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出会い

 ここは滋賀県の湖北に位置する長浜市木之本町。人口はおよそ一万人の比較的小さな町だ。滋賀県は琵琶湖を中心にして、主に「湖東」「湖西」「湖南」「湖北」この四つの地域に分類されている。この長浜市は琵琶湖の北部にあるので「湖北地域」に入る。中でも木之本町は長浜市内より、さらに二十キロほど北になり、冬は降雪量の多い町だ。
 町内では年に一度、地蔵大縁日が行われ、商店街には露店が立ち並び、多くの人々が訪れる。毎年八月二十二日から二十五日まで四日間なのだが、露店の開店する日が二十三日からなので、一般的には三日間と思っている人が多いようだ。普段は車の通る道だが、その三日間は通行止めにして歩行者天国になる。本来この地蔵縁日というのは、お寺の境内に建てられている地蔵様に参拝して、願い事を聞いてもらうのが趣旨なのだが、参拝しているのは年配の人や、お年寄りが多い。子供や若者に対しては「地蔵参りでなく露店参りだ」などと、揶揄(やゆ)する人もいる。ちなみにこの地蔵様だが、建立は明治二十七年、高さが六メートルもある大きな銅像で、眼病平癒の地蔵様として信仰を集めている。また縁日最終日の二十五日には花火大会が催され、花火大会の終了が縁日の終わりを告げる。

 今年の八月二十五日は日曜日と重なり、普段以上の人出で賑わっていた。この日、吉村百合(よしむら ゆり)は友人の秋岡由香(あきおか ゆか)と縁日参りに行く約束をしていたので、木之本駅で待ち合わせをしていた。
 電車を降りた吉村は、改札を出た所で待っていてくれた秋岡と一緒に地蔵様へ向かった。簡単ではあるが参拝を済ませて露店を見ながら歩いていると、後ろから「由香ちゃん」と声を掛けられた。振り向くと近所に住んでいる幼馴染の横井浩司(よこい こうじ)だった。 横井は秋岡のそばに行くと、少しばかり言葉を交わした後に言った。
「これから昼飯を食べに行くけど、良かったら一緒に行かないか?」
「横井さんがおごってくれるの?」
「いいですよ、きれいなお嬢さん方には喜んでおごらせてもらいますよ」
「横井さんったら、またそんなお世辞を言って何か目的があるの?」
「いいえ何もありませんよ。ただ女性に対しては褒(ほ)めるのが、僕のモットーなんです」
「それをお世辞と言うのですよ。でもお世辞と分かっていても悪い気はしないから付き合うわ。ねえ百合もいいでしょう」
 由香はそう言って百合に同意を求めると、彼女は笑いながら頷いた。横井も一緒にいる男性に「行こうか」と言って、返事を待たずに秋岡と並んで歩きだした。

 駐車場に停めてある横井の車に四人が乗って、ここから五分ばかりの所にあるレストランに向かった。トンネルを抜けると左に琵琶湖が見えるが、そのレストランも琵琶湖畔に建てられている。

 滋賀県といえば一番に思いつくのが日本一大きな湖の琵琶湖で、滋賀県の面積の約六分の一を占めている。琵琶湖には四つの島があり、中でも竹生島(ちくぶしま)は、このレストランのある飯ノ浦という村からすぐ近くにあるので昔は若者が泳いで渡ったそうだ。大きさは周囲約二キロの小さな島だが、島内には宝厳寺(ほうごんじ)と竹生島神社が建てられており、西国三十三ヶ所巡りの第三十番札所となっている。そこは日本三大弁天の一つで神奈川県の【さがみの江島神社】広島県の【安芸の厳島神社】と並び、多くの参拝客が訪れている。弁天様の横には幸せ願いダルマという物が売られており、そのダルマの中に願い事を書いた紙を入れて奉納すると、祈願成就すると言われている。

 四人は琵琶湖と竹生島の見える窓際の席に腰掛け、メニューを見ながらそれぞれが好きな食べ物を注文した。さすがの女性たちも奢(おご)ってもらうことに気を使っているのか、あまり高いものは注文しなかった。料理を待っている間に自己紹介をすることにした。
「横井浩司と言います。年齢は二十三歳、高月町にある日本硝子株式会社に勤めています」
「武田明人です。年齢も勤め先も横井と同じです」
 日本硝子は主にテレビの画面に使われる液晶ガラスを製造している会社だ。
「秋岡由香です。湖北高校の三年生です」
「吉村百合と言います。由香の同級生です」
 湖北高校は滋賀県の最北にある県立高校で、一学年に二百人前後の生徒が在籍している。

 自己紹介を聞いた武田は二人の女性が私服を着ていたこともあり、十九か二十歳ぐらいだと思っていたので少し驚いた。クラブは二人とも陸上部に入っていると言った。
 ほどなく注文した料理が運ばれてきたので、武田は食べながら琵琶湖や竹生島の話をすると、秋岡は感嘆したように言った。
「武田さんはとても知識が豊富なのね。私も竹生島へ行って、その幸せ願いダルマさんにお願いしたいわ」
 彼女は何を願いたいのか分からないが、一度行きたそうだった。
 
 食事が終わってから帰るにはまだ早い時間なので、どこかへ遊びに行こうと四人で相談した結果、ここから車で二十分ばかりの所にある長浜市内のボーリング場へ行くことに決まった。日曜日なのでもっと混んでいるかと思ったが、そうでもなくすぐに始められた。四人ともスコアはあまり良くなかったが、わいわいと騒ぎながら楽しいひと時が過ごせた。 
 ボーリングを終えて帰路に就いた車中での話し合いで、横井は「秋岡を送る」と言ったので、武田は必然的に吉村を送ることになった。車を置いていた駐車場に着くと武田は吉村を車に乗せた。それまでは四人だったこともあって、それなりに喋っていたのだが、二人きりになると話せなくなってしまった。
 間もなく吉村の家の近くまで来たので車を止め、お互いに今日のお礼と挨拶を交わして別れた。
 
 その夜、武田は今日出会った二人の女子高生のことを思い出していた。秋岡と名乗った子は丸顔で髪はショートカット、背はあまり高くなく百六十センチ以下だろう。もう一人の吉村という子は、やや卵型で髪は肩の付近まであり、身長は秋岡より五センチほど高いようだ。二人とも陸上をやっているので体型はさすがに細身だった。性格はまだはっきり分からないが、秋岡は活発なタイプでよく喋る子だった。対して吉村は少し控えめな感じで、おとなしいタイプに感じられた。二人の第一印象はそんなところだ。
 
 また吉村百合も今日の出会いを、お風呂で湯船に浸かりながら思い出していた。由香を幼馴染と言った横井さんは口数の多い男性で、身長は百七十センチを少し超えているだろう。がっちりした体型で髪は短髪、憎めない顔立ちをしていた。もうひとりの武田さんは落ち着きがあり、あまり無駄話はしない男性に感じた。身長は横井さんより少し高く、体型はやや痩身、髪の長さもごく普通で温和な顔立ちからみると、誰にでもやさしくできるタイプだと思った。

        二   再会
 それから約一ヵ月後の九月末の日曜日のことだった。吉村は学校の部活が終わったあと、母に頼まれた買い物をするために木之本駅近くのスーパーへ行った。食品売り場で野菜を品定めしていたとき「こんにちは」と横から声がした。自分に挨拶をされたとは思わなかったが、これは人間の習性なのか声のした方向をつい見てしまう。するとすぐ近くに、一ヶ月ほど前に地蔵縁日で出会った武田が立っていた。
「え~と、確か木之本の縁日で会いました吉村さんでしたね?」
 武田は分かっていながら聞いた。
「はい、そうです」
「僕のことを覚えていてくれますか、武田です」
「覚えています。あの日は昼食をご馳走になり、ありがとうございました」
「どういたしまして,僕はその後のボーリングが楽しかったです。こちらこそありがとう」
「私も楽しかったです。また家まで送っていただいてすみませんでした」
「今日は買い物ですか?」
 買い物に決まっているのに『買い物ですか』と聞くので、ちょっとおかしくなり笑いながら答えた。
「母に頼まれた食材です」
「そうですか、僕は愛犬のドッグフードを買いに来たんですけど、遠くから見て吉村さんに似ているなあと思ったので、近くまで来たらやはりあなたでした」
 そう言って話を続けた。
「電車だと荷物が重くて大変でしょう。良かったら車で送りましょうか?」
 吉村の自宅は木之本駅から上り電車に乗って、わずかひと駅の長浜市高月町
という町だ。しかし高月駅の近くにはスーパーがないので、買い物をするときは木之本でしている。
 社交辞令かもしれない「送りましょうか」との言葉に「お願いします」と言えば、ずうずうしい女だと思われそうだから、彼の申し出を一度は断った。
「いいえ、慣れているから大丈夫です」
「遠慮しないでください。今日は何もすることがないから暇なんです」
 そう言う彼に二度拒否する言葉も思い浮かばず、送ってもらうことにした。
「それじゃお言葉に甘えて、お願いします」
「本当は昼食でもと思ったのですが、この季節に生鮮食料品を持って、のんびり食事というわけにもいきませんね」
 それを聞いた吉村は家に着くまでの車中で、昼食のことを考えていた。時間は十二時を少し過ぎている。そこで自分の考えを武田に言った。
「よろしかったら、私の家に寄っていきませんか?」
 武田は驚いて吉村の顔を見た。彼女は続いて
「先日もお昼をご馳走して頂き、今日も親切に送ってもらったので、もし良ければ私が昼食を作りますから食べてください。もっとも味の保障はできませんけど」
 笑いながらそう言った。確かにお腹は空いていたが、まだ今日を含めて二度しか会っていない彼女の家に、突然上がりこむのはどうかと思った。それでも「遠慮しないで」と言うので、迷ったが寄らせてもらうことにした。

 家の前で車を停めて、二人が買い物袋を提げていると(こんなところを誰かに見られたら、まるで若夫婦のように見えるだろうな)と思い、内心複雑な気持ちになった。
彼女がポケットから鍵を取り出し、玄関を開けようとしているので聞いた。
「家に誰もおられないのですか?」
「ええ、今日は母が親戚の法事参りに出掛けていますので。でも『一時頃には帰る』と言っていました」
 そう答えると、玄関を開け「どうぞ入ってください」と言いながら、話を続けた。
「父は私が中学二年生の時に他界しまして、今は母と私の二人暮しです」
 そんなこととは知らない武田は(だったらいま家の中にいるのは僕と彼女の二人だけじゃないか)と思い、中に入ったのを少し後悔した。しかし今さら「帰ります」とも言えずに、促されるまま案内された座敷に入った。
「炒飯(ちゃーはん)くらいしか作れないのですけど、それで構いませんか?」
「はい、炒飯は大好きです」
「それじゃ出来るだけ急いで作りますけど、少し時間が掛かりますのでテレビでも見て待っていてくださいね」
 しばらく待っていると「遅くなってごめんなさい」と言いながら、二人分の炒飯と、お吸い物を座敷机の上に置いた。目の前に置かれた炒飯を見ると、武田の分は大盛りによそってあり「ほかに何もないので少し多くしておきました。お吸い物はインスタントでごめんなさい」と、吉村は少し照れたように笑いながらそう言った。そして二人は「いただきます」と言って食べ始めた。しかし武田が何も言わずに黙々と食べているので、吉村は不安そうな顔つきで聞いた。
「あの~、味はどうですか?」
「とてもおいしいです」
 彼女は、ほっとしたような顔になって言った。
「私、炒飯だけは少々自信があります」
「これだったら誰が食べてもおいしいと言いますよ」
 武田は彼女の作った炒飯を本当においしいと思った。

 食事が終わって、お茶を飲みながら話をしていると、玄関から「ただいま」と声がした。彼女は「お母さんが帰って来たわ」と言って、玄関へ向かった。するとすぐに「百合、誰かお客様なの?」と言う声が聞こえてきた。多分、玄関に脱いである靴を見たのだろう。お母さんと何か話していたようだが、声が小さくて何を話していたのか聞き取れなかった。
 
 彼女が戻ってきて「母は着替えてから来ますので、少し待っていてくださいね」と言いながら、少し緊張したような面持ちだった。当然だが武田もかなり緊張している。
 十分ほどして座敷に入ってきた母は、名前を真理子(まりこ)と名乗った。さすがに年齢までは言わなかったが、多分四十台の半ばぐらいだろう。笑顔の美しい女性で年相応の落ち着きは感じられるが、初めて会った武田に対して(早くこの男を見定めしなきゃ)との思いがあるのか、少々こわばった顔をしているように思われた。そして挨拶だけして「コーヒーを煎れてきます」と言って立ち上がった。
 
 しばらくして戻って来た母は、コーヒーをひと口飲んでから武田に質問を始めた。仕事のことや家庭のこと、そして卒業した学校のことなど、まるで身辺調査をしているみたいに次々と質問をして、横で聞いている百合は申し訳なさそうな顔をしている。しかし親としては、子供が家に連れてきた男性のことを知りたがって当然だ。
 質問攻めが終わったら、今度は娘について話し始めた。「武田さんはもう聞いておられるかもしれないけど、この子は中学生の頃から陸上をしています。高校に入ってからは長距離を始めまして、トラック競技では五千メートルや一万メートル、ロードレースでは駅伝を走っていて、近い将来はマラソンをやりたいなんて、言っているのですよ」と、母は嬉しそうに笑いながら、そう話してくれた。彼女が陸上部に入っているのは聞いて知っていたが、そこまで詳しくは聞いていなかった。
 あれやこれやと話をしている内に、時間は四時近くになったので武田は帰ることにした。あまり遅くまでいると、夕食の準備の迷惑にもなるだろう

 百合が帰る武田を見送って家に戻ると、すぐに母の質問が飛んできた。
「あの人とお付き合いをしているの?」
「そうじゃないの。お母さんには一か月ほど前に話したはずだけど、武田さんとは由香と一緒に行った木之本の縁日で初めて会ったの。それ以来、今日が二回目なのよ。まだお付き合いなんてしていないわ」
「そうなの、家に入ってもらったくらいだから、てっきり付き合い始めたのかと思ったわ」
「武田さん、本当は外で昼食を摂るつもりでいたようだけど、私が食料品を持っているのを見て『重いでしょう』と言って、家まで送ってくださったの。『御飯を食べに行くのは、その後で構わないから』とおっしゃったので、それなら先日食事をおごっていただいた御礼も兼ねて、家(うち)で食べてもらうほうが早いし、無駄遣いもしなくて済むと思ったから、入ってもらったのよ」
 百合は母に話しながら、なんだか言い訳をしているような気になった。今の話に納得したのかしないのか、百合の顔を覗き見るようなしぐさをして「ふふふ」と笑いながら、夕食の準備をするため、キッチンへ向かった。多分、私の話は殆ど信じていないのだろう。

       三   それぞれの思い
 その夜、百合は今日の出来事を思い返していた。母が私に聞いた「あの人とお付き合いしているの」という言葉に対しては否定したが、初めて会った日から武田の姿や態度に惹かれるものを感じたのは事実だ。またどこかで会えたらいいなと思っていた。しかしそんな自分の気持ちを、たとえ由香であろうと話すことはしなかった。もし由香に言えば同じ町内の横井を通じて、もう一度会えるきっかけを作ってくれるだろう。だがそれは「武田さんに好意をもちました」と言っているようなもので、彼にとっては大変迷惑な話かもしれない。また自分の気持ちも、好感は持ったが恋愛感情と言えるほどのものではなかった。少なくとも昨日まではそうだった。
 ところが今日、偶然とはいえスーパーでばったりと出会い、普通だったら挨拶だけしてその場で別れてしまうところだが、彼の「送りましょうか」という親切なひと言から始まり、長時間それも自分の家の中で過ごすことになった。母に話したように、お礼の昼食には違いないが、自分の心の中は(せっかく会えたのだから、もう少し二人一緒の時間を過ごしたい)という気持ちがあったことは否定できないと、素直に自分の気持ちを認めた。そして一度目の出会いよりも二度目の今日、彼をより身近に感じた。しかし百合は自分の気持ちに対して嬉しくもあり、哀しくもあった。彼の気持ちも分からないのに自分だけ勝手に好意を寄せても、一方通行で恋の片道切符となることのほうが多いのだ。出来れば彼の気持ちを聞いてみたいという衝動にかられたが、それを聞くのも怖かった。人は、ひと目会ったその瞬間に恋に堕ちる人もいると聞く。自分の気持ちはまだまだ恋とは言えないかもしれないが、二回しか会ったことのない人に好意を持っても、それは普通なんだと自分に言い聞かせていた。そうこう考えていると寝付けなくなってしまった。

