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序章

      一   序章
 昭和二十七年の一月、滋賀県長浜市木之本町の片田舎に一人の男が生まれた。その当時の住所は滋賀県伊香郡(いかぐん)木之本町だったが、平成の大合併により長浜市木之本町と変わった。
 滋賀県は琵琶湖を中心に「湖東、湖西、湖南、湖北」と、四つに分けた地域名で呼ばれている。その中で木之本町は県の北部にあるので湖北地域に入る。
 そこで生まれた彼の名前は、秋田 義男(あきた よしお)現在二十四歳だ。身長百七十五センチ・体重は六十五キロと、ややスリムな体型をしている。髪は短めで、ごく普通に七三分けをしていた。決して男前とは言えないが、優しそうな顔の笑顔が爽やかな青年だった。      
 
 義男は昭和四十二年の三月に中学校を卒業すると、すぐに就職をした。この頃は高校へ進学する子が約七割で、就職する子は三割くらいだった。義男の家は貧乏で、進学をするのに必要な費用を工面するのも難しい状態だと、本人も分かっていたので敢えて就職の道を選んだのだった。中学生の時から(一日でも早く働いて、自分の手でお金を儲けよう)と思っていた。それに勉強もあまり好きではなかったので、無理に進学しようとも思わなかった。しかしその考えは後々、彼にとって非常に浅はかな考えだったことを思い知らされることとなった。
 勤めた会社は木之本町の郊外にあり、家から自転車で五十分ほどの所で自動車用のエンジンを製造している大きな会社だった。年齢的に車の免許を取れないので自転車で通勤をしていたが、十六歳になると夜間の自動車学校に通って免許を取った。今は十八歳にならないと取れないが、当時は十六歳で軽自動車の免許が取れた。自動車学校は一番近い所でも隣県の福井県敦賀市まで行かなければならず、会社の仕事が終わると学校が用意したスクールバスに乗って毎日通った。学校では午後の六時から九時まで講習を受けて、家に帰ると夜の十時を過ぎていた。
 約二か月の講習を終えたあと試験を受けて、免許を取ると同時に自動車の免許で乗れる、原動機付自転車と呼ばれる排気量五十CCのバイクを買った。月給の初任給は二万円弱で、一年後でも三万円前後だった。そのため車を買うほどのお金がまだ無かったので、取り敢えずバイクを買って通勤を始めた。自転車と違ってバイクは楽だった。ペダルを漕ぐ必要もなく、上り坂でもハンドルのスロットルを少し回せばスイスイと走ってくれる。体にも負担が掛からなくなった。それから一年余りが過ぎ、車の頭金が貯まったのでローンで中古の軽自動車を買った。バイクは楽だったが、自動車はもっと楽だった。雨の日でもカッパを着ることもなく、冬でも車内は暖房が効いて暖かく、実に快適だった。ただ現在売られている軽自動車とは比べ物にならないほど車内は狭く、またエンジン音も大きかった。半世紀が経った今、技術の向上に目覚ましいものを感じるのは、同じ年代を生きて来た方々なら誰もが思うことだろう。
 そんな生活を日々送っていた義男には、大きな夢がひとつだけあった。それはどこか近くの町に家を建てて、田舎から出ることだった。いま住んでいる村はバスも通らず、乗ろうと思えば隣村のバス停まで自転車で二十分掛けて行かなければならなかった。さらには冬になると積雪が多くて移動の手段は徒歩しかない状態になった。その当時は雪が積もっても、除雪車などの設備が少なくて、すぐに除雪はしてくれなかった。それで小学校と中学校は学校の近くに寄宿舎が作られていて、約二か月は家から離れて他の学生と一緒に寄宿生活をしていた。働くようになってからも車を買うまでは、木之本町内で知り合いの家に部屋を借りて住んだ。そのような生活から少しでも早く抜け出す為には、自分の手で家を建てることだ。しかしその夢を叶えるには当然多額のお金が必要なので、会社の残業や休日出勤もいとわず、一生懸命働いてお金を貯めた。もちろん酒も飲まず煙草も吸わず、贅沢と言えば車だけだった。

 働き始めて七年が過ぎた二十二歳のとき、義男は好きになった女性がいた。それまでも好意を持った女性はいたが、交際に至ることはなかった。だが今回は違った。その女性の名前は山路 典子(やまじ のりこ)という。年齢は十九歳で短大へ通っていた。顔は美人とは言えず、それほど可愛いとも言えなかったが、セミロングの髪が印象的で義男の好きなタイプだった。そんな彼女と知り合ったのは、青年団の集会の時だった。
 
 秋も深まった十一月の半ば、各村の役員が集まった席で義男は彼女と初めて会った。特に話をすることはなかったが、遠目で見ていて感じの良い女性だと思った。その後も青年団の行事で何度か会う機会はあったが、相変わらず話すことはなかった。しかしチャンスがあれば、話したいなと思っていた。
 そして日は流れ、新たな年が始まった一月のことだった。新年の集会を終えて家に帰ろうとしていた義男が集会所を出ると、彼女が玄関の外に立っていた。だからといって声を掛ける勇気もなかったが、「お疲れさまでした」と挨拶だけはした。もちろん彼女も挨拶を返してくれた。だが声に元気がないというか、不安な話し方のように感じた義男は彼女に聞いた。
「どうかしたんですか?元気がないようですが」
「雪がひどくなってきたから、車の運転が少し不安なんです」
「ああ、そうですね。来るときは降っていなかったのに」
「天気予報も降らないようなことを言っていたので、車で来たのに」
 それを聞いた義男は(これは仲良くなるチャンスだ)と思った。そこで彼女に言った。
「あの~もし良かったら、昼ご飯でも食べに行きませんか?時間も十二時ですし、食べているうちに雪も止むかもしれませんよ」
 義男にとっても彼女にとっても初めて話したのに、いきなり食事に誘うのは非常識だと分かってはいた。断られるのも承知の上だったが、せっかくの機会を逃したくなくて誘った。話すのは初めてでも、今までから顔は何度も合わせているので、全くの他人同士が初めて話すのとは訳が違うからだ。彼女がどう思っているかは分からないが。
「そうね・・・そうしようかな」
 彼女がそう答えた。
「じゃあ僕の行きつけの店があるので、そこで食べようか?」
「ええ」
「雪も降っているので、僕の車に乗って」
 彼女が誘いを受けてくれたので顔には出さなかったが、義男は嬉しくて心が弾んだ。
 
 義男の行きつけの店とは町内にある喫茶店だ。名前を(ロマン)という。その店でコーヒーを飲みながら、常連客や店のママと喋るのが楽しかった。いつも仕事帰りに店に寄り、一時間ほどお喋りをしてから帰宅した。
 
 二人で店に入るとママが「いらっしゃい」と声を掛けた。そして微笑みながら言った。
「あらっ秋田さん、女の子と一緒なんて珍しいわね。初めてでしょう?」
「ええ初めてです」
「紹介してくれる?」
「いえ、紹介するほど僕もこの子のことは知らないんですよ」
「知らない子を誘ったの?」
「全然知らないことはないけど、青年団で一緒に活動しているだけです」
「そうなの、それで知っているのね」
「はい、でも話したのは今日が初めてなので、知らないも同然です」
 山路典子はにこにこしながら、二人の会話を聞いている。
「名前は知っているんでしょう?」
「ははは、それくらいは知っていますよ。山路さんです」
「山路さんっていうの、よろしくね」
 ママが彼女のほうを見て、そう言った。
「こちらこそ」
 彼女はそう返した。
「ママさん、お腹が空いたから何か作って」
「何にする?」
「山路さん、君は何がいいかな?」
「私はチャーハンにするわ」
「じゃあ僕も一緒で」
「はい、チャーハンふたつね」

 義男と典子はチャーハンを待っている間も、それを食べている間もよく話した。彼女はとても明るい性格で、元々好意を持っていた義男は典子の顔や容姿だけでなく、性格も好きになった。
 義男は食後のコーヒーを飲みながら考えていた。(今日はもうすぐ別れることになるだろうけど、また会うにはどうすればいいのだろう?)
 今の時代なら携帯電話の番号を聞けるのだが、昭和五十年には携帯電話など作られてもいない時代だった。(家の電話番号を聞こうか?それとも今のうちに次に会う約束をしようか?)そうは思ってみても、義男にはその勇気が出なかった。
 コーヒーを飲み終えて外を見ると雪はやんでいた。
「山路さん、雪がやんでいますよ」
「ほんとね、良かったわ。じゃあ今のうちに帰ろうかしら」
「そうするといいよ。集会所まで送るから」
「ええ、どうもありがとう」
 義男は車に乗ると、来た道を引き返し典子が停めておいた車の所まで送った。その短い道中でも、次に誘う口実を考えていたが何も思いつかず、そのまま別れたのだった。次に会えるとすれば一か月後の集会だろうけど、彼女が必ず来るとは限っていない。義男は彼女が来ることを願って、一日千秋の思いで一か月を過ごした。

      二    初デート
 その一か月が過ぎた集会の日。義男の不安をよそに彼女は来ていた。離れた席に座っていた二人だったが、目と目が合うと軽く会釈を交わした。一時間余りで終わった集会後に、義男は帰ろうとしていた典子に近づいた。
「山路さん、この前は無事に帰れましたか?」
「ええ大丈夫でした」
 典子はにっこりと笑いながらそう答えた。そこで義男は今日もお昼を誘おうと決めて、不安ながらも誘ってみた。
「良かったら今日もお昼を食べに行きませんか?」
「行きましょうか、私お腹が空いているの」
 どきどきと胸の鼓動を高くしながら誘った義男に、彼女はあっさりそう答えたのだった。
「じゃあ今日も僕の車で行こうか?」
「ええ乗せてね」
 そうして二人は一か月前と同じようにロマンへ向かった。

「いらっしゃい。山路さん久しぶりね」
「はい、一か月ぶりです」
「秋田さんが誘わないからでしょう?」
 ママは何とも意味深な発言をした。
「ママさん、今日は青年団の集会で会ったから誘えたけど、普段は会えないし連絡先も分からないから誘うのは無理ですよ」
 義男がそう答えた。
「あらっ、そうだったの。でもそれは秋田さんが山路さんに連絡先を聞かないからでしょう?」
「それはそうだけど、迷惑を掛けると悪いから」
「山路さん、秋田さんに誘われると迷惑なの?」
 ママは彼女に話を振った。
「いえ、そんなことはありません」
「秋田さん、そうだって」
「ママさん、その話はそれくらいで勘弁してください。それより何か作ってください」
「はい、はい」
 ママは笑いながら「はい」を二度言った。典子は隣の席で相変わらず、にこにこと笑っていた。
 食事を終えて車に乗った義男は(今日はこのまま別れたくない)と思っていた。もう少し会っていたいので、何か引き留める口実がないかと頭の中で考えていた。そして言った。
「もう帰らないといけないかな?」
「どうして?」
「いえ、迷惑じゃなければもう少し話がしたいから」
「別に構わないけど」
「そう、じゃあもう少し付き合って」
 そう言うと義男は車のエンジンを掛けて、国道八号線を南に向かった。特に行くあてはなかったが、適当にドライブをして話せればそれで良かった。そうして彼女との話も弾み、時間は瞬く間に過ぎていった。そんな二人だったが、義男にとっては無情にも別れの時間が刻々と迫っていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「ええ」
 彼女が二人だけの時間をどう感じたか分からないが、義男は次に会う約束をしたかった。断られるのは仕方がないが、誘うだけは誘ってみようと思い、話し掛けた。
「あの・・・誘って迷惑じゃなかったかな?」
「いえ、そんなことないわ。ロマンのママに聞かれたときも、そう言ったけど」
「じゃあまた会ってくれる?」
「いいわよ」
 義男は彼女の返事を聞いて、ホッとすると同時に心が弾んだ。ただあまりにもうまく行き過ぎて、どうしてだろうと不思議な感じがした。自分は彼女を好きだから誘っているが、彼女はその誘いに対して、あっさりとオーケーしてくれるのは、もしかしたら僕に好意を持っていてくれるのか?それとも誘いを断ることができない性格なのか?分からないが、今はそれを聞くことができるほどの仲ではない。
 義男が聞いた。
「どこか遊びに行きたい所はあるかな?」
「特にないわよ」
「だったら僕が考えておくよ」
 二人は次に会う約束を交わして、その日は別れた。

     三    交際と別れ
 翌週の日曜日、約束通りに義男と典子は会った。
「今日はどこへ連れて行ってくれるの?」
 典子が義男に聞いた。
「京都はどう?」
「いいわね」
「清水寺とか金閣寺、植物園も行きたいな。そこで君の写真を撮ろうと思っているんだ」
「カメラを持ってきたの?」
「うん、安物だけど」
「じゃあ私も秋田さんを撮ってあげるわ」
「二人一緒に撮ろうか?」
「撮れるの?」
「自動のシャッター操作ができるから撮れるよ」
「そうなんだ」

 二人は途中で昼食を挟んで、市内の観光地をいくつか周ると帰路に就いた。そしてその帰り道に義男はあれこれと考えていた。それは典子のことだ。
(今日の彼女の様子を見ている限り、楽しそうにしているように見えた。話もそれなりに弾んでいたと思っている。それに何より、誘いを断ることなく受けてくれたのだ。そんな彼女に自分の気持ちを言わないまま、誘い続けるのは中途半端な付き合いになってしまう。自分の気持ちを言って、彼女の気持ちも聞いて、出来れば交際したいと思った。もし次も誘って受けてもらえたとしても、もやもやした気持ちのままで会うことになるだろう。好きだったら、そして会うのを断られなかったら、遅かれ早かれ告白する日がやってくるのだ。だったら今すぐに言ったほうが気が楽になる。結果は別にして)
 
 あと三十分もすれば別れるという所まで帰ってきた義男は、典子に話し掛けた。
「山路さん、今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「私も楽しかったわ。写真が出来たら見せてよ」
「うん、連絡するから家の電話番号を教えて?」
 典子に番号を聞いたあと、義男は思い切って言った。
「もう言わなくても気付いていると思うけど、僕は山路さんのことが好きなんだよ。君の気持ちは分からないから、嫌なら無理にとは言わないけど、もし嫌でなかったら、付き合ってくれないかな?」
「いいわよ。秋田さんとは青年団で一緒だったので、全然知らない人じゃなかったから、初めて話した時も気軽に話せたし、何回か会って話して気も合いそうだから」
「嬉しいな、思い切って申し込んで良かった。断られるのも覚悟していたから」
 こうして二人は正式に交際を始めた。ただ義男にとっては自分の好きという気持ちが優先して、ただただ会いたい、話したい、付き合いたいとばかりで、後先を考えずに申し込んだが、いざ申し込みをを受けてもらうと、ひとつだけ心が痛むことがあった。それは自分の学歴だ。中学校しか卒業していない義男と比べると、彼女は短大へ通っていて、やがて卒業するだろう。そんな短大卒の彼女と付き合うことになれば、学歴の差というものが、どうしても不安になる。その差は今更埋めることができないので、それは何ともしようがないことだが、現実的に考えて反対の学歴ならともかく、男の自分が彼女よりも下の学歴で、しかも中卒では彼女が知ったらどう思うだろう?そんな人とは付き合えないと言うかもしれない。正直に打ち明ける勇気もないので気にはなるが、今は流れに身を任すより仕方がなかった。
 それからは月に何度かの割合で会っていたが、学校に関する話などは一切せず、そんな話題に近づかないようにと注意をしながら喋った。しかし交際が順調に続くに従って、義男の気持ちの中で学歴のことが大きなウェイトを占めてきたのだった。最近では付き合っている喜びよりも、そのことで悩む辛さのほうが増していた。

 その後、二人の交際は順調に続いて半年が過ぎた。義男はその半年の間、典子を誘うときは夜の遅くない時間に、家に電話を掛けて誘っていた。
 その日も典子を誘おうと思い、家に電話を掛けた。すると今までなら、ほとんどは彼女が電話に出ていたのに今日は母親が出た。彼女を呼んでもらうべく言うと、母は言った。
「典子は出掛けていて居ません」と。それで帰る時間を訪ねると「分かりません」との返事だった。何度も掛けるのは嫌だったから、その日はもう掛けなかったが、翌日の日曜日のそう早くもない時間に電話を掛けた。するとまた母が電話に出て「典子は朝から出掛けました」との返事が返ってきた。
 義男は思った。昨日といい、今朝といい、彼女が留守なのは偶然じゃないだろう。おそらく家に居たが、電話に出ることを拒否したのだ。もしそうでなければ、昨夜僕から掛かってきた電話のことを母から聞いていれば、今までの経験からみても、彼女から僕に掛けてくるはずだ。それが掛かってこないところをみると、そうに違いない。それはどうしてなんだろう?ここ数日の間に何かがあったんだろうか?考えても思い当たることは、ひとつもなかった。
 少し前にも書いたが、昭和の時代に携帯電話など無く、家の中に有る固定電話のみだったから、直接本人に掛けることはできなかった。掛けても家族が出て「居ません」と言われれば「そうですか」と言って、切るより仕方がなかったのだ。彼女と音信普通になってから一か月が過ぎた頃、ようやく一本の電話があった「話があるから会いましょう」という電話だった。その声を聞いた時、(彼女の話は別れ話だ)と、すぐに察しがついた。

