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私の話、明日の話


「私の名前、エイミー・アーネストと言います。アーネスト財閥という財閥の令嬢と言えば、私の素性のイメージはつきますかね」
青年に私の話を聞いてもらうにあたって、まずは名前を名乗った。
ついでに、私が何者なのかも明かした。
何かリアクションが返ってくるかと思っていたが、そんな様子は無いようだ。
青年の反応が伺えないので、返事がない限りは続けていくことにする。
「この名を知っているか分かりませんが。電子機器の製造や、ホテルの運営なんかも有名ですよ」
補足をすると、青年はやっと呟きを返してくれた。
「……知ってる」
「ああ、本当ですか?」
そう一言肯定した限り返事はしてくれなかったが、家の名が通っていることが嬉しかった。
いいや、青年が知っているという事実が嬉しかったんだろう。
なんだかんだ、こんなに傍若無人で、自ら進んで世間からあぶれていそうな人にも父のやってきたことは認められているのだという気がして、嬉しかった。
私がどんな企業の令嬢かは伝わったと考えてもいいだろう。
私は、更に話を進める。
「アーネストの令嬢として、様々なレッスンや稽古を受けているんです、私。後継ぎとして必要な経験や勉学は勿論、芸術の素養も……護身術とかも」
「なんだ、ホントはそこそこ強いんじゃねえか」
青年の視線がこちらへ向いたのが分かった。
私は頷かなかったし、青年の方を見ることもできなかった。
プロミネントの学章について話した時、青年に痛い図星を付かれて答えられなかった通り、とても肯定できないのだ。
しかし、今は答えねばなるまい。
私の弱みも知ってもらって、青年ときちんと対等になりたいのだから。
「……いいえ……そんなことありません。私、何でか、強くなれないので」
そう言って、自分で自分を客観視した言葉を並べるのは、少し辛いものがあった。
耳に入る自分の声音が少しだけ落ち込んでいるのに、情けなささえ覚えた。
「ある程度の身のこなしは並より上かもしれませんが、誰かに襲われたらきっと勝ち目はないでしょう。そんなだから私、本当は一人で出歩いてはいけないんですよ。弱いので。だから本当は強いなんてことはありません」
そう。
私は、護身術の講師から、筋肉の作りが他と違うのだと言われてしまうくらい体が成長しなかった。
講師曰く、握力も弱いければ足で踏ん張る力も弱い、瞬間的に力を出すことが苦手な体質。
だから、攻撃を躱してすぐに逃げられるような回避術を覚える方が良い、とかなんとか。
私にはそれが、努力してもちっとも上手くならない、と聞こえてしまうのだ。
無論、そんな風に変換しているのは自分だとは分かっているのだが、ずっとコンプレックスだった。
所詮は守られてばかりの、か弱い少女というレッテルを剥がせなくなった気がして。
やがてそれは悩みとなり弱点となり、そんな自分を受け入れてはいるつもりだ。
しかし、こうして青年に話していると、全然上手くいかなくて嫌なの、なんて愚痴を言っているみたいで自分が腹立たしく感じる。
私は、膨らませようもない話はさっさと切ることにして、別の話を続ける。
「私がプロミネント高校に所属しているのは、私が有名財閥の令嬢だからです。こんな私が一人でこうして外出できているのは、プロミネントと我が家系の護衛システムがあるからです。それらを私のために行使するのは、私が一人でうろつくと危ないからですよ。本当は一人で外出なんてしちゃいけないんです」
そう、本当はこうしていちゃいけない。
青年と話をしていてはいけない。
人の力を使うことでしか無事に生きていけないのだから、それに甘えず、もう戻らないといけない。
理屈で言えば絶対そうだ。
しかし、自分の中に理屈で流せない感情があることを、今は何故か無視できないのだ。
