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艶ちゃんとピヨコ


1 艶ちゃんとピヨコ


小さな頃、毎週日曜日の朝は、ミサの日だった。母に連れられ、眠りからさめたばかりの街を、バスで一時間かけて海辺の教会へ向かう。
小さな手には大きすぎるロザリオを握りしめ、まだ冷たさを残した陽光が降り注ぐ礼拝堂で、マリア様への祈りを捧げる。白い板の床に、ステンドグラスの色とりどりの影が映りこみ、まるで神聖な絵画のようだった。
神父様の短いお話が終わると、中学生以下の子供はお菓子がもらえた。とはいっても、特撮やアニメが放映されているこの時間帯にミサに参加している子供なんて、わたしを入れてもたった三人だけだったけれども。
それが終わる頃にはもう、教会の、甘い香りの花々が咲き誇る庭は主婦達のしゃべり場に変わる。そうなると途端に退屈になり、わたしはいつも庭を散策したり、教会の裏庭の苔むした階段に腰かけ、海を眺めたりした。
その日も階段に座り、ぼーっと海を眺めていた。と、波間にチカリと強い光を発見した。それは不定期にわたしの視界で瞬き、強い興味を誘った。
「ねえ、ちょっと海まで行ってくるね」
スーパーの野菜の値上がりについて激論していた母に声をかけ、返事を待たずに駆け出した。
「海には入らないのよ!」
母の声に、はあいと返事をして浜辺へ駆け出す。ざふざふと砂を蹴って、白波のすぐ近くまでたどりついた時、強い光の正体が分かった。
銀のセイルが、空と海の真ん中でキラキラと眩しく煌めいている。ボードの上に、ヨットの帆ににた硬質な板が設置されているそれがなんなのか、わたしは知っていた。
「ウインドサーフィン…」
呟きが聞こえたわけではないだろうけれど、ボードの上の誰かさんがこっちを見た気がした。緩やかに波と戯れていたのを、くるりと浜辺へ方向転換させ、波をたぐりよせるようにこっちへやってくる。
浅瀬までくると、彼はーーわたしよりいくらか年上であるであろう男の子だった――セイルボードを横抱きに抱えてわたしのすぐ前に立った。海水に濡れた艶やかな黒髪や裸の上半身を、時折水滴がしたたって、乾いた砂地に点をつくる。
「なあ、」
男の子は宝石みたいな綺麗な目で、わたしを見つめたまま、よく通る声で話かけてきた。
「お前さ、あの教会の階段によく座ってる子だよな」
帰り際によく見かけるのだと彼は続けた。
「クリスチャンなのか?」
わたしの胸にかけられた、マリア様を抱いたロザリオを指さしながらの問いに、わたしは言葉もなくこくこくと頷いた。彼は、ふうんと小さく呟いて、
「お祈りとかすんの?やっぱ」
言いながら両手の指を胸の前で組んでみせた。その行為に、バカにした感じがまったくなく、彼が純粋な好奇心から聞いているのだと分かる。だからわたしも素直に頷き、うん、するよと答えた。
「どんなやつ?今言える?」
男の子はセイルボードをそっと砂の上に横たわらせ、自分もその横に腰を下ろした。わたしも少し迷った後、男の子の横に座り、ロザリオを両手で包み込むように握り、そっと目を伏せる。
「――めでたし聖寵、充ち満てるマリア。主、御身とともにまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。天主の御聖母マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈りたまえ。アーメン」
唱え終わったわたしの顔を、男の子はぽかんと見ていた。それは、小学校でのお友達の顔とおんなじだった。彼らもまた、わたしがお祈りを終えた途端、奇妙なものを見る目でわたしを見た。また、嫌な言葉を投げつけられるのだろうかと、身を竦めたわたしに、
「お前、きれいだなあ」
男の子は真っ直ぐな声でそう言った。弾かれたように顔をあげると、男の子は柔らかな笑みを浮かべて、もう一度、きれいだなあ、と呟いた。