 話は一か月前に遡り、典子の家でのこと。彼女は父から話があると言われた。
「典子、おまえ付き合っている男がいるそうだな」
 父は義男から掛かってくる電話と、それに母からも話を聞いているのだろう。詳しいことは知らなくとも、ある程度は察しがついているのだ。
「ええ、いるわ」
「問題ない男なんだろうな?」
「問題って?」
「だから、ちゃんとした男かということだ」
「いい人よ」
「だったら名前や勤め先くらいは、教えてくれてもいいだろう?」
 典子は父に聞かれるまま、彼のことについて簡単に話した。父は彼との交際を反対しようと思い、娘と話したわけではなさそうだったので、典子はほっとした。おそらくは心配だから、相手のことを知っておきたかったのだろう。

 それから一週間が過ぎたころ、典子はまた父から呼ばれた。
「典子、このあいだの話の続きだが、おまえが付き合っている男のことを父さん、少し調べさせてもらったよ。それでその秋田君だが、人間性や勤めている会社は問題ないのだが、学校は中学校しか出ていないようなんだ。その点だけが父さんは納得できないんだ。今後、付き合いが続いて結婚ともなれば、親戚や知人に色んなことを聞かれるだろう。それでもし学歴の話がでたとき、相手が中卒だとは言いづらいからな。父さんは別に中卒が悪いとは言っていないよ。誰にでも事情というものがあるのだから。それは仕方がないが、誰かに聞かれたときは、父さんも母さんも少しばかり辛い思いをするだろうな。おまえが短大卒となれば、なおさらだよ。それで典子は秋田君が中卒だと知っていたのか?」
「ううん、知らなかったわ。そんなこと少しも考えていなかったから聞きもしなかったし、彼も話してくれなかったから」
「そうだったのか、じゃあそれを聞いてどう思うのだ?」
「どうって・・・分からないわ。やさしくていい人には違いないけど」
「父さんは無下に反対するつもりはないが、先のことを考えると少しばかり頭の痛い話だよ。しかし典子がそれでも構わないと言うのなら、おまえの好きにすればいいよ。母さんとも話したが、最後はおまえの判断で決めればいいから」
 典子は自分の気持ちを大切にしてくれる父の言葉が嬉しかった。ただその反面、自分も父の気持ちを大切にしなければいけないと思った。

 それからの典子は彼との交際についてじっくりと考えていた。
(彼の中卒という学歴については、好きなんだから別に構わないと思う。ただそのことで両親に辛い思いはさせたくない。もし父が『そんな男は絶対にだめだ』と頭ごなしに反対したなら、自分としては無理にでも交際を続けるかもしれないが、ああいうふうに優しく言われると、両親に対して何だか悪いことをしているようで、申し訳なく思ってしまう)
 その間も彼から家に電話があったが、考えが決まらないうちは敢えて出なかった。
 あれこれと考え、悩みながらの一か月が過ぎて典子はようやく結論を出した。

(自分の気持ちも大事にしなければいけないけど、両親の気持ちを知りながら交際を続けていて、楽しいと感じるだろうか?もし自分だけが幸せになったとしても、家族のみんなに喜んでもらえないのだったら、そして両親に辛い思いをさせるのであれば、それは本当の幸せとは言えないだろう。だったらそんな交際はやめるべきではないか。それと彼のことは好きだけど、両親の反対を押し切ってでも交際を続けようと思わないのは、本当に心の底から愛していないのかな?もし心底愛していたら、誰が何と言おうと別れることなんてできないと思う。その程度の気持ちなら別れたほうが、お互いのために良いのだ。彼には申し訳ないが、そうしよう。ただ別れるには何か別れる理由を言わなければならないが、どう言えばいいのか分からない。本当の理由なんか言えるはずがない。嘘でもいいから何か理由を言うより仕方がない。彼はおそらく訳を聞いてくるだろう)
 典子はその点だけを悩んだが、その場の状況に合わせて話をしようと思い、秋田に「話があるから会いましょう」と、電話を掛けた。

      四   義男の推測
 次の日曜日、義男は典子と約束どおり会った。彼女の顔や態度で自分の推測は間違っていなかったと確信した。それでも話を(聞くだけは聞こう)と思い、話し始めるのを黙って待っていた。しばらくすると彼女は重い口を開き、話し始めた。話は推測どおり別れ話だった。彼女は「付き合うのをやめたい」と言っただけで、その理由はひと言も話さなかった。義男も敢えてその理由を聞かなかった。話しているときの顔と口調から判断して、二人の仲が元に戻ることは百パーセント不可能だと分かったからだ。たとえ聞いたとしても、本当の理由を言わないような気がした。言いやすい理由だったら最初から言うだろう。言いにくい理由だから言わないのだと思った。無理に聞けば、却って自分が傷つきそうな気がした。
 どんなカップルでも別れるとなれば、何か理由がある。例えば「気持ちが覚めてしまった」とか「他に好きな人ができた」とか、それと何らかの理由があって「家族や周りから反対されて仕方なく」というのもあるだろう。もしそうだとすれば、今度はその反対された理由を言わなくてはならなくなる。彼女が別れる理由を言わないのは、言いにくいからに違いないだろう。その言いにくかった理由が何なのかは分からないが、推測するには、やはり学歴が絡んでいるような気がしてならなかった。彼女は何らかの形で学歴を知ったのかもしれない。しかしそれはあくまで想像なので、実際は違う理由の可能性もある。もし想像が当たっていたとすれば、別れる理由を「学歴が違うから家族に反対された」などとは、絶対に言わないだろう。ただ本当に愛してくれていたなら、そして二人の心が太い糸で結ばれていたならば、別れたりはしないだろうと思う。別れる理由が本当にそうだとしたら、彼女は僕のことをそこまでは愛していなくて、家族の反対に同意したということになる。言いやすい理由、あるいは言っても差し障りのない理由なら、普通に言っただろうと思う。「気持ちが覚めたから」と言ってくれたら、それを信じていたかもしれない。理由を言わないから学歴に関係しているのではないだろうかと、疑ってしまうのだ。
 
 結局、別れ話を受け入れただけで、最後まで理由を聞かないまま典子を送り届けた義男は、一人になると考えていた。
 今後もし好きになった女性ができたとしても、高卒なり大卒の女性だったら、決して自分のほうからは交際を求めたりしないでおこうと思った。学歴が違えば交際を始めても、最後は破局が待っているだけだと思えたからだ。
 
 義男は女性の存在を意識し始めた頃、高校へ進学しなかったことを後悔した。夜間の高校へ入学することも考えたが、その高校は近い所でも長浜市内にあり、働きながら、そして冬の天候などを考えると、家から通うには無理があったので諦めた。

 一方、典子は秋田に別れを告げて家に戻ると、一人で考えていた。
(彼は私から別れようと言ったにも関わらず、その理由を聞かずに一方的とも言える別れ話を受け入れてくれた。どうして訳を聞かなかったのだろう?
 もしかしたら別れの理由に気付いていたのかもしれない。それとも聞いたところで元の仲に戻ることは不可能だと思い、聞かなかったのか?私を困らせるようなことはしたくなかったから、敢えて聞かないまま受け入れてくれたのか?そうだとすれば、それは彼の優しさだろう。いずれにしても彼には申し訳ない結論を下してしまった身勝手な私を許してほしいと思った)

 典子との交際に終止符が打たれた数日後、義男がロマンへ行くとママが聞いてきた。
「最近、山路さんと一緒に来ないのね」
「ママさん、彼女とは終わってしまったんです」
「えっ、どうしてなの?」
「どうしてでしょうね、ぼくにもよく分かりません」
「別れるには、何か理由があったのでしょう?」
「それはあると思いますが、何も聞かなかったので」
「どうして聞かなかったの?」
「聞いても本当のことを話してもらえるかどうか分からないし、彼女の顔や態度から察して何を言おうと聞こうと、もう元の仲には戻れないと感じたから、無理に聞き出すのはやめようと思ったんです」
「そうなの、確かに本当の理由を言うかどうか、分からないわね。でも、ふられる立場としては、嘘でも何でも聞きたいと思わなかったの?」
「実を言うと、理由を聞くのが恐かったんです」
「恐いとは?」
「それはママさんにも言えません」
「何か事情があるのね?」
「はい、また言える日が来たら言います」
「そう、でも残念だったわね」
「仕方ありません。彼女の僕に対する気持ちは、その程度だったんでしょう」
「そうかもしれないわね。それだったら早いうちに別れたほうが、お互いのために良かったと思いましょうよ」
「ええ、そう思っています」
「また、いい子が見つかるわよ」
 義男はママが「何か事情があるのね」と言ったが、学歴のことは言いたくなかった。

      五   新たな恋
 義男は典子と別れてから一年半が過ぎた今でも、相変わらず喫茶店(ロマン)に一人で通っていた。そしてそれは暑い夏が始まった七月初めのことだった。ある日、仕事を終えてロマンに行くと、カウンターに見知らぬ二人の女性が座っていた。二人は何やら話しながら楽しそうに笑っているようだったが、彼女たちの顔は見えなかった。いつものようにカウンターの端の席に座り、コーヒーを注文した。傍らにあった新聞を読みながら待っていると、ママが義男に言った。
「この子たちと会うのは初めてかな?」
「ええ、そうです」
「じゃあ紹介しておくわ」
 そう言って、二人の女性を紹介してくれた。もちろん義男のことも彼女たちに紹介した。そしてその時、二人の顔を正面から見た瞬間だった。二人の内の一人を見たとたん、ハッとして一瞬釘付けになった。すぐに彼女の顔から視線を外して冷静さを保ったが、心臓だけはどきどきと高まっているのが抑えられなかった。そう、二人の内の一人を、一目見ただけで好きになってしまったのだった。こんな気持ちになることは今まで一度もなかった。今までなら最初は好意を持ち、それから話したりしている内に徐々に好きになっていくことはあっても、一目見て好きになるのは初めての経験だった。
その時、ママは何やら話していたが、ボーとして上の空で聞いている状態だった。どうして彼女たちを紹介してくれたのかは分からないが、もしかしたら一年半前に交際相手と別れたことを不憫に思い、(誰か良い子と、付き合えるきっかけを作ってあげよう)との思いやりで、紹介してくれたのかもしれないと思った。彼女たちはこの喫茶店に普段は日曜日だけ来ていたので、今まで一度も日曜日には来なかった義男とは会わなかったのだった。それが今日は平日なのに彼女たちが来たのは、話を聞くと「会社を休んで一泊二日の旅行に行った帰りに寄った」とのことだった。義男は元々よく喋るほうの部類だったが、今日は口数が少なかった。彼女のことが気になって頭の中も心の中も、かなり乱れていた。話すよりも気持ちを整理することに集中していたので、話せなかったのだった。
 彼女たちが店を出たあと、ママに聞いた。
「さっきの女の子たちだけど、もう一度名前を教えてください」
「あら、紹介したのにもう忘れたの?」
「よく聞いていませんでした」
「ふふ、秋田さんたらどうしたのかしら?じゃあ言うから覚えなさいね。右に座っていた子が、中田由美(なかた ゆみ)さんで、左の子は香川美津子(かがわ みつこ)さんよ」
「ありがとう、覚えたよ」
「どうして名前を聞いたの?」
「特に理由はないけど、又ここで会うことがあったら、名前を憶えていないのは失礼になると思ったからです」
「そうなの、だったらいいのだけど。でも私があの子たちを紹介しているとき、秋田さん何かボーとしていたように見えたわよ」
「そうですか、それでもうひとつ聞きたいのですが、二人は日曜日の何時頃ここへ来るのですか?」
「ほとんどはお昼の食事を食べにだから、十二時前後ね」
「日曜日の十二時前後ですか、それは毎週ですか?」
「そうでもないけど、月に二~三回は来られるわね。それとは別に一人のときもあるわよ。どうしてかは知らないけど」
「そうなんですか」
「どうしたの?あの子たちのことを詳しく知りたそうね。もしかしたら、どちらかの子を好きになったの?」
「いや、それはその~・・・」
「図星ね、顔が赤くなったわよ、ふふっ。いいじゃない若いのだから、どんどん恋をして悔いのない日々を過ごしたらいいわ。歳なんてまだまだ若いと思っている内に、すぐにいっちゃうからね」
「そうですね、僕ももう二十四歳ですから。でもママさんも知ってのとおり、僕は以前付き合っていた子に見事にふられたという苦い経験があるので、たとえ好きな子ができても打ち明けることはしないと思います」
「えっ、それはどうしてなの?誰だって過去にはふったりふられたりして、うまくいかなかった交際なんてあるでしょう。そんなことを言っていたら誰とも付き合えないし、結婚もできないわよ」
「それは分かっています。今から二年ほど前になるけど、僕が山路さんと別れたときに『別れる理由を聞くのが恐い』と言ったら『何か事情があるのね』と聞かれて『ママさんにも言えない』と言ったのを、覚えていますか?」
「ええ、覚えているわ」
「その事情が理由で、好きな子ができても打ち明けることはしないと言ったんです」
「どんな事情なの?」
「すみません、そのことは誰にも言いたくないし、言いづらい事情なんです」
「そうなの、言いづらいのだったら無理に聞かないけど、私からひとつだけ言えることは、一生結婚しないで生きていくのなら構わないけど、もし結婚するつもりなら、どんな事情があるにせよ何か行動を起こさなきゃダメだってことよ。そして行動を起こしたら必ず何らかの結果が出るけど、もし悪い結果になったらどうしようとか、結果を先に考えると行動が起こせなくなるからダメよ。時と場合によっては後先のことも考える必要があるけど、若い子が恋愛をするのに後先なんて考える必要はないわ。もしうまくいかなかったら、それは縁がなかったと諦めたらいいだけのことで、うまくいく可能性だって充分あると思うから」
「ありがとう。ママさんの言うとおりだよ」
 ママの話を聞いて、確かに間違ったことは言っていないと思ったが、自分が劣等感を持っている学歴のことを話したら、どんな返事が返ってくるだろうと思った。おそらく「そんなことは気にしないで行動しなさい」と言ってくれるだろうけど、当の自分にとっては気にしない訳にいかない。もし好きな子と交際できても、そのことが理由で別れるかもしれないからだ。
 
 家に帰った義男は今日ロマンで初めて見て、好きになった子を思い出していた。名前は中田由美だと教えてもらった。町内の会社に勤めていて歳は二十一歳、学歴は聞いていないので分からないが、少なくとも高校は卒業しているだろう。
 ショートカットの髪に軽くパーマを当てていて、顔は丸顔に近く二重瞼の少し大きな目が可愛くて、笑うと頬にえくぼが出来た。身長は百六十を切っているだろう、やや小柄だが太すぎず痩せすぎずの健康そうな体型をしていた。
 彼女に(もう一度会いたい)と思い、日曜日の昼にロマンへ行くことにした。行っても会えるとは限らないが、毎週行けばきっと会えるだろう。会ったからといって何かが起きるわけでもなく、何かを起こそうとも思わなかったが、一目惚れをした彼女に会って顔を見たかった。別に話せなくても構わない、近くで顔さえ見られたらそれで良かった。