「でもたまに、今日みたく、どうしようもなくサボりたくなるんです。こういう素敵な場所で、綺麗な空気を吸って過ごしたくなるんです。高い革靴が欠けて汚れるのも知らず、走りたくなるんです」
私は、ここまで言って青年の方を見た。
すると青年は、まだ私を見ていた。
どこか興味無さげで、心の奥ではどうでもいいと思っているのであろう目。
でも、決定的に私を信用させる、真剣そうな熱い色。
「だから、私はここに居ます。この場所は本当に綺麗。そこに、とても興味惹かれる貴方が居ました。貴方が訳あってここに居座らざるを得ない人なら、私は訳もなくここに居座りたい人です。常識に捕らわれない出会いだと思いませんか?」
もう言えることは言って満足した私は、青年に問いを投げた。
これ以上話を膨らませると、無力な少女の父親自慢になってしまう。
しかしこの青年は、聞いたことに素直に答えてくれる性格はしていないのだ。
「お前がどういう理由でプロミネントにいるのかは分かったわ。やべえ奴なのな、やっぱ」
声に抑揚がなく、思うままを口にしている青年が、いかに私の身の上を気にしていないかが分かる。
十年と少しを生きている私にとって、ここまで対等な関係は初めてだ。
『やばい』のたった一言で身の上が表現されたのも、初めてだ。
やばい奴、そうなのかもしれない。
面白い表現に思わず口元が緩んだ。
「そうですね。普通とは違います。正直に言うと、級友の方ともそう話さないので、普通の匙加減が分かりませんし」
出生や器量は通用しない相手。
緊張と楽しさが混在する胸内は、意外にも陽の気で溢れていて、しんどい話をした後なのに何故か気分は悪くなかった。
「……あの、私も語っておいてなんですが、くれぐれもこのことはご内密に」
ふと、最初にすべき注意を忘れていたのを思い出し、自らの口元に人差し指を立てて青年に聞かせた。
まさか、青年がこのことを他人に話すとも思っていないのだが、念のためだ。
言うわけないだろ、と青年が肯定してくれさえすれば良かった。
それなのに、何故か青年は、悪戯っぽく口角を上げて体をこちらに向ける。
明らかに、こちらに何か意識を向けて、何かしようとしている。
私は、予想外の流れに驚いた。
ああ、何をするのだろう。
動きを見せた青年にドキマギしている私は、口元に指先を立てたまま青年に釘付けになった。
青年は、私に体を向けた後、ゆっくりと手を上げる。
その手は、ゆっくりと、私の方へ向かってきた。
そして、私の口元にある私の人差し指を、同じく人差し指で、トン、と繊細につついて言った。
「お前が俺に害を与えない限りは、な」
――悪魔のようだと思った。
青年の見せた悪い笑顔と指先への感触に、思わず息を飲む。
私だけが損をしない話に素直に頷くわけがない、とは分かっていた。
それで、代わりに自分にも損をさせるなと条件を提示してくるのは、やはり性格が出ていると感じた。
逐一青年を綺麗だと思うことはあったが、今まで見た笑みの中で、この悪人面とも言えるニヒルな怪しい笑顔が一番青年によく似合っている。
その雰囲気がまた、私の未知への好奇心を満たしてくれた。
青年が触れる指の先に意識が行って、少しくすぐったくて、むずむずする。
やはり、今回青年と交わしたやり取りも、外部に漏らさない方が良いということだ。
青年がどういう人物なのかまだ何も分からないが、言っていた事件と関わりがある……と、するならば。
余計に外部に漏らせないだろう、それにより青年が被害を被る可能性は充分にある。
「……分かりました、肝に銘じておきます」
私は、その怪しくも面白い約束事に、思わず口角を上げて頷いた。
ああ、お父様。
私、悪魔と契約を結びました。
「よし。まあ、いいだろ」
青年は満足げに笑うと、つうっと私の指を指先で一撫でして、指を離した。
「別に心配しなくても、お前のこと話す機会なんざ俺にねえしな」
青年はぶっきらぼうな口調で一言そう言うと、再び私から目を逸らしてしまった。