 武田は吉村家を後にして、まっすぐ家に帰った。家は長浜市の西浅井町にあり、高月町からだと車で十分余りの所だ。夕食にはまだ早いので自分の部屋へ入り、好きな音楽を聴きながら彼女の家で過ごした今日の午後を思い出していた。
 母は気さくに話す人で好感が持てた。ただ表向きは気軽に会話をしていても、実際は誰もいない家に入った自分という男性を、信用できる人物とは思っていないだろう。それにしても母のいない家の中に男性を、それもまだよく知らない自分を招き入れる彼女の心境が分からなかった。親切に対するお礼なら他にいくらでも方法はある。もうすぐ母親が帰って来るのが分かっていたから、入れてくれたのか?いや、帰ってくる時間など予定だけであって確定はしていない。それとも味に自信のある炒飯を食べてもらいたかったのか?彼女の心境が分からない。分からないからよけいに気になる。そんなに気になるのは、もしかしたらもしかしたのか?いやそうではない。そうではないと思う。単に女心が知りたいだけの好奇心から気になるだけだ。そう否定しつつも、武田は自分の心の奥底に眠っていた彼女に対する気持ちが、いま目覚めつつあるのを感じていた。また会えたら自分には全く分からない女心というものを、本人に直接聞いてみたい心境にかられたが、現実として聞くわけにもいかないことは分かっていた。また会えたら・・・・武田は思わず「あっ」と声を出した。いま思い出したが、今日は吉村家の電話番号を聞こうと思っていたのだった。彼女の家ではすっかり緊張していたのだろう。帰り際にでも聞こうと思っていたのに忘れてしまった。また会いたくても連絡の方法をどうすればいいのか?・・・・困ったなと思いながら、その方法を頭の中で模索していたが、これといって名案が浮かばなかった。
 しばらくすると階段の下から「明人、ごはんよ」と母の声が聞こえた。考え事をしていたので気付かなかったが、時計を見るとすでに七時近くになっていた。家族は両親と妹の四人家族だが、ほかに室内犬を三年ほど前から飼っていて、名前は【エル】という。

 食卓に行くとすでに三人とも座っており、僕を待っていてくれたようだ。エルは母の横にチョコンと座り、片足を少し上げては食べ物をねだっている。椅子に座ると妹が聞いてきた。
「お兄ちゃん、今日はエルのドッグフードを買いに行ってくれたのでしょう。でも昼前に家を出たのに、帰って来たのが遅かったのね」
 兄の動向を見張っていたかのように話を切り出したが、明人は本当のことを言わずに
「買い物が済んでから昼ごはんを食べに行って、それから本屋さんとか寄っていたら遅くなってしまったんだよ」
 そう嘘を言ったら、それ以上は突っ込んでこなかったのでホッとした。妹も来年は二十歳になる。今は短大に通っており、来年の卒業と同時に保母さんになることが決まっていた。妹に付き合っている人がいるのかどうか知らないが、もうすぐ大人になる。女心というものを架空の話として聞いてみたいと思ったが、わりと目ざとい女なので、彼女とのことを知られてしまう可能性も捨てきれず、迂闊に話はできなかった。

       四   百合の就職
 百合は三年生の秋を迎え、高校生活も残り半年となった。以前から母にも話していたように、卒業後は就職の道を選ぶことに決めていた。母が一人で働いて自分を高校まで行かせてくれた。さらに進学して大学となると、金銭的にもかなり厳しいのは分かっている。大学には行かなくてもいいから、陸上競技の実業団チームがある会社に入りたいと考えていた。

 そんなある朝のことだった。いつものように登校すると、陸上部の監督から「話がある」と呼び出された。
「陸上競技の実業団チームがある会社に就職したいと聞いたが、就職先は決めたのか?」
「まだ決まっていません」
「そうか、それじゃ大阪まで行くのは嫌か?」
「大阪ですか、嫌ではありませんが一度母と相談してみないと」
「それもそうだな。じゃあこれから話すことを帰ったらお母さんと相談してくれないか?」
「分かりました」
「大阪に茨木市という町があるのだが、そこに電気製品を作っている松中電器という大きな会社があって、その会社は陸上競技の名門なんだ。だから君を推薦しようと考えている。私が三年間指導してきた結論として、君の競技のタイムは人並みより少し優れている程度だが、将来性を感じられてね。体の体型や筋肉の付き方、そして人並み以上の持久力は長距離において、なくてはならない。君はそれらを備えているから名門の実業団へ入って、良い指導者に指導してもらえば、きっと一流の選手になれるはずだ。いや、きっとなれる。実は私の大学時代に同期だった男が松中電器の陸上部で監督をしているので、君さえよければ、そいつに話をしておくから」
「帰ったら母と相談して、明日にでも返事をします」

 その夜、百合は母に監督の話を伝えた。母は「百合の好きなようにしなさい」と言ってくれたが、百合は大阪で就職となれば母がこの家に一人きりになってしまうのが心配だった。でも正直な気持ちとしては監督の勧めてくれた会社へ入り、しっかり指導を受けたいと思っている。多少の迷いはあったが、松中電器株式会社の面接を受けることにした。
 松中電器はテレビや冷蔵庫、洗濯機など家電を製造していて、その傍(かたわ)ら、色々なスポーツの実業団チームを持っている。もちろん陸上競技にも力を入れており、たくさんの名選手を生み出している会社だ。

 翌日、監督に母と相談した結果を伝えた。
「就職の件ですけど、松中電器でよろしくお願いします」
「そうか、それは良かった。それじゃ話を進めるぞ。いずれ入社試験があると思うが、筆記試験は一般常識程度の問題だから大丈夫だろう。それよりも面接試験のほうだが、私の紹介もあるのでまず問題はないと思うが、君の面接に対する態度や受け答えが悪いとダメな場合も考えられるので、少し注意点を話すから聞きなさい。まず部屋へ入ったら浅く一礼をしたあと、名前を名乗って「よろしくお願いします」と言うこと。そして面接官に「座ってください」と言われてから着席すること。面接が始まったら顔を見てしっかりとした受け答えをしなさい。君が松中電器を志望した動機を聞かれると思うので、あらかじめ返答を考えておきなさい。私の話は以上だ」

 監督の話を母に言ったら、母は喜びながらも済まなさそうな顔をして言った。
「大学へ行かせられなくてごめんよ」
「私はマラソンがやりたいの。大学でなくても実業団のチームだったら素晴らしい監督やコーチがいるので、私の力を引き出してもらえると思うわ」
 娘はそう言うが、金銭面で自分を気遣ってくれるのだろう。その気持ちが嬉しかった。真理子も会社勤めはしているが、給料は決して多くない。幸い他界した夫の生命保険が下りたので生活に困ることはなかったが、娘が大学へ行くとなると多額の費用が掛かるので、大変なのは確かだ。
 就職の話はそれで終わったが、母は急に話題を変えて言った。
「この話は、先日家に来られた武田さんのことを指しているわけではないけど、もし好きな人ができたら交際してもいいのよ」
 百合はびっくりして母の顔を見つめた。急に何を話そうとしているのだろう?そんな百合の顔を見て母は話を続けた。
「あなたは将来マラソン選手になりたいのでしょう。そして出来ればオリンピックに出場するのが夢なんでしょう。この話は男も女も一緒だけど、好きな人ができるとその人のために何かをしてあげたい、その人のためだったら何でも頑張れる。そう思うようになるわ。自分の持っている百パーセントの力が百二十パーセント出せるようになると思うの。それはマラソンにも当てはまって、きっと良い結果に繋がると思うわ。だからお母さんは百合に好きな人ができたら、よほどの人でない限りお付き合いすることに反対はしない、いえむしろ喜んで賛成するわ」
 百合は黙って話を聞いていた。今の話はもしかしたら母が若かった時の経験を語っているのかもしれない。確かにまだ誰とも交際したことがない私でも、母の話には(なるほどそうかもしれない)と理解ができた。母は最初に「武田さんのことを指して話すわけではない」と言ったが、彼のことを前提に話しているようにしか受け取れなかった。

 一週間後、担任教師から「面接の日が決まった」と連絡があった。面接は当然のことながら、大阪にある会社まで行かなくてはならない。母に話すと「一緒に行こうか」と言ってくれたが「一人で大丈夫だから」と言って、母の申し出を断った。

 松中電器面接の当日がやってきた。開始時間は午前十一時とのことで、遅くとも十時半には会社へ着けるように行きたい。電車の時間表を見ると、米原(まいばら)発、八時四十九分で茨木着、十時〇五分の新快速電車があり、その電車に乗れるように家を出た。高月駅から電車に乗り、米原駅で乗り換えて茨木市へ向かった。予定通りに着くと駅前からタクシーに乗った。会社まではタクシーで十分ほどの距離だと聞いていたので、少し早く着くが遅れるよりは良い。

 会社の前でタクシーを降りて入り口の守衛所で訪問の理由を話したら、すぐに社内の待合室へと案内された。
 しばらくすると一人の男性社員が来て「吉村百合さんですね」と名前を確認してから「履歴書を預かります。時間になったらお呼びしますので、もうしばらくお待ちください」と言って姿を消した。
 十一時前に今度は女性社員が来て「お待たせしました。今から面接を始めますので一緒に来てください」と言って、面接室へ案内された。部屋に入り軽く一礼をすると、面接官の一人が話しかけた。
「どうぞ、前に来てその椅子に座ってください」
 言われたとおりに進んで椅子の横に立つと、面接官に向かって住所と名前を言って「よろしくお願いします」と、頭を下げてから腰掛けた。面接官の二名もそれぞれが自分の名前と役職を告げた。一人は人事課長で、もう一人は陸上部の監督だった。最初に人事課長から質問があった。
「今日は遠い所からご苦労様です。あなたは陸上競技をされていると聞きましたが、数ある会社の中でこの松中電器を選ばれた理由をお聞かせ願いますか」
 高校の監督が言っていたとおりの質問だった。

「はい、私は子供の頃から走るのが好きで、中学・高校と陸上部に入っていました。そこでこれからも陸上競技を続けたいと思っています。松中電器さんには過去も現在も数多くの名選手がおられることを知っていました。なぜそんなに多くの名選手が生まれるのか私なりに考えますと、陸上部の監督さんやコーチの方々が、選手にしっかりと指導をされているからではないだろうかと思いました。そんな素晴らしいスタッフがおられる会社なら、私のようなものでも一流選手に育てていただけるかもしれないとも思いました。私の夢はマラソンでオリンピックに出場することです。あまりにも大きな夢ですが、その夢がもし叶うとすれば、その第一歩はこの松中電器さんに入社して指導をしていただくことが、オリンピックに出場できる一番の近道ではないだろうかと考えました。それが志望の動機です」

「分かりました。あなたの返答を聞きまして、しっかりした考え方がよく伝わってきました。それと言葉遣いも丁寧で、受け答えもしっかりされていましたね。良い返答だったと感じました。私からの質問はそれだけです。監督さんからは何か質問がありますか?」

「はい、これは質問ではありませんが、少しだけ話をさせてください。吉村さんはすでに聞いておられると思いますが、あなたの高校の監督さんと私は大学時代の同期生です。先日彼から電話があり『うちの高校に陸上のいい女子選手がいるから指導してやってくれないか』と言われました。私は人事権がないので即答はできませんでしたが『取り敢えず人事課長に話してみる』と言って、電話を切りました。そして翌日、ここにおられる人事課長に話したところ快く引き受けてくださり、今日の面接に至ったわけです。私も吉村さんの志望動機を聞きまして高校時代の実力はともかく、あなたの前向きな姿勢を大変評価しました。後ほど人事課長と相談しますが、私としては今の気持ちが変わらずに入社していただけることを願っています」

「ありがとうございます。私も高校で監督さんとの間柄はお聞きしました。私の件で色々と御迷惑をお掛けしまして申し訳ありませんでした」
「いえいえ、謝っていただくことではありません。これも私の仕事の一つです。良い人を採用することによって、会社にも貢献できるのですから」
「そう言っていただけると私も気が楽になります」
「もしこの会社に入社されると寮生活になりますが、それは問題ありませんか?」
「はい、私の父は早くに亡くなりましたが、母は『家のことは気にしないで大阪で頑張りなさい』と言ってくれました」
「そうですか、それなら結構です。それじゃ課長と相談しまして、結果を学校のほうに連絡します」
 その言葉を最後に面接が終了した。それから筆記試験を三十分ほど受けて、今日の試験が終わった。守衛所で帰りのタクシーを頼んでもらい、百合は帰宅の途についた。

 それから三日後、松中電器より採用内定の連絡があり、それを聞いた母はとても喜んでくれた。百合は武田にも報告をしたいと思ったが、彼のことは殆ど知らないので連絡の方法もなかった。先日私の家で会ってから、もう三週間近くが経つ。時折思い出しては、気になっていたが、就職や部活のことで慌ただしいまま日が過ぎてしまった。
     
        五   始まりの予感
 武田と百合が最後に会ってから、すでに三週間が過ぎようとしていた。その間、かなりの頻度で彼女のことを考えていた。特に考えていたのは、今度会う方法だ。そうして導いた結論は、彼女の家で昼食をご馳走になったお礼として、何か箱菓子でも持って訪れるという案が良いのではないかと思った。電話番号も分からず連絡が取れない状態なので、直接家に行くしか会う方法がなかった。

 迎えた十月最後の土曜日、武田は行動に出た。今日の彼女は午前中だけ部活があるはずなので、家に行っても留守の可能性が高い。午後のほうが会える確率が高いだろう。そう思い午後二時に伺うことにした。何を買うか迷ったが、女性二人の家族なのでショートケーキを買った。
 高月方向へ車を走らせながら、もし彼女が留守だったらどうしようと考えていた。そのときはケーキを家に持ち帰り、家族に「給料を貰ったから、みんなで食べようと思って買ってきたよ」と言って、ごまかしておこうと思った。しかしそれは武田の取り越し苦労だった。

 百合の家に着いて玄関のチャイムを鳴らすと、家の中から「はーい」と声が聞こえ、開いた玄関の中に母の顔が見えた。
「こんにちは」
「あらまあ武田さん、こんにちは」
「百合ちゃん、武田さんよ」
 母が呼ぶと、彼女は驚いた顔をしながら出てきた。

 武田は百合に挨拶をすると、二人に向かって言った。
「今日は先日のお礼に伺いました。これ良かったら食べてください」
 そう言いながら買ってきたばかりのケーキを母に渡した。
「まあどうしましょう、ありがとうございます。さあ上がってくださいな」
 座敷に入り、座った武田は百合に謝った。
「連絡もしないで急に来て済みません。先日こちらへ伺った時に電話番号を聞こうと思っていましたが、聞くのを忘れてしまって連絡の方法がなく、いきなり来てしまいました」
「それは構いません。留守かどうかは分かりませんけど、いつでもいらっしゃってください」
 ほどなく母が三人分のコーヒーを入れて部屋に入って来た。武田は先ほど彼女に話したことを母にも言って、突然の来訪を詫びた。
「そんなこと気になさらずに、いつでも気軽に来てください。百合ちゃん、武田さんに電話番号を教えてあげたら」
 母があまりにもあっさりと言ったので、百合は驚いた。

 家の電話番号を聞いた武田は携帯電話に登録をしたあと、この際だからと思い彼女に聞いた。
「百合ちゃん、もし差し支えなかったら携帯電話の番号も教えてもらえませんか?」
 武田は話しながら自分でハッとした。彼女の名前を思わず「百合ちゃん」と呼んだのだ。母が百合ちゃんと呼んでいたので、それを聞いてつい言ってしまったのだが、別になんの違和感もなく自然に口から出たのだった。
 百合はそのことを特に気に留める様子もなく母の顔をチラッと見て、うなずいたような顔をしたので「ちょっと待ってください」と言って、ポケットから携帯を取り出すと番号を教えた。武田は先ほどと同じように自分の携帯に登録をしてから、彼女の携帯に試験の電話をした。
「そこに表示されているのが僕の番号です」
 母は傍らで二人のやりとりを見ながら、ニコニコと笑っている。電話の話が終わったあと、母が武田に話し掛けた。
「この子の就職先が決まりましたの。百合、教えてあげて」
 彼女はニコニコしながら会社の名前や所在地を説明した。
「学校の先生は『大丈夫だから安心していなさい』と言ってくださったのだけど、決まるまでは不安な日々を過ごしていました。でも先日、内定の連絡を会社からいただきました」
「そうですか、それはおめでとうございます。それじゃ何かお祝いをしないと、何がいいかな?」
「いいえ、そんなに気を遣わないでください。今の言葉だけで充分です」
 彼女は当然のように辞退したが、本当に何かお祝いをしようと考えていた。あれこれと話していたら時間はもう四時を過ぎていたので、そろそろ帰ることを考えていた矢先、そんな武田の心を見透かしたかのように母が言った。
「もし良ければ夕食を一緒にいかがですか?」
 もちろん遠慮したが、彼女も同じように「是非そうしてください」と言いながら、嬉しそうに背広の裾を掴んで引き留めるので、断りづらくなり御馳走になることにした。
「ではお言葉に甘えさせてもらいます」
 母は「たいしたものはできませんけど食べて帰ってください」と言いながら、キッチンへ向かった。
 武田は家に電話をして夕食を食べて帰る旨を母に伝えた。何も知らない母は友人と外食するくらいに思っているのだろう。「はい、はい」と言って、電話を切った。
 
 三人で夕食を食べながら、武田は二人に話し掛けた。
「先ほど話していた就職先の件だけど、松中電器は僕の勤めている日本硝子の製品を納めている会社です。つまり日本硝子の製品を買っていただいている得意先なのです。主に液晶テレビの画面に使われている硝子を納めています。液晶板硝子といって、硝子の厚さは一ミリにも満たない本当に薄い硝子です。他にもプラズマテレビ用のプラズマ板硝子も納入しています。そのガラスの厚さは一、八ミリです。どちらにしても少し硬い物が当たれば割れてしまうかもしれないので、お家(うち)のテレビも注意してください」
「それじゃあ私と武田さんは個人的な繋がりはもちろんあるけど、会社間での繋がりも少しはあるということね」
 百合がそう言ったので(なるほど)と思った。
「まあそう言われてみると、そうかもしれないね」
夕食を終えると時間も七時前になっていたので、武田は御礼を言って吉村家
を後にした。
 母が作ってくれた料理はもちろんおいしかったが、それ以上に彼女と一緒に食べたことで、より一層おいしく感じたのかもしれない。ついさっき別れたばかりの彼女なのに、もう次に会うことを考えていた。

 武田が帰ったあと、吉村家では母が百合に話し掛けていた。
「武田さんって、いい人みたいね」
 ケーキの効果なのか、他の理由からなのか分からないが、漠然とした言い方で褒めていた。それともそう言って、百合に何かを話させようとしているのだろうか?
「こうやって家に来られるのは、あなたのことを好きなのかしら?」
 母がダイレクトに言葉を発したので、百合は返答に困り黙ったままでいた。
「私が武田さんのことをいい人って思うのは、私が家にいるのが分かっていながら、こうやって家に来て会っているでしょう。私の知らない所で二人がこそこそと会うなんてことをしないから、そう思ったのよ」
 母はそう言うが、私に会う方法がないから家に来るしかなかったのだと思った。だから電話番号を聞いたのだ。しかし彼の訪問は本当に先日のお礼だけに来たのだろうか?それとも私に会いたくて来てくれたのか?それは分からなかった。それよりも百合は、話の中で「百合ちゃん」と呼んでくれたのが嬉しかった。そのときは気付かないふりをしていたが、内心ドキッとするものがあった。その呼び方が、彼をより一層身近に感じた瞬間でもあった。母と話していると自分の心の奥底まで見透かされそうな気がしたので「お風呂を入れるわ」と言って、その場を離れた。百合はお風呂の中で彼の顔を思い浮かべながら、会うたびに惹かれていくのを感じていた。(武田さんは私のことをどう思っているのだろう?これからどうなっていくのだろう?)何かが始まろうとしているのか、それとも単なる友で終わるのだろうか?