       六   迷いから決心へ   
 次の日曜日の昼前にロマンへ行ったが、彼女はいなかった。しかし十二時を少し過ぎた頃に店のドアが開いて、お客さんが入って来た。背中越しに「こんにちわ」と言う二人の女性の声が聞こえ、カウンターの椅子に腰掛けたのは中田由美と香川美津子だった。
 二人は座っている義男にも「こんにちは」と挨拶をした。挨拶を返すと、中田由美は「又、会いましたね」と言ってにっこりと笑った。今日まで日曜の昼など一度も来なかったので、彼女たちと会うことはなかったのだが、先日初めて会ったあと、あまり日を空けずに会ったことに対して、何か思われないかと不安だった。彼女たちとは多くを話したわけではないが、聞くところによると二人は高校の同級生で友達だと言った。違う会社に勤めているので終業時間も違うから、会うのは日曜日にしているとの話だった。
 一時間余り店にいた彼女たちが店を出ると、残った義男にママが話し掛けてきた。
「今日はわざと会いに来たのでしょう?」
「ははは、日曜の昼になんてここに来たことのない僕が来たのだから、それ以外にはありませんよね」
「それでいいのよ、そうやって少しずつ仲良くなっていけばいいのだから」
「僕もそう思っています。でもどこまで仲良くできるか分かりませんけど」
「それはこのまえ言っていたように、好きでも打ち明けないってこと?」
「そうするかもしれません。もっとも、その前に彼女たちにその気がなければ論外ですけど」
「それは分からないけど、もし彼女たちにその気が芽生えたとしたら、秋田さんにどんな事情があるのか知らないけど、私としてはとても残念だわ。ここで知り合って好きになったのなら、どんな形でもいいから何か行動を起こしてほしいと思うの。もちろんもっと親しくなってからの話だけど」
「僕もそうしたいのは山々なんです。今のところはまだはっきりと決めていませんけど、状況次第で考えます」
「そうしなさいよ。それでどっちの女の子を好きになったの?」
「はい・・・中田さんです」
「中田由美さんなの、彼女は明るくて可愛い子ね」
「ええ、あの子の笑顔が好きになりました。でも彼氏はいないのかな?」
「それは私も知らないけど、日曜日の昼にここへ来ているところを見ると、今は誰もいないんじゃないかな?」
「だったらいいけど」
「チャンスがあれば誘ってみたらどうなの、彼氏がいれば誘いに応じないでしょうから」
「それ以外でも僕のことを何とも思わなかったら、断ると思いますけど」
「それはそうかもしれないけど、もっとここで会って話して親しくなって、脈がありそうな感じだったら誘えばいいと思うわ」
「だけどいつも香川さんと二人で来ているので、中田さんだけ誘うわけにもいきませんよね」
「たまに一人のときもあるけど、ほとんどは二人一緒だから初めて誘うとしたら、二人とも誘って秋田さんの友達にも来てもらって四人で行けば?」
「もし誘うとしたらそうします。誘えるほど親しくなれるかどうか分かりませんけど」
「あなたの事情で気持ちを打ち明けず、交際をしないとしても友達としてグループで遊びに行くぐらいはいいでしょう?」
「誘って良い返事がもらえたら、それは構いません。それと事情は別にして好きな子と会いたい気持ちだけは抑えられません。そして一緒に遊びに行けたら最高です。じゃあ今日はこれで帰ります。また来週の日曜日も昼に来ます」
 そう言うと店を出た。家に戻ると、また彼女のことを考えていた。ロマンのママさんが言っていたように、もっと親しくなったら誘おうか?それともあまり深入りしないで、店の中で会って話すだけでいようか?まだ会ったばかりなので、彼女との仲が進展するかどうかも分からないが、誘うことによって進展するようだと、嬉しい反面、辛い思いをするかもしれないので、たとえ四人といえども、誘ったりしないほうが良いのではないかと思った。
 
 それからも日曜日の昼になるとロマンに行った。会えないときもあったが、会えるといつも一時間ほど話をして、徐々に親しくなっていくのが感じられた。 

 そんな形で会っている日々が、三か月近くも続いただろうか、季節も夏から秋に変わり始めた九月の半ばを過ぎた日のこと、いつものように彼女たちが帰ったあとで、ママが義男に聞いた。
「そろそろあの子たちを誘ってみたらどう?」
「自分なりにはそれなりに親しくなったと思いますけど、彼女たちはどう感じているでしょうね?」
「私の目から見れば、かなりいい雰囲気に見えるけど」
「そう見えますか、誘いたい気持ちはあるけど、迷っている部分もあります」
「何を迷っているの?」
「以前ママさんにも話した事情というやつです。それさえなければ、もっと早くに誘っていました。その事情が僕を迷わせているのです」
「そうなの・・・秋田さん、その事情だけど差支えなかったら、そろそろ私に教えてもらえない?」
「・・・・・分かりました、話します」
「聞いても力になれるか分からないけど、そのときは許してね」
「それは気にしないでください・・・・その事情とは僕の学歴のことです。僕は中学校しか出ていなくて、高校へは行っていません。だけど周りの女の子や知り合う女の子は、少なくとも高校を卒業している子がほとんどです。だからそんな女の子と付き合っても、自分の口から『僕は高校へ行っていない』と言うのが辛いし、また相手の子だって(中卒の男と付き合うのは嫌だ)と思うかもしれません。それなら最初から交際なんか求めないほうが、自分にとって良いのじゃないかと、考えるようになりました。以前付き合っていて別れた子は短大生だったのですが、もしかしたら僕の学歴が原因で別れようと言ったのではないかと思いました。はっきりそうだと分かったわけではありませんけど。それでその子と別れたあと、僕は自分より上の学歴がある子との交際はしないでおこうと決めました。だから中田さんを好きにはなるのは構わないし、遊びに行くのも構わない。だけど気持ちを打ち明けたり、交際を求めたりするのはやめようと決めていました。彼女を誘って遊びに行くことによって、今以上に好きになったら自分の決めたことが守れるかどうか分からなくなりそうで、誘うのを躊躇(ためら)っているのです。もし交際をしたとしても、僕の学歴を知ったら、そのときの彼女の反応が恐いのです。今ではどんなに無理をしても、高校だけは行っておけば良かったと後悔しています」
「そうだったの・・・それはとても難しい問題ね。付き合っている子に学歴詐称をするわけにもいかないしね。後で知れたら大変なことになるから。学歴のことに関して私の口からどうこう言えないけど、それは相手によりけりよね。そんなことは気にしない子もいるでしょうし、気にする子もいるでしょう。愛していれば学歴なんかより愛を選ぶ子もいると思うわ」
「ええ、それは僕も分かります。交際だけなら本人同士の気持ち次第だけど、もし結婚となると本人だけじゃなく、相手の親も関係してくるので、その子の親に学歴が知れたらどう言われるか分かりません。それでダメになることも考えられます」
「それも相手によりけりだけど、二人の気持ちがしっかりしていれば大丈夫だと思うわよ。もし両親に反対されて、いくら説得しても許してもらえなかったとしたら、着の身着のままで黙って家を出るくらいの気持ちを、女は持っているわ」
「そんなものですか?」
「そうよ。女はいざとなると強いのよ。だからそこまでの心配をするより、まずは自分が彼女に愛されるように努力をすることね。二人の気持ちがしっかりと繋がっていれば、もう怖いものなんてひとつも無くなるわ」
「ママさんありがとう。すごく励みになったよ」
「そうだったら嬉しいわ。でも中田さんのことは、まだ何も始まっていないのだから大事なのはこれからよ。あなたが彼女に対して何か行動を起こすのかどうか知らないけど、もしうまくいったとしても中田さんが秋田さんの学歴を知ったら、どう思うのかも分からないわよ」
「もう一度よく考えてみます。ただ中田さんとうまくいかなかったとしても、これから知り合うかもしれない女の子に対しても同じことが言えるので、ママさんの言葉はよく頭に叩き込んでおきます」
 
 その日の夜、義男は中田由美のことを考えていた。彼女を誘うのは頃合いかもしれないが、たとえ良い返事がもらえたとしても、その先のことを考えると不安だった。ママの助言は嬉しかったが、不安を取り除けるまでには至っていない。自分が好きになった女の子だから会いたいのは当然だ。付き合いたいのも当然だ。もし彼女が学歴なんか気にしない子だったら、そんなに嬉しいことはない。しかしそれは聞かない限り分からない。
 しばらくの間、そんなことを考えていたが、ふと思った(待てよ、いま自分が考えていることは全て現実である反面、妄想でもある。つまり彼女との仲はまだ少しも進展しているわけではない)と。誘って断られたらそれでおしまいになるのだ。そうなれば学歴とか先の心配など何もすることはないのだ。
「グループで遊びに行こう」と誘って、たとえ良い返事をもらえたとしても、個人的に交際が始まるわけでもなく、自分に好意を持ってくれるかさえ分からない。ずっとただの友達のままで終わるかもしれないのだ。学歴のことを考えるのは、もっと仲が進展してからでもいいのではないかと思った。今はただ自分の気持ちに素直になって、彼女を好きなのだから誘うだけは誘おう。遊びに行くと言っても四人グループなので、二人だけで行くわけではない。個人的に誘わなければ、いいのではないかと思う。そして色々と考えたあげく、グループでと言って誘うことに決めた。

      七   揺らぐ決意
 次の日曜日、ロマンへ行くと彼女たちが来るのを待った。しばらくすると今日も二人一緒にやって来た。いつものように挨拶を交わして喋っていたが、誘うタイミングがなくて誘えなかった。タイミングと言うよりも、誘う勇気が出なかったと言ったほうが正しいかもしれない。一時間ほどが過ぎ、彼女たちが帰りそうになったので、早く言わなければと焦り始めた。そしてとうとう二人は代金を払って店を出た。義男は少し躊躇したあと、店を出て二人に追いつくと声を掛けた。
「中田さん、香川さん」
 二人は振り向き、由美が返事をした。
「あらっ、秋田さん何?」
「実は・・・いつでも暇な時でいいから、日曜日にみんなで遊びに行きませんか?」
「みんなって?」
「この三人と僕の友達の四人で」
 そう言うと、由美と美津子は小さな声で相談をしてから由美が言った。
「いいわよ、行きましょう。いつがいいかな?」
「来週の日曜はどうですか?」
 また二人は相談をしてから言った。
「私たちはそれで構わないわ」
「じゃあそうしましょう」
 彼女たちと待ち合わせの場所と時間を決めて店に戻った。するとすぐにママが声を掛けてきた。
「うまく誘えたの?」
「ははは、分かりましたか」
「そりゃあ分かるわよ、あの子たちの後ろを追いかけるようにして出たのだから。店の中では話しにくくて、外で話したのでしょう?」
「いえ、そうではなく中々誘う勇気が出なかったので、帰り間際になってしまったんです」
「それでどうだったの、うまく誘えたの?」
「はい、『四人で遊びに行きませんか』と、誘ったらオーケーしてくれました」
「それは良かったわね」
「とても嬉しかったです」
「じゃあ頑張ってね」
「彼女に好かれるように頑張ります」
 
 翌日、会社に出勤すると友人の酒井裕司(さかい ゆうじ)に話し掛けた。
「ちょっと話があるから聞いてくれるか?」
「ああ、いいよ」
 裕司とは同じ年齢だが、彼は高校を卒業して入社したので、会社では義男が先輩になる。同じ職場で働いている内に何となく馬が合うというか、気が合って同い年ということもあり、友達になったのだ。酒井は中々いい男で、まずまず男前の部類に入る。女性に持てそうな顔立ちだが少しばかり理想が高いのか、今は誰とも付き合っていない。身長は義男より少し低いが、がっしりとした体つきをしていた。
「実は、少しばかり好きな子がいてさ、昨日その子とその子の友達と会ったから『今度みんなで遊びに行こうか』って、誘ってみたんだよ。そしたら『いいわよ』って、オーケーをもらったから裕司、お前も来てくれないか?」
「義男、好きな子ができたのか?」
「そうだよ、駅前にある喫茶店のロマンは裕司もたまに行くだろう。あそこで何か月か前に知り合ったんだけど、初めて彼女を見た時から気に入っちゃって、それで昨日誘ったって訳だよ」
「そうか、どんな子なのか俺も見たいな」
「じゃあ来てくれるか?」
「分かった、いつ行くんだ?」
「今度の日曜日だけど、空いているか?」
「大丈夫だ。今は付き合っている子もいないからな、あはは」
 こうして話がまとまった。

 次の日曜日、彼女たちと待ち合わせの場所に決めたスーパーの駐車場に、約束の時間より少し早く着き、皆を待っていると坂井裕司が先に来た。そしてそのあと、一台の軽自動車が駐車場に入って来たので、見ると彼女たちだった。由美の運転する車に香川美津子も乗っていたので、由美は美津子を家まで迎えに行ったのだろう。二人は車から降りると、外で待っていた義男と裕司の所へやってきた。四人はそれぞれ挨拶を交わすと、義男が改めて裕司を二人に紹介した。
「中田さん、香川さん、こちら僕の友達で酒井裕司です」
「酒井です、初めまして」
 そして由美と美津子も自己紹介をした。今日は義男の車で行くことに決めていたので、紹介が終わると彼の車に乗った。女性二人は車の後部座席に乗り、裕司が助手席に乗った。するとすぐに後ろの席から由美が話し掛けてきた。
「秋田さん、今日はどこへ連れて行ってくれるの?」
「行きたい所はあるかな?」
「特にないわ」
「じゃあ琵琶湖一周の予定で、その途中に琵琶湖大橋のそばに在る遊園地にでも寄ろうか?」
「そうしましょう」
 他の二人にも行き先を聞いたが、任せると言ったので車を発進させた。湖西方面から回り、二時間ほど走ると遊園地に着いた。好天に恵まれた日曜日なので多くの客で賑わっていた。四人は車から降りると入口へ向かった。入場料を払い、中へ入ると色々な乗り物が動いている。四人は最初に観覧車に乗り、高い所から琵琶湖の風景を眺(なが)めた。それからも他の乗り物に乗っては騒いで楽しんでいた。時間も昼になり、お腹の空いた義男は皆に声を掛け、昼食を摂ることにした。施設内のレストランへ入り、それぞれが好きな物を注文して、それを待っている間も会話は途切れず、笑顔の絶えない四人だった。食事を終えると彼女たち二人がトイレに立った隙に、裕司が聞いてきた。
「まだ聞いてなかったが、おまえはどっちの子が好きなんだ?」
「うん・・・中田さんだよ」
「そうか、あの子のほうか。美人というタイプじゃないけど可愛い子だな。でも俺は香川さんのほうがタイプだな」
「香川さんを気に入ったのか?」
「今はそこまで思わないけど、また会う機会があったら話はしたいな」
「だったらロマンへ来いよ、日曜の昼には会えるから」
「そうなのか、じゃあそうしようかな」
 そこで彼女たちが戻って来たので四人は遊園地を出ると車に乗り、有料の琵琶湖大橋を渡った。渡り終えると左に曲がり、帰る方向の北へと向かった。まだ時間も早いので、どこかへ寄ろうかと考えていた義男に由美が声を掛けた。
「行きたい所があるのだけどいいかしら?」
「いいよ、どこだい?」
「竜王に梨狩りをやっている所があるから、そこへ行きたいの」
「竜王町かい、そこだったらそんなに遠くはないから行けるよ。じゃ行こうか」
 梨狩りは種類によって違うが八月から初冬の十二月迄できるので、十月の今は賑わっていることだろう。
 
 車は国道を外れ、竜王町へと向かった。道路のあちらこちらに梨狩りの看板が立っているので分かりやすく、ほどなくして目的の梨園に到着した。入り口で入場料を払うとき、義男はふと思った(梨を食べるには果物ナイフが必要だが、突然来たので持っていないしどうしよう?)と。仕方がないので、そのことを受付の女性に話すと、笑いながら「だったら、ここに有るのをお貸しします」と言って、貸してくれた。そしてついでに四人が座れるほどのシートまで貸してくれたのだった。四人は受付の女性に礼を言って園内へ入ると、梨の木には沢山の実が生り、とても美味しそうに見えた。適当な所にシートを敷くと、取った梨を由美と美津子が交代で剝いた。食べると甘くてみずみずしく、美味しかった。一時間ほどが経ち、四人は受付で渡されたゴミ袋に皮などを入れ、シートを畳むと来た道を引き返して出口へと向かった。車に乗ると時計を確認して、他の三人に「そろそろ帰りましょうか」と言って、車を発進させた。帰りの車の中でも四人は話すことが多くて、木之本町に着くのが早く感じられた。楽しかった一日も終わりを迎え、車を停めておいたスーパーに着くと、それぞれが挨拶を交わして別れた。帰る車の中で気の合った四人は「また機会があったら遊びに行こう」と約束をしたが、特に行く日を決めたわけではないので次に行こうと思えば、また改めて誘いあう必要があった。
 
