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変わらない日常

次の日、目が覚めたのは正午を過ぎた後だった。
昨日の寝坊とは、比べ物にならないほどの寝坊だ。

頭がガンガンと内側から痛む。
昨日の疲労が溜まっている証拠だった。

不思議なことに、一度眠りにつくと、昨夜ほどの不安定さは、俺の心から消えていた。
それでもまだ、脳裏にはあの瞬間が、鮮明にこびりついている。
そして、母親、父親の嘆きが頭から離れない。

幸い、今日は土曜日なので、学校は休みだった。
どっちにしろ、今の調子で普段通りの登校が可能かと聞かれたら、肯定するのはできない、とはっきり言い切れる。

俺は、ゆっくりと体を起こすと、洗面所へと向かった。
 
立ちくらみに耐えながら、俺は、今日という日を一歩一歩と踏み躙っていく。

「……ひっでぇ顔」

鏡に映るのは、原型を留めていないと言っても過言ではない、汚い俺の顔。
昨日の朝の方が、数倍マシだったと思う。

俺は、何度も顔を洗った。
同時に、この気持ち悪さも流れてほしいと、何度も願いながら洗い続けた。
 
ブブッ
 
ケツポケットが、独特のバイブ音を鳴らしている。
 
スマートフォンを手に取り、画面をつけた。
 
たった今、と表示されている通知は、漫画アプリの新作情報だった。
無機質なテロップが、数十分前、数時間前と、立て続けに並んでいる。
 
その中に、一件のメッセージがありますと、正気のある文字が浮かんでいた。
あらかた、誰からのラ○ンかは、予想がついているも、パスコードを認証して、内容を確認する。
 
おい、大丈夫か。
 
差出人は、ストウヒナタ。
短い文体だが、彼の性根がにじみ出ている。
 
無駄な心配をさせないため、とりあえず安否確認……いや、起きていることを伝える。
 
ポンっ
 
独特な音と共に、画面にはグッドマークのスタンプが表示された。
 
日常に近いことを終えると、今度は腹の虫が身勝手にも泣き出した。
心の調子など気にもせず、我が欲のために騒ぎ出す体に、嫌気がさす。
それでも仕方なく、俺は冷蔵庫の中を覗いた。

そこには、白い壁が広がるのみで、食べ物と呼べるものなど、一切ない。
あるものといえば、残り僅かな醤油と、いつかの使い切らなかった焼きそばソース。

「……外出なきゃかよ」
 
思わず溢れた言葉は、ただめんとくさいから、と言う理由で片付けられるものではなかった。
家から出るというのは、日頃と何一つ変わらない空気を吸わなければならないという意味を孕んでいる。
今の俺に、それを受け入れられる余裕なんて、持ち合わせているのだろうか。