        六  初めてのデート
 今日から新たな週が始まる。武田はいつものように会社へ出勤した。その日の昼休みに食事を済ませたあと、友人の横井に「ちょっと話があるから聞いてくれないか」と誰もいない所へ誘い、百合とのこれまでの経過を話した。横井は「ん,ん、そうか、そうだったのか」と、何度も頷きながら話を聞いてくれた。

 話を聞き終わると武田に聞いてきた。
「おまえは彼女のことをどう思っているんだ?」
「正直言って、かなり好意を持っているよ。まだ恋だの愛だのと言えるほどではないけど、出来れば交際したいと思っている」
「その子は、おまえのことをどう思っているのか分かるか?」
「まだ分からないが、少なくとも嫌われてはいないと思う」
「交際は申し込まないのか?」
「昨日家に行ったとき、電話番号を聞いたから今度は電話で誘ってみて、会ってくれるようだったら交際を申し込もうと思っているよ」
「電話番号を教えてくれたのか、それだったらまんざらでもないかな」
「お母さんに言われて仕方なくかもしれないので、素直に喜んでも良いのかどうかだな」
「とにかくうまくいくことを祈っているよ」
「ありがとう、頑張るから旗でも振って応援してくれよ。横井に何かあれば僕も協力するからな」
 武田は少し照れくさい気持ちがあったので、茶化し気味に返事をした。

 それと「今日この話をした理由だが、彼女と知り合えたのは横井のお陰だから、彼女とのことを知っていてほしかったからだ」と説明した。ただし近所の秋岡由香には内密にしてくれるように言った。今の自分の気持ちが秋岡から彼女の耳に入るのだけは避けたかった。

 季節は秋から初冬へと移り変わろうとしている十一月の半ば、武田は思い切って百合に電話をした。平日の夜だが、彼女の携帯に掛けるより母親にも分かるほうが良いだろうと思い、家の電話に掛けた。電話にはやはり母が出た。
「こんばんは武田です。先日は急にお邪魔しまして、また夕食までご馳走になりましてありがとうございました」
「まあ武田さん、こちらこそケーキを頂きましてありがとうございました」
「あの~、すみませんけど、百合さんはご在宅でしょうか?」
「はい、今呼びますからちょっと待ってくださいね」
 
 電話の向こうから「百合ちゃん、武田さんから電話よ」と、母の呼ぶ声が聞こえる。するとすぐに彼女が電話に出た。
「こんばんは、百合です」
「こんばんは、先日は夕食をご馳走になりありがとう」
「いいえ、たいしたお構いもできなくて」
「実は今度の土曜日ですけど、何か用事はありますか?」
「土曜日ですか、学校の陸上部はもう引退したんですけど、これからも陸上を続けるので体がなまらないようにと思って、一応自主トレで一・二年と一緒に練習を続けているので午前中だけ練習に行きます」
 百合は十一月三日に滋賀県高校駅伝大会に出場したが、残念ながらチームとして上位に入れなかったので、その大会を最後に引退という形になってしまったのだ。
「じゃ午後だったら大丈夫ですか?」
「はい、午後は別に何もありません」
「正直に言うと会って話がしたくて電話しました。もしよければ部活終了後、お昼でも食べに行きませんか?」
「少し待ってくださいね」と百合が言ったあと、電話からオルゴールの音色が流れてきた。多分、母親に何か話しているのだろう。しばらくするとオルゴールの音が消えた。
「もしもし、お待たせしました。武田さんのお誘い、一応母の了解をもらっておきました」
「お母さんは、どう言われましたか?」
『好きなようにしなさい』って返事でした。電話の内容は後から聞かれるので事後承諾でも問題ないのですけど、先に言っておくと気が楽ですから」
「迷惑かけて済みません。それじゃ十二時丁度に木之本駅で待ち合わせということで、どうですか?」
「分かりました」
「じゃそうしましょう。何か食べたいものを考えておいてください」
「はい、おいしいものを考えておきます。ただし武田さんの財布が軽くなるかも?」
 百合の口から珍しく冗談が飛び出したので気分が良いのかもしれない。
「それは大変だ。その前に銀行へ行ったほうがいいかな」
 武田も冗談で返したので、二人とも電話口で楽しそうに笑った。
「それじゃ今日はこれで、お母さんによろしくお伝えください」
「はい、わざわざ電話ありがとうございました」
 百合はまだ十八歳なのに、大人顔負けのしっかりとした受け答えができる子だ。母の教育が行き届いているのだろう。
 武田は誘いを受けてもらえてホッとした。断られたらどうしようと考えていたからだ。

 百合の家では電話のあと、母が笑いながら言った。
「武田さん熱心ね、お誘いがくるのは百合のことが好きかも?あなたもお断りしないということは、まんざらでもないみたいね、それとも仕方なく受けたの?」
 本心から言えば喜んで受けたのだが、その本心を母に言うには恥ずかしいと思う気持ちがあった。
「仕方なくというわけでもないけど、断る理由もないからお受けしたの」
 母は「そうなの」と言って、今度は含み笑いをしていた。どう言っても心の内は母に見透かされているだろう。

 約束の土曜日、十二時に会った二人は長浜市内のレストランへ向かった。昼時とあって店はそれなりに混んでいたが、空席はあった。注文をして、待っている間に百合が聞いてきた。
「先日の電話だけど、どうして家の電話に掛けたの?」
 武田はその質問に対して指を三本立て、彼女に見せながら答えた。
「その理由は三つあります。まずは夕食のお礼を、お母さんに言いたかったこと。二つ目は百合ちゃんのお母さん・・・あ、ごめんね、君のことを百合ちゃんなんて呼んでしまって、馴れ馴れしかったね」
「その呼び方で構いません。私、自分の百合っていう名前が好きです。だから百合ちゃんと呼ばれるのが、とても嬉しいの」
 そう言った彼女の顔は本当に嬉しそうだった。
「じゃあこれからは百合ちゃんと呼ばせてもらっていいかな?」
「そう呼んでください。その代わり私も武田さんのことを、明人さんと呼んでもいいですか?」
 武田は照れくさそうに頭の後ろに手をやりながら言った。
「なんだか恥ずかしいような嬉しいような、じゃあお互いにそうしましょう。それで先ほどの話の続きだけど、二つ目の理由として、お母さんは僕という男の存在をすでに知っているでしょう。それなのに君の携帯電話に掛けて、内緒で会ったりするのは嫌だったからです。もっとも百合ちゃんが、お母さんに僕から誘われたことを報告すれば、内緒にはならないけど。ただ報告をしたのかどうかは僕には分からないのだから、僕にとっては内緒と同じことになるからね。君のお母さんには僕と会うことを知っていてほしかったのです。そして最後の一つだけど、百合ちゃんはまだ高校生で未成年だから、お母さんも娘の行動はとても心配だろうし、お父さんが亡くなられてからは一人で娘さんを一人前に育てる責任を感じておられると思うので、君の日頃の行動は出来る限り知っておきたいはずです。もちろん百パーセント把握できるものではないけれど、せめて僕と会っていることくらいは知ってもらっているほうが、お母さんも安心できると思うから、家の電話に掛けたのです」
 百合は話を聞いて(この人は私のみならず、母にまで随分気を使ってくれているのだ)と感じた。今の話だけでも彼の人間性というものがよく分かる。
「百合ちゃん、今から少し付き合ってくれないかな?買いたい物があるから」
「はい、今日は時間の許す限り、お供します」
「ありがとう、じゃあ行こうか」

 二人はレストランを出て、車で五分ほどの所にある五階建ての建物に入った。ここは総合スーパーで色々な商品を売っていて、ほしい物があればここへ来ると、ほぼ手に入る。商品もデパートのような高級品ではないが、決して安っぽい店ではないので、多くの人から愛されているお店だ。

 車を立体駐車場の三階に停めて中に入った。
「明人さん、何を買われるのですか?」
「腕時計です」
 明人はまっすぐ時計売り場に行くと、百合に言った。
「腕時計だけど、君の就職のお祝いとしてプレゼントさせてくれないかな。ただ腕時計といってもピンからキリまで値段があるので、一応僕の甲斐性に合わせて一万円から二万円の間で決めてもらいたいのだけど」
 百合は突然そう言われたので、びっくりしてどう答えていいのか返答に窮した。
「最初からプレゼントの話をすると、君はきっと断ると思うからこういう方法にした訳です。どうか僕の気持ちを受けてください」
 少し迷ったが、ここまで来て断るのは却って彼の気分を害することになると思い、ありがたく受けることに決めた。うまく彼の術中にはまってしまったようだ。
「ありがとうございます。じゃ遠慮なく頂きます」
 時計を選び始めた百合は、しばらく見てから好みの物を数点選び、店員さんにショーケースから出してもらって、その内のひとつに決めた。

 店を出てからは特に行くあてもないので、車を走らせ長浜の港へと向かった。琵琶湖でも眺めながら、少し話でもしようかと考えていた。
 港に着くと白い色をした一艘の船が湖岸に浮かんでいた。どうやらこの船は竹生島を往復する船のようだ。近くには乗船券の売り場もあり、観光客の姿も見える。
 その光景に気付いた百合が言った。
「あの船は竹生島行きの船かしら」
「どうもそうみたいだね」
「初めて明人さんに会ったとき、竹生島の話をしてくれたのを思い出したわ。一度竹生島へ行って、あなたの話していた幸せ願い達磨さんに願い事をしたいわ」
「それじゃ近い内に、一度行こうか?」
「本当、行けたら嬉しいわ」
「よしそうしよう、それじゃあ何時(いつ)がいいかな? 十二月はかなり寒いだろうし、一月・二月はもっと寒くて雪も降りそうだね・・・・じゃあ来年の君の高校の卒業式が終わったあと、就職するまでの間で三月の半ば頃に行こうか?まだ少し寒いかもしれないけど、就職してからだと日程的に難しいだろうから」
「そうですね、私も三月のほうがいいと思います」
「じゃそうしましょう」
「分かりました。楽しみにしています」
 しかし来年の三月までは、まだ四ヶ月ほどある。それまで二人のこういう関係が続くかさえも分からない。
 あれこれと話している間に一時間ほどが経ち、明人は「あまり遅くならない内に帰りましょうか」と言って、車のエンジンを掛けた。

 国道八号線を北に向かいながら、途中にある洋菓子店の近くまで来たとき、明人が「ちょっと買い物がしたいので、車の中で待っていてください」と言って、一人で店の中へ入っていった。
 五分ほどすると買った袋を手に持ち、戻ってきた。「じゃ、帰りましょう」と言って、再び車を走らせ百合の家へと向かった。
 その道中、明人は運転しながら考え事をしていた。それは彼女に「僕と交際してください」と言うべきか否か、迷っていたのだ。ただ、今日申し込めばプレゼントした時計と引き換えに交際を強要するみたいに思えて、結局申し込まないことにした。
 家の近くまで帰って来たら、百合が「少し家に寄ってください。お祝いを頂いて、このまま帰しては私が母に叱られてしまいます」と言うので、少し寄らせてもらうことにした。
 家に入ると彼女は腕時計をプレゼントしてもらったことを母に報告した。母は玄関先で頭を下げながら、お礼を言うと「どうぞ入ってください」と部屋へ招き入れた。すぐに帰るつもりでいたのだが、内心ではもう少し彼女と一緒にいたい気持ちがあったので、素直に入った。
 入ってすぐ、母に「これ、お土産です」と言って、買ったばかりの袋を渡した。百合は先ほどの買い物は母に買った物だったのかと、ようやく気付いた。母は彼の気持ちに少し感動したような顔をして「まあどうしましょう、私にまでお土産を頂いて、本当に申し訳ありません」と言って、また頭を下げた。
 しばらく三人で話をしたあと、明人は帰ることにした。ゆっくりしていると、今日も「晩御飯を食べて帰ってください」と、母が言いかねないからだ。来るたびにご馳走になるのは気が引けた。
 挨拶をして家を出ると、百合が見送りにきて言った。
「今日はありがとう、本当に楽しかったわ」
「僕も楽しかったです。あの、また会っていただけますか?」
「土曜の午後か日曜日なら、いつでも大丈夫です」
 そのあと、少し躊躇(ちゅうちょ)して、話を続けた。
「電話ですけど、私の携帯に掛けてくださっても構いません。母には『明人さんに会います』と、はっきり言いますので」
「じゃあ次からはそうします。なるべく夜の七時から九時の間に掛けます」
 明人は別れの挨拶をして車に乗った。百合は走り出した彼の車を、見えなくなるまで見送っていた。

       七   男と女
 百合が家に入ると母が待ちかねたように、ニコニコと笑いながら「百合ちゃん」と言って、話し掛けてきた。母は名前を呼ぶとき「百合」と呼んだり「百合ちゃん」と呼んだりする。すこぶる機嫌の良いときは、必ず「百合ちゃん」と呼ぶのだ。本人は気付いているかどうか分からないが、昔から呼び方で母の機嫌が分かる。今日の母はとても機嫌が良いのだ。多分、明人から百合へのプレゼントと、自分が貰ったお土産のせいだろうと思った。母はもう一度「ねえ百合ちゃん、武田さんは本当によく気がつく人だわね」と言ったあと、ほんの少し間をあけて「彼は間違いなくあなたのことが好きなのよ」と、単刀直入に言った。母の言葉は少し恥ずかしかったが、内心嬉しい言葉でもあった。母は娘のことが気になるのか、矢継ぎ早に聞いてきた。
「あなたは彼のことを、どう思っているの?」
「いい人だと思っているわ」
「それだけ?正直に言いなさいよ」
「今はまだ自分の気持ちに確信が持てないの。たぶん何度か会っていく内に、はっきりすると思うわ」
 たとえ母であろうと、いや母だからこそ正直に言うのが恥ずかしくて「彼を好きになった」と、百合は言えなかった。
「それで次はいつ会うの?」
「まだ決めていないわ」
「またお誘いの電話が掛かってくるのね」
 母は独り言のように呟くと、夕食の支度にキッチンへ向かった。

 確かに母の言うように、彼は私に対して親切にしてくれる。その親切がどういうたぐいのものなのか。普通に考えれば好意を持ってくれていると思ってもいいだろう。ただ、今まで男性との交際がなかったので、男性が女性に対して親切にするのは友達程度でもするのかよく分からなかった。彼も私のことは単なる遊び相手なのかもしれない。交際でも申し込まれない限り、心の中は分からない。あまり浮かれていると、後々状況によってはショックを受けることになるので、遊びや食事に誘われたくらいで浮かれないようにと、自分に言い聞かせた。