 家に戻った義男は由美のことを思い出していた。「また一緒に遊びに行こう」と言っていたので、誘えば来てくれるだろう。但し四人グループだったらという条件が付くかもしれないが。由美だけを個人的に誘うことはしないでおこうと決めていたので誘うつもりはないが、誘わなくても会っている内に、どんどんと彼女にのめり込んでいきそうで、それが恐かった。とことんのめり込んだ結末が、辛い結果をもたらすのではないだろうかと恐れた。今日のように四人で遊びに行くのは楽しいが、その反面、恐さも伴っていた。しかし由美に会いたいという感情だけは抑えることができず、個人的に誘わないと心に誓ったことが、果たして守れるのかと自分に自信が持てなくなってきたのだった。

       八   作戦成功
 それからも裕司を含めた四人はロマンで日曜の昼に会って、お喋りを楽しんでいたが、遊びに出掛けることはあの日以外なかった。
 そんな日々が二か月近く続いただろうか、初冬の十二月になったその日も四人はロマンで会っていた。すると話の途中に裕司が美津子に言った。
「少し話があるので、奥の席に来てもらえませんか?」
 裕司の言葉に美津子は少し驚いたように、彼を見ながら返事を返した。
「いいわよ」
「ママさん、奥の席に座ってもいいですか?」
「ええ、どうぞごゆっくり」
 ママがにっこりと笑いながらそう答えると、裕司と美津子は連れ立って奥の席に向かった。裕司は座るとすぐに、小さな声で美津子に話し掛けた。
「こんなことをしてすみません」
「いえ、別に構わないけど」
「実は中田さんのことを少し聞きたいのですけど、あの子は秋田をどう想っているのか知らないかな?」
「それはつまり、由美が秋田さんを好きかどうかということなの?」
「そうです」
「確か以前四人で遊びに行ったときだったかな。由美が言っていたのは『秋田さんって、優しいしよく気が付く人ね、梨狩りのときだって果物ナイフや座るシートが無いのに気付いて、ちゃんと借りてくれたでしょう』って。だから好印象は持っていると思うけど、彼が好きとか恋愛面での感情までは何も聞いていないわ」
「だったら君から見て、中田さんは秋田のことをどう想っているのか、何か感じるものはないかい?」
「はっきりとは言えないけど、ここで秋田さんと喋っている由美の顔を見ていると、何だかキラキラと輝いているように見えるわ。つまり彼に対して好意を持っているんじゃないかと私は思うの。でもどうしてそんなことを私に聞くの?」
「秋田だけど俺が思うのに、あいつ中田さんのことが好きなんじゃないかと。俺にそう言ったわけじゃないけど長い付き合いの仲だから、あいつの気持ちは薄々だけど分かるんだよ」
 裕司は義男が由美のことを好きだと知っていたが、今は美津子に対して敢えて本当のことは言わずに、ぼかして話した。はっきり言ってしまうと美津子は由美にそれを話すだろうから、もし由美が義男のことを何とも想っていなかったら、彼女は(迷惑だわ)と思い、義男を遠ざける可能性があるからだ。そうなればそれは裕司の責任になってしまう。
「そうなの、秋田さんは由美のことを好きかもしれないのね」
「あくまで俺の想像だけど」
「私から由美に秋田さんのことを、どう想っているのか聞いてみようか?」
「いや、それはまだ聞かなくてもいいよ。悪い返事だったら秋田が可哀そうだからね」
「じゃあこのまま知らん顔して見ているだけでいいの?」
「そのことで俺に少し考えがあるから、君に協力してもらえないかな?」
「なあに、どんな考えなの?悪いことじゃなかったら、いくらでも協力するわよ」
「ありがとう。俺の考えだけど、俺たちはいつもここへ来て四人で喋っているだろう、そこで一度秋田を中田さんと二人きりにしてあげたらどうかと思うんだ。そうすることによって、お互いに好意を持っているとすれば二人の仲に何か進展があるんじゃないかと思ってね」
「酒井さんの言うことは分かるけど、どうやって二人きりにするつもりなの?」
「それだけど、今こうやって四人が集まっているだろう。そこで俺と君が二人で店を出て、どこかへ遊びに行くんだよ。いや別に遊びに行かなくてもいいから、とにかく俺たち二人がここから消えればいいだけだよ。すると必然的にあいつらは二人きりになるだろう。そうなった後で二人がどうするのかは、ここからいなくなった俺たちには分からないけど、何か動きがあることを期待しようと思うんだ」
 裕司の考えた案は義男と由美を二人きりにさせるのと同時に、うまくいけば自分も美津子と二人きりになれるという案で、裕司の狙いのひとつはそこにもあった。美津子は卵型に近い顔をしていて、目鼻立ちも揃っている美人タイプだった。髪は長めで肩より少し下まであり、セミロングにしていた。身長は百六十センチを越えていて、少し高いヒールの靴を履いているので、並んでもあまり変わらない高さだった。体付きも細目でスタイルも良く、正に理想の高い裕司好みの女性だった。
「酒井さん、うまいこと考えるのね。じゃあ私、その考えに協力させてもらうわ」
「ありがとう。それじゃあ早速だけど行動に移そうか?」
「ええ、そうしましょう」
 二人は今から自分たちがする行動に対して、何だか楽しそうだった。そして席を立つとカウンター席に戻り、裕司が義男と由美に言った。
「義男、それに中田さん、俺と香川さんだけど、いま奥で話していて二人で遊びに行くことに決まったから行ってくるよ。構わないかい?」
「えっ、そうなんだ。いや勿論いいよ」
 裕司の突然の言葉にびっくりしたが、ダメだと言えることではないし、それは二人の自由なのだから義男と由美の了解を、わざわざ取るようなことでもない。
「中田さんもいいですか?」
「ええ、どうぞご自由に。楽しんできてくださいね」
 由美は笑いながら二人を茶化すように言うと、裕司と美津子は店を出た。二人きりになった義男と由美はカウンターの椅子に並んで座った。そして義男が由美に話し掛けた。
「裕司の奴、奥の席で何をこそこそと話しているのかと思ったら、ちゃっかり香川さんを口説いていたのか」
「ふふふ、そうかもしれないわね。酒井さん、美津子のことを好きなのかしら?」
「うん、僕には好きなタイプだと言っていたから」
「そう言っていたの、じゃあ間違いないわ」
「香川さんは裕司のことをどう想っているのかな?」
「美津子からは何も聞いていないから分からないわ」
「でも二人で出掛けたところをみると、まんざらでもないってことかな?」
「そうかもね」
 由美は二人で話しながら思った。(秋田さん、美津子たちが二人で遊びに行ったのを見ていて「じゃあ僕たちもどこかへ行こうか」くらい言えばいいのに。せっかく二人きりになれたのに店の中で話すだけなら、四人でいる時と何も変わらないじゃない。酒井さんと美津子のことなんかより、私のことを考えてくれたらどうなの)と。
 それからもしばらく話をしていたが、義男は一向に由美を誘う気配がなくて、しびれを切らした由美は彼に言った。
「ねえ秋田さん、暇だったらどこか連れて行ってよ。美津子たちも行ったことだし、私たちも出掛けましょう」
 突然の由美からの誘いに義男は驚いた。(自分からは彼女を個人的に誘わない)と心に誓っていたが、由美から誘われたらどうするのかなんて少しも考えていなかった。さらに突然の言葉だったので考える余裕もなかった。それに由美が好きなのだから誘われてイヤだと言えるはずもなかった。
「うん、そうしようか」
 努めて冷静に返事をしたが、内心は嬉しい気持ちでいっぱいだった。ママに代金を払うと、二人は一緒に店を出た。

 今日も義男の車に乗った由美だが、この前に四人で遊びに行ったときと、ひとつだけ違うことがあった。それは今、由美が車の助手席に座っていることだ。そしてそんな二人は、誰が見ても恋人同士であるかのように見えたのだった。
「時間も時間だからあまり遠い所へは行けないけど、どこか行きたい所はあるかな?」
「別にないから、秋田さんに任せるわ」
「じゃあ、この前は琵琶湖を一周したから、今日は短い距離だけど余呉湖を一周しようか?」
「そこでいいわ」

 余呉湖は長浜市の余呉町川並(よごちょう かわなみ)という小さな村に在る。その湖は別名を鏡湖(きょうこ)と言った。その理由は波の立たない静かな湖面に周囲の景色が、まるで鏡を見ているようにはっきりと映し出されているからだ。湖の大きさは一、八平方キロ、周囲六、四五キロの小さな湖で、この湖は古来より伝説が伝えられている。それは【はごろも伝説】と名付けられていて、言い伝えによると(天から羽衣を纏(まと)った一羽の白鳥が舞い降りてきて、湖で水を浴びながら白鳥の姿から人間の美しい女性の姿に変わっていく。そしてその女性の行動を見ていた一人の男は女性を天に帰すまいと、木に掛けてあった羽衣を盗んでしまう。天に帰れなくなった女性はその男と結婚をするが、やがて隠してあった羽衣を見つけ出して天に帰ってしまう)と言う伝説だそうである。この言い伝えは、ひとつの例で他にもいくつかあって、どれが本当なのかは定かでないそうだ。それと、ほかの地方にもある羽衣伝説とは内容が少しばかり違うそうだが、余呉湖では一般的にそう伝えられている。

 二人は木之本から車で十分ばかり走った所にある、余呉湖へ向かった。あれこれと話しながら走ると、すぐ余呉湖に到着した。そしてゆっくりと一周してから湖畔に設けてある駐車スペースに車を停めた。帰るにはまだ早いが、遠くへ行ける時間でもないので、車の中で由美と話して時間を過ごすことにした。歌の好きな二人はカーステレオのスピーカーから流れる歌をバックに、たわいない話をしていた。そして湖を眺めながら一時間ばかり楽しい時間を過ごしたあと、帰路に就いた。

 由美が愛車を停めていた喫茶店(ロマン)の駐車場に着くと、もう一度店に寄ってコーヒーでも飲んでから帰ろうという話になり店に入った。
「こんにちは・・いや、ただいまかな?」
 義男は何時間か前に由美と一緒にこの店を出て、また一緒にここに戻ってきたので、そう言い直した。するとママが笑いながら言った。
「二人とも、お帰りなさい。楽しかった?」
「はい、余呉湖までしか行かなかったけど楽しかったです。酒井と香川さんは戻って来ませんでしたか?」
「来なかったわよ」
「そうですか、香川さんは車に乗らないから、酒井がまっすぐ家に送るつもりをしているのだろうな。もう送って帰ったかもしれないけど」
 そう言いながら由美と並んでカウンターの椅子に腰掛けた。そしてコーヒーを飲んでいると由美が言った。
「今日は私のほうから『どこかへ連れて行って』なんて、秋田さんに言ったでしょう」
「そうだったね。ごめんよ、僕は気が利かないから君から言わせてしまって」
 心の中で(本当はどれだけ誘いたかったか)と思いながら、由美にはそう言った。
「そうよ、もう少し気を利かせなさいよ。こんな可愛い女の子が隣の席に座っているのだから、普通は男のほうから口説くでしょう。酒井さんだって美津子にそうしたのよ」
 冗談とも本気ともつかない顔をして、そう言った。酒井の作戦を知らない由美は、彼が美津子を口説いたと本当に思っていたのだ。まさか自分と義男を二人きりにするための芝居だとは、全く気付いていなかった。そしてその結果、裕司の作戦は成功したのだった。ただ由美のほうから義男を誘ったことは、裕司にとっては予想外だろう。後は今日のことをきっかけに二人の仲が進展していくかどうかだけだ。
 由美は続いて言った。
「今度は秋田さんのほうから私を誘ってね」
「分かったよ。本当にごめん」
 
 しばらくして一緒に店を出た二人は、駐車場で別れて家路に就いた。義男は家に着くなり、すぐに自分の部屋へ入ると今日の由美との会話を思い出していた。由美は確かにこう言った『今度は秋田さんのほうから私を誘って』と。その言葉を深く掘り下げれば色々な意味が考えられる。ひとつ目は(今日は自分から誘ったので次は義男のほうから誘って)と、言った言葉をストレートに解釈すれば良い。それともそんな単純な意味ではなくて(また二人で遊びに行きたいから誘って)という意味も、含まれているのかもしれない。さらに深く考えると彼女が自分に好意を持っていてくれて(これからも二人で会いたい)という気持ちを、そんな言い方で示したのかもしれない。もちろん特別な感情じゃなく、ただの気が合う友人として言っているだけかもしれないが・・・。義男にとっては由美に好意を持ってもらえたら、それはそれでとても嬉しいことではあった。ただ深い仲になればなるほど学歴の違いが悲劇に繋がるかもしれないと思うと、ただの友人でいたほうが良いのではないだろうかと、心の中は複雑な気持ちが入り混じっていた。いずれにしても、また二人で会うことはすでに明白なので、彼女との今後の展開が心配になった。決して自分から誘って二人きりでは会わないでおこうと心に誓ったのに、今日のように由美のほうから誘ってくれば断るわけにもいかず「今度は、あなたから誘って」と言われた以上、誘わないわけにはいかない。そして由美が僕からの誘いを待っているとすれば、あまり間は空けられないだろう。常識的に考えても一か月が限度だ。間を空けると、彼女は僕に「約束も守れない人ね」と、言って悪いレッテルを貼るだろう。義男はどんな事情があっても由美を怒らせたくないし、悪い印象も与えたくないと思った。
      
       九   由美の推測と確信  
 一方、家に帰った由美も今日の義男との経緯(いきさつ)を思い出していた。彼はロマンで私と二人きりになったにも関わらず、その場で話をしているだけで、美津子たちが遊びに行ったというのに「僕たちも行こうか」とは言ってくれなかった。それは彼が私に対して全然気がないと、受け取るべきなのだろうか?それとも気はあるが、誘う勇気がなかっただけなのか?結局は私のほうから誘うはめになってしまい、彼の気持ちは分からないままだ。私から誘ってオーケーしてくれたのも、断って恥を掻かせたくないとの思いがあって、オーケーしてくれたのかもしれない「今度は秋田さんのほうから誘って」と言ったら、それも「分かった」と返事をしてくれたが、それだけでは彼の気持ちまで分かるはずがない。義男のことは以前四人で一緒に遊びに出掛けた日から好意を持つようになった。彼の優しさとか、梨園でのように細かな心遣いをする彼が好きになった。それ以降、喫茶店(ロマン)で会えるのを楽しみにして、毎週日曜になると必ず美津子と一緒にロマンへ行った。そして彼も必ずロマンに来ていた。
 思い返せば初めて私たちと会ってからは、不思議と毎週のように日曜の昼にロマンへ現れ、私たちと会うようになった。それは単なる偶然とは言えないだろう。もしかしたら彼は私か美津子のどちらかに好意を持ったので、私たちがロマンに行く時間に合わせて来ているのではないかと推測できた。会って話していても、そんなそぶりを見せることはしなかったが、それ以外には考えられなかった。それから数か月後に、私たち二人を遊びに誘ってきた。その行為は何を思ってのことなのか分からないが、好きでもない女性を遊びに誘ったりはしないと思う。多分、私か美津子のどちらかに好意を寄せていると思って間違いはないだろうと思った。ただ今の時点では彼がどちらを好きなのかは分からない。しかしその後の態度とか、話をしている内に何となくだが、私に好意を持っていてくれるのかもしれないと思った。しかしその確信はないままで今日という日がきた。酒井さんと美津子のお陰で二人きりになれて、外へ遊びにも行けた。また会う約束もした。私に対する気持ちは、まだはっきりと分かったわけではないが、美津子が酒井さんと遊びに出掛けた時に彼の顔を見て、少しのショックも受けた様子が見られなかったので、美津子には異性としての好意は持っていないだろうと思えた。そうすると、後に残ったのは私しかいない。つまり私に好意を持っていてくれると、もう確信を持っても良いだろう。そしてその時、誘いを待ったが彼の口からはそのような言葉は出なかった。一抹の不安を感じた私は、思い切って自分のほうから誘ってみようと思った。そして誘ったところ、彼は快く?(多分そう思う)受け入れてくれた。そしてまた遊びに行く約束も交わしたので、いつかは分からないけど誘ってくれる日を楽しみにして待っていようと思った。