私を安心させるためでもなく、単に事実を言ったまでなんだろう。
「分かりました、ありがとうございます」
契約を結んで不思議な関係ができてしまった。
お互い、素性を隠しておきたいくせに、相手に少しを知られている。
けれど私は、それが全く不快じゃない。
青年は嫌なのだろうが、こんな真っ新な関係はそう組めるものじゃない。
令嬢という前提があるだけで、ただの友人を作るときでさえ、何かしらの弊害があるのだから。
私にとって、今のこの一瞬で出来た関係が、とても手放し難いものだった。
「貴方は私が信用できるのですか、貴方に害を加えないと」
私は青年に問いかけた。
私にとっては大事な関係だが、青年にとってはそうでは無いはずだ。
青年が私を信頼するには、相応に時間がかかるだろう。
この河川敷にこんな人が居るのだとか、私のせいで噂が広がる可能性を気にしないのだろうか。
信用している、と言われたならば嬉しいが。
「してない」
案の定青年は、シャッターを閉めるようにぴしゃりと、厳しく言い放った。
「お前のことは全面的に信用してない。もしバレたら真っ先にお前を疑って恨む。この場所を侵しやがったんだからな」
何ともさめざめした口調で言ってくれるものだ。
私は少し残念に思えた。
内容ではなく、信用しないと言い切った青年の反応が。
もちろん、青年が人を信用していそうだとも思わないのだ。
ただ、令嬢として必要な、信頼を得るというスキルが扱えていない……それも込めて、残念だ。
「でもま、お前がそれを言ったところでメリットなんか無いだろうし、俺がなんかしたわけでも無いから退かせもしないだろ。ここで寝てるだけだもん俺」
つまり青年は、私の人間性ではなく、今の状況的に問題がないと判断したまでなのだろう。
ならばこそ私は、この傍若無人な青年に、私本人を信用していると言わせたくなった。
青年だからこそ、言ってほしいのだ。
そんなこと、とても本人には言えないが。
「そうですよね……」
私は考える。
今日これから時間をかけて信頼を得る、なんて選択をするわけにはいかない。
だって私は、稽古をサボって家から脱走してきた令嬢だ。
だらだらと話を続けていたら、日が暮れてしまう。帰らねばなるまい。
今日だけでは時間が足りない。
そう、今日だけだと、足りないだけだ。
「……あのう、貴方は、人と話すのはお嫌いですか?」
私は恐る恐る、ゆっくりと聞いたが、青年は迷いなく即答した。
「ああ、嫌い」
私がまたショックを受けていると、青年は以外にも饒舌に話し出す。
「うるさいから。煩わしいから。俺が話したいときだけ都合よく答えるマシンだったいいのによ、折角だから話して仲良くなろうぜみたいな文化考えられねえ」
この質問はよく投げられる経験があったのだろうか、解答し慣れているような答え方は、私の疑問を先に潰してくれた。
それはそれは、会話することに何かトラウマでもあるのか、というくらい恨みのこもった言葉だった。
本当、私とは全く考え方が違っていて、私の世界にはないことを言ってくれる。
私の周りには一切居ない人物。
それが面白くて仕方ないのだが、話すのが嫌いなのは困った。
「でも、話したいときもあるんでしょう。そういう時、人と話ができなかったらどうなさるんです」
せめて、嫌いではないがしても良い、くらいの解答を得たかった私は食い下がる。
青年は、さも当然といったように返してきた。
「そんなん手頃な奴に喋らせりゃいいじゃねえか」
手頃な奴、というと、都合が良く青年にとって扱いやすい人間、ということだろうか。
それも気になるが、喋らせりゃいい、という言い方はもっと気にかかる。
「それはつまり、無理矢理ということですか?」
「無理矢理かどうかは知らねえけど、結果的に喋るならなんでもいいだろ。 ……ははん、クソガキお嬢様にはない発想だってか?」
青年の言う通り、全てに我を通すようなやり方に驚いている。
どういうことだろう、無理やり喋らせるとは。