 百合の家を後にした明人は帰ると自分の部屋へ入り、彼女のことを思い出していた。今日のデートを「楽しかった」と言って、また会ってくれる約束をしてくれた。「携帯電話に掛けてもらってもいい」とも言ってくれた。そんな言葉の端々から推測すると、彼女も僕に好意を持っていてくれると捉えても、良いのではないだろうか。今日は交際を申し込まなかったが、次に会ったら申し込んでみようか?初めて会った時から数えて次で五回目になる。決して早すぎることはないと思うが、申し込んで断られるのが一番怖い。僕のことをただ単に、やさしいお兄さんのような存在か友達程度にしか思っていないかもしれない。もしそうだったら交際という枠にはめ込むようなことを言うと、反対に離れていってしまうのではないだろうか?ただ男と女の間で友達関係というものが成り立つのかどうかだ。若い男女がいくら仲良くしていても、恋愛感情がなければ学生ならクラスメートとか先輩や後輩、あるいは部活の仲間である。会社では同じ職場の同僚、あるいは上司や部下などと言う。それらの中には友人として、ごく一般的な男女の付き合いをする人もいるだろうが、友達とは言わないと思う。同姓同士なら男女とも友達としての関係が成り立つのは当然だと思うが、人それぞれ考え方が違うので人によっては異性の間でも、友達関係は成り立つと言う人もいるだろう。ただ自分の考えとしてそう思っているだけだ。同性同士の友達なら、お互いが誰かと結婚しても、それこそどちらかが死ぬまで連絡を取り合ったり、会って話をしたりすると思うが、異性間では友達と思っていても、ある時期が来たら何らかのきっかけで離れていくと思う。どちらかが、あるいはお互いが他の人と結婚しても、死ぬまで友達として付き合いを続けている男女なんて殆どいないだろう。自分は彼女に好意を持ち、友達などと思っていないから自分の都合の良いほうにばかり考えてしまうのだが、果たして彼女は僕のことをどう思っているのか気掛かりだ。まずは次に会うことを考えなければならない。次はいつ会うのか?また何か会う理由を付けなければならないのか?ただ単に「何日の何曜日に会ってください」とだけ言えばいいのか。若い男女が会うことに理由がいるとは思わないが、まだ正式に交際もしていない立場では、電話をするだけでも勇気がいる。会おうと思うと「食事でもどうですか」とか「ドライブでも行きませんか」など、何か誘う口実を付けたほうが誘いやすいように感じる。会うにしてもある程度は間隔を空けたほうが良いと思うので、二週間後の十二月初めくらいに誘おうと決めた。
 その二週間は、明人にとって長く感じられた。今日電話して「明日会ってください」と言うのもどうかと思うので、土曜日から遡って三日前の水曜日に掛けることにした。

 電話をする予定の水曜日がやってきた。時間は夜の七時を少し回っている。携帯を持った手が、心なしか少し震えている気がした。心臓もドキドキと高まっているようだ。このまえ掛けたときはそれほど緊張しなかったのに、今日はなぜか緊張がひどい。しかし掛けると決めたからには度胸を据えなければならないと思い、勇気を出して発信ボタンを押した。電話の呼び出し中さえもドキドキだ。
 
 彼女はすぐ電話に出た。
「こんばんは、明人です」
「こんばんは、百合です」
「元気にしていますか?」
「はい元気です。明人さんはどうですか?」
「僕も元気です。最近寒くなってきましたね」
「ええ、もうすぐ冬ですね」
「風邪を引かないように気をつけてください」
「ありがとうございます」
「あの~、今度の土曜か日曜ですけど、何か用事はありますか?」
「今のところはいつものように、土曜日の部活だけです」
「それじゃ、どちらかに会っていただけませんか?」
「土曜なら午後で、日曜だったら午前中からでも構いませんけど」
 明人は少し考えて(日曜だと長時間会えるな)と思って、言った。
「日曜日の十時でどうですか?家まで迎えに行きますから」
「分かりました」
「行き先ですけど、少し遅いかもしれませんが紅葉を見に行こうと思っています」
 紅葉は本当に遅いかもしれないが、誘う口実を紅葉とした。
「それで紅葉をバックに、百合ちゃんの写真を撮りたいと思いまして」
「写真ですか、ちょっと恥ずかしい気もしますけど」
「百合ちゃんはきれいだから、紅葉に映えると思いますよ」
「明人さんはお世辞が上手ですね」
「いいえ、僕は生まれてこのかたお世辞なんて一度も言ったことはありません、というのは嘘ですけど、でも君がきれいなのは本当のことですよ」
「ありがとうございます。半分だけ信じます」
 百合はそう言って笑っていた。
「じゃあ今度の日曜日で決まりということで」
「はい、十時ですね」
「そうです。ではお互いに風邪を引かないように注意して元気で会いましょう」
「明人さんもお元気で」
「じゃ今日はこれで、おやすみなさい」
 明人は電話を切ると、は~と大きく息をついた。やっと緊張から解きほぐされたのだ。

        八   決断
 迎えた十二月最初の日曜日、明人は約束の時間に百合を迎えに行った。少し緊張気味に玄関のチャイムを鳴らし、出てきた彼女と母に挨拶をした。母は二人が車に乗って出発するのを見送ってくれた。
 幸いにも好天に恵まれ、硝子越しの車内は暖かく絶好のドライブ日和になった。今日の行き先を事前にインターネットで調べた結果、滋賀県の東近江市にある永源寺に決めた。ここからだと一時間少々で行けるはずだ。初めて行く所だが、車のカーナビをセットしているので道に迷うこともなく、スムーズに目的地に到着した。

 駐車場に車を停めて入り口へ向かうと、道の両側には、もみじの木がたくさんあった。こちらも天気が良くて多くの観光客で賑わっている。若干遅いかもしれないと思った紅葉も、山もみじの木はまだ色付いていたので、とてもきれいだった。二人は歩きながら撮影スポットを見つけては、持ってきたカメラで写真を撮った。紅葉をバックにカメラから覗く彼女はとても可愛かった。一度だけ見知らぬ観光客の人に頼んで、二人一緒に撮ってもらった。明人はどうしても二人一緒の写真が一枚ほしかったのだ。一番奥まで行ったら、後は来た道を引き返すのだが、明人は手を繋いで歩きたいと思っていた。しかし正式に交際をしていない今は、彼女の気持ちも分からないので、手を繋ぐという行為が彼女の気持ちにどんな影響を与えるか怖いので、そこまでの勇気が出なかった。

 駐車場へ戻る道路沿いに御土産の店があったので、二人はそれぞれの家族に御土産を買って帰ることにした。永源寺は蕎麦(そば)と、こんにゃくが有名で、それを家族の人数に合わせて同じ物を買った。

 車に乗り時計を見たら十二時半を回っていた。お腹も空いたので道の駅【あいとうマーガレットステーション】に立ち寄り、昼食を摂った。この道の駅は一年を通じて色々な催し物を行っている。季節ごとに咲く花を見るだけでなく、花摘みもさせてもらえる。また季節ごとに採れる果物の販売もしていた。
 売店に御土産が売っていたので明人は彼女にも何か買ってあげようと思い、携帯電話のストラップを買った。
 車に乗ってから買ったばかりのストラップを袋から取り出して「これ、ふたつ同じ物を買ったから、ひとつずつしよう」と言って渡した。百合は驚いたのか感激したのか、言葉に表せないような顔をして明人を見つめ、しばらく間をおいてから「いつも頂いてばかりで、ありがとう」と礼を言った。武田は御礼の言葉より素直に受け取ってくれたことのほうが嬉しかった。「貰うわけにはいきません」などと言われたら、悲しくなる。

 時間は二時を過ぎ、今から帰ればゆっくり走っても三時半には着くだろう。
「遅くなるとお母さんも心配するだろうから、そろそろ帰りましょうか?」
「はい・・・」
 彼女は名残惜しそうに、小さな声で返事をした。

 実は今日のデートの日が決まってから、明人は心に決めていたことがある。それは今日、彼女に交際を申し込む決心をしていたことだ。車を走らせながらこんな大事な話はしたくないので、どこか途中で車を停めて話をしようと思った。そのことで家に帰るのが一時間程度は遅れるかもしれないが、それでも明るい内には帰れるだろう。
 国道八号線を北へ向かいながら彦根市まで帰ってきたとき、八号線を外れ湖岸道路へと向かった。そして彦根港に入り、ここで話をすることにした。
 八号線を外れたとき、彼女は(どこへ行くのだろう?)というような顔をしていたが、特に何も聞いてはこなかった。寒いので車のエンジンは掛けたままで暖房を少し弱くしながら、彼女が分からない程度に浅く深呼吸をして話し始めた。

「百合ちゃん、あなたに大切な話があります」
 百合は彼のその言葉に少なからず緊張したのか、真面目な顔で「はい」と返事をした。昼食が終わってから帰ってくる道中で、いつもだったらそれなりに話をする彼だが、今日に限っては殆ど話さないままここまで来たので、いつもと違う雰囲気を感じていた。今から話すことを運転しながら考えていたのかもしれない。
「遠回しに言わずに単刀直入に言うよ。僕と交際してもらえませんか?・・・今すぐに返事をしてくださいとは言いませんので、よく考えてから返事をください。それとこの申し込みは決して軽い気持ちで言っていません。簡単に言っているように聞こえるかもしれませんが、時間を掛けてじっくりと考えた結果の申し込みです」
 遅かれ早かれ交際の話はあるだろうと思っていたが、まさか今日あるとは思っていなかったので、心の準備ができておらず彼の申し込みをしばらく考えていた。自分の気持ちは以前から決まっているので、すぐにでも「はい、分かりました」と言いたいのだ。ただ女心としてはどうしても考えることがある。すぐに「はい」と言って軽い女と思われたりしないだろうか?反対に何日も返事を引き延ばせば、彼に不安感を持たせたまま日々を過ごさせることになる。気持ちは決まっているのに、返事を延ばすのは申し訳なく思う。
 
 百合はしばらく考えてから返事をした。
「ごめんなさい」
 明人はその言葉に一瞬(ああ、だめなのか)と思った。
「少し考えていたから返事が遅くなってごめんなさいね」
 彼女が何を言おうとしているのかよく分からなかったが、お断りの「ごめんなさい」ではなかったようだ。
「明人さんには今日まで何回かお会いして、食事やドライブに連れて行ってもらいました。あなたの気持ちは分かりませんでしたが、私はとても嬉しくてお誘いを喜んでお受けしました。もし私が明人さんのことを何とも思っていなかったら、誘っていただいてもお断りすると思います。先ほど言われた『決して軽い気持ちで言っていません』という言葉を信じます。あなたの単刀直入な言い方に比べて、私の返事は遠回しになってしまってごめんなさい」
 百合は言葉を選びながら、ゆっくりと話をしている。
『喜んでお受けします』と言ってしまえば、それでいいのでしょうけど、あなたが真剣に考えて申し込んでくださったのなら、私もよく考えて気持ちをしっかりと伝えておかなければいけないと思って、遠回しな返事になってしまいました。改めまして、これからもよろしくお願いします」
 百合は頭を下げながら話を終えた。

 明人は、彼女が本当に相手の気持ちを考えながら返事をするので、とても十八歳とは思えないなと感心すると同時に、交際の申し込みを受けてもらえたことが何より嬉しかった。そして今まで生きてきた中で一番緊張したのは、今しがた百合の話を聞いていた時間かもしれないと思った。
 彦根港を出て家までの車中では会話も弾んだ。二人は話をしていても、先ほどまでとは顔の表情も違ってみえる。嬉しいという気持ちが自然と顔に出ているのかもしれない。

 彦根から彼女の家まで三十分くらいだが、あっという間に着いた感じがした。百合が玄関を開けると母が迎えてくれた。
「お帰りなさい、疲れたでしょう。どうぞお入りになってください」
 母は部屋に入るなり百合に聞いた。
「今日はどこまで行ってきたの?」
「湖東の東近江市にある永源寺という所で紅葉を見てきたのよ、とてもきれいだったわ。そこでお母さんに御土産を買ってきたの。永源寺で有名な蕎麦とこんにゃくよ」
「じゃあ今から作りましょうか。武田さんも食べて帰ってください」
 母は明人が返事をする前に急いでキッチンへと向かった。百合は「私も手伝うわ」と言ったが「百合ちゃんはいいから、武田さんの話し相手になってあげて」と言って、申し出を断っていた。
「今から作る」と言っても、三人分は買っていないはずだからと思い、彼女に聞いたら、一緒に食べるつもりで多く買ったそうだ。やはりしっかりしている。
 明人は先日と同じように家に電話を掛け「夕食は外で食べるから」と母に言った。それを聞いていた百合は(私のことは、まだ家族に話していないのだ)と感じたが、男はすぐに話さないのだろうと思った。
 
 五時を少し過ぎた頃、母が「食事ができましたよ、今日はキッチンのテーブルで食べましょうか」と言って、百合に彼を連れて来るように促した。キッチンのテーブルを見ると蕎麦以外にも違う料理が並んでいた。母は二人が帰って来るまでに、夕食を明人にも食べてもらうことを前提に作っていたのだろう。
 食事をしながら三人の会話は弾んだ。彼女は買ってもらった携帯ストラップを母に見せていた。
 母は二人と話をしながら、今日は二人の表情がいつもと微妙に違うのを感じ取っていた。何かは分からないが、思い過ごしでなければデートの最中に何かがあったに違いないと思った。しかし、それを自分から聞くことはできなかった。
 食事が済むと母は後片付けを始めた。

 部屋に戻ると、明人は百合に話を持ち掛けた。
「僕たちが交際することを、お母さんに話すべきだろうか?」
「どうしましょうか?母は以前から私に『好きな人ができたら交際してもいいのよ』と、許しはもらっているのだけど」
「そうなの、それは少し安心したな。でも相手によりけりだろうけど」
「明人さんだったら絶対に反対しないわ。ただ報告するかしないかの問題ね」
「それじゃあ君さえ良ければ、僕からお母さんに許可をいただくよ」
「私は構わないわ。遅かれ早かれ話すことになると思うから。それに、お母さんは目ざといところがあるから、すぐに気付かれてしまいそうなの」
「だろうな、こうやって何度も家に来たり遊びに誘ったりしていて、お母さんから『交際しているの?』って聞かれたら『まだ交際はしていません』なんて答えるほうがおかしいよね。むしろお母さんに知っていてもらうほうが、これからも安心して誘えるしね」
 百合としても彼が帰った後で母にあれこれ聞かれるより、今の内に話しておくほうが楽だと思った。
 後片付けを終えた母は、三人分のコーヒーを盆に載せて部屋へ入ってきた。明人はコーヒーを一口飲んでから、勇気を出して母に言った。
「話したいことがありますので、聞いてもらえますか?」
「はい、何でしょう?」
「僕と百合ちゃんのことですが、今日永源寺へ行った帰りに交際を申し込みました」
 母は表情を全く変えないで、黙って聞いている。
「そして百合ちゃんは僕の申し込みを受け入れてくれました。でもお母さんに隠れて交際するのは嫌なので、お許しをいただきたいのです」
 明人はそこまで話したが、それ以上の言葉は頭に浮かばなかった。すると彼女も「お母さん、私からもお願いします」と言って頭を下げた。母はしばらく考えたあと、口を開いた。

「武田さん、私はあなたがとても良い人だと思っています。百合の交際相手として反対する理由は何もありません。ただこの子は来年の春、高校を卒業したら就職で大阪へ行きます。当然のことですが、通勤はできませんので会社の寮へ入ります。そうなればこちらに帰って来るのは、月に一度くらいになると思います。場合によってはもっと長い間、帰らないかもしれません。もう聞いていると思いますが、駅伝やマラソンの大会前だったりすると帰れない可能性もあります。あまり会えないという状況の中でも、うまくお付き合いを続けていくことができるのなら私は反対しません。若い男女の交際は、あまり会えないことによって色々な問題が起きるかもしれません。もっともそんなことを言ってみたところで、二人の先のことなど誰にも分かりません。少し厳しい言い方だったかもしれませんけど、本当に何か問題が起きたら二人で話し合って解決するという努力だけはしてください。それと今の話は別にして私の本心を言いますと、武田さんだったら安心してこの子を任せられると思っていますので、百合のことをどうぞよろしくお願いします」
 話し終わった母の表情は、とてもやさしい笑顔になっていた。そして確かに母の言うとおりだと思った。今までのようには会えなくなるだろう。しかし今はそんな先のことまで考えて、交際を申し込んだわけではない。自分の今の気持ちのままに申し込んだだけだ。彼女だって今の気持ちのままに返事をしたと思う。そんな先のことまで考えていないはずだ。陸上部の状況にもよるが帰って来られなければ、こちらから会いに行ってもいい。だから特に問題はないだろうと楽観していた。それよりも母に交際の許可をもらえたのが、なによりだと思った
 だが今から約一年後、自分の身に大きな問題が起こることを、今の明人は知る由もなかった。
 話も済んだので、明人は挨拶をして立ち上がった。彼女が車の所まで見送りに来たので「写真ができたら電話をします」と言って、吉村家を後にした。

