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第2話 その男、似嵐鏡月

 東京都と神奈川県の辺境に位置する山脈地帯。

 とびきり標高のある一角をすっぽりと削り取って、この隠れ里はつくられていた。

 ネギ畑はその中の小さな日本家屋に併設されたもので、彼らの食料はほぼここの農作物でまかなわれている。

 家のほうは屋敷というより、大きめの(いおり)といった感じだ。

 長方形の母屋(おもや)前座敷(まえざしき)奥座敷(おくざしき)に分かれていて、そこから直角に折れる渡り廊下の向こうに「はなれ」、そしてさらに直角に頑丈な塀が建てられている。

 上空から見ると「コの字」型になっているわけだ。

 その中には簡素ではあるが庭園――植えこみの松や花々、石燈籠(いしどうろう)錦鯉(にしきごい)の泳ぐ池などが設置されている。

 この里は空からの目視では死角になるよう設計されており、地中にはソナーなどの音波、GPSなどの電磁波を誤認識させるシステムが組みこまれていた。

 (はた)からはただの山にしか見えないのである。

 しだいに傾いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ夕刻であることを意識した。

「ウツロ、日が暮れるぞ」

「うん」

「腹あ、減ったな」

「うん、俺もだ。でも、もう少しで終わるよ」

 アクタは手を止めて、天を(あお)ぎながら(ひたい)をぬぐった。

 ウツロは会話をしながら、せっせとネギを引っこ抜いている。

 里へと近づいてくる気配を、彼らは少し前から感じ取っていた。

 そしてそれが、自分たちの育ての親・似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)であることも。

 その男は傭兵(ようへい)上がりの殺し屋で、暗殺の請負(うけおい)で生計を立てている。

 ウツロとアクタをこれまで養ってきたのは、自分の暗殺稼業の後継者に()えるためであり、実際に二人はその方法を徹底的に指導されてきた。

 さまざまな武器・暗器の使用方法から古今東西の体術、果ては諜報(ちょうほう)極意(ごくい)から実戦における戦略の立て方まで。

 人間を殺傷するために必要な技術の多くを教育されたのである。

「ウツロ、お師匠様が来る、急ぐぞ」

「いまはまだ、『(ひる)の背中』のあたりだ。この(あゆ)みなら、あと三十分はかかる」

夕餉(ゆうげ)支度(したく)をしなきゃならんだろ?」

「今日は『さしいれ』があるみたいだよ。ひとりぶんの携行食(けいこうしょく)にしては強すぎる」

「おまえ、においまでわかるのか?」

「こっちはいま、風下(かざしも)だからね」

「いや、そういうことじゃなくてだな……」

 「蛭の背中」とは、隠れ里からだいぶ山を(くだ)った、渓谷沿(けいこくぞ)いの難所を()している。

 盛りあがった硬い土壌(どじょう)がすっかり湿(しめ)って(こけ)むしていることから、彼らだけに通じる暗号として用いられている言葉だった。

 そんな場所の状況をたちどころに言い当てる(けもの)のような嗅覚(きゅうかく)に、アクタは驚いて呆気(あっけ)に取られている。

 その態度にウツロ当人は不思議そうな眼差(まなざ)しを送った。

 自分の気づかない(あいだ)に成長を続けている弟分(おとうとぶん)に、アクタはポカンと開き気味だった口をすっと()め、(ひか)えめに笑ってみせた。

「どうかした?」

「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」

「変なの……」

 ウツロとアクタがそれぞれ最後の一束(ひとたば)をギュッと結び、大きく伸びをして一息(ひといき)ついたところへ、その男は現れた。

 杉の大木が作る密な並木の、人ひとりがやっとくぐれる程度の間隙(かんげき)

 木漏(こも)()も弱まってきて、すっかりぼやけているその林の奥から、獣道(けものみち)を通り抜けて姿を見せる、ゆがんだ蜃気楼(しんきろう)

 それは黄昏(たそがれ)の闇を背負ってなお暗い、黒炎(こくえん)のような。

 彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋・似嵐鏡月その人である。

 群青色(ぐんじょういろ)のストールから、ほぼ白髪(しらが)だが中年としては端正(たんせい)な顔がのぞいている。

 藍色(あいいろ)の羽織と着流しの下には、筋肉細胞を爆縮(ばくしゅく)したような、屈強極(くっきょうきわ)まる体躯(たいく)を隠してある。

 ただでさえ豪奢(ごうしゃ)に見えるが、これでも着痩(きや)せしているのだ。

 腰にはマルエージング鋼製の愛刀・黒彼岸(くろひがん)を差している。

 ()るというよりは「(くだ)く」ことに主眼(しゅがん)を置く大業物(おおわざもの)だ。

 軍靴(ぐんか)を改造した黒色(こくしょく)のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前までゆっくりと歩みよってきた。