 翌日、義男は会社へ出勤すると裕司に話し掛けた。
「昨日のことだが、香川さんとどこへ行ったんだ?」
「別にここという所には行っていないよ。そこら辺を適当に車で走っただけだ。それだけでも二人で話はできるからな」
「そうか、それであの子のことを好きなのか?」
「いや今はそこまでの気持ちでもないが、会って話している内にどう想うようになるかだな」
「それじゃ今後の気持ちの変化次第というわけだな」
「それより義男、お前と中田さんは、あれからどうしたんだ。まさかロマンで話をしただけで帰ったとは言わせないぞ」
「あはは、そんなことは言わないよ」
「じゃあ何かあったのだな?」
「うん、おまえ達が店を出てからしばらくして、僕たちも二人で出掛けたよ」
「そうかそれは良かった。それで二人きりになって、どんな話をしたんだ?」
「どんな話とは?」
「つまりだな、好きだとか付き合ってほしいとか言わなかったのか?」
「いや、そんな話は全然していないよ。ただ普通に世間話をしていただけだ」
「なんだそうなのか。それじゃあ何も進展はなかったのだな?」
「そうでもないよ、また次に二人で遊びに行こうと約束をしたんだ」
「まあそれだけでも一歩前進したな、良かったよ。それと義男、昨日ロマンで俺が香川さんを奥の席に呼んで話していただろう、俺たちが何の話をしていたのか分かるか?」
「分かるかって、二人でどこかへ行こうと言って、彼女を口説いていたんだろう?」
「いやそうじゃないよ。おまえと中田さんを二人きりにしてあげようと思って、その方法を香川さんと相談していたんだ。それで俺たちが二人で店から出たら必然的に、おまえ達は二人きりになるだろう。だから俺と香川さんはデートをする振りをして店を出たんだ。そうすることによって俺たち二人に感化されたおまえが、中田さんを誘って二人で遊びに行くかもしれないと思ったわけだ。そしてその結果、俺の作戦は見事に功を奏したのだよ」
「そうだったのか、裕司は僕のために動いてくれたのか。それは知らなかったよ、礼を言わなくちゃいけないな」
「礼には及ばんさ、そうすることによって俺も香川さんと二人で出掛けられるので一石二鳥と言うか、俺にも大きなメリットがあったからな」
「おまえはそういうことになると頭が働くな、はははっ。しかしひとつだけ言っておくが、僕は昨日ロマンで中田さんと二人きりになったが、彼女を誘ったりはしなかったよ」
「えっ、俺の聞き間違いか?さっき確かに二人で出掛けたと言ったよな」
「ああ、それは間違いなく言った」
「じゃあどうして二人で出掛けたのだよ?」
「それは中田さんのほうから『どこかへ連れて行って』と言われたからだ」
「なんだ、彼女から言ってきたのか、それは俺も想定外だったな。しかしどうして、おまえから誘わなかったのだ?」
「まあ普通は男の僕から誘うのが常識だとは分かっているし、誘いたい気持ちもなかったわけではないが、僕にも色々と事情があるから誘うのを控えていたんだ」
「何だ、誘うのを控えていたという、その事情とは?」
「それは聞かないでくれないか、また言える時が来たら必ず言うから、今は聞かないでほしいんだ」
「そうか分かった。いつか言える日が来たら必ず話してくれよ、友達なんだから」
「約束するよ」
 二人の話はそこで終わった。義男は友達の裕司にも学歴のことは話したくなかった。裕司が高卒である以上、中学校しか出ていない義男の気持ちを、どこまで理解できるだろう?話せばもちろん励ましてくれるだろうし、気にするなとも言ってくれるだろう。しかし自分の気持ちを真から理解できるのは、同じ中卒の人だけだろうと思う。由美との今後を考えると、喜びよりも憂鬱な気持ちのほうが大きかった。

 由美と初めて二人で出掛けた日から三週間が過ぎ、昭和五十一年も終わりに近づいた暮れの日曜日、その日も由美とロマンで会った。もちろん香川と裕司も一緒だった。そしてその日、義男は由美との約束を守って遊びに誘った。
「中田さん、一緒に遊びに行く約束のことだけど、会社が五日まで正月休みだから、その間に行こうか?」
「ええ、その約束はしっかりと覚えているわ。私も会社が休みだからいいわよ。でも中々誘ってくれなかったので、少しばかりいらついていたけど、ふふふ」
 由美が本当にいらついていたのかどうかは分からないが、言わなくてもいいようなことまで言って、最後は照れたように笑った。
「どこか行きたい所はあるかな?」
「そうね・・・正月だから、まずお参りに行きましょうか。それからは任せるわ」
「じゃあそうしよう。後はスケートなんかどうだい?」
「それもいいわね、でも私は一度しか行ったことがないから、上手く滑れないけど」
「僕は今まで何回か行ったから、少しは滑れるので教えるよ」
「だったら行くから、上手に教えなさいよ」
「分かった、それと痛くない上手な転び方も教えるよ」
「えっ、そんな転び方もあるの?」
「冗談だよ、ははは」
 傍らで二人の話を聞いていた裕司と美津子も、声を出して笑っている。そしてその二人も正月休みに会う約束を交わしていた。
 
 義男と由美は待ち合わせの場所と日時を決めて、年が明けた正月の三日に約束どおり会った。今のところは積雪も無く、車で出掛けるのにも支障はなかった。
「あけましておめでとう」と互いに年始の挨拶を交わし、義男の車で初詣をするべく神社へと向かった。その神社は彦根市の隣町になる多賀町に在り、一般的に「お多賀さん」と呼ばれている神社だ。県内では有名で毎年多くの参拝客で賑わっている。二人は神社の前に来ると、賽銭を投げ入れて願い事をした。お互いにその願いが何なのかは分からないが、いずれ聞ける日が来れば良いなと義男は思った。
 
 お多賀さんを後にして、二人は関ヶ原に在るスケート場へ向かった。屋外のスケート場だが、今日は雨も雪も降っていないので問題なく滑れそうだ。ただ国民の殆どが休んでいる正月とあって、混んでいるのは間違いないだろう。
 
 無事にスケート場へ着いた二人は入り口でフィギュア用の靴を借りて、それを履くとリンクへ降りた。予想どおり多くの客で賑わっていたが、滑れないほどではなかった。まだ二回目という由美は氷の上に恐々と足を降ろした。その姿を見ていた義男は由美の手に自分の手を、ごく自然に差出して繋いだ。由美は義男の手を握り返すと、並んで滑り始めた。徐々に慣れてきた二人は、手を繋いだまま楽しい時間を過ごし、休憩を挟んで二時間ばかり滑った。スケート場を出てから少し遅い昼食を食べにレストランへ入り、昼食を食べた。
 
 昼食後、家に帰るにはまだ早かったので、義男は取り敢えず帰る方向に車を向けたが、まっすぐには帰らずに長浜市内へ入った。そして長浜港に行って車を停めると、義男は暖房の調節をしながら由美に自分の将来の夢を話し始めた。
「中田さんも知っているとおり、僕の住んでいる村はバスも通らない不便な田舎だろう。だからいずれは町に家を建てて、村を出ようと思っているんだ。その夢を叶えるためには沢山のお金が必要だから、頑張って仕事をして貯金をしているんだ。まだ当分の間は建てられそうにないけどね。僕は今年で二十五歳になるから、何とか三十歳までには建てたいと思っているよ。あんな田舎では嫁さんも来てくれないだろうからね」
「そうなの、その夢のために頑張っているんだ。便利な所に家を建てて奥さんを迎えるのね。秋田さんの奥さんになれる人って、きっと幸せだと思うわ。優しい旦那さまと一緒に新しい家に住んで、毎日を過ごすなんていいな。私もそんなふうになりたいわ」
「優しい旦那さまって、僕のことかい?僕は別に優しくないよ」
「ううん、そんなことないわ。優しいし、よく気が利くと思うわ」
「あれっ、いつだったか君は僕のことを『気が利かないわね』って、言っていたと思うけど」
「あらっ、そうだったかしら。そんなことを言った覚えはないけど」
「まあそれはいいとして、これからも頑張って夢を現実にしなくちゃと、思っているよ。まだまだ時間が掛かりそうだけどね」
「秋田さん頑張ってね、私も陰ながら応援するから」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。中田さんは何か夢のようなものはあるの?」
「ううん、私は特にないわ。ただ普通の女として、愛した人のお嫁さんになれたらそれで幸せよ」
「そう、それなら必ず叶うよ。君はとても可愛くて素敵な女性だから」
「またそんな冗談を言って」
「本当だよ、本当にそう思っているよ」
「ありがとう。じゃあ本気にするわ」
「そろそろ帰ろうか?」
「ええ、今日は楽しかったわ」
「僕も楽しかったよ」
 義男はそう言いながら車を発車させた。あと二十分もすれば由美と別れの時間がやってくる。それを寂しく感じるとともに、由美に対してどんどん惹かれていく自分の気持ちが恐かった。

       十   告白
 正月休みも終わり、義男は初出勤をした。すると裕司がそばに来て話し掛けてきた。
「中田さんと一緒に遊びに行ってどうだった?」
「どうだったとは?」
「二人の仲は進展したのか?」
「いや、特に進展はなかったよ。出掛けたのも一日だけだしな」
「そうか、まあ急ぐこともないだろう。これからも度々会ってデートをするのだろうから」
「そうなればいいけどな。それよりおまえと香川さんはどうなんだ?」
「俺たちも正月休みの間に遊びに行ったよ」
「じゃあ、かなり仲良くなっているんだな?」
「実は、その日の帰りだけど『交際してほしい』と、申し込んだらオーケーしてもらえたよ。それで俺と【美っちゃん】付き合うことになったよ」
 裕司は今、香川さんのことを「美っちゃん」と言った。短い間に裕司と彼女は、そう呼ぶくらいの仲に進展していたのだ。多分、彼女も裕司のことを【裕ちゃん】とでも呼んでいるのだろう。裕司が彼女に交際を申し込んだことが、簡単だったかどうかは分からないが、結果は別にしても、そうやって自分が思ったように行動できる裕司が羨ましく思った。
「そうかそれは良かったな、大事にしてやってくれよ。中田さんの友達だからな」
「もちろんだよ」
 
 仕事が終わったあと、義男はロマンのママに年頭の挨拶をしようと思い、店に行った。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
「おめでとう。こちらこそよろしくね。今日から仕事なの?」
「ええそうです」
「休みはどうだった、中田さんと出掛けたのでしょう。ここで話をしているのが聞こえたわよ」
「ははは、ええ遊びに行って来ました」
「それは良かったわね。楽しかった?」
「とても楽しかったです」
「それで彼女と付き合うつもりなの?」
「まだ決めていません。あの子の気持ちも聞いていないし」
「そうなの、でも誘い合わせて出掛けるくらいだから、気持ちは聞かなくても分かるでしょう?」
「ええまあ、多分そうとは思うけど」
「じゃあ、後は秋田さん次第ということになるわね」
「僕もあの子のことが好きだから交際をしたいのは山々なんだけど、ママさんに話したように学歴のことさえなければ、すぐにでも申し込みますよ」
「そうだったわね、それがネックになっているから、自分の気持ちを彼女に打ち明けられずにいるのよね」
「そうです・・・彼女にはいつの日か僕の学歴のことを正直に話してから、交際を申し込めたらいいのですが。ただ、それが理由で別れたくないから正直に話したくないという気持ちもあります」
「中田さんが『そんなことは気にしない』と言ってくれたらそれが一番だけど、それは話してみないと分からないしね。ただ交際も申し込まずに、これからも二人が会い続けるのは良くないわ。(私はただの遊び相手なのか)と、思ってしまうからよ」
「僕もそれは分かっています。分かっているからこそ、二人きりで会うのはよそうと心に決めていたのですが、結果的にこうなってしまいました」
「だったら最初は学歴のことを話さずに、交際を申し込んだらどうなの。学歴を話すのは、後からでも構わないと思うけど」
「それも考えたけど、なんだか卑怯な気がして」
「そんなことはないわよ。それが原因で別れるのなら、少し遅いか早いかだけのことでしょう?」
「それはそうだけど・・・どうしたら良いのか、今はまだ決められません」
 
 家に帰った義男はロマンのママと話したことを、思い出しては溜息をついていた。本当にどうすればいいのか分からなくて、悩みは深くなるばかりだった。最初は二人で会うことに対して悩んでいた。しかし由美を好きという自分の気持ちに素直になろうと二人で会うことに決めたが、会って少しずつ二人の仲が進展してくると、また新たな悩みが発生するのだった。
 
 次の日曜日の昼にロマンへ行き、由美たちが来るのを待っていると彼女がやって来た。ただ来たのは由美ひとりだけだった。美津子は一緒に来なかったのだ。
「あれっ、香川さんと一緒じゃないの?」
「美津子は来ないわ。酒井さんとデートだから」
「そうなんだ、それは裕司から聞いていなかったよ。交際を始めたとは聞いたけど」
「私も美津子から聞いたわ。知り合ってからそんなに経っていないけど、もう交際を始めたのね。まあ二人の気持ち次第だから知り合ってから長い、短いは関係ないけどね」
 由美は何を思ってそう言っているのか分からないが、自分と義男の関係を美津子たちにダブらせて、話しているようにも聞こえた。そう言ったあと、義男に言った。
「私たちもどこか行きましょうよ」
 由美の言葉に、今さら断れるような状況ではなく義男は返事をした。
「うん、いいよ」
 二人は昼食を摂り、コーヒーを飲み終えると店を出た。

 車に乗ると特に行先を決めずに走り出し、取り敢えず国道八号線を南へと向かった。その道中で二人は話し合って、長浜市内にあるボーリング場へ行くことに決めた。日曜の昼過ぎではあったが、それほど混んでなくて待たずに始められた。特に上手なわけではないが、結果に一喜一憂しながら楽しく過ごせた。帰りは道を変更して湖岸道路に回った。この道だと琵琶湖がよく見える。
 「少し休憩をしようか」と由美に言って、途中にある道の駅(湖北水鳥ステーション)に寄り、併設されているレストランに入った。
 この付近は初冬になると沢山の渡り鳥が飛来する所としても有名で、多くの水鳥愛好家達がカメラを持ってやって来る。
 窓越しに琵琶湖を眺めながらコーヒーを飲み終えると、レストランを後にして帰る方向に車を向けた。しかしまだ時間が早かったので琵琶湖岸に車を停め、今日もカーステレオの歌を聞きながら喋っていた。しかし話も尽きたのか、お互いの口から言葉が出なくなってきた。そして黙ったままで車のフロントガラス越しに琵琶湖を見ていた。その時間はほんの数分だと思うが、二人にはもっと長い時間に感じられた。義男は何か話をしようと考えたが、思い浮かばずにいると由美がおもむろに口を開いた。
「酒井さんと美津子は、どこに行ったのかな?」
「聞いていないから分からないな」
「あの二人、これからどうなるのかな?」
「それも僕には分からないよ」
 それだけ話すと、また会話が途切れてしまった。そして数分の後(のち)、今度も由美のほうから話し始めた。
「秋田さん・・・もう気付いていると思うけど、私はあなたのことが好きよ」
「えっ、本当に」
「ええ、それで聞きたいのだけど、美津子のことはどう想っているの?」
 義男は「好きよ」と言った由美の気持ちは彼女の言ったとおり薄々気付いていたが、これではっきりと確信が持てた。そして由美の問いに答えた。
「香川さんはきれいな子だなと思っているけど、他は何とも想っていないよ」
「そうなの、じゃあ美津子のことは好きとも何とも想っていないのね?」
「ああ、そうだよ」
「だったら・・・・私のことはどう想っていてくれるの?」
 そう聞かれたが、すぐに返答しなかったので由美は続けて話した。
「秋田さんは私たちと初めロマンで会って、それから何度も私たちの行く時間に必ず来ていたでしょう。それで思ったの(秋田さんは美津子か私の、どちらかに好意を持ったのかもしれない)と。もう昨年のことだけど、あなたは私たちを遊びに誘ってくれた。そのことで(どちらかに好意を持ったのかもしれない)と思っていた私の想像は(間違いなく持っている)という確信に変わったわ。それを証明しようと『美津子のことをどう想っているの』と、今あなたに聞いたの。そうしたら『何とも想っていない』と言ったでしょう。それだと消去法でいけば、後は私しかいないわよね・・・。もう一度聞くけど、秋田さんは私のことを、どう想っていてくれるの?」
 