どうするというんだろう、相手の都合は無視して、とにかく話を聞けということなんだろうか。
そりゃあ、よほど気分が合う人しか付き合えないはずだと納得した。
同時に、それがうまくいった経験があるのであろうことにも驚愕している。
「ええ、そんなことは考えられません、私。相手には相手の都合もあると考えてしまいますから」
私がそう頷く、青年は眼を細めて顔をさも不快そうに歪める。
「お前、ここで俺にあんなことしといて都合とかいうのかよ……怖あ……」
からかっている、という風でも無く、本当に一片の迷いもなく私を責めるように。
かちん、と私の頭のどこかで鳴った。
「あれは! 貴方が! 訳もなく私に暴言を浴びせて追い出そうとしたからです‼︎」
私が大きな声で言うと、青年はわざとらしく耳を塞いでゲラゲラと下品に笑う。
「んははは、やっぱ怒ったらブッサイクだなお前ー! 俺様に失礼なことするからだろお?」
こんな時にやたらと生き生きした笑みを浮かべるから、あ、笑ってる、なんてつい意識してしまった。
こんな単純な言葉で子供っぽい言い方をしてくるのに、何故こうもイラっとくるのだろう。
やっぱ、という口振り的には、私を怒らせるためにあえて本気っぽく責めてみせたんだろうか。
ああ、だとしたら面白くない。
どうせこんな生き生きした笑顔を見れるなら、私が怒っていない時に見たかった。
「失礼なのはどちらですかっ、貴方初対面の女性ににゃんてこと、をっ、お……!」
邪な思考が混ざったからか、盛大に噛んで言葉に詰まってしまった。
このハプニングで、青年の笑いに更に火をつけることになってしまったのだ。
「おまっ、そこで噛むんじゃねえよお前ー……! 別にお前滑舌悪かねえだろうが、クソガキだから舌回んなくなっちゃったか? もっかい聞いてやろうかあ? なあ?」
顔の周りが少しづつ熱くなってきた。
何回も何回もクソガキ呼ばわりしてくれて、本当、良いのは顔だけだ。
「あのねえ……! 言わせてもらいますけれどねえ……⁉︎」
今更と言えば今更だが、一度、体裁を捨てて言いたいことを言ってしまうことにした。
どうせ今日帰ったら二度と会えないかもしれないのだから、という気持ちもあった。
そう決めてしまうと、あとは気持ちにが言葉になってスルスルと出てくる感覚に身を任せるだけだ。
「私っ、こんなに怒ったり色んなことしたりするの、貴方が初めてなんですから! 普段怒らない人を怒らせているんですよ貴方!」
如何に青年の言動が常識の範疇からずれているか、ということを伝えたいのだが、青年の心には全くと言って良いほど響いていない。
「知らん知らん、普段のお前のことは。てか初めては盛りすぎ、プライド高そうだもんお前。毎日怒ってるだろ」
機嫌良さげにも見える明るい笑みで手を左右に振りながら、尚も失礼な言葉を重ねてくる。
別に私の怒りを理解できていないわけではないだろうが、あくまで譲歩する気がないのだろう。
しかし、私はどうしても、青年に自分も悪かったと言わせたい。
「プライドが高くても結構! そんなものに関係なく、貴方が私の心を動かしたのは確かです! 貴方が、私をの、心を! 不躾なやり方で!」
私が自分の胸に手を当て訴えるが、青年は気にした風でも無く、むしろ私の言葉に呆れるとばかりに少し眉を下げる。
「いや言い方……扱いやすい奴だな、そんなんでいいわけ? 悪い奴にコロコロ動かされちゃってさ」
肩をすくめる青年は、悪い奴なんて自称し始めた。
私が愚かだとでも言いたげな態度に、私の怒気は静まるどころかゆっくり強くなっていく。
自覚があって悪気がないなら、自分が悪かったと言わせるのは難しいかもしれない、と感じるから余計だ。
理屈でだけは青年に負けたくはない、ならば言葉を続けるしかない。
「性格だけは悪いようですけど、別に根っこは腐っていない気がしたので、対話したまでです! でも、その性格は貴方に問題があって……」