 百合が部屋に戻ると母が話し掛けてきた。
「武田さんに、はっきりと申し込んでいただいて良かったわね」
どう返事をすれば良いのか分からず黙っていると、母は百合の顔を覗き込むように見ながら言った。
「あら、あまり嬉しくないようね」
「ううん、そんなことないわ。嬉しいに決まっているわ」
「それならいいのだけど、あまり嬉しそうな顔をしなかったから」
「お母さんの前でそんな嬉しそうな顔はできないわよ」
「なぜよ?」
「なぜって、だって恥ずかしいから」
「ふふふ、やっぱりそういうところはまだ高校生ね」
 そう言って、にこにこと笑いながら話を続けた。
「でも私にまで交際を認めてもらいたいなんて、随分と律儀な人なのね」
「そうなのよ、いつだったか私を誘うときに、家の電話に掛けてきたことがあったでしょう。私の携帯の番号も知っているはずなのに。それで会ったときに『なぜ家の電話に掛けたの?』と、その理由を聞いたのよ」
 百合はそう言って彼との会話の内容を母に話した。母はその話を聞くと、とても感激して「私まで武田さんのことを好きになりそうだわ」と、本気とも冗談ともつかない顔でそう言うのだった。
     
        九   突然に
 明人は家に帰るとパソコンの前に座り、永源寺で撮ってきた写真をパソコンに保存しながら、プリンターの電源を入れて画像をプリントアウトした。改めて写真で見る彼女を本当に可愛いと思った。しかし家のプリンターでは写真の色あせが早いかもしれないので、長い間きれいに残しておくには、やはり店でプリントしてもらったほうが良いだろうと思い、写真店に出すことにした。それが出来上がったら、彼女に電話をすることにした。

 次の日会社に出勤した明人は昼食後、横井に話があると言って休憩室に誘った。
「先日話した吉村百合さんの、その後のことだけど」
「おお、その話か」
 そう言って横井はなぜか嬉しそうな顔をした。
「どうしてそんな嬉しそうな顔をするんだ?」
「おまえの顔にうまくいったと書いてあるからだよ」
 横井にしっかり見透かされたようで、自分の顔が赤くなっていないか心配した。
「それじゃ詳しい話を聞かせてもらおうか」
 明人は昨日のデートで、百合に交際を申し込んだことを話せる範囲で話した。
「そうか、本当に良かったな。大事なのはこれからだぞ。嫌われないように努力しろよ」
 横井は自分のことのように喜んでくれた。
「頑張るよ。次はおまえの番だな。好きな子はいないのか」
「正直言って、今のところは誰もいないな」
「それは残念だな。いずれ好きな子ができたら報告しろよ。俺も出来るだけ協力するからな」
「そのときは必ず言うから、よろしく頼むよ」
 そこで昼休みが終わったので、二人は職場へ戻った。

 来年は横井にも待望の春が訪れるのだが、その女性は明人にも大きく関わってくる存在になることを、誰が予想できたであろうか。

 永源寺へ行ったときの写真ができたので、彼女に電話を掛けて今度の土曜日、十二時に木之本駅で待ち合わせの約束をした。
 部活帰りの彼女は制服姿だったので一度家に帰り、服を着替えてから昼食を食べに出ようということになった。その車中で写真を見せて彼女のほしいものだけ選んでもらい、自分は残った写真を貰うことにした。それとこの写真は家のパソコンに保存したことを話した。
「僕はいつでも家で見られるから、全部君が貰ってもかまわないよ」
「それじゃ、私の家のパソコンにも保存してもらえないかしら」
「いいよ。まだカメラのメモリーカードは消していないから」
「じゃあお願いします」
「それなら食事が終わったあと、家に帰ってカメラを取ってくるよ。車に乗せておけば良かったけど、そこまで考えていなかったから部屋に置いたままなので」
「迷惑を掛けて、ごめんなさいね」
「気にしなくていいよ、まだ時間も充分あるから。それじゃ今日の昼食は初めて会ったときに行った、琵琶湖沿いのレストランにしようか。そこからだと僕の家まで五分くらいで行けるから」

 昼食を終えた二人は西浅井町にある明人の家に向かった。五分ほどで到着すると、彼は車から降りて家の中へ入っていった。百合は車の中で待ちながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。ほどなく戻ってきた彼は、なぜか百合の座る助手席側へやってきた。
「申し訳ないけど、ちょっと家に来てもらえないかな」
「え、何かあったのですか?」
 百合は驚いて思わず聞き返した。カメラを取ってきたらすぐに引き返すものだと思っていたので、家の中へ入ることは想定外の出来事だった。
「実は僕の車が帰って来たのを母に見られて『助手席に乗っている女の子は誰なの?』なんて聞かれちゃって、家の中から見えたのだろうな。適当にごまかしておけばいいのだけど、うまくごまかせなくてごめんよ」
 百合は少し考えてから(交際が続けばいずれこういう日が来るに決まっている。少し早いか遅いかだけの違いだわ)そう思って訪問することに決めた。ただ先ほど家に帰った時に急いで服を着替えたので、彼の親に会うような服装でないのが辛かった。明人にもそれは言ったが、百合の服を見て「全然問題ないよ」と一蹴されてしまった。

 玄関を入ると応接間へ通された。その部屋は十畳ばかりの洋室で、応接セットの椅子に腰掛けると、母がお茶を手に入ってきた。父と妹は出掛けていて家にいないそうだ。彼が母親に私のことを紹介してくれたが、交際しているとの話はしないで単に名前と、住所は高月町とだけ言った。
 母は四十台の後半であろうか、やさしそうな顔立ちだった。お茶をテーブルに置いて「粗茶ですけど」と言って、挨拶をされた。
「武田洋子(たけだ ようこ)です。いつも明人がお世話になっています。今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「吉村さんはどちらにお勤めなの、それとも大学生かしら?」
 母も明人と同じように、百合を見て高校生とは思わなかったようだ。
「私、まだ高校三年生です」
 そう答えたら驚いた顔をして言った。
「あらそうでしたか、ごめんなさいね。私あなたを見て、すっかり二十歳くらいだと思い込んでしまったわ」
「来年の三月に高校を卒業したら勤める予定です」
「そうだったの、じゃあもう就職先は決まっているのね?」
「はい、大阪の茨木市にある松中電器という会社にお世話になることにしました」
「ああ、あの大きな会社ね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「でもこちらから通勤はできないわね」
「会社には女子寮がありますので、そこに入ります」

 三十分ばかり話したあと、二人は百合の家に向かった。
「お母さん、私のことをどう思われたかしら」
「そうだなあ、短時間だから特に何とも思っていないだろうけど、僕は今まで女の人を家に連れて来たことがないから、つまり連れて来たのは君が初めてだから、母も母なりに緊張したと思うよ」
「私としては、悪い印象さえ持たれなければそれでいいのだけど」
「それは絶対にないよ」

 百合の家に着くと今日も母が迎えてくれた。写真のことを話してパソコンが置いてある部屋に案内してもらうと、早速作業を始めた。取り込みも無事に終わったのでいつもの部屋へ入り、紅葉と二人の写った写真を母に見てもらった。
 そこで彼女が、先ほど明人の家に突然訪問したことを母に話し出した。百合の母は特に驚いた様子もなく「そうだったの、でも物は考えようで何日も前から訪問することが決まっていて行くより、突然のほうが楽なんじゃないの。何日間も緊張しなくて済むからね」と笑いながら言った。
 確かにそのとおりだと百合は思った。訪問日を数日前から決めておくと、やれ着ていく服はどれにしようか?手土産はどうしよう?など色々考えて悩みの種になる。ああいう形の突然の訪問となれば、それも許されるというものだ。また次に訪問する機会があったら、そのときはきちんとすればいいと思った。
 それからしばらくして明人は帰路に就いた。

 家に着くと母が待ち構えたように明人に声を掛けた。
「先ほどのお嬢さんと、お付き合いをしているの?」
 明人はどう答えようか迷ったが、まだ交際して日も浅いので、もしも早く別れるような事態にでもなれば・・・・・まさか自分たち二人に限ってそんなことはないと思うが、そうなると今度は別れた話までするはめになりそうなので、それは面倒だと思い、正直に言わずにこの場は否定した。
「あの子とは最近知り合ったばかりで、まだ付き合うとかそんな仲じゃないから。もしも付き合うってことになったら、そのときは正直に言うよ。だからお父さんと妹には、あの子を母さんに紹介したことは言わないでもらえるかな。もし母さんがあの子を見つけなかったら、家に入ってもらって紹介することもしなかったのだから」
「そうなの、でも可愛いお嬢さんだったわね」
 母にそう言われた明人はちょっと嬉しかった。もし来年の三月頃まで交際が続いていれば、彼女が大阪へ行く前に家に来てもらって、交際相手として家族に紹介しようと思った。
         
        十   幸せ願いだるま
 百合は三年間の高校生活に終わりを告げ、無事卒業の運びとなった。彼との交際も順調に進んでいた。
 季節も変わり春が訪れようとしていた三月の初めに、二人は竹生島へ行く相談をしていた。
「百合ちゃん、三月十四日の土曜日か、十五日の日曜日に行こうか?但し、あまりにも風が強いとか、天気が悪いと船が欠航することもあるそうだけど」
「どちらでも構わないわ、三月末までは暇だから明人さんにお任せします」
「取り敢えず十四日の土曜日に決めて、電話で予約の問い合わせをしてみるよ」
「じゃあ決まったら連絡してね」
「晴れるといいけど風がまだ冷たいと思うので、少し厚着をして行ったほうがいいかな?暑かったら上着を脱げばいいので」
「船の中は大丈夫でしょうけど、島へ上がるとまともに風が当たりそうね」
「就職前の大事な体だから、風邪を引いたりしたら大変だからね」
 翌日、明人は船の予約を電話で尋ねたら「空いています」との返事だったので、折り返し百合にもその旨を伝え十四日に決定した。

 竹生島行きの日がやってきた。前日の天気予報通り若干の雲はあるが、あまり風もなく穏やかな日和となった。明人は母に竹生島へ行くことを告げて家を出た。母は誰と行くのか聞いていたが「友達と行く」とだけ、言っておいた。
 長浜港十時十五分発なので、百合の家へ九時半に迎えに行く約束になっている。時間どおりに行くと、すでに母と二人で外へ出て待っていた。母は「気をつけて行ってらっしゃい」と言いながら、見送ってくれた。彼女は自分の小さなバッグ以外にも、袋を持っていたので明人が聞いた。
「何を持ってきたの?」
「少し早起きして、母と一緒にお弁当を作ってきたの。島でお昼前になるからどこかで食べましょう」
「それは嬉しいな、楽しみにしているよ。でも作るのが大変だっただろう」
「お母さんが手伝ってくれたから、そうでもなかったわ」

 長浜港に着いたので駐車場に車を停めて、二人は歩いて切符売り場へ向かった。「先日予約をしておいた武田といいますが、竹生島行きの切符を二枚お願いします」二人分の切符を受け取ると、彼女は「船代を払う」と言ったが、収入のない百合に払わせることはしなかった。往復三千円の船代は今の彼女にとって大金だ。四月から働くといっても、寮生活ともなればまだまだ必要な買い物もあるだろう。「また儲けるようになったら、そのときは倍返ししてもらうよ」と、冗談を言って彼女の申し出を断った。
 港を見るとすでに船が停泊していた。全長二十数メートルほどか、白い船体は陽を浴びて光っている。そしてその中へと消えていく観光客の姿が見えた。二人はほかの観光客とともに船に乗り、中へ入ると十数名の人々が思い思いの席に腰掛けて談笑している。殆どの人は年配客で、自分達のような若い客は一人もいなかった。行き先はお寺や神社なのだ。どちらかといえば若者が行くには、ちょっと場違いといった所だろう。二人の目的も御参りには違いないが、宝厳寺(ほうごんじ)の達磨さんに願い事をする、そのためだけに行くようなものだ。だからほかの神社とかは見て通る程度で寄るつもりはない。強いて寄るとすれば御土産屋さんくらいだ。

 定刻になり白い船体がゆっくりと動き始めた。島までの所要時間は約三十分。外の景色を見ながら話している内に、船は早くも島に到着した。
 船から降りるとすぐに土産物を売っている店があり、そこから先は階段になる。かなり急勾配の階段を上るので年配の方々には少しきついかもしれないが、若い二人にはきつくもなく、むしろ楽しく感じた。百合が持ってきたお弁当は明人が持ち、空いた片手はごく自然に彼女の手を握っていた。二人は手を繋ぎながら仲良く歩を進め、階段を上っていった。滞在時間は八十分なので弁当を食べる時間も考慮して、まっすぐに宝厳寺へ向かった。すぐに幸せ願い達磨は見つかった。たくさんの赤い達磨が置いてあるが、顔は全部違うそうだ。一個五百円なのだが買って持ち帰るのではなく、その場で願い事を書いた紙を達磨の中へ入れ、本殿に奉納するのだ。
「それじゃ買って願い事を書こうか」
「私はお願いが二つあるので、二個買うわ」
 彼女はそう言って財布から千円札を取り出した。さすがにこの代金まで払ってあげると御利益がなくなりそうなので、ここの代金は自分で出してもらうことにした。
「書き終わったら奉納しよう」
 二人はそれぞれ願い事を書いた紙を達磨さんの中へ入れて奉納し、手を合わせた。
「君が何を書いたのか聞きたいけど、それを話すと御利益がなくなってしまうので、今は聞かないよ」
「願ったことを人に話すと、御利益がなくなるって聞いたことがあるわ」
「それじゃこうしよう。もし願いが叶ったら、そのときは書いたことを教えあおうよ」
「はい、もし願いが叶ったら必ず言います」
「約束だよ、じゃそろそろ下りようか」
 そう言って二人は階段を引き返し始めた。途中で見晴らしの良い所を見つけたので、御弁当を食べることにした。時間はまだ残り五十分ほどあり、ゆっくりと食べられる。御弁当の中身は一般的だが、海苔を巻いたおにぎりや玉子焼き、揚げ物などがぎっしりと詰まっていた。二人は箸を取り「いただきます」と言って食べ始めた。そこで百合は次の言葉を待っているかのように、箸を休めて彼の顔を見た。明人はすぐさま「おいしいよ」と言って、彼女を見返した。もちろん本当においしいのだが、作ってきた彼女にとっては是非、言ってほしい言葉だろう。何も言わずに食べていたら、おいしくないのかと思ってしまう。そのひと言で安心したかのように、嬉しそうな顔をしながら再び食べだした。
 食べ終わった二人は港へ戻り、お土産を買うことにした。百合は母から「御土産はいらないから」と言われて出てきたそうだが、近い所でも一応は小旅行だからと思い、買って帰ることにした。鯖寿司とか赤こんにゃく、地酒など色んな種類の土産が売ってあるが、無難なところで定番ともいえる饅頭を買った。

 船の出発まで十分を切ったので二人は船に乗り、空いている席に座って談笑しながら船が出るのを待った。間もなく船は動き出し、徐々に離れていく島を二人は感慨深げに見ていた。来た時と同じように三十分で長浜港へ戻り、下船した明人は時計を見ながら(帰るにはまだ早いな)と思ったが、特に後の予定は考えていなかった。取り敢えず帰る方向に車を走らせながら、湖周道路へ向きを変えた。
「帰るにはまだ早いので、少し寄り道しようか?」
「明人さんに任せます」

 湖周道路を北へ向かいながら、十五分ばかり走ると右側に道の駅(湖北水鳥ステーション)が見えてきた。ここでも湖北地方の色々な特産品を販売している。そしてレストランもあるので食事もできる。ここは初冬になるとたくさんの渡り鳥が飛来する所としても有名で、多くの水鳥愛好家達がカメラを持ってやって来るのだ。
 車を駐車場に停めた二人はレストランに入って大きな窓ガラスから外を見ると、先ほど行ってきたばかりの竹生島が遠くに見えた。注文したコーヒーがきたので明人は飲みながら百合に話し掛けた。
「百合ちゃん疲れたかい?」
「大丈夫です。高校を卒業してからも毎朝十キロずつ走っているのよ。でも週に一日だけは休むけど」
「そうなの、それはすごいな。本当に自分の目標に向かって頑張っているね」
「十キロというと大変そうに思われるけど、時間にすると三十五分くらいなので特別大変でもないわ。今から体力作りをしておかないと、いざ入社して練習をしたとき、みんなについていけなくなってしまうのが嫌だから」
「それじゃ今日の島の階段なんて平気というわけだ」
「ええ、却っていいトレーニングになるわ」
「ところで君にちょっと相談したいことがあるから聞いてくれるかな?」
「何?」
「来週の土曜日だけど、僕の家に来てもらえないかな?君が大阪へ行ってしまうと当分の間そういう機会がなくなると思うので、行く前に僕の家族に君を紹介しておきたくて」
 そんな彼の申し出に、百合はどうしようかとしばらく考えていた。家族に紹介されることは嫌じゃないけど、どちらかといえば恥ずかしさのほうが勝っている。昨年母とは会っているが父や妹とは初対面だ。考えている私を見て明人が言った。
「嫌だったら無理にとは言わないよ」
「嫌ってことはないんだけど、あなたの御家族に会うのが恥ずかしくって」
「そうだね、君の気持ちはよく分かるよ。じゃあ急がなくてもいいから金曜日までに返事をしてもらえるかな?」
「ええそうさせてもらいます」
「じゃそろそろ出ようか」
 明人はレストランを出た時に、ふと思い出したように御土産売り場へと向かった。あれこれ眺めながら子魚の佃煮を二個買った。それを見ていた彼女がいぶかしげに聞いた。
「御土産、増やしたの?」
「島ではお饅頭しか買わなかったので、ちょっと寂しいかなと思ってね」

