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後編

五幕。
 男は顔を背け、ズボンで手の汗を拭いた。読書タイムが、おやつタイムが、こんなことになるなんて!
「はっ、なんで? どういうやつなわけ? 奥さんがいるのに別の女性に手を出すとか。ええ? か、かか、会社……関係の人? なの?」
 組んだ腕をテーブルに乗せて、姉も目を伏せる。「まあ、そう……そうね。仕事で知り合ったっていうか……」
「仕事の人と、と、と、そんな関係なっちゃったら、なんか、やりにくいっていうか。よくないよね? 結婚して、してる人なんだよ? 犯罪じゃないか」
「犯罪ではないわ」顔を返すと、弟の張り詰めた瞳と出くわし、また目を伏せなければならなくなる。「不貞行為ではあるけど犯罪とは呼ばない。それに私は独身でフリーだし。私にとってはただの一つの恋愛──」
「一つの恋愛って、向こうは遊びかもしんないだろ? そうやって騙す既婚者いっぱいいるじゃん。ね、姉さんの相手も、どうせ、妻とは別れるとか、そう言って迫ってきたんだろ?」
 女にとっては、こういうやりとりは誰が相手でも想定できていたようなものだった。その相手が最愛の弟になったという現実に少し驚いている。自分がその選択をしたということ、その突如湧いた勇気を噛みしめたくても、今はその時間じゃない。
 沈黙の後、答えた。「……そんな迫られ方はしていない。私の方が好きになったの。でも彼が奥さんとうまくいっていないのは事実」
「やっぱり! ほら、それだ! 騙す常套手段だ!」
「騙していない」女も声を強める。「由貴久(ゆきひさ)さんはそんなせこい真似する人じゃない」
「結婚生活続けてることがせこいんだよ。別れる別れる詐欺だろ?」
 女はバン、とテーブルを叩く。「あんたはね、今、想像で物を言ってる。恋愛の2分の1も経験のない野郎が完全な想像だけで。よくないわ、それ。世間一般の『不倫』に対しての意見、勝手なイメージよね?」 
 男は鼻をちょこちょこ掻く、という動揺を見せる。「そ、そなたは世間一般に該当しない超個性的な存在で、どこにも転がっていないラブ・アフェアを経験中と主張する者ですか?」
「やめて、そのしゃべり方、虫酸(むしず)が走るわ!」



六幕。
「いいのよ、なにを言ってもらっても」女は今日はじめて、気持ちを微動させ、それに伴って声を震わせた。自分を支えているものがなにかよくわかった気がした。だから弟のところへ来たのだ。いっそ早いうちに打ちのめされたいと思い、そのとき自分がどれほどの傷を負う人間なのか、試したかったのだ。

 人は手に入れたものを、次の瞬間には未知の世界以上に恐れるようになる。失いたくない──なにもかもすべて。そのためならなんだってするのに、どうして、どうして……。
「他人の恋だと思って、どういう発言でもして。でもね、わかるでしょう? この人とだったら堅い未来が手に入るわって、そういう確信ができて、よし、じゃあ好きになりましょう──なんて、そんなことができると思う? 好意自体はあいまいなもんで、夢より早く覚めるときもある。でも、しっかり足を踏み入れてしまった後は簡単に無いものにはできないのよ。私は由貴久さんの背景をなにも知らなかった。でもあの人は、私に素晴らしい面を、魅力的で、人として憧れるような輝いた面を、向けてくれたの。抵抗できなかったし、なぜ抵抗しなければならないかわからなかった」
「でも既婚者だって聞かされたときはやめようと思わなかった?」男は訊いた。
「結論として」女は自分の覚悟に今さらながら息を飲んだ。「やめるなら人生捨てるほどのことだと思った……」
「………………」

 なにか形のないものが二人の間を行き交った気がした。色を持たず、音もないなにか。その名前を言えそうな気がするのに、言えない。はじめて経験した気持ちじゃないのに、その輪郭と記憶が交わらない。不思議な気持ちにやわらかく包まれた。懐かしいと言えた。懐かしいと感じて、とてつもなく女は悲しくなる。