それでも、昨日の朝から胃の中は空っぽだ。
これ以上、何も口にしないのは、限界だった。
俺は、中も外も不安定なまま、靴を履くに他ならなかった。

「おはよう、有賀野くん」

二〇二号室のおばさんは、いつもと同じ挨拶をしている。
当たり前だろう。彼女にとって、今日は今日なんだから。

「おはようございます」

俺も、今日を今日として演じた。

今日もまた、満天の青空が広がっている。
今日もまた、何処かに目をやれば、必ず人が映る。
今日もまた、信号が、青黄赤と順に変わっていく。
 
限りなく普通で、普通じゃない。
 
見慣れた風景、見慣れた光景。
 
俺は、何かに目を背けながら、ただただコンビニへと歩みを進めた。

「いらっしゃいませ〜」
 
女学生店員の、機械的な挨拶が店内に響いている。
 
近所の、某いつかは七時から十一時まで営業していたチェーン店は、おやつの時間の割に客足は止んでいなかった。

俺は脇目も振らず、パン売り場の前に向かった。
とりあえず、三日分の食料を手にし、レジへと向かう。
かなりの量なので、店員も少し驚いているようだった。

「ありがとうございました〜」

男性店員の、機械的な挨拶が店内に響いている。

さっきから、さっさと家に帰れと、何かが急かしている気がする。
拒む理由もないので、小走りを強めていく。
 
自動車は、走っている。
 
公園では、子どもたちが鬼ごっこをしている。

「あっ、そうそう。これ持ってってちょうだい」
 
「え、いいの? 助かるわ〜」
 
道端では、おばさんたちが会話をしている。
 
俺は、さらに足を早めた。
 
「あら、琳ちゃん、そんなに急いでどうしたの?」
 
二〇一号室のおばさんの声は、耳元を通過する。
 
築数十年の我がボロアパートは、当たり前のように立ち尽くしている。

駐車場には、自動車が停まっている。
 
駐輪場には、自転車が停まっている。
 
俺は、階段を一気に駆け上がった。
 
錆びた鉄製の床は、走りに合わせて、バンバンと音を立てる。
 
俺は、二〇三号室のドアノブを粗暴にひねった。
靴を脱ぎ捨て、居間へと急ぐ。
ただ急ぐ。
 
認めたくない。
ありえない。
おかしい。
今日も、人が平然と歩いていた。
話し声が聞こえた。
笑い声が聞こえた。
日々を謳歌していた。
認めたくない。
ふざけるな。
おかしい。
認めたくない。
認めたくない、
認めたくな……

「ああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁあああ!!」 
 
俺は、あの時の母親、父親の慟哭と同等、いやそれ以上の声を上げた。

彼女は、もういない。
そんなことは、わかっていた。
わかり切っていた。
変わらない日常に対する覚悟もしていた。
それでも、耐えられなかった。
人が一人、目を覚まさなくなっても、世界の目には全く映らない。
昨日と、何も変わらない。
それが、たまらなく辛かった。

「なんでだ、なんでだよ!!!」

俺は小さな居間で、大きな独り言を漏らした。

「人が一人……人が一人っ!!!」

くそくそくそくそくそくそくそ……

「クソがぁっ!」

俺は、目の前に落ちていたテレビリモコンを力の限り投げ飛ばした。

ピッという小さな音とほぼ同時に、四角く薄い箱は光と音を放つ。

「……今日未明、徳島県の山奥で、一部白骨化した遺体が──」

茶髪ショートの人気女子アナが、淡々と無機質な情報提供を送り出している。
今の俺にとって、何一つ必要とされない内容が、耳を通過していった。

「続いてのニュースです。昨日朝方に発生した、埼玉県川口市の高校二年生の女子生徒が、酒気帯び運転の自動車に跳ねられ、意識不明の重体となった交通事故について、細かな詳細が明らかになってきました」

「……」

「羽田雄二容疑者三十四歳の呼気から、アルコールが検出されたため、酒気帯び運転の現行犯で逮捕しました。羽田容疑者は、自宅から近所のパチンコ店へ出かけている途中で、警察の調べに対し、昨夜、自宅で焼酎を飲んだ、と供述しています」

「続いてのニュースです──」

俺は、気が付けば、画面に夢中になっていた。

すっかり怠っていた呼吸運動が、ゆっくりと再開する。

たった一分足らずの速報は、要所を一切漏らさず、全国にこの事故を拡散した。

埼玉県川口市の女子高生が、飲酒運転の車に跳ねられたこと。
たった数行で伝えられる事実を、ニュース番組はわかりやすく、詳細に広げる。

今のニュースを見た人間は、日本中に一体何人いるのだろうか。
何人の人が、寄る辺のない気持ちに覆われたのだろうか。

これから、ワイドショーなどで取り上げられていくのだろう。
全国放送される場では建前を、文字のみが飛び交う場では本音を、傍観者が寄り添った他人事で語り尽くす。

よくよく考えてみれば、さっきの光景は別に可笑しくなど全くないのだ。
生きる人間として、当たり前のことなのだ。

今の俺なら、どんな事件にも感情をゆさぶれる気がした。

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