7-15. 大団円
午前の授業へ出席するため、バタバタと廊下を走るユウリのスカートがいきなり掴まれて、彼女はもんどりうって転けそうになった。
振り返って、スミレ色の涙目に睨みつけられる。
「お、おはよう、ナディア……」
「おはよう、じゃないでしょ!」
どれ程心配したと思っている、と叫ばれると同時に、力強く抱き締められた。
ナディアの声量で注目されて、周りの視線が痛い。
「ご、ごめん、ナディア……」
「ユージン様から大丈夫だと聞いたけれど、それにしても、どうして直ぐに……」
肩口に鼻先を埋めながら嘆くナディアは、何かに気づいた様子でそこで言葉を切って、怪訝な顔でユウリを見つめた。
ごめん、と謝りながらも、ユウリはその意味がわからず、曖昧に微笑み返す。
途端に、ナディアの瞳がすうっと細められた。
「……どこの、誰なの」
「へ?」
「どこの馬の骨が、私のユウリに、こんな……!!」
「ぎゃあ、何すんの、ナディア!」
がばっと襟元を広げられて、ユウリは悲鳴を上げる。けれど、ナディアの視線の先を追って、一気に全身が紅潮した。
ユウリの鎖骨付近に、昨夜の名残が、桜色に散っている。
「ここここここれは、む、虫……! 地下室にいたから、虫に噛まれて……!!」
「あの、クソウェズの野郎か……ウジウジ銀髪野郎か……」
「違うからぁっ! あと、言葉遣いぃぃ!!」
殺気立つナディアを宥めて、ユウリは溜息を吐いた。まだ頰の熱は引かない。
「ちゃんと話すから。あと、ヨルンさんをそんな風に呼ばないで」
目を丸くするナディアを物陰に押し込んで、ユウリは昨夜の出来事を話し始めた。
***
ヨルンは、困った顔で長椅子に腰掛けている。
目の前には、涙目のまま仁王立ちになっているユウリがいて、他のカウンシルメンバー達は執務室の隅から成り行きを見守っていた。
「説明、してください」
ユウリはヨルンを睨みつけながら、泣きそうになっている。
今朝、ヨルンとのことを告げる決心をした時に予想していなくもなかったが、泣き喚くナディアを宥めるのに、ユウリは午前の授業をサボる羽目になった。
仕方がない、と庭園のベンチでナディアが落ち着くのを待っていると、泣き止んだ彼女が真っ赤な目でユウリに聞いた。
「本当に、それでいいの?」
もちろんだと、ユウリは躊躇いなく答えた。
確かに急速に進展してしまった感は否めないが、ずっとお互い、惹かれ合っていたことは確かだから、と。
祝福してくれると思っていたナディアが、それでも眉間に皺を寄せているのに気付いて、ユウリは困惑する。
躊躇いがちに、言葉を選ぶように、ナディアは言った。
「……次期王位継承者には、大抵の場合、正妃候補がいること、ユウリは知っているの?」
愕然とした。
正妃候補、それは、事実上の婚約者だ。
ナディアが告げたのは、彼女達は往々にして、国王陛下によって良家の子女達から選ばれるということ。
自分達の娘を娶ってもらうために、貴族達はこぞって、彼女達に十分な教養と作法を叩き込む。
ヨルンにも、そういった女性達がいるばずだ、と。
「もし、貴女がそれを知らずにヨルン様を受け入れたんだったら、私……」
「ナディア……」
自分のためにはらはらと涙を零す友人の肩を抱いて、ユウリは深呼吸した。
そんなこと、知らなかった。
けれど、二人で確かめ合った想いは本物で。
「それでも、私はヨルンさんが大好きなの」
「ユウリ、貴女」
「……愛してるって、言ってくれた。こんな幸せな気持ち、手放せないよ」
だから、信じたい。
そう言うユウリに、ナディアは柔らかに笑って、頷いた。
「ユウリが、幸せなら」
ナディアと別れて、幸せではあるけれど、とユウリは独り言ちる。
(それと、これとは、別問題だ)
「だから、説明してください。ヨルンさんの正妃候補は、何人いるんですか」
ヨルンの前に仁王立ちになって問い詰める。
彼の困った顔に泣きそうになるが、ユウリは目を逸らさない。
そんな彼女に、ヨルンはとうとう笑いを堪えきれなくなった。
「馬鹿だなぁ、ユウリは」
「ばっ!? 酷くないですか、ソレ!」
憤慨するユウリを手招きする。
怒りながらもそれに従ってしまうユウリに、ヨルンは益々笑みが溢れた。
彼女の手を思い切り引っ張り、自分の膝の上に座らせる。
「わ、ちょ、ヨルンさん……!」
「俺が、ユウリ以外欲しいわけないでしょ」
でも、と言い募るユウリの唇を、自分の唇で塞ぐ。
疑った罰だとでもいうように、ヨルンはワザと音を立てるように口付けを終えて。
「誰が何と言おうと、ユウリはずっと俺の隣にいてもらうから」
ロッシが我関せずと植物の世話をする横で、固まって聞き耳を立てていた他のカウンシルメンバー達は、目の前の光景に呆気に取られていた。
「何、アレ……」
「修羅場の後の大団円ってところですかね……」
「ユージン様、いいんですか?」
ヴァネッサに振られたユージンは、勢いよく舌打ちをする。けれど、その口元は僅かに笑っていた。
(また、負けたな)
最強の魔力と最高の頭脳、さらには最愛の女まで手に入れてしまったヨルンに、最早嫉妬心すら湧かない。
優しい女の隣は、優しい王の方が相応しいと、わかっていた。
「あーあ」
そんなユージンの横で、リュカが暗い溜息を漏らす。
ユージンが片眉を上げて、呆れたように嘆息した。
「俺が言えた義理じゃないが……お前も、中々難儀な性格だな」
「そうだねぇ……」
自分自身で兄という立場を選んだリュカだが、彼自身もユウリをこの上なく愛しいと思っていたのだ。目の前で繰り広げられる二人の世界に、多少辛い想いが混じる。
そんなカウンシルメンバー達を尻目に、ユウリはヨルンの膝の上で、真っ赤な石像と化していた。