 水鳥ステーションを後にした二人は、百合の家に帰るべく車を発進させた。家に着き、百合が「お母さん、ただいま」と言うと、奥から「お帰り」と母の声がした。
「お帰りなさい、竹生島はどうだった?」
「とても楽しかったわ。ねえ明人さん」
「天気も良くてお弁当がとてもおいしかったです。ありがとうございました」
「いいえどう致しまして」
 お茶を持ってきた母に、百合は御土産の饅頭を取り出して言った。
「せっかくだから、お茶菓子に食べましょうか」
 そう言うと、早速包装紙を破り始めたので母が笑って言った。
「まあまあ、百合ちゃんたらこれだから」
 そこで明人は先ほど買ったばかりの佃煮を出した。
「お母さん、これも御土産です。食べてください」
「あら、いつもありがとうございます」
 しばらく三人で談笑したあと、明人は帰ることにした。
「百合ちゃん、先ほど話した僕の家に来る件だけど、お母さんにも相談しておいてね」
 それだけ言って車に乗り込んだ。

 車を見送った百合は家に入ると母に話した。
「実は来週の土曜日だけど、明人さんから『家に来てもらえないか』って頼まれちゃったの。家族に私を紹介したいって。私どうしようか迷っていたら『返事は後日でいいから、考えておいてください』って。それでどうしようかと迷っているの」
「それは百合が決めればいいのよ。お母さんからは自分の思ったようにしなさい、としか言えないわ。ただ武田さんがあなたを家族に紹介しようという気になったのは、あなたとの将来を考えてのことだと思うの。あの人は中途半端な考えで行動を起こす人ではないわ」
「それだったら私、行ったほうが良いということかしら」
「そうね、今すぐにというわけではないけど、武田さんだって百合を家族に紹介するのはとても勇気のいることだと思うわ。だからあの人がその気になっている時が一番いいタイミングかな、それにお付き合いが続けば、必ずそんな日が来るしね」
「お母さんがそう言うのだったら、そうするわ」
「最終的な判断は百合がするのだから、もう一度よく考えて返事しなさい」
「ええそうします」
 それから数日間考えた結果、彼の家を訪問することに決めた。そしてその旨を電話で告げた。彼は大変喜んで訪問のことを両親にすぐ話すと言っていた。
 その日から百合は着ていく服や、持っていく手土産などを考えずにいられなくなった。母と相談して金曜日の夕方、母の仕事が終わってから一緒に買い物に出掛けて洋服と手土産を買った。

 一方、明人は両親に彼女が訪問することを話した。
「二人に紹介したい子がいるから、家に連れてくるよ」
 両親は少し驚いた様子だった。椅子に座っていた父が明人の顔を見ながら聞いた。
「それはいいけど、女の子か?」
「そうだよ、お母さんは去年の十二月に会っているから覚えているだろう」
「ああ、あのときの子ね。もちろん覚えているよ」
 それを聞いた父は、少し怒ったような口ぶりで「俺は聞いていないぞ、そんな大事なことを、どうして今まで言わないのだ」と母に言ったので、明人はあの日の経緯(いきさつ)を話して、父をとりなした。
 父は改めて母にどんな女の子だったのかと聞いた。
「とても可愛いお嬢さんだったわ。確か十八歳と言っていたわね」
 年齢を聞いた父は、急に目をぱちぱちとせわしなく動かしながら言った。
「十八だって、それは本当なのか?明人」
「本当だよ。つい先日湖北高校を卒業したばかりなんだ。四月からは就職で大阪へ行くので、今の内に紹介しておこうと思って。それで今度の土曜日に家に来てもらえないかと聞いたら『伺います』と返事をもらったので、こうやって二人に話したというわけだよ」
「今度の土曜日か、会社は休みだから私はいいけど母さんはどうだ?」
「私は働いていないのだから、いつでも家にいますよ」
「じゃあそういうことで決めるよ。向こうに時間だけ連絡しなければならないから」
 そう言うなり両親との話を打ち切って、訪問時間を相談するため百合に電話を掛けた。

        十一  百合の訪問
 約束の土曜日がやってきた。百合は朝からそわそわとして、落ち着かない様子で過ごしていた。先日買ってきたばかりの新しい洋服に着がえて、鏡の前に座り化粧を始めた。学生時代は殆どしない化粧だったが、今日は少し念入りにすることにした。念入りといっても厚化粧ではなく、どちらかといえば薄化粧で普段以上に丁寧にするということだ。そこへ母がやってきて言った。
「用意はできたの」
「もうすぐよ」
「今日は武田さんの両親の前で緊張するなって言っても無理だろうけど、普段どおりの百合でいればいいからね」
 母は決して「そそうのないように」などとは言わなかった。普段どおりにしていれば人様の前に出ても、恥ずかしくない娘に育てたつもりだと自負しているからだ。
「そのつもりよ。自分を飾ったって疲れるだけだわ。普段どおりにしていて、それで御両親に好かれなかったとしても仕方がないわ」
 そうこう話している内に、迎えに来る約束の時間がきた。百合と母が一階へ下りたとき、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。三人はそれぞれ挨拶を交わし、明人と百合は車に乗った。
 もう十分もすれば彼の両親に会うのかと思うと、今から緊張してきたのだった。彼もそれを察したのか「緊張するだろうけど、ありのままの君でいいからね」と言ってくれたので、少し気が楽になった。

 家に着き、玄関を入ると母が出迎えてくれた。応接間に通されると、ほどなく両親が来られたので、座っていた百合は立ち上がって挨拶をした。
「本日はお招きいただきましてありがとうございます。吉村百合と申します。よろしくお願いします。また日頃から明人さんには大変お世話になりましてありがとうございます」
「明人の父で明彦(あきひこ)と言います。こちらこそよろしく」
「前に来られたときにも言いましたけど、改めまして母の洋子です。いつも明人がお世話になり、ありがとうございます」
 両親と挨拶を交わしたあと、持ってきた手土産の洋菓子を渡した。母はお礼を言ってから座るようにと促して、自分たちも腰掛けた。娘さんは私用で出掛けていて留守だった。明人の両親は身辺調査というわけでもないだろうけど、やはり初対面の相手と話すとなると、どうしても百合のことや家族のことなどが主体の話となってしまうのは仕方がないだろう。

 話している内に昼前になり、母は「昼食の用意をするから』と言って、部屋を出た。残った三人は応接室から座敷へ変わり、そこで昼食を食べるとのことだった。百合が来るまでに殆ど用意されていたのか、ほどなく母が料理を運んできた。見るからにおいしそうな料理で、百合の訪問に合わせて手間暇をかけて作られたのだと思えた。
 運び終えた母が、百合に箸を渡しながら言った。
「さあいただきましょうか、吉村さん遠慮しないでたくさん食べてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「お口に合うかどうか分かりませんが」
 四人は「いただきます」と言って、それぞれが食べたいものを小皿に取り、食べ始めた。食事中も会話は途切れず、百合は家族が多いと食事中いつもこんなに賑やかで、食べる料理もより一層おいしく感じるだろうなと思った。

 食事が終わってしばらくすると、彼は両親に「二人で散歩に出て来ます」と言って、私を外に連れ出した。両親との会話も減ってきて、少し息苦しくなってきた時間帯だったので、彼の言葉にほっとした。
 外へ出て五分も歩かない内に琵琶湖が見えたので、国道八号線を横断して湖のほとりへ行った。
「明人さん、御両親は私のことをどう思われたかしら?」
「そうだね、あの様子から伺うと気に入られたと思うよ」
「だったらいいんだけど」
「心配しなくても大丈夫だよ、君が僕の親に嫌われるのだったら、この世の女の子は全員嫌われちゃうよ」
 彼の言い方はやや大袈裟ではあったが、そう言われて百合は少し安心した。
「あなたとの交際を友達の秋岡由香ちゃんにはまだ話していないんだけど、話してもいいかしら?」
「まだ話してなかったの」
「話そうと思ったけど、あなたと付き合ってまだ日も浅かったので、言わないまま卒業式が来てしまったの。それで私が大阪へ行くまでに一度会いたいと思っているから、そのときに話せばいいかなと」
「それは構わないよ。それだったら僕は君に謝らなくちゃいけないな。君も覚えていると思うけど、初めて四人で会った木之本の地蔵縁日のときに、秋岡さんの幼馴染で僕と同じ会社に勤めている横井を覚えているよね。あいつには君と交際していることを話してしまったんだ。ひと言の断りもなく言ってしまって、ごめんよ」
「いいの、やはり嬉しいことって誰かに話したくなるよね。私も同じだから」
「僕と横井は学生のときからの友人で、今までもお互いに隠し事はしないで何でも話してきた仲だから」
「そういう友達がいるって嬉しいことね」
「悩んでいるときでも相談にのってもらえるしね」
「今の話で思い出したけど、先ほど話した秋岡由香ちゃん、彼女はあなたと同じ日本硝子に勤めると言っていたわ」
「えっ、そうなの?」
「職場までは聞いていないけど、あなたと同じ会社です」
「じゃあまた会社の中で会うかもしれないね」
「そのときは声を掛けてやってください」
「横井はもう知っているのかな?」
「どうでしょうね、家同士が近いので聞いているかもしれませんね」
「月曜日に出勤したら聞いてみよう」
 時計を見ると三時を過ぎていた。家を出てから二時間近く話していたのだ。
「そろそろ家に戻ろうか、両親が心配するといけないから」
 二人は湖畔を後にして歩き始めた。

 家に帰ると、母が「長い散歩だったわね」と笑っていた。そして「コーヒーを入れるから応接間で待っていて」と言って、そそくさとキッチンへ向かった。そこへ父がやってきて「お帰り、寒くなかったかい?」と言いながら、暖房のスイッチを入れてくれた。三月といってもまだまだこの地方は寒い日が多い。また外は暖かくても家の中は以外と寒い。母が熱いコーヒーを持ってきてくれたので、飲みながら話をしていると明人が時計を見て百合に聞いた。
「遅くなるといけないので、そろそろ帰ろうか」
 百合も、もうすぐ御暇(おいとま)しようと考えていたところだったので、すぐに「はい」と返事をして、両親に今日のお礼と暇(いとま)の挨拶をした。
 すると母が、百合を呼び止めて言った。
「これはこの村のお店で作っている和菓子ですけど、お母様と食べてください」
 百合は遠慮をしたが、母は手を取って袋の紐を握らせた。
「それじゃ遠慮なく頂きます」
 お礼を言って帰る百合を車の所まで見送りにきて、母が言った。
「どうぞ遠慮なさらずに、また来てくださいね」
「はい、今日は本当にありがとうございました」
 両親にもう一度お礼を言ってから車に乗った。そして走り出した車の中で明人に言った。
「どうしましょう、こんなものまで頂いてしまって」
「ああ、それは僕の両親が君を気に入った証拠だよ。僕たちが散歩に出ている間に買ってきたんだと思うよ。気に入らなかったら何も渡さずに『さようなら』って言うだろう」
 そう言って笑った。明人の言葉に(それが本当ならひと安心だ)と思った。

 百合の家に着くと母が出迎えてくれた。
「お母さん、ただいま」
「お帰りなさい。武田さん、今日はどうもありがとうございました」
「こちらこそお呼び立てして申し訳ありませんでした」
「どうぞ、お入りください」
「いえ、今日はこのまま帰ります。百合ちゃんも気疲れされたと思いますし、ゆっくり休ませてあげてください」
 そう言うと、吉村家を後にした。

 彼を見送った百合が家に戻ると、母が聞いてきた。
「彼の家に訪問してどうだったの?」
「お昼をご馳走になり、御土産まで頂いてしまったの」
 そう言って頂いた和菓子を見せた。
「まあそうなの、それで御両親はどんな方だったの?」
「お二人とも気さくな方で色々とお話したわ。妹さんは留守で会えなかったけど」
「百合のこと、どう思われたかな?」
「よく分からないけど、明人さんが言うには『御土産を持って帰ってもらうくらいだから、気に入られたと思う』って」
「そう、それは良かったわね」

 家に帰った明人は晩御飯の時に、両親と帰宅していた妹の前で彼女の話になり、両親がどう言うのか少し不安だったが、予想どおり最初に父が話し始めた。
「吉村さんは中々いい子じゃないか。若いのに挨拶もきちんとできて、礼儀作法もしっかりわきまえているよ」
 次に母が話した。
「そうね、お父さんはもう亡くなられたそうだけど、今まで御両親がしっかりと育てて来られたのだと思うわ」
 妹は会えなくて残念そうな顔をして言った。
「え~~そんないい子だったの。私も会いたかったな。ねえ兄貴、もう一度連れて来られないの?」
 子供がダダをこねるような言い方をしたので、両親が大きい声で笑っていた。

        十二   夕暮れの太陽
 大阪へ行く日まで残りわずかとなった百合は、秋岡由香に「しばらく会えないかもしれないので会って話そうか」と電話で誘った。会ったら彼と交際していることを話しておこうと思っている。
 明日の十時に木之本駅で待ち合わせて、駅前の喫茶店、憩(いこい)で話すことになった。

 次の日に会った二人は、憩に入ると百合が由香に話し掛けた。
「今日は由香に話しておきたいことがあるから聞いてほしいの」
「聞かせて」
「去年の八月に由香と縁日参りに行った日に幼馴染の横井さんと会ったよね。そのときに横井さんと一緒にいた武田さんって人を覚えているかな?」
「もちろん覚えているわよ。その人がどうかしたの?」
「今まで黙っていてごめんなさい。実はその武田さんと十二月から交際を始めたの」
 百合は明人との交際に至るまでの状況を話した。
「そうだったの、それは良かったわね。なにも私に謝る必要はないわよ」
「そう言ってもらえるとすごく嬉しいわ。言い訳になるかもしれないけど、交際してまだ日が浅いでしょう。だからある程度の期間が過ぎて交際が落ち着くっていうのかな、お互いに信頼関係が持てたら、そのときは必ず話そうと思っていたの」
「ということは、その信頼関係が二人の間にできたってわけ?」
「ええ、でもまだ四か月しか経っていないので大きなことは言えないけど、少なくとも私はそう思っているわ。彼はまだそこまで思っていないかもしれないけどね。それで三日前に彼の家に招待されて御両親に紹介されたの。彼も私の家に何回か来ていて、母も『彼だったらいいわよ』と交際を認めてくれているの」
「もう両方の家族とも公認っていうわけね」
「ううん、彼の御家族にはまだ許していただけたかどうか判らないの」
「それってどういうこと?」
「先日の訪問以来、まだ彼と話す機会がなくて、あの人の御両親は私のことをどう思われたか聞いていないの」
「百合だったら絶対に大丈夫。きっと許してもらえるわ」
「ありがとう。あっ、そうそう由香の就職先は確か日本硝子だったわね」
「そうよ、どうして」
「先ほど話した武田さんと、彼の友達の横井さんも日本硝子に勤めているでしょう。だからこのまえ彼と話していたときに、由香も同じ会社に行くことに決まったって、話をしたら驚いていたわ。それで横井さんは由香の勤め先をもう御存知なの?」
「どうかな、多分まだ知らないと思うわ。最近会っていないから」
「そうね、もし知っていたら横井さんが武田さんに言うよね、とても仲がいいそうだから。彼は横井さんに私と付き合っていることも、すでに話したって言っていたわ」
「横井さんは百合と武田さんが交際しているのを知っているのね」
「ええ、それで由香が勤め始めたら、会社内で会うことがあるかもしれないって、おっしゃっていたわ」
「じゃあ、もしお会いしたら挨拶をして『百合のことをよろしくお願いします』って、言っとくわ」
「それは言わなくていいから『仕事の指導をよろしく』と、言うのよ」
「でも職場が違うでしょうね?」
「そうね、大きい工場だから一緒の職場にはならないと思うわ」
「でも顔を見掛けることはあるかも」
「そのときは後輩として、きちんと挨拶をしなければだめよ」
「分かったわ、百合の言うとおりにする。それじゃ大阪へ行ってもたまには電話をしてね」
「ええ、必ず掛けるわ」
「元気で頑張って」
「うん、由香もね」
 二人は一時間ほど話すと惜別の挨拶を交わして別れた。

 百合の大阪行きがいよいよ明日にせまった前日の土曜日、母と一緒に買い物に出掛けた。寮生活で必要な物は、ほぼ買い揃えたが小さな物の買い忘れなどあったので、午前中に連れて行ってもらった。
 午後は彼が迎えに来る予定になっている。しばらく会えないかもしれないので、大阪へ行く前にもう一度会っておきたい。
 買い物から帰って家で昼食を済ませると、そこへ迎えに来てくれた。
「今日は少しドライブでもしようか、時間的に遠い所は行けないけど」
「明人さんにお任せします」
「行き先を考えてこなかったから、どこにしようか?」
「私はどこでもいいです」
「じゃあ余呉湖でも行こうか?」
「そうしましょうか」

