第43話 右の頬を打たれたら左の法を差し出しなさい
「城岡部長、すみませんでした、怖い思いをさせてしまって」天津は誠意を込めて謝罪した。「それは多分、我々の行う業務の影響による幻覚症状だと思います」
「――」城岡部長は絶句した。「――幻覚……?」そっと、訊き返す。
「はい」天津は深く頷く。「幻覚です。ただ、まあ、あまり騒ぎにはしたくないので……虫の好いお願いではありますが、どうか今回の事は内密にしておいて頂ければ」もう一度深く、頭を下げる。
「――」城岡部長は自分がへたり込んでいたコンクリートの床を茫然と見下ろした。「まあ……誰かに話したところで、頭打ったかなんかでおかしくなってんじゃないかって思われるだけ、でしょうからね……ははは」面白くもなさそうに乾いた笑い声を上げる。
天津は困ったような、同情するような表情でただ城岡部長に眼差しを送るのみだった。
「でもなんで」城岡部長はふと真顔になる。「新日本さんの業務で幻覚症状なんて、起きちゃうんですか?」
「それは、ですね」天津は一・五秒をかけて社に相談し回答を得た。「こんな事言うのもあれですが……城岡部長は、いわゆる霊感の強い人、ではないですか?」逆に問いかける。
「俺? あ、いや、私?」城岡部長は目を見開いて自分を指差した。「いや、そういうのは」
「潜在的に、という事もありますよ」天津は探るような視線を城岡に向ける。「ご自分でまだ気づいていないだけかも」
「まじですか」城岡部長はすっかり信じ込んでしまったようだった。「え、洞窟に近づいたからそういう潜在的なものが目覚めたとか?」
「あり得ますね」天津は心の中で両手を合わせて頭を下げながら頷いて見せた。「もしかしたら一時的に目覚めさせてしまっただけで、今後はもうないかも知れませんが」
「へえー」
「まあ何にせよ、申し訳ありませんでした。怖い思いをさせてしまって」天津はもう一度言い、深く頭を下げた。
「ああ、いえいえそんな、気になさらないで下さい。不用意に近づきすぎた私に責任があるんですから」城岡部長は慌てて手を振る。
◇◆◇
地球は、スサノオを探していた。リソスフェアには、いない。鯰にそう伝えたことは、嘘ではない。
――また、コアまで下りて行ってるのかな。
地球のコアには流体の外核と、ほとんど鉄とニッケルの塊である内核とがあるが、この内核付近ともなると、構成物質の比重が大きいため地球自身にもそこで何が起こっているか、正確な状況が把握しにくいのだ。
――それとも、上の方に行ってるとか。
上とはつまり、地殻から離れ上空に飛び上がっているということだ。地殻から浮き上がられてしまうとそこもまた、地球にとってはエネルギーの放出先でしかないので、手に触れるようにすべてが把握できるわけではない。
――ま、しょせん私は“岩っち”だからな。
比喩的に嘆息する。
「岩っちー」その名付け親である鯰が声をかけてくる。
「何?」地球が答えると、
「あのスサノオ? って、一体何なの?」鯰は訊く。
「うーん」地球は比喩的に考え込む。「何だろうね?」
「神? のわりには、さ」
「うん」
「あんまり、なんていうか、あれだしね」
「ぷっ」地球はつい吹き出す。「あははは」
「何よ」鯰は文句を言うが、その声にも苦笑じみた笑いが滲む。
「いや、言いたい事はわかるよ。確かに“あれ”だ」地球は言い訳する。
「他の神たちも手ぇ焼いてるみたいだし、それにさっきは人間に対して岩っちがなんか危害を加えたような錯覚を起こさせてたしさ」
「ああ……」地球は比喩的に顔をしかめた。
確かに、困ったことである。そんなことをされたら、地球のシステム稼動のあり方が悪意のあるものと見做されてしまいかねない。地球は一度だって、故意に生物たちを攻撃したことなどないのに。
「けど神のわりにはさ、今まで全然あたしらにもの言ってきたことないよね?」鯰は魚の首を捻っているかのように疑問を述べた。「神だってんならさ、ずっと昔から地球に来てたはずだもんね」
「いや、それはわからないよ」地球は答えた。「もしかしたら最近になって、他の天体から移って来たのかも知れないし」
「えー、じゃ今までどこか他の星にいたの?」鯰はまた訊く。「でもスサノオって、他の神たちもよく知ってる名前みたいだけど」
「もしかしたらあんな奴だから、あっちこっちの星をぴょいぴょい飛び回ってるのかもね」地球は比喩的に肩をすくめた。「それで神たちにも私たちにも馴染みがないのかも」
「そっかー」鯰は得心したのかどうか、それ以上は疑問を口にしなくなった。
「さあ、今からまた対話が始まるのかな」地球はのんびりとあくびした。「それともまた、スサノオが邪魔しに来るのかな」
「助けてあげないの?」鯰が他意もなさそうに訊く。
「私にできるのは、空洞を作るところまでだよ」地球もまた他意もなさそうに答える。「私の意志を伝えるための」
◇◆◇
「天津さんと城岡部長、やけに話し込んでるな」結城が車の中から様子をうかがう。
「城岡部長の身に何か起こったのだろうな」時中が推測する。「もしかしたら、スサノオが何か危害を加えたのかも知れないな」
「まあ」本原はいつものようにサンドイッチを、くるみを齧るリスのように齧りながら心配した。「何の関係もない人にまで、ひどいです」
「そうだよねえ」結城が同意する。「もしそれのせいでここの会社がうちとの契約を切っちゃったら、営業妨害だよね。そしたらスサノオに損害賠償請求することになるのかな」
「神に賠償金を請求するのか」時中が眉をしかめる。「罰が当るぞ」
「そうかあ、神には日本の法律って効力ないのかなあ」結城は腕を組み、車の天井を見上げる。「神の世は治外法権か」
「けれど神さまたちも日本の法律に従って業務を行っていると仰っていました」本原は小首を傾げた。「スサノオさまにも従っていただくおつもりなのではないでしょうか」
「しかしスサノオは社員ではない」時中が否定する。「ただのクレーマーだと天津さんが言っていた。クレーマーということは会社側から見れば、顧客の一人ということになる」
「ええー」結城が嫌そうな顔をする。「あいつをお客さんとして扱わなきゃいけないわけ? あんな、わけのわかんねえ、性質の悪い、やな奴を」
「悪口はやめて下さい」本原が注意し、
「殺されるぞ」時中が警告した。