 その右手には、風呂敷包(ふろしきづつ)みを()()げている。

 ウツロの予見どおり、その中には三人分の夕食が納められていた。

「お帰りなさいませ、お師匠様」

 ウツロとアクタはすぐさま片膝(かたひざ)をついて、その男の前にかしずいた。

せい(・・)が出るじゃないか、二人とも」

 ウネの横いっぱいに結束されたネギの列をながめ、水晶(すいしょう)帯留(おびど)めをいじりながら、似嵐鏡月は満足げな表情を浮かべた。

 同時に彼はその状況から、小脇(こわき)(かか)えた食事の存在を悟られていたことを察知した。

「ウツロ、わしのさしいれを()()てたな?」

「ご無礼をお許しください、お師匠様」

 ウツロはハッとした。

 彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。

 だからアクタにも、晩の支度はしないよう(うなが)したのだ。

 アクタもそれに気がついていたから、あえて反対はしなかった。

 しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、突如自責(じせき)の念に()られた。

 こざかしい承認欲求をさらし、自分をはぐくんでくれた(とうと)い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。

 お師匠様がそんなことをするはずがないと、彼は重々理解している。

 しかしどこかで、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が芽生(めば)えたのだ。

 それは決壊寸前のダムの水のように、緩徐(かんじょ)として、しかし十二分の重量感を持ってあふれ出てきた。

 師に無礼を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。

 頭が混乱する。

 思考の堂々めぐり。

 ウツロはひたすら平伏(へいふく)し、(もく)して許しを()うた。

 しかしそこは、いやしくも育ての親。

 似嵐鏡月本人は、ウツロの複雑な胸中(きょうちゅう)をすぐに(さっ)し、口もとを(ゆる)めてみせた。

「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその鋭敏(えいびん)嗅覚(きゅうかく)、いや、嗅覚だけではない。五感のすべてが突出してすぐれている。しかも日に日に、その(するど)さを増しているな? それがどれほど、わしにとって有益なことであるか。ウツロ、おまえの存在は本当に心強いぞ」

 ウツロはグッと(こぶし)(にぎ)った。

 俺はなんて最低なんだ、心の底からそう思った。

 大恩(だいおん)あるお師匠様をわずらわせた挙句(あげく)、あらぬ疑いまで持ってしまった。

 俺はつくづく、最低だ。

 恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。

 可能であるならば、いますぐに消えてしまいたい。

 俺はこの世に、存在してはならないんだ。

 彼はいよいよ、思考の泥沼へ。

 その(にぶ)く重い深みへと、はまりこんでいく。

 落ちる先は自己否定という名の深淵(しんえん)

 たどり着くことのない、奈落(ならく)へと。

「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」

 ウツロは反射的に顔を上げた。

 似嵐鏡月はひざまずいて、ウツロに目線を合わせている。

 やさしい顔で、ほほえんでいた。

「あ……」

 ウツロはのどの奥から、嗚咽(おえつ)にも似た声を()した。

 似嵐鏡月はそっと、ウツロの頭に手を当てた。

「ウツロ、おまえは心根(こころね)のよい子だ。それゆえ、そのように自分を責めてしまうのだね? 恥じることなど、何もないのだ。それがおまえの、おまえという人間の、個性なのだから」

 師を見つめるそのまさざしが(にご)る。

「う……お師匠様……」

 アクタも気丈(きじょう)(よそお)ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。

「ウツロ、アクタ。何があろうと、おまえたちはわしにとって、かけがえのない存在だ。たとえ天が()け、地が割れることがあっても、おまえたちを否定することなど、あるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」

 似嵐鏡月は身を寄せて、ウツロとアクタを両腕で(かか)えこむ。

 伝わってくるそのぬくもりを、二人はしばし享受(きょうじゅ)した。

「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、おまえは強い子だ。アクタ、どうかこれからも、ウツロのよき支えとなってくれ。おまえがいてこそなのだ、アクタ。車輪と同じように、どちらかが欠けても成り立たない。おまえたちは、二人でひとつだ」

「もったいない、お言葉です……お師匠様……」

 アクタは隠しているつもりだが、体が小刻(こきざ)みに(ふる)えている。

 兄貴分(あにきぶん)として、気を強く持とうとつねづねふるまってはいるが、彼もウツロと同じ境遇には違いない。

 思いのたけをぶつけたくなるときとてある。

 それを察してくれる師の存在は、何ものにも代えがたい。

 ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。

 アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。

 そしてお師匠様に、この偉大なる救い主に、絶対の忠誠(ちゅうせい)(ちか)うと。

「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。冷めないうちにいただこう」

「はい、お師匠様」

 気を使って先に立ちあがる師に、二人は(うやうや)しく(じゅん)じる。

「ウツロのやつ、さっきから腹ぁ減ったって、グーグーいわしてたんですよ? お師匠様」

「なっ、それはおまえだろ、アクタ!」

「お師匠様、早くご馳走(ちそう)持ってこないかな~って言ってたくせに」

「アクタっ、虚偽(きょぎ)弁論(べんろん)をするな! お師匠様っ、反駁(はんばく)の機会を俺に!」

 こんなふうに、アクタはウツロをからかってみせた。

「ははは、本当に仲がよいなあ、お前たちは」

「よくないです!」

 ふくっつらをしてのにぎやかなやり取りに、似嵐鏡月は破顔(はがん)していた。

(「第3話 ウツロ、その決意」へ続く)

 
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