 由美の話を聞きながら(やはり自分がしてきた昨年からの行動は、全て由美に見抜かれていたんだ)と思い、こうなったら本当のことを話さないわけにはいかないと思った。少し時間をおき、落ち着きを取り戻すと彼女に言った。
「中田さんの推測は正しいよ。去年ロマンのママに紹介してもらった時、僕は君を初めて見たその瞬間に好きになってしまった。軽い言い方かもしれないけど、一目惚れをしてしまったんだ」
「やはり私の予想は当たっていたのね」
「それで君たちがロマンへ来る日と時間をママから聞いて、僕もその時間に行くようにしたんだ。その結果、君に会うことができたし、話すこともできた。とても嬉しくて楽しい時間だったよ。その時はそれで満足していたけど、今度はどこかへ一緒に遊びに行きたいと思うようになり、勇気を出して誘ったら四人でならと、オーケーの返事をもらえて遊びにも行けた。それから十二月に入ると、最初は君の口からだったけど、二人で余呉湖へ行った。そして次は正月休みに二人で出掛け、今日もこうやって会っている。君と二人で遊びに行ったのは今日で三回目だけど、いつも君と会えることが僕は嬉しくて、まるで夢のような出来事に感じているよ」
「ロマンで酒井さんと美津子が話し合って二人で出掛けてしまった時、私から秋田さんに『私たちもどこかへ出掛けましょう』と言ったけど、あなたからは私を誘ってくれなかった。それはどうしてなの?」
「僕だって君を誘いたかったのは山々だった。喉から半分、誘う言葉が出かけていたよ」
「だったらどうして誘ってくれなかったのよ?」
「それは・・・君と会えなくなるのが恐かったから」
「私を誘うと会えなくなるって、どういう意味なの?誘って断られたら終わりになるからと思ったの?」
「いやそうではないよ。好きな子を誘って断られたら、それは僕が好かれていなかったからだと、諦めればいいだけのことだから別に恐いことはないよ」
「じゃあどうして?」
「さっきも言ったけど、僕は君に一目惚れをしてしまった。そしてその後もロマンで会って、話す度に君に惹かれていった。そうなると当然のことだけど、二人で遊びに行きたいし交際もしたいと、思いはどんどんエスカレートしていったよ。その時点では僕の片想いだと思っていたけど、その後も君と話している内に(僕に少しは好意を持っていてくれるのかな)と、感じるようになってきたんだ。だから君を誘えば、まずオーケーしてくれるだろうと思っていたよ。でも一度誘って遊びに行ったことで、お互いに楽しいと感じたら二度三度と会うようになると思った。いや、実際にそうなっただろう。するといずれは交際の話も出る日が、必ず来るに決まっている。
 少し話がそれるけど、僕は何年か前に、ある女性と交際をしていたんだ。だけど半年ばかり付き合ったあと、彼女にふられてしまったという苦い経験があるんだ。それはとても辛い、悲しい出来事だった。それでそんな思いは二度としたくないと思ったよ。それなのに、そんな辛い思いをしたにも関わらず、君という女性を好きになってしまった。
 話を戻すけど、もし君を誘って、うまくいけば交際だってできるだろうけど、交際をしても(また以前のように、ふられて辛い思いをするかもしれない)そう思うと君を誘うことができなかった。誘っても最初から断られるのは仕方がないし構わないけど、それよりもうまくいって交際をしてから、ふられることのほうが怖いと思っているんだ。だったら君を誘ったりしないで、ロマンで会って話して、たまにはグループで遊びに出掛けたりして、友達のような仲でいたほうが、僕にとっては幸せなんじゃないかと思っていたから、あの日君を誘わなかった訳だよ」
「そうだったの、そんな辛い経験をしてきたのね。でも秋田さん、あなたっていう人は先の先まで物事を考えるのね。まず一度誘ってうまくいったと仮定する、そうなると次に二度三度と二人が会うようになると仮定する、そして次は交際の話が出ると仮定する、すると最後はその先に待っているかもしれない悪い結果を想像して、それが恐いからと思い、それなら最初から何も行動は起こさないでおこうと考える、もちろん事と次第によっては先のことも考えなければならないけど、男女の仲に関しては、そんな先のことまで考える必要はないと私は思うわ。確かに交際してもうまくいくとは限っていない、別れることだってあると思う。どちらかが辛い思いをしなければならないことにもなるわ。でもそんなことをいっていたら誰とも付き合えないし、恋愛も結婚もできないでしょう。別れることは辛い、ふられるのはなお辛いけど、それは必ず時が解決してくれると思うの。それに交際したからといって、必ず別れると決まった訳じゃないわ。別れる可能性もあるというだけよ。それなのに交際をすれば別れて辛い思いをするんじゃないかと、最初から想像するなんて私には理解できない。あなたの考えが全く分からない訳ではないけど、どうしてそんなに先の先まで考え、しかも悪い方向にばかり考えるの?教えてよ」
 由美の話は尤もだと思った。それは自分もよく分かっている。学歴の問題がなければ、自分だってそんなことは考えずに、今すぐ交際を申し込んでいる。自分の気持ちは由美に打ち明けた、彼女も僕のことを好きだと言ってくれた。交際を申し込んだら間違いなく受けてくれるだろうという状況の中で、申し込めない自分に対して腹立たしく感じた。「どうして悪い方向にばかり考えるの」と聞く由美に、どう返答すれば良いのか?いっそ正直に学歴のことを話そうか?だけど話せば彼女をがっかりさせてしまうかもしれない。彼女の気持ちは一瞬にして覚め、へたをすればもう会えなくなるだろう。義男は彼女に対する返答を迷いに迷った。返答を待っている由美だって何も話さない義男に(なぜ聞いたことに答えてくれないのか)と、いぶかしんでいるだろう。結論は出ないが、彼女をこれ以上待たせるわけにもいかないので返答をした。

「僕がなぜ先の先まで考えて、しかも悪い方向にばかり考えるのか、その返答は、もう少し待ってもらえないかな?君に話さなければならない時が来たら、必ず話すから」
「そう、今は言えないことなのね。だったら無理には聞かないけど、いつか必ず話してね」
「うん話すよ。時が来たら話さなければならないことだから」
「私、待っているからね」
「そうしてくれるかい、今は『君のことが好きだ』と、それだけは言えるけど」
 由美は義男の言葉に(だったら交際を申し込んでくれればいいのに)と思ったが、それを自分の口からは言えなかった。そしてそれは先ほど話していた『どうして先の先まで考え、しかも悪い方向にばかり考えるの?』という問いと、何か関係があるのではないだろうかとも思った。理由を「今は言えない」と言った義男に「いつか必ず話してね」と言ったが、少しでも早く聞きたかった。
 
 お互いにもやもやした気持ちが晴れないままの時は過ぎていき、夕方になったので帰ることにした。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
 義男はそう言うと車を発進させた。
 
 家に帰った由美は自分の部屋に入ると、先ほど彼と話していた会話を思い出していた。お互いに好き同士だったと分かったのは嬉しかったが、それが分かった時に普通は交際の話をするだろう。しかし彼は「交際をしよう」とは言わなかった。過去の悲恋が彼をそうさせているのか、それとも他に何か理由があるのか、そして今言えないこととは何なのか?頭の中はいくつもの疑惑で渦巻いていたが、何ひとつとして解決できるものはなかった。

        十一   決断
 約一か月半が過ぎた頃、義男が会社へ出勤すると裕司が待っていた。
「おはよう。中田さんとはその後、どうなっているんだ?お互いに好き同士だったとは聞いたが、付き合い始めたのか?」
「まだ正式には付き合っていないよ」
「会ってはいるんだろう?」
「毎週日曜日に会っているよ。ロマンで会って話すことが多いけど、月に一度はどこかへ遊びに行くよ」
「そうか、そんな仲なのに交際はしないのだな?」
「・・・裕司、以前お前に『僕には事情がある』と言ったことがあっただろう」
「確か『自分から彼女を誘わないのには事情があるからだ』と言っていたな」
「そうだよ、だが彼女のほうから誘ってくるという、僕の想定外のことが起きたから、その結果今のような仲にまで発展してしまった。好きな子とそんな仲になれたことは嬉しいけど、その反面交際を申し込みたくても申し込めないという理由があって、苦しい思いもしているんだ」
「なあ義男、俺たち友達だろう。おまえが言う事情とか、その理由とかを、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」
 裕司にそう言われて少し躊躇したが、男同士それも友人である裕司には話しておこうと決めた。話しても真の理解は得られないだろうけど、話すことによって自分に何か得られるものがあるかもしれないと思った。
「じゃあ話すから聞いてくれるか、ただ時間が掛かりそうなので仕事が終わってから話すよ」
「分かった、仕事が終わったら休養室で待っているよ」
 そこまで話すと始業のチャイムが鳴ったので、二人は職場に行った。
 
 仕事を終えて休養室に行くと、すでに裕司が待っていた。
「待たせてすまんな」
「いや今来たばかりだ」
 二人は傍らにある自動販売機で飲み物を買うと、椅子に腰掛けて話し始めた。
「義男、じゃあ話してくれるか」
「うん・・・僕が言っている事情とは、裕司もすでに知っていることなんだよ」
「えっ、そうなのか?」
「そうだよ、全てはそれが原因で中田さんを誘わなかったし、交際も申し込まなかったんだ」
「詳しく言ってくれよ、俺がすでに知っているというその事情を」
「じらしてすまんな、実は僕の学歴のことだよ。僕は中学校しか出ていないだろう。だから高校を出ている子と交際をするのは気が引けると言うか、やがて彼女に学歴を知られる日が必ず来るだろうから、それを知ったら彼女は僕のことをどう思う?きっと嫌になって別れようと言い出すんじゃないか、そう思うと、そんな不安を毎日抱えながら交際をしているなんて、ただただ苦しいだけの日々を過ごすだけだよ。本当に心から喜びや嬉しさを感じて付き合うことはできないよ。今、彼女に交際を申し込めばきっと受けてくれるとは思うけど、そんな理由があって申し込めないんだ」
「そうか、それでお前は好きになっても誘おうとはしなかったのか・・・俺は高校を出ているから学歴のことなんか頭の片隅にもなくて、心の赴くまま、すぐ交際を申し込んだけど、おまえはそういう訳にはいかなかったのだな。中卒の男が高卒の女の子と付き合うという気持ちは、俺の立場からして表面的には理解できても、自分がそういう立場になってみないと真の理解はできないから、安易にああしろ、こうしろとは言えないが、苦しい思いをしながら交際をするくらいなら、交際を申し込む前に学歴を打ち明けたほうがいいと思うな。但し、あの子がそれを聞いて、おまえから離れていくかもしれないから、それを覚悟の上で話さないといけないが。その覚悟が義男にできた時、話したらどうだ。どっちにしろ、今のような状態で会い続けるのは辛いんじゃないのか?」
「そのとおりだ。交際を申し込むのも辛いし、申し込まないのも辛いよ」
「だったらなおさらだ。どっちにしても辛いのなら正直に打ち明けろよ。その結果が悪く出たら悲しいだろうけど、それはきっと時が解決してくれるよ。他人(ひと)ごとだと思って、適当な言い方をしているように思うかもしれんが」
「そんなことはないよ、裕司は友達として僕のことを考えてアドバイスをしてくれたんだ。ありがとう、じゃあもう一度よく考えて結論を出すよ」
「そうしたらいい、ただあまり彼女を待たせるなよ。おまえから交際を申し込まれないことに不安を感じて、彼女なりに苦しんでいるかもしれないからな」
「分かった、なるべく早く結論を出すよ」
 
 家に帰った義男は裕司と話したことを思い出して、頭の中でどうするべきかと考えていた。今まで長い間出なかった結論が、すぐに出るわけではないが、なるべく早く出そうと思った。

 それから一週間、じっくりと考えた。そして出た結論は裕司が言ったように(苦しい思いをしながら交際をするくらいなら、交際を申し込む前に学歴を打ち明けよう)と決めたのだった。
 さらに一週間が過ぎた日曜日、由美に打ち明ける覚悟で昼前にロマンに行くと、今日は美津子だけが先に来ていた。
「こんにちは、今日は早く来たんだね」
 そう言うと、美津子が返事を返した。
「秋田さんが来るのを待っていたのよ」
「えっそうなの、何か用事でもあるのかい?」
「ちょっと聞きたい事があるの」
「何かな?」
「奥の席に行きましょう、そこで聞くわ」
 二人は連れ立って奥のテーブルへ変わった。するとすぐに美津子が義男に聞いて来た。
「秋田さんに聞きたい事というのは、ほかでもない由美のことなの。あなたとの仲は由美から聞いて知っているわ。それで先日だけど、電話で話していた時に、あの子に聞いたの『秋田さんと交際をしているの?』って、そしたら『まだ交際を申し込まれていないから、していないわ』と由美は答えたの。それで、あなたが『なぜ交際を申し込まないのか、その理由を私が秋田さんに聞いてあげる』と言ったら、あの子は『何か訳がありそうだから聞かなくていい』と言ったのよ。でも、私はどうしても我慢できなくて、今日はその訳を是非聞かせてもらおうと思って、早くここへ来たの。ただ、あなたと由美のことなのに私が出しゃばって出て来たことは謝ります」
「香川さん、君は友達想いだから中田さんが可哀そうだと思っての行動だろう。だったらそれは仕方がないし僕に謝る必要はないよ。それと君が聞きたいと言っている彼女に交際を申し込まない理由だけど、ここ二週間ほどの間、色々と考えた結果、いよいよ話すべき時が来たなと覚悟を決めたんだ。それで今日ここで彼女に会えたら、どこかへ連れて行って話そうと思っていたんだ。だから申し訳ないけど、僕から直接彼女に話すよ。君はまた後で、あの子から聞かせてもらえばいいから」
「そうだったの、今日由美に話すつもりだったのね。分かったわ、じゃあ私は聞かない。また後日、あの子から聞くことにするわ」
「すまないけど、そうしてくれるかい」
 美津子は時計を見ながら「そろそろ由美が来ると思うわ」と言って、立ち上がった。そして「先に帰るから由美によろしく伝えておいて」と言い残して、店を出て行った。

 それから五分ばかり過ぎた頃、由美が店に入って来た。お互いに軽く挨拶を交わし、由美がコーヒーを飲み終えたのを見てから彼女に言った。
「今からちょっと出掛けようか?」
「いいわよ」
 それだけ言うと詳しいことは言わずに由美を外に連れ出した。そして車で数分の所に在る、裕司の勤めている会社の駐車場に入った。そして一番端の所に車を停めると、すぐに話し掛けた。
「どうしてこんな所に来たのだと思っているだろう?」
「どうしてなの?」
「実は君に話したいことがあるから、静かで誰もいない所をと思ってだよ。まあ別にここじゃなくても良かったけどね。それで話だけど二か月ほど前、僕に『なぜ、そんな先のことまで考えるのか、しかも悪い方向にばかり考えるのか、その訳を教えて』と、言ったよね。その時、僕は『いずれ言うから待っていてほしい』と答えたけど、今からその訳を話すよ。長いあいだ待たせて申し訳なかったね」
「それはいいの。秋田さんにも考える時間が必要だったと思うし、話す覚悟を決める時間だって要ったでしょうから。私はあなたが約束をしてくれた『いずれ必ず話すよ』という言葉を、ちゃんと守ってくれたから、それでいいの」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ」
 
 義男はそう言ってから、少し間を空けて呼吸を整えると話し始めた。
「この話をするのは僕にとって大変勇気がいることだけど、この話をしないと僕たちの仲は平行線を辿(たど)ったままで、少しも進展しないから話すことに決めたよ。話した結果、その平行線が近づく方向に曲がるのか、遠ざかる方向に曲がるのかは君の考え次第で、たとえ遠ざかる方向に曲がったとしても、僕は話したことを決して後悔しない。それよりも勇気を出してよく話したと、むしろ自分自身を褒めてやりたいと思っているんだ。
 じゃあ話すよ。・・・今から二か月ほど前、君と好き同士だったと分かったあの日、僕のほうからその場で交際を申し込むのが当然だと思ったけど、申し込まずに過去の話や、君に不信感を持たれるような話ばかりしていたよね。それは何故かと言うと、すべては僕の学歴からなんだ。僕は高校へ進学しないで中学校を卒業すると同時に、今の会社へ就職した。つまり最終学歴が中卒なんだよ。家が貧乏だったから行けなかったなどと、きれいごとを言うつもりはないよ。実際は進学できるほど頭も良くなかったし、勉強も好きじゃなかった。それともうひとつは家が建てたくて、一日も早くお金儲けをしたかったからなんだ。しかし女性のことを意識し始めるようになってからは、進学しなかったことを後悔するようになって、僕の好きになった女性が高卒以上で、もし交際できたとしても僕の学歴が中卒だと分かったら、どう思うだろう?(嫌われるんじゃないか、理由も言わずに別れようと言うんじゃないか)そう考えるようになったよ。
 以前も話したように、実際に短大へ行っている子と付き合っていたけど、その子からは理由も言ってくれずに別れを告げられたから、その理由が僕の学歴だったかどうかは分からないけど。そんなことがあってからは、それまで以上に学歴を気にするようになり、もし次に誰かを好きになったとしても、高卒以上の子だったら『好きです』と打ち明けたり、交際を申し込んだりはしないでおこうと決めていたんだ。幸せを感じるはずの楽しい交際のはずなのに、学歴のことばかり気になって、悩みながらの辛い交際になるからだよ。
 そう思い続けていた僕だけど、やはり人の子であり、ひとりの男だったんだ。君とロマンで初めて会って好きになり、その気持ちは徐々に高まって、やがて一緒に遊びに行きたいと思うようになった。実際に四人だったけど遊びに行った。でもそれ以上の仲になるのは、先ほど話した学歴の理由でやめようと自分の気持ちを抑えていたんだ。
 ところが、あの日ロマンで香川さんと裕司が二人で遊びに行ったため、僕たちは二人きりになってしまったよね。裕司たちが遊びに出掛けたあと、本来なら『僕たちも遊びに行こうか』と言うのが自然な状況の中で、僕は言いたい気持ちを抑えて言わなかった。そんな時に君のほうから誘ってくれたのは想定外だったけど、とても嬉しくてどんな理由があろうと、誘いを断るなんてことはできなかった。そしてそれがきっかけとなって、二度三度と二人で出掛けるようになり、今日に至ってしまったというわけだよ。
 話が長くなってしまったけど、ひと言で言えば僕の学歴が中卒だから、高卒の君とは交際をしないほうが良いと思って、申し込まなかったんです。でも好きになった君と交際をしたいという気持ちが強くなりすぎて、抑えていた感情をコントロールできなくなってきたよ。じゃあどうすればいいのかと自問自答した結果、学歴のことを正直に話そうと決めたんだ。それでこの話を聞いた君が、今日を最後に(もう僕と会いたくない)と思ったら、遠慮しないで正直に言ってくれればいいよ。すぐに結論が出ないのなら、後日『もう会わないでおきましょう』と電話でいいから、そう言ってくれれば、それでも構わないよ。もう会えなくなるのは辛く悲しいことだけど、その悲しみはいつか必ず時間が癒してくれると思うから・・・僕からの話はこれで終わりです。分かってもらえたかな?」
 