「未来がこうならないんだったら、もうやーめたって、そんなことでやめてたら何度も何度も人生やめなきゃならないわ。思い通りになるわけ、ないんだから」
「悲しいです」
 女はテーブルすれすれのところまで伏せた顔を近づけている弟を見て、驚きを発した。「あんた……なにも泣かなくてもいいじゃない、泣くまでのことじゃないのよ。今は安定的な関係を維持できてるし、うまくいってるのよ」
「そのうち奥さんにばれるよ。慰謝料とか請求されたらどうするの。姉さんが犯罪者になっちゃうよ」
「犯罪者って言うな」
「姉さんは、」鼻をすする男。「能天気でいつもあっけらかんとしてて、人生めちゃくちゃなめて生きてる人だと思ってたのに」
「あんたは人をなめてるわよね」
「応援するなんて言えないよ、やっぱり」本当に頬に滴を垂らす男。
 女は微笑もうとする。「いいのよ。レビューやファンの数で測るもんじゃないの、恋愛は。感情なんだから。だから、将来消えてなくなったって構わない。ただ自分から手放したくないだけ。ここへ来て、あんたの顔見て、やっぱり、一人でも戦おうってそういう気持ちがまた湧いたわ」
「ううぅ……」
 男は涙を拭く代わりにケーキに手を伸ばした。口に運んだが「ううっ!」と突然うめく。
「なに?」
「なんだぁ、これ」男はケーキを引っ込めた。「硬い? さっきまでふんわり食感だったのに、なんだ? 全然噛めない」
「はあ?」女も首を伸ばしてケーキに顔を寄せる。「なにも変じゃないけど?」
「いや、変だよ、これ」
「さっきまでパクついてたじゃないのよ」



七幕。
 そう、姉弟の住む世界でなにが起こったのか、あの日あのとき、ケーキとハンカチが中身を入れ替えてしまった。二つは出合い頭に衝突したわけでもなく、ケーキは包み紙の中でひっそりと、ハンカチは女のバッグの中でひっそりと、その物質としての生命のままにただ存在していただけであったのに。
 奇蹟の衝突は姉と弟の間にはあったかもしれない。でも、それが原因だろうか。




 由貴久は少し光を落としはじめた空を見上げた。やがてすべてが消えるとき、代わりに星々の姿が現れるに違いない。今日はその姿が存分に拝めそうな空だった。
「あー、久々に街に出たって感じ。羽を伸ばせた」
「ちょっと待って」女はパンプスを鳴らして恋人の背中を追いかけながら、バッグの中身をあさる。
「どした?」
「ちょっと(はな)が出ちゃって」
「はは。たしかに肌寒くなってきたな」
 女はハンカチに行き当たると、それを鼻先に近づけたが……。
「あれ? なにこれ」
「え?」
「なにか変ね」女はクンクン匂いを嗅ぐ。「甘い香りがする。お菓子みたいな。手触りも……」
「そのハンカチ、おれがプレゼントしたやつだよな」と由貴久。
「ええ、そうなんだけど……」

 由貴久は寛いだ笑顔を見せた。「いや、ハンカチからお菓子の匂いがするなんて、普段バッグになに入れてるんだって話だよ」
「食べ物なんて入れてないわよ」女は怒ってみせた。
「でも、今日君と出かけられてよかったよ。最近、仕事で嫌なことが続いてたからな。なんか、久しぶりに気持ちがやわらかくなった」
 見つめられて、こんなことを言われて喜ばない女はいないだろう。由貴久がそれをわかってあえて口にしているのじゃなければいいが。
 女は、言おうとしたことをやめて別の言葉に変えた。「いつも笑わせてやりたくても、なかなか会えないけどな」
 このセリフを、由貴久のためというより、弟のために言っているつもりの女だった。自分はただ危うい恋に溺れているだけの人間じゃない。弟を泣かせて悪かったと、少しは、少しは思っているのだ。

 だけれども、この恋はまだしばらくは続くだろう。今のところ、自分には必要ないようだ。ケーキと化したハンカチはバッグに戻される。




 これが私を驚かせたお話だ。人生は色々な意味で、なにが起こるかわからない──。

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