 余呉湖は長浜市余呉町にあり、大きさは一、八平方キロ、周囲六、四五キロの小さな湖だ。この湖は古来より伝説が伝えられている。それは【はごろも伝説】と名付けられ、言い伝えによると「天から羽衣を纏(まと)った一羽の白鳥が舞い降りてきて、湖で水を浴びながら白鳥の姿から人間の美しい女性の姿に変わっていく。そしてその女性の行動を見ていた一人の男は女性を天に帰すまいと、木に掛けてあった羽衣を盗んでしまう。天に帰れなくなった女性はその男と結婚をするが、やがて隠してあった羽衣を見つけ出して天に帰ってしまう」という伝説だそうである。ほかの地方にもある羽衣伝説とは内容が少しばかり違うそうだが余呉湖では、そう伝えられている。また冬季間は【わかさぎ】という名の小魚釣りも有名で、天ぷらにして食べるとおいしくて多くの愛好家が訪れる。

 二人が家を出てから十五分ほどで余呉湖が見えてきた。湖周道路は道が狭いので、明人は車のスピードを落としてゆっくりと回った。波もなく静かなたたずまいの湖は幻想的に見え、羽衣伝説の由来がなんとなく分かるような気がした。
 湖を一周し終えた二人はレストランへ入った。いつもならもっと話をする明人だったが、今日は口数が少なかった。彼女が生まれ育ったこの地を離れ、明日は大阪へと旅立つのだ。そんなに遠い所に行くわけではないので、旅立つとは少し大袈裟な話だが、これからは今までのように会えなくなることが、そんな気持ちにさせているのだろう。色々な思いが心の中を巡り、少なからず憂鬱(ゆううつ)になっていた。二人は湖を眺めながら静かにコーヒーを飲んでいたが、彼女もこの場の雰囲気を微妙に感じ取ったのか、明人に話し掛けてきた。
「いよいよ明日は大阪に行くけど、向こうから電話をしてもいいかしら?」
「もちろんだよ、でも君の電話代が高くなるといけないので、出来るだけ僕のほうから掛けるからね。もし掛け過ぎて迷惑だったら言ってよ」
「そんな迷惑だなんて。あなたこそあまり電話代が高くならないように注意してね」
「そうだね、掛ける回数は多くても話す時間は短くしようか?」
「ええ、元気な声を聞けたらそれだけで嬉しいわ」
「家にはどの程度の頻度で帰れるのかな?」
「行ってみないと何とも言えないけど、私の希望としては月に一回は帰りたいと思っているの。お母さんも一人暮らしになると寂しいと思うし」
「月に一回か、まあそのくらいかな。交通費もバカにならないしね」
「そうなの」
「寮生活は大丈夫なの?」
「大丈夫です。朝食と夕食は寮母さんに作っていただけるので、自分でするのは部屋の掃除と洗濯、あとは会社の休日に昼食だけ自分でしなければならないそうだけど」
「やはり一番大変なのが食事だから、それはありがたいね」
「そこの寮は私のような陸上選手が入っているので、食事のメニューもスポーツをする人の体に合わせて作っていただけるので助かるわ」
 明人の気持ちを察した百合の電話の話から二人の会話は弾みだし、時間はどんどんと過ぎていった。
「そろそろここを出て、湖畔を散歩してから帰ろうか?」
「ええ」

 二人は店を出ると、車を置いたまま湖畔へと歩き出した。どちらからともなく手を繋ぎ、ゆっくりと歩を進めていると百合が話し掛けた。
「聞くのを忘れていたけど、あなたの家を訪問したあと、御両親は私のことを何か言ってらっしゃいましたか?」
 百合はその件について聞くことを本当は忘れていなかったのだが、聞くのが少し怖くて聞けなかったのが本音だった。
「ああ話さなくてごめんよ。実はその日の晩御飯の時に君の話になってね。両親とも『若いのに礼儀正しいと女性だ』と言って、すごく褒めていたよ。それと妹も会いたがっていたよ」
「本当、嬉しいわ」
「だから何も心配しないで明日は気分よく行ったらいいよ」
「それを聞いて安心して行けます」
 その言葉を聞いた明人はまた感傷的になってきた。ただただ寂しいの、ひと言に尽きる。それは彼女も同じだろうか?
 
 明人は急に彼女を抱きしめたくなり、正面に回ると彼女の背中に両手を持っていき、自分の胸に引き寄せた。彼女は黙って胸に顔をうずめた。二人は黙ったままでしばらくそうしていたが、明人は彼女の両腕を持ち、そっと自分の体から離した。そして彼女の顔を見ると、その目からは涙が流れていた。気付かなかったが、自分の胸に顔をうずめた百合は泣いていたのだった。その涙が嬉しい涙なのか、哀しい涙なのかは分からなかったが、相変わらず黙ったままで、うつむき加減に目を伏せている。その涙を見て、あまりのいとおしさに思わず彼女を引き寄せ、自分の唇を彼女の唇に重ね合わせた。彼女も拒むことなく明人の背中に両手を回した。そしてそんな二人を西の山に傾き始めた太陽が見守っていた。その太陽はこれからも、きっと二人を見守ってくれるだろう。

       
        一三   十八歳の旅立ち
 慌ただしい朝がやってきた。吉村家では時間を気にしながら大阪へ行く準備をしていた。今日は母も百合に付き添って一緒に行く。母の車で米原駅まで行き、そこから電車で大阪の茨木駅に向かう。着いたらタクシーに乗って会社の寮まで行く予定だ。明人が「見送りに行こうか」と言ってくれたが断った。顔を見ると行くのが辛くなりそうで、そんな自分の気持ちが怖かった。

 予定通りに茨木駅に着いた二人はタクシーに乗った。しばらく走ると山の麓に白い色の大きな建物が見えてきた。それが松中電器の工場だった。寮は工場から歩いて五分の所にある。寮の前でタクシーを降り、玄関先を見ると大きな文字で「松中電器茨木工場 女子寮」と書いてあった。寮に着いて玄関を入ると右側がカウンターになっていて、その中にやや年配の男性が座っていたので挨拶をすると、その人はここの寮長だと言ったので訪問の理由と名前を告げると、部屋へ案内してくれた。百合の入る部屋は二階の六号室で、各階に八部屋あり、三階建てで合計二十四部屋あるそうだ。部屋の広さは八畳で、洋間の作りになっていた。寮長は「分からないことがあったら、気軽に聞いてください」と言い残し、去っていった。

 二人が部屋へ入ると数日前に送った荷物が届いていたので、さっそく荷物を解き部屋の中の適当な場所に配置していった。荷物といってもそんなに多くはなく靴や衣類が主で、あとは本を少々と化粧品、それに洗面用具などの生活必需品だけだ。電気製品はテレビや冷蔵庫、エアコンも備え付けてある。洗濯は建物の一階に専用の洗濯室があり、洗濯機が十台備え付けられているそうだ。ひと通り荷物の整理が終わると十二時を過ぎたので、外へ昼食を摂りに出掛けることにした。寮長に聞いたところ、近くに喫茶店があるからと言って道を教えてくれた。外へ出て少し歩いた所にその店はあった。昼過ぎということもあり混雑していたが、ちょうど席を立ったお客さんがいたので入れ替わりに座れた。昼食を済ませ寮に戻ると、母が「遅くなるのでそろそろ帰る」と言って、帰り支度を始めた。いよいよこれから一人の生活になるので少し不安だが、そんなことは言っていられない。寮長さんにタクシーを手配してもらい、車を待っている間に「同じ寮の人にきちんと挨拶するように」と言い残して、帰っていった。

 部屋に戻り、もう一度荷物の確認をしようとしたらテレビの横に寮規則が置いてあるのに気付いて、読んでみると食事の時間帯や寮の門限などが書いてあった。門限は夜の九時で、その時間に遅れると鍵が掛かり、入れなくなってしまうとのことだ。寮生は就業時間の内外に関わらず、何か問題が起きれば会社にも責任が生じてくる。大切な子供さんを親から預かっているからだ。食事時間は朝御飯が六時半から七時半の間。晩御飯は六時から七時の間と決まっていた。
 晩御飯の時間が近づいた五時半に、寮長さんが部屋に来て「六時に食堂の前で待っているように」と言われた。

 食堂へ行くと、すでに三名の女性が入り口に立っていた。三人とも自分と同じ年代に見えたので、おそらく自分と同じ高校卒の新入社員だろうと思った。 
 そこへ寮長さんが来て四人に話し掛けた。
「皆さんは今日この寮へ入って来られた新入社員です。食事を始める前に四人が順番に、先輩の方々に自己紹介をして『よろしくお願いします』と挨拶をしてください。尚、明日の朝ですが八時に玄関前へ集合してください。会社の入社式会場まで案内します。私はそれで帰りますが、八時半に入社式が始まりますので遅刻をしないように。もう一度言います。明日の朝八時、玄関前集合です」

 話し終わった寮長が食堂の中へ入ると、先輩社員に向かって「今日、入寮されました新入社員の方々です。これから皆さんにご挨拶しますので御清聴願います」そう言って、私たちに挨拶を促した。先輩たちに挨拶が終わったあと、今度は一緒に入社した社員同士で順番に自己紹介をした。

 夕食が済んで部屋へ戻った百合は、母が無事に帰宅したか確認の電話を入れた。次は明人に掛けようかと考えていたとき、着信音が鳴り彼からだった。
「百合ちゃん、無事に着きましたか」
「はい、いま寮の部屋にいます」
「そうですか、それは安心しました。明日は初出勤ですか?」
「ええそうです」
「仕事と陸上で大変だろうけど、頑張ってください」
「ありがとう頑張ります。それと電話なんだけど、寮の中での食事中は極力控えるようにとのことなので、夜は七時以降にお願いします」
「そうなの、分かったよ。寮に入ったら規則は守らないといけないからね」
 それから少しばかり話して電話を切った。百合は彼が気にかけていてくれたのが嬉しかった。

 あくる朝、昨日寮長さんが言われた集合時間の八時に玄関前へ集まり、会社へ徒歩で向かった。百合たちは会社の入社式会場まで案内してもらい、八時半になるのを待った。会場では自分たち四名の他にも、今年の新入社員と思われる男女が何十名か椅子に座っていた。この人たちはおそらく地元の人で、通勤できる距離に自宅があるのだろう。
 しばらくして定刻になったので、司会進行役の男性がマイクを持って話し始めた
「これより新入社員の入社式を執り行います。最初に社長が皆さんに御挨拶を致します」
 その言葉を皮切りに入社式が始まった。

「皆さん、おはようございます」   新入社員一同「おはようございます」
「私は松中電器社長の松中と申します。よろしくお願いします。皆さん松中電器入社おめでとうございます。今後とも初心を忘れることなく松中電器の発展のために、そして皆さん方の発展のためにも頑張ってください。話は変わりますが、私から皆さんに一つだけお願いがあります。それは何かと申しますと、私どもの会社ではスローガンとして【安全な職場作り】を第一に掲げています。仕事中に怪我をしない、そして怪我をさせないという安全な職場、安心して仕事ができる職場作りを目指しています。その取り組みを充分に理解していただいて、常に【安全第一】で仕事をしていただきたいと思います。仕事は第二でかまいません。それはなぜかと申しますと、安全をおろそかにしている会社では良い製品は作れません。逆に言えば、安全な職場だから良い製品が作れるということです。さらに皆さんには家で帰りを待っていてくれる御家族がおられます。そして会社から元気な姿で帰ってくることを願っておいでです。そんな元気な姿と笑顔を、家族に見せるためにも安全第一で仕事をしてください。
 それともうひとつ付け加えるなら自動車です。皆さんの中にはもう車に乗っておられる方があると思います。まだ乗っていなくても今後乗られる方がほとんどでしょう。車はとても便利な乗り物です。好きな時間に好きな場所へ短時間で行けます。しかしその反面、車は交通事故という大きなリスクが常に付きまとっている乗り物です。もし運転を誤れば自分自身はもちろんですが、御家族そして事故によっては被害者の方を不幸のどん底に陥れてしまいます。職場での安全と同様に、車の運転も交通ルールをしっかり守って安全運転をしてください。そして元気な声で『ただいま』と言って、家に帰る毎日を送ってください。私からのお願いは以上です。皆さん方には必ず理解していただけると信じまして、私の挨拶を終わります。最後になりましたが、これからも安全と健康に留意して頑張りましょう」

 社長の話が終わり百合もそのとおりだと思った。帰りを待つ家族に心配をかけるようなことだけはしたくない。自分だって怪我をすれば陸上の選手生命さえ失う可能性がある。社内でも社外でも安全第一で過ごそうと百合は思った。
 社長の挨拶が終わったあと、専務の挨拶に移った。

「皆さん、おはようございます」   新入社員一同「おはようございます」
「私は専務の山中と申します。よろしくお願いします。皆さん、松中電器入社おめでとうございます。若い力を結集して今後とも松中電器を支えていただきますように、よろしくお願いします。
 先ほど、社長からお願いがありましたように、私からもひとつだけお願いがあります。皆さん方には今日の午後から職場に入って実習を始めていただきますが、まず職場に入ったら周りを見て、自分の仕事場の周りが美しく整理、整頓、清掃がされているかを見てください。松中電器は常に美しい職場作りを目指しています。美しい職場からは良い製品が生まれ、汚い職場からは良い製品が生まれない、私はそのように思っています。皆さんは配属された職場で今後長きに渡り働いていかれるのですが、職場での美意識を常に持っていただき整理、整頓、清掃を心掛けてください。【整理、整頓、清掃】この三つの言葉をローマ字で書くと、頭にS(エス)が付きます。それでこの三つの言葉を総称して、3S(サンエス)と呼びますが、この3Sを常に意識しながら仕事に生かしてください。それを皆さんにお願いしまして、私の挨拶を終わります。美しい職場で一緒に頑張りましょう」

 社長と専務の挨拶も終わり、一時間ほどで入社式は終了した。その後、陸上部に入る百合たち四人は別の部屋へ移動して、担当者よりクラブに関する説明を受けた。担当者の方は名前を横田と名乗り、最後に今日の予定を言われた。
「皆さんは陸上部員です。よって会社の仕事は午前中のみで、午後は陸上の練習をしていただきます。それで午後からグラウンドや部室を案内しますので昼食後の一時に、もう一度この部屋に集まってください。説明は以上ですが、これから皆さんのロッカーに案内しますので、付いて来てください。作業服に着替えたあと、職場のほうへ案内します」
 百合は会社の面接のときも、午後は練習を行うと言われたので知っていたが、改めて聞かされると(仕事は半日なのに給料は一人前貰うのだから、頑張って練習しなければ)と再度、心に誓った。

 ロッカーに案内されて会社の作業服に着替え、午前中のみ働く職場へと向かった。職場へ着くと横田さんは、そこで働いていた女性社員に声を掛けてから、百合たち四人の中の一人に「あなたはこの人に仕事を教えてもらってください」と言って紹介を済ませ、また次の職場へ向かった。そして次の所でも一人の女性社員に声を掛け、百合に「あなたに仕事を教えてくれる阿部さんです」と紹介してくれた。その阿部という女性は見たところ、二十二、三歳か。背は百合より少し低くて、ややぽっちゃり気味の女性だった。横田さんは残った二人を連れて、ほかの職場へ移動された。
 百合は今ほど紹介された阿部に自己紹介をした。
「吉村百合といいます。御迷惑をお掛けするかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします」
「阿部 春香(あべ はるか)です。仕事と陸上の両立は大変でしょうけど、頑張ってください」
「仕事と陸上の両立は大変でしょう」と言ってくれる彼女の些細な一言は、百合にとって右も左も分からない会社において、嬉しく感じる言葉だった。心のやさしい人なのだろうと思った。
「では吉村さん、今後の予定を説明します。今週の金曜日までは私と一緒に行動して仕事を覚えてください。そして来週からは一人で出来るようになってください。まず大まかに仕事の内容を説明します」
 彼女の説明から百合の仕事を簡単に言うと、メールで送られてきた会議用の資料に、誤字や脱字がないか確認して、あれば修正をしたあと必要部数コピーして、会議室に届けるという仕事だった。
「吉村さんの仕事は午前中だけということなので、あと一時間しかありませんから、取り敢えずパソコンの中に入っている資料を見ていただきます。パソコンは今まで使っていましたか?」
「はい、学校や家で使っていました」
「それじゃ基本的には教えなくても大丈夫ですね。パソコン内にある資料には会社の製品や部品などの専門用語が使われています。その専門用語を覚えないと誤字に気付かないので、資料をよく読んで理解してください。それで意味の分からない言葉があれば、私に聞いてください」
 そう言って自分の隣の机の上にあるパソコンを使わせた。阿部の隣の席は百合のために用意されたものだろう。百合は椅子に腰かけると早速パソコンを開き、安部の指示したファイルを開いて資料を読み始めた。

