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季節はずれの花.1


 《法の家》の北東には、霜降(そうこう)の頃、純白の花におおわれる原野があった。

 そこから南西の方角――湖ごしに見る大地の彼方に、こじんまりと(かか)げられている淡紅色の建物群を(のぞ)めるところ……。

 地下に水源をおくその(きよ)らかな湖と、ふところ深い森にはさまれて存在する平地が、ほぼ一種類の野草に占領されているのだ。

 この地方では、さして珍しくない植物だったが、このあたりで一帯を埋めつくすような育ち方をしているのは、千の魔が封じられたといわれる丘のかたわらに湧くその湖の北側だけだ。

 日が短くなってくると赤茶色の茎をのばし、全体に短い繊毛(せんもう)を発達させながら白化(はっか)して花(ひら)き、紅葉の季節に降りつもった深雪(みゆき)のごとき景観を見せることから、《初白雪(はつしらゆき)》という名で呼ばれる野草。

 周期的に他属排除(はいじょ)方向の多感作用(アレロパシー)を発揮する真珠色の植物()

 その花芽が育つにはまだ早い初夏。

 あたりは成人の(ひざ)を隠してしまうくらいの、ほっそりした淡い青緑の葉で()めつくされている。

 太陽がようやくその全貌をのぞかせようかという頃。
 その煙るような青緑色の草原を踏みわけてゆく、若い男の姿があった。

 年は、十八、九だろうか? 

 いくぶん、肩の鋭角さがきわだって見える、厚みがさほどでもない長身痩躯(そうく)

 さらと流れる髪は明るいとも暗いとも言い切れない色調で、(しぶ)めの輝きをはなつ黄金ともとれた。

 ブツッ…ブチッ……ッ

 彼が向かっている方角から、なにかをひき千切(ちぎ)るような音が聞こえていた。

 プチ……ブツッ……

 青年は、まなざしを細くしながらも歩調を乱すことなく。音がする方へ向かった。

 草地の向こうにあって。進むほどに(せま)ってくるのは、空を映しとる穏やかな水面(みなも)
 その手前の緑帯びた青白い草生(くさば)えに、埋もれるようにして(かが)みこんでいる女性の細い肩と背中と……。
 不充分な日ざしに、鈍い艶をはなつ金色の頭部が見えた。

 彼の気配をさっしたのだろう。動きを止めたその人物は、ふり返ることなく声をあらげた。

〔——なにをしにきたのっ!〕

 彼女がいるあたりの青緑が薄くなり、土がのぞいている。

 地面にふせり、泣きながら下生(したば)えをむしっていたようだ。

〔あなたに、ここに来る資格なんてないのよっ! 守れなかったくせに……。守れな…………守れなかったくせに……!〕

〔…。プルー……〕

〔呼ばないでよっ! あなたに呼ばれたくない……〕

 身体をひねって、ふり返った彼女は、青年を睨みあげた。

〔嫌いよ、あなたなんて……。あいつも嫌い…。だいっ嫌い…——こんな大地……。闇に食われてしまえばいいんだわっつ!〕

 嘆きの激情のなかに青年を映すのは、感情の乱れそのままに色相が(せわ)しなく入れかわる一対の虹彩——

 (あい)、水色、藍……、また水色…——

 その双眸が、見たくないというように彼から()らされた。

〔…どこか行ってよ……。……〕

 青年は力なくおろしていた両手を、ぎゅっとにぎり(こぶし)にした。

〔ごめん……。だけど。彼女が好きだった花……植物だよ?〕

〔うるさい…! あなたの言うことなんて聞きたくない! 帰れ! 帰って! ……消えてしまってよ……〕

 ちぎられ、青年めがけて投げられた青緑。それは目標に届くことなく微風にさらわれて、空中を舞った。

 はらはら、ひらめき、(ちゅう)を泳いで、
 ばらばらに(ちら)らばり落ちてゆく……。

 🌐🌐🌐

 東では、相手が名乗る前に名をたずねることが礼儀にもとる行為とされていた。

 それゆえ東で生まれた子は、人の名前は()いてはいけないものだと、しつけられる。

 相手が自分から告げるまで待つものだと。

 それは身近な畏怖(いふ)の対象として、(うと)まれた青磁色の髪の少年も例外ではなかった。

『——その…。おまっ。……君、は、知ってるんだしさ。オレが知らないのは不公平だと思うんだ。いろいろ不便だし。それで…、……。だから――…聞いても怒らない?』

『なにを?』

『んっと……。嫌ならしかたないけど…。でも……。その…だから、おまえの…な……。…な……、なまぇっ…だけど』

『ぼくは……。――ヴェル…。西じゃ、たずねるくらい平気だから気にしなくていい』

『ヴェル()、西の方にいたのか』

『……。耳が悪いのか?』

『え? 西にいたってことだろ?』

 名をたずねることを()とするか(いな)とするかは、それぞれの立場にもよる。

 名前をそのままに呼ぶことは西でもダブー視されていて、ふだんは省略した名前か通名。愛称を多用する。

 通称は気づけばそうなっていたというような習慣性もあったが、ある程度までは、本人の主張、希望が優先される。

 たとえそれが、本名と似ても似つかない渾名(あだな)偽名(ぎめい)であることが明らかだろうと、正名を名指しするよりは礼儀に(かな)う、個々人のこだわり・意向だという暗黙の了解……理解がある。

 状況、環境によっては、本人の主張が無視され、より強硬な者、立場的な上位者がこれと(しめ)した呼称が主用されるようになってしまうことがないわけではなかったが……。

 ともあれ。

 大切なその人が、彼のことを《セレグ》と呼んでいたので、少年は、その響きを封印し、ここでは《レイス》と名乗った。

 彼の援護者……支援者であり、(あこが)れでもあった…――自分を認めてくれて、仲間だと信じることができた友人。

 忘れたわけではない。

 けれども捜し人は、いっこうに姿を現さず、時の流れが待ち続ける少年の心を()えさせた。

 少しずつ現実を受け入れ、置かれた環境に慣れてゆく。

 実情は、こうなのだと見せつけるような暮らしのなかに、その人との再会をあきらめられたわけではなかったのだけれども――…。

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