてくるし、小判型に丸めているときも「俺のでかくして」と口を挟んでくる。

「梨香、あとどれくらい?」

「まだ全然!」

フライパンでハンバーグを焼き始めて蓋をしたところだ。まだ数分かかるのに聡次郎さんも数分おきに話しかけてくる。

「気になるなら手伝って!」

「しょうがないな……」

聡次郎さんは渋々といった様子で立ち上がり私の横まで来た。

「何手伝うの?」

「ブロッコリーを洗って小房に分けて」

「はいよー」

適当な返事だけれど顔は嫌そうではない。老舗企業のお坊ちゃまがブロッコリーを洗うなんて滅多に見れない光景だろう。

「そういえば以前は家政婦さんがご飯を作ってたんでしたっけ?」

月島さんのお母さんも龍峯の家政婦だったと言っていた。

「家政婦が作ってくれるときもあったけど、食事は母さんがほとんどだったな。料理は得意みたいだし」

「そう……」

慣れ親しんだお母さんの料理と家政婦さんの料理。私の料理はそれにはとても及ばないのだろうと不安になる。
聡次郎さんに好かれたいわけじゃないけど、まずいご飯を作るのは申し訳ない。自分で自分の分を作るのは問題ないけれど、一流のものを食べていそうな聡次郎さんを満足させるものは作れる気がしない。



ローテーブルにハンバーグのお皿と野菜を切ったり茹でたりしただけの簡単なサラダを載せ、インスタントのお味噌汁とご飯茶碗を置いた。

「いただきます」

1番にハンバーグに箸をつけた聡次郎さんを見つめた。

「……うまい」

「本当に?」

「うん。本当にうまい」

味わうように噛みながら微笑む聡次郎さんにほっとした。

「あ、飲み物を忘れていました」

冷蔵庫に入っていたお水でいいかと思ったのだけれど、聡次郎さんが「お茶淹れて」と言った。

「龍清軒でいいですか?」

「食器棚の真ん中の引き出しに他のお茶の葉も入ってるから、梨香が飲みたいものでいいよ」

食器棚の引き出しを開けると龍清軒の他に龍峯で扱っているお茶の葉が未開封の状態で入っていた。

「どれもまだ開いてないよ?」

「自分じゃ淹れて飲まないんだよ。梨香が飲みたいの開けていいから」

そう言われても1度封を切ってしまったお茶の葉は風味が落ちていく一方だ。聡次郎さんのように自宅でお茶を飲まない人にはもったいない。
開封され輪ゴムで留められている龍清軒も賞味期限はまだ持つけれど、いつ開封したものかわからない。

「そうだ、さっき買ったお茶を飲んでみよう」

お茶の雑貨店で買ったお茶の葉を今飲んでみたくなった。

「同じ普通煎茶でも水色は龍峯の商品の方がちょっと濃いかな」

実際に淹れてみた雑貨店のお茶は香りも龍峯のものよりも弱い。

「でも口に入れると香りは鼻に抜ける。濃い味の食事のときにはちょうどいいかも」

お茶を一口飲んで感想を勝手に話す私に聡次郎さんは笑っている。

「いつの間にかお茶に興味を持ったのな」

「まあ……龍峯で働いてたら自然と」

「初日には自信がないなんて言ってたのに」

「少しは勉強したから」

「どれどれ」

聡次郎さんは私の淹れたお茶を口に含んだ。

「……まあまあだな」

「またそれ?」

いつもと同じ感想だ。この人は私が何をどう淹れようと褒めたりはしない。
もしかしたら聡次郎さんはお茶が好きではないのかもしれない。もしくはお茶の味の違いがわからない人なのだろうか。

「聡次郎さんってどんなお茶が好きなんですか?」

「お茶は好きじゃない」

「え?」

「コーヒーか、飲んでも紅茶。日本茶は元々好きじゃない」

やはりそうかと納得する。

「でもいつも私に淹れてって言ってくるじゃない」

お茶の淹れ方を知った初日から強制的に淹れさせて飲んだのに。

「梨香の練習のためだよ。俺の婚約者がいつまでもまずいお茶を淹れてたら格好がつかない」

「じゃあどうして龍峯に戻ったの? 格好がつかないと言うならいずれ別れる契約なんてしない方がいいし、飲料メーカーに勤めたままでも……」

そこまで言ってからしまったと口を閉じた。聡次郎さんや龍峯の事情は私には関係ない。婚約契約をしているといっても、私が軽々しく聞いてはいけない事情があるのだと察していたはずなのに。

「すみません……余計なことを……」

「兄さんが大変だと思ったから」

聡次郎さんは静かに言った。

「兄さんは元々俺と同じでこの会社に興味はなかったんだ。でも創業110年のこの会社を維持しようと必死だ。俺はその助けになりたいと思ったんだ」

「そうなんだ……」

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