 昼食を終えて午後一時に集合した四人は、陸上部の練習グラウンドに案内された。すでに十数名の女性が練習を始めようとしている。見たところ男性選手はいないようなので聞いてみると、以前は男性のチームもあったそうだが、色々と問題があって廃止になり、今では女性のチームだけとのことだった。
 引率の横田さんが陸上部の監督に連れてきた四人を紹介した。百合は面接のときに会ったので顔を覚えていたが、監督は百合を覚えていてくれるかどうかは分からなかった。グラウンドの全員を呼び集めた監督は、女性選手たちに向かって言った。
「君たちは同じ寮生なのでもう知っていると思うが、今日から君たちと一緒に陸上の練習をする新人です。仲良くしてやってください」と、改めて四人を紹介した。そしてその後、スタッフを紹介してもらった。スタッフは男性コーチが一名でマネージャーが男女一名ずつの二名。監督はコーチも兼任しているそうだ。
 紹介が終わると百合たち四人はクラブハウスと呼ばれる部室に入り、それぞれに用意された練習用のトレーニングウェアに着替えてグラウンドに出た。トレーニングウェアの左胸には松中電機のロゴマークが入っている。今日は初日ということでコーチから練習内容の説明があり、そのあとストレッチから始め軽いランニングなどで練習を終えた。終了の三十分前には全員が集まって、ミーティングをしてから終了となる。
 練習で汗をかく百合たち陸上部員は、寮へ帰るとすぐにお風呂に入り、それから夕食を摂る。寮に入ってまだ二日目だが、百合は少しずつ他の仲間と話すようになってきた。競技内容こそ長距離や短距離などの違いはあっても、同じ陸上の選手ばかりなので話が合う。いずれ仲良くなれる友達ができるだろうと思った。ばたばたとした一日が終わり、百合はかなりの疲れを感じて早々に寝付いてしまった。

         十四   初めての帰郷
 一週間が経ち百合は仕事に慣れたが、反対に時間を持て余すようになってきた。なぜなら自分の仕事は会議が始まるまでに終わるので、それ以降はすることがないからだ。最初は過去の会議の議事録を読んだりしていたが、仕事を覚えた今はそれも不必要となった。隣にいる阿部はというと、結構忙しそうに席を立ってはまた戻って来て仕事をしている。百合は思いきって聞いてみた。
「阿部さん、何か私にできる仕事はありませんか?」
「そうね、今の仕事はもう慣れてきたようだから、次の仕事をお願いしようかな」
「はい、何でも言ってください」
「私、時々席を立つでしょう。それは会議をされている方々にお茶を出したり、会議が終わると後片付けをしたりしているからです。だからその仕事を明日からあなたにお願いします。簡単な仕事だから取りあえず明日は私と一緒にして、明後日から一人でどうかしら?」
「分かりました」

 次の日、百合は会議用の書類をコピーして担当者に渡したあと、安部と一緒に社内の売店へ行き、ペットボトルの飲み物を人数分買って会議前の部屋へ入り、机の上に置いていった。そして会議が終わると連絡が入るので、会議室へ行って飲み物を片付け、テーブルを拭いて終わる。それでもまだ時間には余裕があり、もっと仕事がほしいと思うのだった。

 就職して一ヶ月近くの四月二十五日になり、百合は初めての給料を貰った。給料袋の中は明細書だけで、現金は銀行振り込みなのであまり実感は湧かないが、百合にとって初めての給料は嬉しかった。欲しい物はたくさんあるが、そうそう使ってばかりもいられない。ただ初めての給料なので、母と明人には何かプレゼントをしたいと考えていた。
 初めての帰郷は給料日後の土曜日から日曜日に掛けてと思ったが、間もなくゴールデンウィークに入るので、百合はカレンダーを見ながら五月二日の土曜から五日までの、四連休に帰ろうと決めた。それを母に電話で伝えてから、明人にも連絡して二日に帰ると伝えた。

 そして帰郷の日がやってきた。駅前のお店で二人にプレゼントする物を見て、母にはブラウスを、明人には財布を買った。茨木駅から新快速に乗り、米原駅に着くと彼に電話を掛けた。「高月駅に着く時間を教えてもらえば迎えに行く」との約束だったので、その時間を教えたのだ。そして予定通りに着くと、改札を出た所で彼は待っていてくれた。
「百合ちゃん、元気そうだね」
 一か月ぶりに見る百合の姿に、明人は少し感動を覚えた。
「明人さんも」
 百合はこの一か月の間、数々の緊張から若干疲れぎみではあったが、彼の顔を見たら疲れもどこかへ飛んでいくような気がした。
「昼ご飯はどうするの?」
「母が作って待っていてくれるはずなの」
「じゃあまっすぐ家に帰りましょう」
「はい」
 家に着くと母が表で待っていてくれた。
「お帰りなさい。武田さん、お迎えありがとうございました」
「ただいま、たった一か月しか経っていないのに、なんだか久しぶりのような気がするわ」
「そうね、百合が一か月も家を離れることは今までなかったからね。さあ中に入りましょう。武田さんもどうぞ入ってください」
 三人が家の中に入ると、母は「お腹が空いたでしょう。お昼の用意ができているから食べましょうか」と言って、二人にキッチンへ来るように促した。昼食後、百合は「初めて貰った給料でプレゼントを買ってきた」と言って、二人にプレゼントを渡した。それから一時間ほど百合の仕事や寮生活の話をしていた。
 明人は二人で外へ出たいと思っていたが、久しぶりに帰ってきた彼女を母から奪ってしまうような気がして、言い出しづらかった。
 そのとき、母が明人の心の中を見透かしたかのように言った。
「武田さん、百合、天気もいいし二人で出掛けて来たらどうなの?」
「百合ちゃん、どうする?」
「そうね、久しぶりだからドライブでも連れて行ってもらおうかな」

 二人は母の言葉に甘えて、早速出掛ける準備をして表に出た。
「どこか行きたい所はあるかな?」
「お母さんの前では『ドライブでも』って言ったけど、別にドライブじゃなくてもよかったの。あなたと外へ出て二人で話せたらそれでいいの」
「本当のことを言うと、僕も出来たら二人きりになりたいなと思っていたけど、お母さんの手前、言い出しにくくてどうしようかと思っていたときに、ちょうどお母さんが気を利かせてくれて本当に嬉しかったよ」
「ええ、母は母なりに私達のことを気遣っていてくれるのだと思うわ」
「そうだね、感謝しなくちゃ。じゃあ琵琶湖の湖畔にでも車を停めて話そうか」
「はい」
 明人は同じ高月町の(片山)という村へ車を走らせ、琵琶湖のほとりで車を停めた。
「君と会えないときに色んな話をしたいと思っていたけど、いざ会うと何を話していいか分からなくなってしまうよ」
「それは私も同じだわ。何か聞きたいことや話したいことがあったような気がするけど、会うとなんだったのか忘れてしまって」
「改めてプレゼントありがとう」
「いいえ、今まで貰ってばかりで何も返せなくて。気に入ってもらえると嬉しいのだけど」
「ちょうど新しい財布がほしいと思っていたところだったから、とても嬉しいよ」
「そう言ってもらうと私も買ってきたかいがあるわ」
「カードもたくさん入るので便利に使えそうだ」
「今は何でもカードの時代だから、たくさん入る物でないといけないと思って」
「そうだね、最近は誰でも十枚以上のカードを持っているだろうね」
「私はまだそんなに持っていないけど、それでも就職すると銀行のカードとか会社の身分証明書もカードタイプだから増えてきたわ」
「話は変わるけど、確か五日まで休みって言っていたね。それでその日の午後に大阪へ帰るの?」
「今のところそういう予定よ」
「クラブの練習は何日も休んで大丈夫なのかい?」
「本当は大丈夫じゃないけど、こちらで練習するつもりなの。練習っていっても走るのが練習だから、コーチの指導を除けばどこにいても出来るのが取柄ね」
「また明日から毎朝十キロ程度の走り込みをするの?」
「そのつもりよ。ストレッチと走ることで練習になるわ。マラソンは足が資本なのは当たりまえだけど、あとは長距離を走るスタミナとスタミナの配分、ペース配分っていうのかな、それが大事なの。その配分を覚えるには走る距離を徐々に長くしていって、体で覚えるしかないの。だから今は十キロでも今後は二十キロ、そして三十キロと長い距離を走る練習になると思うの。取り敢えず二十キロの練習をして、ハーフマラソンにチャレンジしようと思っているわ。会社の監督もそういう方針で私を育てていくみたいなの」
「ハーフマラソンはフルマラソンの半分の距離だから、約二十一キロになるのかな?」
「そうよ」
「長い距離だね。いつ頃走るの?」
「私はまだ新人だからレースに出ても、この秋以降になると思うの。それまでは一生懸命練習をして、出させてもらったレースで結果が残せるようにしたいわ。良い結果が何度か出れば次はフルマラソンに挑戦して、そこでもまた結果次第で次の段階、つまり世界の中で行うレースに出られるようになるわ。そうなると今は夢のようなオリンピックだけど、出場も夢じゃなくなるかもしれないの」
「じゃあレースの結果次第で、数年後には世界の人達と走る可能性もあるってことだね」
「すべては結果次第だけど、結果を出すための努力だけは怠らずにやらなければならないし、私はただ頑張るだけね」
「頑張りすぎて体をこわさないにように気をつけないと」
「オーバーワークにならないように、それは十分に注意するわ」
「ところで明後日の四日だけど何か用事はあるかな?」
「いいえ、別に何もないわ」
「だったら大阪へ帰るまでに、もう一度会ってくれないかな?」
「私もそうしたいわ。またしばらく帰れないと思うから」
「じゃそうしよう。どこへ行くか考えておくけど、君も行きたい所があれば言ってくれたらいいから」
「特に行きたい所はないわ」
「それじゃ僕が考えておくよ。迎えの時間は十時でいいかな?」
「はい。朝の内に一時間ほど練習して、それからシャワーに行って御飯を食べて、出掛ける用意をすると十時ごろになると思うわ」
「じゃそういうことで今日はそろそろ帰りましょうか。お母さんも君と話したいでしょう」
「ええ」
 家に着いたら彼女からもう一度寄っていくように勧められたが、親子水入らずの時間も作ってあげようと思い、申し出を断り家に帰った。

        十五   明人の憂い
 家に帰った明人は明後日の行き先を考えていた。イチゴ狩りがシーズンで良いのではないかな?それともドライブにして、隣の福井県にある三方五湖方面へ行こうか?いずれにしてもゴールデンウィーク中だから人も車も多いのが難点だ。二・三ヶ所候補をあげてから、百合の希望を聞いて決めようと思った。
 その夜、明人は百合に電話を掛けて五日に出かける候補地を言った。行きたい所を尋ねたら「イチゴ狩りにしましょう」と言ったので、行き先は決まった。ただどこにするかはまだ決めていない。それをインターネットで調べておこうと思い、パソコンを開いた。一時間以内で行ける所はたくさんあるが、ハウス栽培以外は五月中旬からオープンとなっていて、思惑が外れてしまった。ハウス栽培は五月中旬まで行われているので、今ならまだ間に合う。明人はイチゴ狩りがちょうどシーズンと思っていただけに、自分の無知さを情けなく感じた。いちご狩りはもう彼女と相談して決めたので、今更変更もしたくない。取り敢えずインターネットで調べた結果、米原(まいばら)市に在る農園に電話を掛けて、状況を尋ねたら「もうしばらくは大丈夫」とのことで、二名の予約をお願いした。滋賀県は新幹線が停車する駅はひと駅だけで、それがこの米原だ。県庁所在地の大津駅でさえ、京都駅に近いせいか停車しない。

 当日、百合を約束の時間に迎えに行き、まっすぐに米原へと向かった。農園は祭日ということもあり、多くの人で賑わっていたが時間単位で人数の調整はしているそうだ。そのために予約制度を取り入れているとのことだった。それにしても、こういう所はやはり家族連れが多い。特に小さな子供を連れて来ている家族が多く、子供の楽しそうな笑顔とおいしそうにイチゴを食べている顔を見ていると(自分もいずれは結婚して、子供と一緒にここへ来られたらいいな)と思いながら、何となく彼女の顔を見ていた。しかし今はまだ非現実的な話だ。彼女の年齢やマラソンへの夢、それらを考えると、もし結婚できたとしても何年後になるか分からない。突然陸上を止めるとでも言い出せば、話は別だが。そうでもない限りオリンピック出場の夢を実現させるには二〇二十年の東京で、今から三年後になり彼女は二十二歳、自分は二十七歳になる。そう考えると子供を連れてイチゴ狩りなんて、それこそいつの話になるのか先の見えない遠い未来のような気がする。さりとてそんな話を彼女にするわけにもいかず、自分の不透明な将来に少し不安を感じた。明人がそんなことを考えているとは想像もしていない百合が、彼に言った。
「私、お母さんの御土産に買っていくわ」
 そう言ってイチゴをパックに詰め始めた。
「それじゃ僕もそうするよ」
 二人はそれぞれの家に御土産のイチゴを買って車に戻ると、明人は時計を見て彼女に聞いた。
「十二時を過ぎたけど、お昼御飯はどうする?」
「いま食べたイチゴでお腹は空いてないけど」
「もう少し後にしようか?」
「そうしましょう」
「百合ちゃんは山東町にある【グリーンパーク山東】って知っているかな?」
「聞いたことはあるけど、行ったことはないわ」
「そこへ行こうか?」
「私はどこでもいいわ」
「じゃあそうしよう」

 グリーンパーク山東には三島池があり、池の周りに遊歩道が作られていて、歩道沿いにはたくさんの花が植えられている。そして池には多くの水鳥が生息していて悠々と泳いでいる。また色々と施設も整っていてキャンプもできる。若い人はテニスを、年配の人はゲートボールを楽しめて宿泊もできるという総合レジャー施設なのだ。
 車を駐車場に停めた二人は手を繋いで、池の周りの歩道を歩き始めた。山頂付近に雪が残った伊吹山(いぶきやま)がきれいだ。伊吹山は滋賀県では一番高い山で岐阜県とまたがっているが、標高は一三七七メートルある。

 池をひと回りしてからベンチに腰掛けると、明人が百合に聞いた。
「明日のことだけど、何時ごろ家を出るの?」
「お昼を家で食べてから一時ごろ出るつもりをしているわ」
「僕に米原駅まで遅らせてくれないかな?」
「でも悪いわ」
「そんなことないよ、僕は毎日でも君に会っていたいと思っているから」
「ありがとう、それじゃお言葉に甘えるわ」
「本当は会社の寮まで送りたいと思っているんだ。でも君を降ろしたら帰りは一人ぼっちで、とても寂しい長距離運転になるので止めておきます」
「だったら帰りも楽しい長距離運転になるように、会社に休暇をもらって二人で帰りましょうか?」
 百合は軽く冗談を言った。明人は彼女が冗談を言うのは珍しいことだと思った。
「それじゃ一時前に迎えに行くよ」
「はい」
「そろそろ帰ろうか?」
「ええ、お土産のイチゴがまずくなるといけないし」
「そう言えばお昼を食べていなかったね。どうしよう?」
「今の時間だと中途半端になってしまうわ」
「晩御飯まで辛抱する?それとも帰り道の途中でどこかに寄るかい?」
「じゃあ途中にあるコンビニで、何か軽いものを買いましょうか?」
「そうしよう」
 コンビニへ入った二人はサンドイッチと飲み物を買い、車に戻った。車の中で食べ終えてから改めて帰路についた。百合の家に着くと母は晩御飯の用意をしていたらしく、前掛けをしたまま迎えに出てくれた。
「二人ともお帰りなさい。イチゴ園はどうだった」
「とてもおいしかったわ。お母さんにも御土産に買ってきたから、後で食べてね」
「ありがとう。武田さん、明日も会社はお休みでしょう。今日は家(うち)で晩御飯を食べて、ゆっくりしていったらいいわ」
「ありがとうございます。でもいつも食べさせていただくばかりで」
「そんなことは気にしなくていいのよ。百合は武田さんと出掛けたら、奢ってもらってばかりなんでしょう」
 百合は母にそう言われ、返す言葉がなかったので急に話題を変えて言った。
「明人さんに明日の午後、米原駅まで送ってもらうわ」
「そうなの、いつもすみません」
 母は明人にお礼を言ってキッチンへと戻っていった。

 結婚の約束をしているわけでもない女性の家で、母親からこんなに親切にしてもらい、今後もし別れるようなことにでもなったらと思うと、母に申し訳ないような気持ちになった。別れることなど今は考えられないが、先々絶対に別れないという保証もない。交際の終わりは結婚するか別れるかのどちらかだ。

 翌日の午後一時に彼女を米原駅まで送るべく家に迎えに行くと、すでに表に出て母と一緒に待っていた。駅で入場券を買うと一緒に構内へ入って、百合の乗った電車が見えなくなるまで見送りながら(今度はいつ帰って来るのかな?)と、次に会う日が未定だということに対して、寂しい気持ちで長い日々を過ごすのは辛いと思った。
         
                             前編    完

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