第1話 異世界移転
俺は神津陽一。27歳の会社員。
中堅企業の総務部に所属している。
部署では一番下っ端でフットワークも軽いので何でも屋の状態だ。
昨日はご近所へのお中元を手配したし、今日の午前中は中途入社の人にお茶とコーヒーの淹れ方を教えた。ここは俺にも拘りがあるところなので志願したんだけどね。
他にはパソコンをセットアップしたり、エクセルの使い方を教えることもある。
この仕事は俺にとっては天職だ。色々な事を経験できるし、比較的自由に自分の考えやペースで仕事をさせてもらっているから楽しみながら働くことができている。
そして今日の午後はエクセルマクロの改造をしようと思ってる。経理部から書類の集計を楽にするためにと回ってきた仕事だ。
こういう仕事は大好きなんだ。
エクセルのボタンを押すと必要な作業を全部終わらせるように作ってやろうと思っている。
ふふふ。これができあがってエクセルマクロが思い通りに動くときの爽快感は何物にも代えがたいんだな。
カタカタカタ……
カチカチ……
カタカタ……
ふぅ……、疲れた。
ふと時計を見ると6時を過ぎていた。初夏になり外が明るいのもあって気付かなかった。もう定時過ぎてるじゃん。
毎週金曜日は早く帰って妻とのコーヒータイムを楽しむことにしている。でも今日はコーヒー豆を買って帰らないといけないんだ。いつも自宅近くにあるコーヒー豆の専門店で買うようにしている。
今は初夏だからホットコーヒー用にするかアイスコーヒー用にするか、両方買うかという選択肢があるから帰りながら考える事にする。
周囲を見回すとフロアの半分くらいは帰っていて、残りの半分はまだ仕事を続けている。残業するのは大体いつも同じメンバーだ。金曜日くらい早く帰れば良いのに、と俺は思う。だけど仕事のスタイルは人それぞれ。俺も自分の仕事のスタイルを認めて貰ってるから楽しく仕事ができている訳だしね。
俺はあまり残業はしない。たまに気づいたら残業になっていたということはあるけど好き好んではやらない。
PCを切って、机の周りを片付ける。週末は自分の周囲は綺麗にしてから帰ることにしている。机の上を拭いていると帰りがけの人たちに声を掛けられるので、俺も挨拶を返しながら手を動かす。
……
さて、と。片付いたぞ。えっと、忘れ物は無いよな。それでは鞄を持って、
「おつかれっす!」
誰にともなく声をかけると、「お疲れさまー」とまばらに返事がある。
すれ違った人からは「早いな、これか?」と酒を飲む仕草をされた。
「ははは、こっちっす。」
俺はコーヒーを飲む仕草で返した。その仕草が伝わったかは分からないが、その人は軽く微笑んで「お疲れ。」と席へと戻っていった。
会社を出た俺は行きつけのコーヒー豆専門店に向かうため、駅に向かって急ぎめに歩き始めた。
6月に入ってくるとこのくらいの時間ではまだ陽は沈まない。そして暑い。汗が背中を伝って落ちていくがその途中でシャツに吸い取られていく。
駅までに着くまで5分くらいなのだが、それでも汗は噴き出てくる。ホンッとに暑いな……。今から秋が待ち遠しいと思ったりする。
汗拭きシートで顔や首筋や腕を拭きながら電車を待つ。周囲にも俺と同じ様にきっと暑さに文句を抱きつつ汗を拭いているサラリーマンがいる。
コーヒー豆専門店は自宅の最寄り駅からすぐの場所にある。
金曜日の夜は妻とコーヒーとケーキでゆっくりとした時間を過ごすことが習慣となっている。1週間のできごとを取り留めもなく話して、息子が夜泣きを始めたらお開きという流れだ。俺にとってもこれで1週間が終わった、と気持ちの切り替えができる大事なイベントなんだ。
ケーキは妻が毎週違う店の季節ごとのケーキや新作など食べたことが無いものを選んで用意してくれるので、何が出てくるのかも楽しみの一つだ。
俺自身もケーキバイキングにも行ったりすることがあるくらいの甘党なので、和洋問わずどんなスイーツでも美味しくいただける。たまにネットを見ながら自分でも簡単なスイーツは作ったりする。フレンチトーストやパンケーキが多い。簡単だけど奥が深くて作ってても楽しい。
そしてコーヒーを淹れるのは俺の仕事。ハンドミルで粉にして、ハンドドリップで淹れるこだわりの一杯だ。
……
コーヒー豆の専門店に着いた。
駅前の大通りから1本入ったところにあるお店だ。大通りから曲がるとコーヒーを焙煎している独特な匂いがふんわりと届いてくる。
店には軒先まで所狭しとコーヒーの器具や生豆が並んでいる。お店の看板には「豆専門店 コーヒーロースター」とある。
俺はまっすぐ店の中に入り、コーヒー豆を選ぶ。俺はブレンドされていない特定の銘柄だけのストレートというものを好んでいる。世の中には色々なコーヒー豆があり産地によっても味が色々違うので、それだけで違いを楽しめるからだ。
今回はホットコーヒー用だけ買う事にして「コロンビア スプレモ」というものを選んだ。マイルドな口当たりと甘い香りが特徴だそうだ。ふむふむ。
この店では豆を選んでから焙煎してくれるので、それまで15分程度の時間ができる。その間にお店のコーヒー用の色々な器具を見て過ごすのだ。
俺は会社で飲むためのドリップコーヒーを2パックほどカゴに入れた。すると、読めない文字で書かれた木のパッケージが目についた。何だこれ?
俺は興味を惹かれて、木のパッケージに手を伸ばした。
だが俺の手は木のパッケージを掴めずにすり抜けてしまった。
驚いて慌てて手を引っ張り抜こうとしたが、それよりも強い力で吸い込まれていく。
まじか、ヤベッ
そう思ったときには既に俺の体は棚の中に吸い込まれてしまっていた。周りは暗くて何も見えない。ただ吸い込まれた時の感覚のままに体はどんどんと進んでいる。本当のところは方向感覚が失われていて、進んでいるのが前なのか後ろなのか、はたまた上なのか下なのかもわからない。
どのくらい進んだだろうか。ふっと目の前が明るくなったと思ったら、体ごと勢い良く飛び出した。
ドスン
ゴロゴロゴロ
ドン
俺は何かにぶつかって止まった。その弾みで手に持っていたカゴやコーヒーのドリップパックが散らばった。
いてててて
「ちょっと!いきなり何するの?」
「あ、ごめん。」
反射的に謝りつつ、声がする方に目を向けると目の前に尻もちをついた女性がいた。
女性は金髪で少しウエーブ掛かった長髪と全身黒づくめのローブをまとっている。コーヒー豆屋には似つかわしくない女性だ。