それが、艶ちゃんとの出合いだった。

近江 艶(えん)。これが彼の名前。
天羽 真雛(まひな)。これがわたしの名前。わたし達はそれから毎週日曜日に、浜辺で遊ぶようになった。
遊ぶといっても、わたしが艶ちゃんの風のりを見たり、砂浜に座ってお喋りしたりと、実に大人しいものだった。アクティブな艶ちゃんからしたら、退屈極まりなかっただろうに、よく文句も言わずつきあってくれたものだ。
それでもわたし達は、海岸を通りかかるカップルや大人達から「なんて可愛らしい恋人同士なの」と笑みを誘うほどに仲が良かった。
母は、わたしが艶ちゃんと仲良くしている事にさして感心はないようだった。艶ちゃんと遊んでいることをミサに参加している子が母に告げた時も、ただ一言、「真雛が楽しいなら、それでいいわ」そう言っただけだった。
艶ちゃんのご両親も似たようなもので、息子の好きなようにさせてやりたいという方針の元、のびのびと艶ちゃんを育てていたようだ。結果、わたし達は何の弊害もなく男女の垣根をとっぱらって遊んでいられたわけだが、
「ハワイ?」
楽しい時間というものは、突然終わってしまうものだ。
「そう。父ちゃんが昔世話になった人から、ウインドサーフィンのコーチ、是非やってくれって頼まれたんだよ」
だから俺も一緒に行く。ある晴れた日曜日、いつもの海辺で艶ちゃんは何でもないことのようにそう言い、わたしはぽかんと間抜けに口を開けた。
ハワイが外国であるという事、とてつもなく遠い場所であるということは、幼いわたしにも理解できた。そこに、大好きな艶ちゃんが行くという。今までみたいに会えなくなるのだと理解した途端、両目からぶわりと涙があふれた。
「泣くなピヨコ!泣いても俺はもう守ってやれねえんだぞ!」
初めて聞く、艶ちゃんの、わたしへの怒声に肩が大きく跳ね、驚きに涙も止まる。
艶ちゃんは、ずっとわたしのヒーローだった。時おり、浜辺には意地悪な男の子が数人いて、彼らは大概わたしを取り囲み、からかった。彼らにとっては、ただちょっかいをかけているだけでも、自分より大きな男の子達は、わたしにとっては恐怖でしかなかった。震える声で名前を喚べば、艶ちゃん は海を駆け、直ぐ様助けに来てくれた。どんなに不利な状況だろうと、艶ちゃんは勇敢に相手に立ち向かった。泣いて助けを待つだけで、わたしはいつもそれだけが歯がゆかった。
だけどそれも、もうなくなるのだ。どんなにわたしが苦しくてもかなしくても、もう艶ちゃんは海を駆け、砂を蹴り、真雛をいじめるなと男の子達の前に立ち、腕を広げることもない。

艶ちゃんに、会えなくなるんだ。

ぐうっ、と喉が鳴ったが、なんとか涙を堪えようと下唇をきつく噛みしめる。艶ちゃんも泣き出しそうな顔でわたしを見ていて、その事に驚いてしまう。
どんなに体の大きな男の子にやられても、呻き声ひとつもらしたことのなかった艶ちゃんが、涙を堪えている。わたしは慌ててぐしぐしと拳で両目をこすった。こんなんじゃダメだ。いつまでも泣いていたら、艶ちゃんが安心してハワイに行けない。
「艶ちゃん、」
ジャラリと重たい音をたて、わたしはロザリオを外し、艶ちゃんの方へ差し出した。
「これ……」
艶ちゃんが戸惑ったようにわたしを見る。
「持っていって、艶ちゃん」
「お前の一番大事なもんだろ。もらえねえよ」
慌てて両手を振る艶ちゃんに、わたしはロザリオを押しつけるように握らせた。
「いいの。わたし、ずうっと艶ちゃんに守ってきてもらったから、今度はわたしが艶ちゃんを守りたいの」
わたしの代わりに持っていって。真っ直ぐ艶ちゃんの目を見つめたまま続けると、艶ちゃんは唇をきゅうっと引き結び、こっくりと頷いた。
「大事にする。お前だと思って、ずっと持ってる」
まるで愛の告白みたいにそう言って、艶ちゃんはロザリオを首からさげた。
「おおきくなったら、絶対帰ってくるからさ、そしたらまた遊ぼうな」
約束。そう言って、わたし達は小指と小指を絡めあった。嬉しそうに笑う艶ちゃんの胸で、ロザリオが煌めいていた。
艶ちゃんの笑顔も、その日の煌めく海も、全部全部覚えている。色鮮やかに、わたしの心に刻まれている。








「前置きなっが!」
わたしの机に片手をつき、もう片方の手を腰に当てた友人は短く叫び、大きなため息をついた。
「まさかとは思うけど、それが毎回合コン誘っても断ってる理由?」
茶色の短い地毛を揺らしながら、友人はわたしにたずねてきた。
目の前の友人、佳子(かこ)ちゃんにこっくりと頷いてみせると、佳子ちゃんはやれやれと言いたげに大袈裟に肩をすくめ、首を振りながらスマホの画面をわたしに向けた。
そこには同じ年頃の男の子達が映っていた。多分、今日の合コンのメンバーなのだろう。
「行くわよ、合コン」
有無を言わせない口調で、佳子ちゃんはきっぱりと言い放った。

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