青年はここにきて馬鹿の真似事を始めて、論点をずらしてまともに対話してくれないのだ。
青年は私の言葉を遮って目を細めた。
「へえ? よく分かんね。根っこが腐ってないなんて、まーた上から目線な」
「本当です!」
会話ではご法度なのだが、思わず青年の言葉に被せてしまった。
普段は気を付けているが、やり返さんばかりの心理が働いた。
仕返しという気持ちもあったのだが、どうしても反論したかったのだ。
自分の判断に自信があるから。
「だって貴方きっと、嘘ついてないですもの! 私への悪口と追い出そうとしてない〜の下り以外は全部ね! 貴方は無駄な嘘はついてません!」
ずっと、上から目線だとかムカつくだとか言われているが、私は私として青年と向き合っている。
青年こそそれは同じなはずなのだから、上から青年を評価しているなんて思ってほしくない。
所詮は気高くて気だけは強いお嬢様、なんてレッテルを貼ってほしくない、青年にだけは。
「ふーん? そりゃ大層な自信なこった」
青年は大した反応は見せず、むしろご機嫌になっているように見える。
私が、馬鹿げたことを言っている考えなしの子供にでも見えるんだろうか。
信用されていないことが嫌で仕方がない。
こうなると、青年に自分の非を認めて欲しいだとかそんなことはどうでも良くなって、怒りというより訴えに近い感情で叫ぶ。
「目を見れば分かるんですっ、もっと巧妙に嘘を隠そうとする人の怪しい目だって知ってますもの! それに、ずっと貴方の表情や目を見てました、貴方から目が離せなかったんですから!」
すると、青年は、機嫌良さげに上げた口角はそのまま、ほんの少しだけ目を丸くした。
確かに、少しだけ面食らったような顔をしたのだ。
何故効いたのか分析したいとも思いつつ、私は止められない勢いに任せて更に言葉を重ねる。
「だから、貴方の感情の変化とか、嘘とそうでないものの違いは読み取れます! そりゃあそれが合っているかとか、どうしてそうなるのかとか、初対面では感情の正誤は分かりませんが……違いくらいは分かるものなんですよ!」
青年は眉を下げて笑う。
「……そりゃお前、理解しようとして無駄に向き合うから分かるんだよ。普通はそこまでしねえの」
青年が、私の勢いに呆れているのか、他の感情があるのか私には分からなかった。
ただ、どう形容すればいいか分からないが、なんとなく毒気が抜けたような笑みになったような見えた。
「にしてもマジでお前、言い方な。恥ずかしいこと言ってんの分かってる?」
青年から私をからかうような雰囲気が消えると、私も少し落ち着いてくる。
青年の問いを噛み砕く余裕が出てきて、恥ずかしいこと、という言葉の意味を思考する。
「言い方ですか……?」
何か、妙な言葉選びをしてしまったのだろうか。
青年に言った言葉を思い出してみる。
すると、すぐに青年の言っている言葉の意味が分かった。
「や、やっぱり、異性の方に見惚れているというのは、恥ずかしいことなのでしょうか……!?」
青年との言葉の応酬を思い返していると、自分でも恥ずかしいと思う言葉はそれだった。
貴方から目が離せない、というのは、恋愛漫画やドラマなんかでは告白に近いシーンで出てくるセリフだったと記憶している。
いくら青年には最初に綺麗だと伝えたとはいえ、直接言ってしまったのは恥ずべきことだったのではないだろうか。
自覚すると、言い合いの最中も直接的な表現が多かった気がして、顔が熱くなるのを感じる。
青年はというと、胸の前で腕を組んで、眉を下げて笑っている。
やはり、呆れている、と形容するのが一番適した表情だ。
「そこだけね……てか聞くくらいってことは、自分が恥ずかしいとかじゃないわけか……や、別にいんじゃね」
青年の言葉には含みがあって、どこか釈然としなかった。
私の変なところを見つけていながら、指摘もしてくれないなんて、一番滑稽だ。
「ど、どうしてはぐらかすんですか、私が思っているより恥ずかしいことなんですか……!?」