 長かった話が、ようやく終わった。由美は車の中から、じっと外を見ながら(実際には何も見ていなかったが)話を聞いていた。そして言った。
「話は分かったわ、でも頭の中でもう一度整理したいので、少しだけ時間をもらいたいの」
 由美はそう言うと瞼を閉じた。それから五分ほどが経っただろうか、由美は瞼を開くと話し掛けた。
「秋田さん、あなたの言ったことも、あなたの気持ちも分かるわ。確かにあなたが悩んでいたように、人によっては女性によっては、学歴を気にする人もいるでしょう。すべての女性が男性の学歴なんか気にしないとは言えないけど、私はそんなことは気にしない。なぜなら私はあなたの人柄を好きになったからよ。真面目に働いてお金を貯めて、家を建てるという大きな夢を持っているあなたを好きになったの。それと言いにくい学歴のことも正直に話してくれた。いくら学歴が高卒だろうと大卒だろうと、好きになれない人とは付き合えないわ。私たちは何かの縁があって出会った、そしてお互いに好きになった。私はそれだけで充分だから、もうそのことでは悩まないで。もう一度言うけど、私は秋田さんの学歴なんか気にしないから・・・・こんなことを私から言うのはおかしいかもしれないけど、もし私で良かったら交際しましょう」
 義男は由美の言葉に目頭が熱くなった。今の話が電話だったら間違いなく涙を流していただろう。彼女の前で泣くのは恥ずかしいと思って何とか我慢したが、それほど由美の言葉が嬉しかった。いや(嬉しかった)のひと言で片付けられるようなことではなかった。
「ありがとう、勇気を出して話して良かったよ。今は君と出会えて、君を好きになって本当に良かったと思っている。僕からもお願いします、是非交際してください」
「はい、喜んで」
 そうして長い話し合いも終わり、二人は正式に交際を始めた。話し終えた義男が、口から大きく息を吹き出すと由美が言った。
「話している時、すごく緊張したでしょう?聞いている私だって緊張したもの」
「話の内容が内容だけにね」
「疲れたでしょう?」
「少しね、それより君にお願いがあるんだ。ちょっと恥ずかしいけど、お互いの名前を呼ぶとき、苗字じゃなくて名前のほうを呼んでもいいかな?」
「ええ、付き合い始めたのだから、他人行儀な苗字はやめて名前にしましょう」
「じゃあ僕は君を【由美ちゃん】と呼ぶよ」
「だったら私は、あなたのことを【よっちゃん】と呼べばいいかな?」
「うん、それでいいよ」
「ふふ、なんだか照れるわ」
「僕たちがこうやって交際を始められるのも、元はと言えば裕司と香川さんのお陰だな」
「えっ、それはどういうことなの?」
「由美ちゃんは、まだ香川さんから何も聞いていないのだね。去年のことだけど君も知っているとおり、ロマンで裕司と香川さんが奥のテーブルで話をしていて、そのあと二人で遊びに出掛けてしまい、僕たちは二人きりになったよね」
「そうだったわね。そこで私のほうから、あなたを誘って私たちも出掛けたのだったわ」
「あの時、僕は裕司が香川さんを口説くために奥の席に行ったと思っていたけど、それは間違いだったよ。裕司は僕と君を二人きりにしてあげようと思い、香川さんと相談をして二人で出掛けることにしたそうなんだ。そうすれば、おのずと僕たちは二人きりになるからね」
「そうだったの、ちっとも知らなかったわ。美津子、何も言ってくれなかったから」
「そんなことがあったから、今の僕たちがあるのかもしれないよ」
「友人に感謝ね。それと私たちを紹介してくれたロマンのママにも」
「それともうひとつは今日のことだけど、僕がロマンへ行ったら香川さんが来ていてね、僕に『話があるから先に来て待っていた』と言うんだ。話を聞いたら『なぜ由美に交際を申し込まないのか?』って、聞かれたよ。君が香川さんに『聞かなくてもいい』と言ったのも聞いたけど、彼女は由美ちゃんのことを思うと我慢できなかったんだね。それで僕は『今日、中田さんに会って、申し込まなかった訳を話すから、香川さんは後で彼女に聞けばいいから』と言ったら納得して、君がロマンに来る前に帰ったよ」
「そうなの、やっぱり美津子はそうしたの。私は今すぐに聞かなくても、あなたは『必ず話す』と約束してくれたから、あの子には『聞かなくてもいい』と言ったの」
「香川さんは君のことが心配で仕方がなかったのだろうね。僕から訳を聞いて、何とかしようと思っての行動だから許してあげてよ」
「それは分かっているから、怒ったりしないわ」
「僕の話を香川さんから聞かれたら、話してやってよ。僕としては褒められた話じゃないから、あまり知られたくないけど今回は仕方がないから」
「分かったわ、あなたはあまり人に知られたくないかもしれないけど、私はそう思わない。あなたは優しくて、よく気を遣ってくれている。女の立場から言うと、男の人と交際をしても結婚をしても、大切なのはその人の人柄だと思う。妻や子供に優しく、大切にしてくれる人だったら学歴なんか関係ないわ。だからあなたのことは美津子に知られても、ちっとも構わない」
「僕は君が思うほど君を大切にできるかどうか分からないけど、できるように努力はするから」
「その気持ちだけで充分よ」
 寒かった冬も終わり、初春の温かい日差しの中で、二人の心の温もりが春を告げていた。
       
       十二   由美の両親
 義男は自分の悩みを打ち明け、アドバイスをもらったり心配させたりしたロマンのママと、友達の裕司には由美との件を報告した。二人とも大変喜んでくれたのは言うまでもない。一方、由美も美津子にすべてを話して、喜びを分かちあった。
 
 二人の交際は順調に育まれ、半年が過ぎた秋の十月初め。その日も義男と由美はドライブをしていた。そしてその帰りの車中で由美が言った。
「よっちゃん、一度私の家に来ない?私の両親に紹介したいの。あなたとよく電話で話しているから、両親も私が男性と付き合っているのに気付いていて、気になると思うの。だから紹介しておけば心配しないから、軽く顔合わせをするといった感じで、会ってもらえばどうかと思うの」
「うん・・・・」
「あまり乗り気じゃないみたいね?」
「そうじゃないけど、君と交際が続けば遅かれ早かれ会わなければならない日が来るとは思っているよ。でも会えば色んな話をするのは当然だから、そんな話の中で僕の生い立ちの話になるかもしれないだろう。そうなると学校の話も出るかと思うと、御両親に会うのは気が重くて」
「よっちゃんは私の両親が学歴を知ったら、どう思うかと心配しているのね」
「もしかしたら由美ちゃんとの交際を、反対されるかもしれないからだよ」
「じゃあ、あなたを紹介する前に私から両親に学歴のことは話しておくわ。話した結果、もし交際に反対なら、その場で私に『反対だ』と言うでしょうから。反対しないのなら、喜んでくれるかどうかは分からないけど『そうか』で、終わると思うわ。男親は娘が可愛いから、どんなに良い相手だとしても素直に喜んで賛成なんかしないと思う。『そうか』と言ってくれたら、反対はしていないと受け取ってもいいわ」
「もし本当に反対されたらどうするの?」
「そうね・・・許してもらえるように、できるだけ努力はするけど、それでも許してもらえなかったら家を出るわ」
「おいおい、またそんな過激な発言をして」
「ふふっ、それは冗談よ。私も両親と一緒に長いあいだ暮らしているけど、そんな分からずやの親だとは思っていないわ。昔の話だけど私の両親も恋愛結婚だったと聞いているし、恋愛感情というものは充分知っていると思うの。だから私の気持ちも、きっと理解してもらえるわ」
「だったらいいけど。じゃあ君から御両親に僕のことを話してもらって、それで反対されなければ家に行かせてもらうよ」
「ええ、そうしてちょうだい」
 
 その日、家に帰った由美は晩御飯を食べ終わると、両親に「話があるの」と言って、二人の前に座った。由美には来春に高校を卒業する弟がいたが、高校生の弟には話す必要もないと思い、呼ばなかった。父は名前を「一郎」という。そして母は「千鶴子」で、弟は「康男」だ。由美の家も木之本町の、ある村だがバスは走っている。
「お父さん、お母さん、二人とも薄々は気付いていると思うけど、話というのは私が付き合っている男の人のことなの」
 由美の話に父が聞いた。
「やはりそうなのか。時々電話で喋っている人だろう?」
「そうよ。その人は秋田義男さんいう名前で、年齢は二十五歳よ。それで一度家に来てもらうから会ってほしいのだけど、その前にひとつだけ二人に聞いてほしいことがあるの」
「何をだ?」
「それは秋田さんの学歴のことなの。実は彼、高校へ行っていないのよ。中学校を卒業すると、すぐに就職をしたの。だから彼は自分が中卒で私は高卒だから、私の両親が交際を反対するんじゃないかと、心配しているの。それでお父さん、お母さん、彼は中卒の学歴しかないけど、交際を許してほしいの」
 由美はそこまで話すと両親の口元を見て、どんな返事が返ってくるかと待っていた。するとほんの少しの間、考えていた父が言った。
「こんなことを聞くのは愚問かもしれないが、おまえから見てその人はどんな人だい?」
「その人と付き合ってからは、まだ半年余りしか経っていないけど、知り合ってからは一年以上が経っているわ。だから彼のことは、ほとんど分かっているつもりよ。彼は私にとても優しくしてくれるし、気も遣ってくれる。家庭も大切にしてくれる人だと思うわ。そんな人だから私は好きになったし、出来ればいずれは結婚したいと思っているの。最初に交際の話をしたとき、彼は自分が中卒なので、私とは学歴が違うから付き合えないとまで言ったの。中卒の男と付き合うのは嫌だろうと、私のことを思いやってそう言ったの。確かに学歴はないけど、それを差し引いても余りあるくらい、いい人だと思っているわ」
「そうか、そう思っているのか・・・父さんは由美が言うように優しい人で、おまえを大事にしてくれる人だったら、学歴がどうだろうと構わないよ。結婚はまだ先の話として、付き合うくらいは許すよ。もっとも由美の相手がどんな男でも結婚は反対するぞ、はっはっはっ」
 「まあお父さんたら、そんなことを言って由美がお嫁に行かなかったら、康男がお嫁さんをもらえなくなるわよ」
 父の話に母が初めて喋った。
「それも困るな。それで母さんは由美の話をどう思ったのだ?」
「私はお父さんが賛成なら、それでいいわよ。その人のことを優しい人だと言った由美の言葉を信じているわ」
「それはとても優しい人よ。彼は木之本の田舎に住んでいるけど、そんな田舎には嫁さんも来てもらえないと言って、中学校を卒業したあと真面目に働いて貯金をして、町の便利な所に家を建てるのが夢なの。そしてその夢も、もうしばらくしたら実現すると言っていたわ」
「そうなのか、頑張っているんだな」
 父はそう言って感心した。

 その夜、由美は義男に「両親から交際の許可をもらった」と、さっそく電話で報告をして、家に来てもらう日取りを相談して決めた。その日は両親の都合で、今日から二週間後の日曜日と決まった。義男は由美からの報告を受けて(彼女が両親にどう言ったのか分からないけど、交際を認めてもらえたのか)と、安堵した。ただ認めてもらえたのは良かったけれど、果たして喜んで認めてくれたのか、それとも娘の気持ちを考えて仕方なくだろうか?学歴のない自分のことを心の中ではどう思われているのか、それだけが不安だった。
 
 訪問の当日がやってきた。義男は約束の十一時より早めに家を出ると町内の店に寄り、手土産を買ってから由美の家に向かった。玄関を開けて「こんにちは」と言い、家人が出て来るのを待った。
(今と違って昔は玄関にチャイムが無かったからだ)
するとすぐに由美が出てきたので、挨拶を交わして買ってきた手土産を渡した。
「これ、口に合うかどうか分からないけど」
「あら、そんなに気を遣わなくてもいいのに。ありがとう、さあ入ってちょうだい。両親も待っているから」
「じゃあ遠慮なく上がらせてもらいます」
 
 由美に案内されて八畳くらいの畳の部屋に入った。由美はすぐに両親を呼びに行き、間もなく父と母が部屋に入って来た。座っていた義男は立ち上がると両親に頭を下げた。すると父が「まあ座ってください」と言いながら、自分たちも座ったので「はい」と言って座ると、両親に挨拶をした。
「初めまして、秋田義男といいます。よろしくお願いします」
「由美の父で一郎といいます。よろしく」
「母の千鶴子です。こちらこそよろしくお願いします」
 父は眼鏡を掛けていたが、柔和な顔立ちから温厚な人柄だろうと思えた。母の千鶴子は五十に近い年齢だと思うが、丸顔なので若い頃は今の由美のように美人と言うよりも、可愛いと言えるタイプだったのだろう。実年齢よりも若く見えた。
 三人の挨拶が終わる頃、由美がお茶を持って部屋に入って来た。父はそのお茶をひと口飲むと、義男に話し掛けた。
「硬くならずに楽にしてください。話は娘から聞きましたが、この子はあなたと付き合うことに対して、私たちの許可がほしいと言うので許しました。すると私と家内に紹介したいと言い出しまして、今日こうやって会うことになりました。私たちに紹介をしたいと言うくらいですから、この子は真剣に秋田さんのことを考えているのだと思います。もちろん、あなたも同じでしょうが。それなら私も家内も反対などしません。先のことは分かりませんが、付き合っている間は由美をよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「じゃあ今日はゆっくりしていってください」
「ありがとうございます」
 そこで由美の母が口を挟んだ。
「秋田さん、今日はあなたにお昼を食べて頂きたいと思いまして、用意をしましたので食べてくださいね」
「えっ、それはすみません。じゃあ遠慮なく頂きます」
「もうすぐ十二時なので用意をしてきます」
 母はそう言って部屋を出た。義男は父と由美の三人で世間話をしながら、彼女との交際が一歩前進したことに喜びを感じていた。
 しばらくすると母が来て「お昼ご飯にしましょうか」と言ったあと、由美と少し話していた。すると由美は「分かった」という感じで頷き、部屋を出た。そして母は父と義男に言った。
「お父さん、私たちは康男と三人が向こうで食べましょう。秋田さん、あなたと由美はここで食べてくださいね、そのほうが気楽でしょうから」
 父も母の考えに賛成をして義男に言った。
「そうだな、そうしよう。秋田さん、じゃあごゆっくり」
「はい、気を遣っていただき、すみません」
「いえいいのよ、お気になさらずに。すぐに由美が運んできますから、少し待っていてくださいね」
 そう言うと二人は部屋を出て行き、入れ違いに由美が料理を運んで来た。
「よっちゃん、お待たせ。沢山食べてね、味は分からないけど」
 由美はそう言いながら料理の皿を、お盆から座敷机に降ろして並べた。
「さあ食べましょう。私、急にお腹が空いてきたわ。緊張から解放されたからかしら?」
「そうかもしれないね、僕も同じだよ。じゃ頂きます」
「味はどう、美味しい?」
「とても美味しいよ」
「そう良かった、お母さんは料理が上手だから」
「だったら、お母さんから習っている君の料理も、きっと美味しいのだろうね?」
「私はまだまだよ。でも上手になって、あなたに食べてもらうわ」
「それは嬉しいな、楽しみにしているよ」
 昼食を終えて後片付けを済ませると、二人は世間話などをしながら時間を過ごした。
夕方になり、義男は由美の両親に御礼と挨拶をして帰宅した。

