ワームホール ~鍵はどこへ
私の勤めるスポーツ用品店では、店長のいない日、閉店三分前になると谷沢さんの動きがスピードアップする。店長なら営業時間が終わってから閉店準備をはじめるところを、一家の主婦でもある谷沢さんは、客がいなければ前倒しにする。
この差で、駅前にある地元デパートの投げ売りに、私が間に合うかどうかが決まる。だから谷沢さん好き、と喜んでいたら、今日はその谷沢さんがいった。
「南ちゃーん、ゲリラ豪雨くるってよ。うち洗濯物干してきちゃった、お先にごめん!」
谷沢さんはにわか雨の予報のたびに、派遣社員の私に鍵を託す。心のなかで、私は室内干しにしてるぞ、と思う。でも、谷沢家五人全員がなんらかのスポーツクラブ所属ともなると、部屋だけでは干しきれないんだろう。
「いいですよ、お疲れ様でーす」
と笑顔で受けとる。
いつも助けてもらってる手前、こういうことででも点数かせがなきゃね。
「一、金庫。二、倉庫。三、店の入口」
と点呼しながら鍵をかけていく。よし、三つともかけた!
遅れを取りもどそうと一階までかけ下りると、帰宅時間をねらった選挙の街頭演説が、ビルのなかまで響いてくる。ちょうど「若者の雇用促進」なんて言葉が耳にとびこんできた。どの候補も並べてることだけど、本気かどうかはそれぞれのブログで過去の活動報告を確かめてから、投票しなくちゃね。
歩道を早足で歩いていると、四月末だというのに亜熱帯もどきの蒸し暑さが、汗腺をおおいつくす。そのぶん、地下の食料品売り場の冷気がいつも以上に心地よい。さて、お目当ての朝漁の売り場には・・
小顔につややかな瞳、盛りあがった肩のライン、引きしまった下腹部と尻の穴。あったあった、ほれぼれするような美形のアジだ。
よし夕食は、近所の空き家から道にはみ出している山椒の葉をくすねて、和風アクアパッツァ(プランA)に決まり! 鼻の奥に涼やかな香りがよみがえり、胃が待ちどおしげに縮まる。
私は上機嫌で、長いバネ付きストラップでカバンにつないだ長財布を取りだしかけて、思わず舌打ちをした。職場のキーの束がまた入ってる‥。
キーを預かった日は責任重大だから、かならず声に出して指さし確認もしながら、三カ所に鍵をかけるようにしている。
だけど、ちゃんとやったことが気のゆるみを生むのか、管理人室に戻すという次のステップが抜けおちて、なぜかカバンに放りこんでしまうらしい。自分でやったことなのにそこは憶えがない。
そしていつも、駅まで四分も歩いたあとになって、帰宅する人びとの流れから、自分だけはずれなけばいけないことに気づくのだ。
そうなったら、ためつすがめつ選んだせっかくの尾頭つき鮮魚もおじゃん。アスファルト道路を革靴でもう一往復したら、ただの氷の保冷剤は溶けだすし、手のかかる料理をする気力も残らない。
しょうがない、今日はオーブントースターでただのマヨネーズ焼き(プランB)に変更するか。うきうきしていた胃袋に、ずしっと砂を詰めこまれた気分‥
数カ月前には、降りる駅を出てしまってから鍵の返し忘れに気づき、電車賃まで三倍かかったことだってあった。だから、今日はお金の無駄づかいだけは免れてよかった、そう自分を励ましながら会社への道を引き返す。
今、試している治験薬について説明するとき、精神神経科の医師はこう言っていた。
「あなたの〈不注意〉を改善するための薬です」
‥効いてません、ドクター。
まえに既発の薬を処方されたときも、一つはまったく効かなかった。もう一つは効く量まで増やすまえに、副作用でめまいが出てしまい使えなかった。
だからといって、新薬の治験に同意したのは効果に期待したわけでもない。月一回の通院のついでに、受けとって飲むだけで協力費として謝礼金がもらえる。それが、最低賃金+10円の仕事にしか就けていない身には、なんてお得な副業だろうと思えたからだ。
店のあるビルの廊下は節電でうす暗く、管理人室はあい変わらず無人だ。せめて管理人が「お疲れさま」とか声をかけてくれたら、鍵を返すことも思いだせるのに。管理人が一人しかいないから、しょっちゅう無人だ。
そのくせ管理人がいる前提だから、管理人室にだけは防犯カメラもない。そんなビルに、金庫のキーを派遣社員に任すような会社が入っている。事故だの事件だのが起こらないのが不思議だ。
そういえば一階の輸入食料品店では、学生アルバイトが窃盗で捕まったことがあったっけ。奨学金とバイト代だけでは、学費プラス生活費が賄えなかったらしい。