青年に縋っても、青年は細めた目をそのままに楽しそうに笑うだけだ。
「そうかもな。でもお前がド素直ってだけだよ、そんな変でも無いから気にすんな」
私には、本当に気にしなくていいことなのか判別がつかず、青年の顔色を見るしかない。
多分嘘じゃない、とは思う。
異性に耐性が無いだとか言われた時も、聞かずに察しろという結論に落ち着いたし、他人に聞いて教わることではないのかもしれない。
「まあでも、色々言う相手は選べよ。過剰に喜んで勘違いする奴も居るから」
青年は思いついたように付け足した。
つまりは、思わず見惚れるほどの容姿でした、といった褒め言葉は、私が思うよりも大きな意味を持つのだろう。
いや、それが大層勇気がいることなのは分かるが、赤の他人ならば少しハードルが低くなると感じていたのだ。
お世辞とも取られやすい言葉なのだから。
ただ、この青年がわざわざ注意するということは、私の言葉選びはよほど危うかったのかもしれない。
そう思うと、青年に対して紡ぐべき言葉を考える前に、恥ずかしさが思考を追い越していってしまう。
もう空もオレンジに変わってくる時間になっているが、結局、くだらない言い合いをしただけに終わってしまった。
厳密に言うと、私が青年に怒り、青年はほとんど笑っているだけだった。
青年に非を認めさせるなんて叶わなかったし、ただ負けを痛感してしまうばかりだ。
私は、疲れからしゃがみこみ、深く深く息をついた。
「はああ~……なんだか、恥ずかしい……」
私が俯いて膝に顔を埋めて呟くと、青年の笑い声が耳を通り抜けた。
「あっはははは、お前可愛いとこもあるもんだな〜!」
かと思えば、青年は無遠慮にバシバシ背中を叩いてくる。
背中への軽い刺激に、また怒りが蘇りそうになる。
一体どこをどう見たら可愛げがあるように映るのだ。
喧嘩の最中私は、令嬢であることを捨ててムキになっていただけだと思うのだが。
「もう……」
私には理解できない理由で青年の機嫌がいい。
やっぱり、頭の中が全く違うのだ。
私の知っている常識が彼に通用しないのはよく分かったわけで、怒りはすぐに疲れに流されていった。
言いたいことを言いたいだけ言う、という選択は失敗だったかもしれない。
それは、時間的な意味でも、結構な大失態だ。
もう流石に帰らなければ、必要以上の心配をかけてしまう。
 私はこうしている数秒さえ惜しくなって、息を整えながら顔を上げる。
するとすぐに青年の手は落ち着き、最初に比べて随分警戒の抜けた笑顔がそこにあった。
ようやく落ち着いて見ることが出来た青年の笑顔は、怒っている時よりも少し幼い印象に見える。
笑うと幼くなるタイプなんだろう。
それでも、並の中高生よりは大人の色を残しているように思う。
それまでの印象と比較して可愛らしいく、やはり綺麗に変わりない笑顔だった。
「何見てるんだよ、嫌いになったか?」
青年は、少しづつ笑いを収束させながら、私と目を合わせてそう言った。
その口調はなんだか軽やかで、青年らしい上から目線な言い方だというのに、何故か心地よかった。
「いいえ、その、嫌いになんかなりませんけど」
青年に答えを返しながら、まだそう冷静でもない思考のままなことを思い出す。
冷静さを取り戻すよりも前に、ポツリと、口から願望が漏れてしまったら。
「帰るのが惜しくて……明日も、ここに来ていいですか」
私がそう言うと、青年の顔の色がクルリと変わった。
私の頭の中の情報も、グルンと変わった。
ああ、順序立てて言うべきことを、今言い切ってしまった。
本当に綺麗に本音が漏れ出てしまった。
こうなってしまってはもう本音を言ってしまうほかない、私は少しヤケになった。
「……私、貴方のような人は初めてで、こんな綺麗な川も初めてで」
青年が、さも驚いた顔のまま、まじまじ私を見て動けない内に言ってしまおう。
どうせ失敗なら、全部さらけ出してしまえ。