 その夜、今日の訪問で由美の父が話したことを思い出していた。父は「娘をよろしくお願いします」と言っていた。その言葉は交際を認めてくれたという何よりの証拠ではあったが、本心まで読めるほどの言葉ではなかった。それと話の中で自分の学歴の話は一切されなかった。敢えてそんなことを話す必要はないが、娘から聞いて知っているはずなので、それをどう思っているのか聞いてみたいと思った。そうは思っていても自分の口から、それを聞くことはできなかった。

       十三    父の話
 月日は流れ昭和五十二年も残すところ、わずかとなった。年が明ければ一月生まれの義男は、すぐに二十六歳になる。その年の暮れ、由美と会ったときに彼女が言った。
「お正月だけど、私の家に来ない?一緒に新年のお祝いをしましょう」
「家族水入らずのところへ、お邪魔してもいいのかい?」
「実はね、お父さんが『来てもらいなさい』と言っているの。そして『二人でお酒を飲みたい』と言っていたわ。よっちゃんも飲めるのでしょう?」
「ほんの付き合い程度だったら飲めるけど」
「だったら、お父さんに付き合ってあげて。いつもは一人で飲んでいるから」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
「良かった、帰ったらお父さんに話しておくわ」
 
 義男は年末の三十一日に長浜の駅前にある、スーパーとデパートの中間的な存在に位置づけされている店に行った。そしてその店で訪問の日に持っていく手土産と、由美へのプレゼントを買った。
 
 昭和五十三年の年が明け、由美と約束をした二日になった。訪問時間の十一時に家に着くと、この前と同じ部屋に通された。由美と彼女の両親に新年の挨拶を交わしたあと、母に買ってきた手土産を渡した。
「これつまらないものですが、食べてください」
「あらまあ、それは済みません。来るたびに頂いて」
 母はそう言って頭を下げ、父と共に部屋を出た。そして残った由美に義男が話し掛けた。
「君に新年のプレゼントを買ってきたけど、受け取ってもらえるかな」
「えっ本当。でも悪いわ、私は何も買っていないから」
「そんなことは気にしないでいいよ。これは僕の気持ちだから」
 そう言って、買ってきたプレゼントが入っている箱を渡した。
「さっそく見てもいい?」
「いいよ。気に入ってもらえるといいけど」
 由美は包装紙を破って箱を開けると、中には腕時計が入っていた。
「わぁー素敵な時計ね、ありがとう」
 そう言いながら時計を取り出すと手首にはめた。
「ちょうどいい加減だわ、デザインも私好みで本当に嬉しい」
「高い物じゃなくて申し訳ないけど、気に入ってもらえて良かったよ」
「値段なんて関係ないわ。気持ちが嬉しいの」
 そう言う由美の目が、少し潤んでいた。

 やがて十二時になると母が部屋に来て「昼ご飯にしましょうか」と言い、由美にも「運ぶのを手伝って」と声を掛けて部屋を出ていった。しばらくすると二人が料理を運んできて「今日は息子が友達と遊びに出掛けているので、いないから四人で食べましょう」と言いながら座敷机の上に料理を並べ始めた。同時に父も来たので、四人が揃い「さあ食べましょう」と、母のひと声で中田家の昼食が始まった。
するとすぐに父が義男に徳利を差し出した。
「さあ一杯どうぞ、飲みましょう」
「ありがとうございます」
「今日は無理を言って悪かったね」
「そんなことはありません。家に招いていただき嬉しいです」
「そうですか、それは良かった」
「お父さんも一杯どうぞ」
「ああ、すまないね」
 義男は父の手から徳利を受け取って酒を注ぎ返すと、ニコニコしながら酌を受けていた。四人は飲んだり食べたりしながら、世間話に花を咲かせていたが、一時間ばかりすると由美の父がみんなに言った。
「ちょっと飲みすぎたのか眠くなってきたな。父さんはもう少ししたら部屋で休ませてもらうよ。その前に秋田さんに、ひとつ話しておきたいことがあるんだが」
「はい、なんでしょう?」
「秋田さん、あなたのことは色々と娘から聞きました。ストレートな言い方をして申し訳ないのですが、あなたは自分の中卒という学歴を大変気にされていると聞きました。それが理由で娘との付き合いを迷っていたり、私や家内が反対をしたりしないか心配されていたと聞いています。ですがその考え方は大きな間違いだと私は思います。
 私は昭和初期の生まれですが、その当時は戦争の関係もあって上の学校へ行く子は少なかったし、私も行っていません。だから言うのではありませんが、私と家内は結婚してから一度も学歴の話をしたことはありません。なぜなら、そんな話をする機会もなければ、する必要もなかったからです。私は働いて給料をもらい、家内と二人の子供を養っていくという、私に課せられた大きな義務がありました。そしてその義務を今まで果たしてきました。それが学歴と、なんの関係がありますか・・・・・学歴がお金を儲ける訳ではないのです、学歴が課せられた義務を果たす訳ではないのです。良い大学を出た人の中には、高い給料を貰っている人がいるかもしれませんが、それはごく一部の人だけでしょう。それよりも学歴など関係なく、真面目に働いている人こそが義務を果たせるのです。そして妻や子供が安心して生活できるという訳です。
 だから秋田さん、あなたは自分の学歴のことを気にするのではなく、家を守り妻子を守ることを一番に考えてください。いや妻子を守るのは、まだちょっと早いですな、はっはっはっ・・・取り敢えず今は由美を守ってやってください、私の話はそれだけです」
「ありがとうございます。今のお話、決して忘れることなく胸にしまっておきます」
「そうですか、あなたに分かってもらえて嬉しいですよ。じゃあ私は少し休ませてもらいます」
 父はそう言うと、立ち上がって部屋を出ていった。由美は今の話を聞いていて、とても嬉しかった。当たり前のことを言っているようにも思えるが、そういう考えを持っている父を素晴らしい人だと思った。
 
 昼食も終わり、後片付けを済ませると、由美と二人になった義男は少しばかり赤くなった顔で、彼女に話し掛けた。
「お父さんの話を聞いただろう。素敵なお父さんだね」
「私もそう思ったわ。今までそんなに難しい話はしなかったから、何とも思わなかったけど」
「僕が由美ちゃんと交際することを、両親から許してもらったと君から聞いたけど、心の中ではどう思っておられるのか、本当に心から許してくれたのだろうかと、そんな不安があったけど、お父さんの話を聞いて不安がなくなったよ」
「私もよ、お母さんは反対しないと思っていたけど、お父さんの本心は分からなかった。反対をして娘と喧嘩したくなくて、仕方なく許したのかもしれないとも思ったわ。でもそうじゃなかった。あなたとお酒を飲んだことも含めて、さっきの話でしょう、本当は許したくないと思っていたら、一緒に酒を飲んだりしないでしょうし、あんな話もしなかったと思うわ」
「本当に嬉しかったな。お父さんの言葉は絶対に一生忘れないよ。安心したのか、今頃になって酒が回ってきたよ」
「ふふふ、眠いの?」
「いや眠くはないよ。でも車だから運転に差し支えないようにしないとね」
「そうよ、もし事故でも起こしたら大変だわ。そうだ、じゃあ私が家まで送っていくわ」
「でも田舎の細い道だから却って危ないよ。君の帰りも心配だしね」
「大丈夫よ、もう何年も運転しているから」
「そうかい、じゃあ頼もうかな」
「ええ、そうしましょう」
 
 義男は夕方まで由美の家にいたが、酒の酔いは簡単に覚めるものでもなく、家まで送ってもらうことにした。父はまだ寝ているのか姿が見えなかったので、母に挨拶をして帰宅しようと思っていたところ、車のエンジンを掛けるため、外へ出た由美が大きな声で義男を呼んだ。
「よっちゃん、雪よ雪が積もっているの」
 由美の声で外に出た義男は、積もっている雪を見て言った。
「うわー、これは大変だ。これじゃあ危ないから運転しないほうがいいよ。僕の村だと、もっと積もっていると思うから」
「でもそれじゃ、あなたはどうするの?」
「そうだなあ・・・タクシーでも頼んで帰るよ」
 玄関先でそんな話をしていると、声が聞こえたのか母がやってきた。そしてその後に父も目を覚ましたのか、やってきて言った。
「なんだ、雪になったのか。積もっているじゃないか」
「お父さんどうしよう、よっちゃん、まだお酒が残っているから私が家まで送ろうと思ったのだけど、この雪では無理かもしれない」
「そうだなあ、スリップして事故にでもなったら元も子もないからな」
 父はそう言うと、少し思案してから義男に言った。
「秋田さんどうだろう、今晩は家(うち)に泊まったら?酒を飲ませた私にも責任があるしね」
「えっ、いえタクシーを頼みますから」
「いやいや、遠慮しなくてもいいから。タクシーだと明日また車を取りに来るのが大変だろう、往復の料金だってバカにならないし。汚くしているけど空いている部屋はあるから泊まっていきなさい」
 父がそう言ったあと、母も言った。
「秋田さん、是非そうしてください。それが一番安心だわ」
 父と母の話を聞いていた由美は、傍らで(そうしなさいよ)と言いたげな顔をして見ている。義男は恋人の家に泊まることに対して少し抵抗を感じ、迷った。男友達の家なら、一も二もなくそうするのだが、彼女の家ともなれば話が違う。しかし結局は両親の言葉に甘えることに決めた。
「じゃあすみませんけど、お言葉に甘えて泊まらせていただきます」
「そうしなさい、両親が心配するといけないから、後で電話をしておくといいよ」
 話が決まると義男は再び家の中へ入った。
 
 その夜、義男は枕が変わったせいもあるのか、中々寝付けなかった。昼食時の父の話はもちろんのこと、この家に泊まったことや由美との将来のことなど、色々な思いが頭の中を駆け巡っていた。
 翌朝、起きると雪はやんでいたが、地面の上には十センチばかり積もっていた。この程度ならスノータイヤをはめているので問題なく走れる。義男は両親と由美に御礼を言って中田家を後にした。

        十四   夢の実現
 正月からすでに四か月が過ぎた春のある日、義男が会社へ出勤すると友達の酒井裕司がそばへ来た。そして一枚の封筒を義男に渡した。その封筒の表には招待状と書いてあった。そう、裕司の結婚が決まり、結婚式の招待状を義男に持ってきたのだった。結婚の話は早くから聞いて知っていたので、驚くようなことではなかった。そして結婚相手だが、それはもちろん交際をしていた香川美津子だ。式は六月の吉日で、裕司は六月の結婚を「ジューンブライド」だと、言っていた。
 
 やがて六月になり、裕司と美津子の結婚式の日が来た。義男は由美と一緒に式場に入ると、他の招待客とともに二人の登場を待っていた。そこで由美は義男に聞いた。
「酒井さんって、確かあなたと同じ歳だったわね」
「そうだよ」
「じゃあ二十六か、美津子は私と同じ二十三歳」
「それがどうかしたの?」
「別になんでもない、ちょっと聞いただけよ」
 由美はそう答えたが、内心は自分も早く結婚したいと思っていた。長い交際が悪いわけではないが、交際期間が長くなればなるほど何か問題が起きて、別れる可能性もあるからだ。もっとも結婚したからといって別れないという保証はないが。しかし義男は新しい家を建ててから結婚をしようと考えているので、まだ当分の間、結婚は無理だと思えた。田舎の古い家で嫁さんをもらいたくないのなら、家を建てるまでアパートでも借りて住むという方法もある。しかし義男としては少しでも早く家を建てたいので、よけいなお金を使いたくないのだ。それでなくても結婚をするには、お金が要る。彼も自分が二十歳台の内に結婚したいとは言っていたが・・・・。
 
 多くの招待客に祝福されながら、裕司と美津子の結婚式と披露宴は滞りなく終わり、二人が新婚旅行に行くのを他の友人と共に、義男と由美も見送った。その帰り、まだ時間も早かったので二人は喫茶店(ロマン)へ寄った。
「こんにちは」
「あらっ秋田さんに中田さん、いらっしゃい。今日は確か酒井さんと香川さんの結婚式だったわね」
 ママは義男と由美の服装を見て思い出したように言った。
「はい、先ほど無事に終わりました」
 義男が返事をすると、ママは続けて聞いた。
「そうなの、香川さん奇麗だったでしょうね」
「ええ、それはとても」
「それで、あなた達はいつするの?」
「ははは、ママさん僕たちは、まだ結婚の話なんかしていませんよ」
「でも、その内するんでしょう?」
「そうなればいいとは思っていますけど、どうでしょうか」
「中田さんの御両親も認めてくださったのなら、結婚を考えたらいいんじゃないの?」
 ママの言葉に義男が返答した。
「それはそうですけど、僕には家を建てるという夢があるので、結婚をするのは家を建ててからと決めています。だから彼女と結婚するにしても、まだ先の話です」
「家はいつ頃の予定なの?」
「そうですね、家の金額にもよりますけど、少し余裕を持たせた頭金が貯まってからにしたいので、あと二年くらいかな?それとは別に結婚ともなれば、式の費用なども要りますから」
「じゃあ二十台の内にはできそうね」
「彼女の気持ちが変わらなければの話ですけど」
 そう言って由美の顔を見た。由美はそれを聞いて(それはあなたも同じでしょう)と言いたげに、義男の顔を見返した。
「それじゃあ彼女の気持ちが変わらない内に早くしないと」
「いえ、信じていますから大丈夫です」
「それはそうかもしれないけど、女は長い間待つのも辛いのよ。年齢がいってから、もしも秋田さんと別れたりしたら、その後に良い結婚相手が見つからないことにもなりかねないから」
「確かにママさんの言われるとおりです。僕は今のところ彼女と別れるつもりはありませんが、絶対とは言えません。何が起きるか先のことは僕にも分かりませんから。でもただひとつ言えることは、彼女に対する気持ちだけは変わらないと、はっきり言えます。事故や病気で死に別れる以外に、別れることはありません」
 由美は話を聞いていて、感極まったのか目頭が熱くなるのを感じていた。
「だったら何も心配することはないわね。私も二人の結婚を楽しみにしているわ」
「はい、ありがとうございます」
 二人はそれからしばらくして店を出ると、家路に就いた。
 
 月日の流れというのは早いもので、それから二年が過ぎた昭和五十五年の春、義男は二十八歳になり、由美は二十五歳になった。義男は夢だった家を建てるべく分譲地などを探していたところ、高月町に建売住宅だが良い物件があったので、買うことを前提にして電話で由美に相談をした。
「由美ちゃん、家のことだけど、一緒に見に来てほしいんだ。建売住宅の良い物件があってね、僕は気に入ったので買おうかと思っているけど、君の意見を聞いてから決めるよ」
「本当、私も見たいわ」
「じゃあ今度の日曜日にどうかな?」
「分かったわ」
 二人は物件を見て相談をした結果、購入を決めた。

 秋田義男は中学校を卒業してから就職をして、十三年後に念願のマイホームを手に入れると同時に、中田由美と婚約をした。学歴の違いから悩んだり苦しんだりしたことも、すべて報われる日が来たのだ。ここまで辿り着けたのも由美と由美の両親、そして裕司と美津子、さらにはロマンのママさん。多くの人に励まされ支えてもらったからだ。義男はそんな皆に感謝の気持ちで、いっぱいだった。
 
 その年の秋、二人は結婚をして現在に至っている。平成三十年まで約三十八年間の長い結婚生活の中で、由美の父が義男に話したように、定年になるまで真面目に働いて、家族を守り続けるという義務を果たした。そしてその間、二人が学歴の話をすることは一度もなかったのだった。
                                    完
                                       
          最後に
 この小説は作者自身が若かった頃の体験を元に書きました。自身の学歴が中卒だったので、女性との交際に関しての悩みや苦しみなどの心情を綴りながら創作を加えています。





 

しおり