売り上げと在庫数が大幅にくい違うことが続いたので、入口前の道路にある防犯カメラの映像を調べたら、夜中に変装してボストンバッグを持って出入りするところが、写っていたそうだ。
社員総出で順番に張りこみして、店の防犯カメラでは死角になっている場所で詰め込んでいるところを、現行犯逮捕。これでも防犯体制はそれなりにできているのかもしれない。
「よし、今度こそ返したぞ」
扉付きの棚にキーを戻しながら、念のため声にだして自分に聞かせておく。管理人室の仕切ガラスに自分が映っていたので、記憶に残るようグータッチもした。こんなガラスを叩きわるような怪しい動作、防犯カメラがあったらできないよね。
気分を立て直し、本日四回目の道をたどる。
薬を渡すとき、医師はこうも解説してくれた。
「強い薬なのでずっとは飲み続けられません。ですが、効いてくると自分の抜けていた部分を自覚できるので、そのあいだに自分なりの工夫を編みだすことができますから」
そうなんでしょうか、ドクター。
私を治そうとしていた母自身、歳をとってケアレスミスが増えてきたとき、
「今までのノウハウが役にたたなくなった」
とこぼしていた。新たなフェイルセーフをひねり出しても、それもどんどん役にたたなくなった。最後は認知症の薬も飲んだけれど、今はもう、役にたつとかとたたないとか、効くとか効かないとか、そんな言葉さえおぼつかない。
私のように生まれつきの場合、一時的に賢くなったときに思いついたフェイルセーフなんかが、通用するんだろうか。
ふりだしに戻って、ようやく駅に着いた。豪雨になるまえに、なんとか家にたどり着きたい。たすき掛けにした肩かけカバンから、これまた長いバネのストラップでつないである乗車カード入れを取りだそうとして、
「え」
人目もかまわず声がでてしまった。まだキーが入ってる‥そんなばかな。
私の「不注意」は重度だと診断されたけど、今さっき確かに管理人室の鍵棚にかけた記憶がある。ついでにグータッチもしたはず。それさえも思いちがいだと?
おそるおそるキーの束をつまんで持ちあげると、うち二つは似ていなくもないが、もう一つは明らかにうちの店のとは違う。いったいどこのなんだ。無意識に他の店舗のキーを盗ってくる癖まで隠れてたのか、と自分がうす気味悪くなる。
これでは、たかがキーのために会社と駅を行ったり来たりの無間地獄だ。それどころか、返すところをもし管理人に見られたら、とがめられるかもしれない。そんな不祥事になったら会社もクビだ。いっそ、どこかに証拠隠滅してしまいたい気分にかられた。
‥と、わら束のようにもつれた長い髪が、脇から私をのぞき込んだ。
「カギ、すき?」
目が合った‥と思ったのはまちがいで、年齢不詳のその女が見ているのは、私が目の高さに持ちあげていたキーだった。寄り目になるほど顔をよせて至近距離で向かいあうもんだから、私のほうはのけぞってしまった。
‥なんか臭い。うす汚れた服をやたらに重ね着して、変に着ぶくれている。ウエスト周りにしめた紳士物らしきベルトには、何十もの鍵がぐるりとぶら下がっている。
「これも、あげよっか」
同好の士を見つけた喜びにあふれた顔で、女は小さな鍵をかざした。
いえ‥鍵は苦手です、これだって持てあましているんです。
「じゃ!コーカン」
心で拒んだのが聞こえでもしたように、女はよだれをすすりあげながら、私の鍵を取りあげた。
え、こっちは?
「よそのぉジテンシャの! だからだいじょぶ~」
女は歌うようにいうと、鍵をじゃらつかせながら、ふわふわと行ってしまった。
大丈夫じゃないでしょ!
「ちょっと・・」
焦ってやっと声にだして呼びかけたけど、女はあっという間に人混みにまぎれてしまった。どうしよう、盗られちゃったよ?
まったく、むだに歩いて汗だくになったり、冷や汗をかいたり、なんて日だ。
‥いや、待てよ。ひょっとして、これは厄介払いができたってことなんだろうか。あの様子では、私がシラをきり通せば、ビルの鍵の紛失についてはあの女が罪をかぶってくれそうじゃないか。たとえ捕まったとしても、きっと情状酌量になりそうだし。
で、どこの誰のともわからない自転車の鍵は‥
「あの、これ落ちてました」
私は手に残された鍵を、そしらぬ顔で改札口に届けた。はい、と係員は事務的に受けとり、私の顔をよく見もしない。胸の隅はまだざわついていたけど、私、あの人ほどじゃないや、と思うと少しだけほっとした。