「貴方は、常識に捕らわれない人。私はそんな人が好きです。周りに流されず、自分の意図で行動することができる。貴方はすごい人なんです、私にとって。悪態をつくその態度も、貴方が悪い人だからそうなっているわけじゃないと思うんです」
話しながらぼんやりと思う、青年が私に素直と言っていたのはこういうところなんだろう。
自分が間違っていないと思うことは、ちゃんと説明すれば相手も理解してくれるかもしれないと、夢を見てしまうのだ。
「話していると私のことを信用できるようになるかもしれないですし、私もその、貴方からもっと得たいものがあると言いますか。いや、許可がなくても、私はただこの河川敷に来たい人として来ますけれど」
言い終わる頃には、青年は少し顔を伏せてしまって、顔があまり見えなかった。
しかし、ひとつ分かるのは、肩が小刻みに震えていること。
――笑っている。
青年は今、声も小さく、笑っている。
「ふ、は、あははは……!」
喉を鳴らすようにしてしばらく笑っている青年の考えが最後まで分からずに、戸惑うしかなかった。
やがて青年は、ゆっくりと顔をあげた。
その顔は、確かに笑顔なのに、哀愁と期待をないまぜにしたような、悲しい笑みにも見えた。
そして青年は、その笑顔のまま、皮肉めいた口調で言った。
 
「好きにしろよ、クソガキ」

好きにしろよと確かに言った。

「え?」
「お前、駄目っつっても此処にはどうせ来るんだろ」
「いいんですか!」
許可がでた、ということで間違いはないだろうか。
そうだろう、あの青年が言うから驚いただけだ。
「好きにしろ。俺も好きにする」
「声をおかけしても?」
「いーよ」
青年は肩をすくめて言った。
半ば諦めなのだろうが、青年を折らせることに成功したわけだ。
 
やった。
 
私の勝ちだ!
 
いいや、勝ちとかどうとかはこの際良い。
明日もここで青年と話せるのが、何故かこんなにも嬉しい。
「ありがとうございます!」
「よく分かんねえ奴」
私は気持ちが昂って立ち上がった。
いや、これがまた、気持ちが止められないのだ。
どうしてこんなに嬉しいのか、どうにも分からないが。
今すぐに跳ね回りそう、なんてことはないが、足が一気に軽くなった気がした。
惜しいと思っていた一分一秒が青年によって与えられて、早く帰って明日を迎えたいと思えるまでになった。
ならば、心配をかけて外出を制限などされる前に、速やかに帰ろう。
その前にきちんと言っておかねば、礼も挨拶も。
私は、改めて青年の方を向いて、溢れる気持ちを整理しながら礼を吐き出す。 
「あの、私はもう帰らねばなりませんが、今日は本当に失礼いたしました、明日もまま……」
しかし、私の言葉がすべて出ることはなく中途半端に止まった。
 
青年が、私の頭に、その手を被せるように置いたからだ。
それはそれは優しく、大きな手のひら。
 
「はいはい、またな」
その刹那、言葉が頭の中から全部無くなってしまった。
頭が真っ白になってしまった。
 
私、今、頭を撫でられている?
あの青年に?
 
そう考えたところで頭が軽くなった。
青年はきっと、私を黙らせたかったのだろう。
初対面の人を見下しクソガキと罵る人が、目的も無くこんなに優しい撫で方をしてくるわけがない。
大した意味は無いと分かるのに、何故か余裕がなくなって、青年の顔が見れないかった。
効果は絶大だ、青年は人のしつけ方をよくよく理解しているらしい。
青年は、私が目の前で固まったからなのか、顔を覗き込んで言う。
「ほら、今日は帰るんだろ、早く行きな。夜くらい一人でいたい」
間近で見ても整った顔で、優しそうにも見えないその表情に、むしろ気持ちが落ち着いていく。
私が反応する間もなく、青年は私の体を半回転させて前へ軽く押した。
「……はい」
帰る間際に青年が落とした爆弾の大きさをひしひし感じながら、私は今日の突飛な出来事を終えたのだった。
今夜眠れなかったら、それは私が未熟なせいか、あんな風に私を扱った青年が悪いんだから。

しおり