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82話 月夜の晩に

 その夜、俺は中々眠りにつくことができなかった。

 ずうっと、なんだかわからないモヤモヤとした感情が胸の奥で燻っていて晴れない。
 同室の奴らはとっくに眠っていて、下のベッドからは鼾が聞こえてきた。
 数年前までは、俺の寝床だった場所だ。上にはロワードが居て、隣のベッドの一階はヤク、二階はディックが使っていた。
 今では、拳奴だけではなく、使用人である奴隷達と同部屋になっている。
 まあ仲良くはやっているが、やはり少しの疎外感はある。
 今やマスタングの下で拳奴をやっている者は十人にも満たない。皆、新しく始めた海運業の方へと行ってしまった。
 残って居る者といえば、拳闘以外にはなんの取り柄もない者ばかり。
 要するに拳闘という競技に魅せられ、憑りつかれちまった馬鹿ばかりってことだ。

 そんなことを思いながら俺はベッドから降りた。
 少し夜風にでも当たれば寝つけるかもしれないと思い外へと出る。
 本来、奴隷が夜中に許可もなく外をうろつくのは処罰の対象ではあるが、まあぶっちゃけ皆見つからないようによろしくやっている。

 どこへ行こうってわけでもなくふらふら歩いていると、辿り着いた先は練習場であった。
 俺は中央にあるリングまで行くとロープを潜って真ん中に立つ。
 空を見上げると、大きな満月。ずっと見つめていると眩しいくらいに煌々と輝く月が、まるでスポットライトのように感じられた。

 気が付けば俺は握り拳を作りシャドーを始めていた。
 目の前に浮かぶ数々のライバル達。
 それは、俺が日本人本田史郎であった時に戦った相手達。
 結局勝つどころか、試合が中途半端に終わってしまったチャンピオンの姿。
 その姿が次第に、こちらの世界で戦った相手達の姿に変わって行く。

 そして最後に現れたのは、セルスタであった。
 初めてセルスタと戦ってから、もう6年の年月が経っていた。
 あの時のセルスタの姿を思い浮かべると、俺はファイティングポーズを取った。

 距離は取るな……。

 そう呟くと俺は両拳を顎の下に付けて頭を左右へと振る。
 セルスタの鋭いジャブを躱しつつ距離を一気に詰めると、まずは挨拶代わりのワンツーだ。
 流石のセルスタ、それをきっちり見極めて捌くと。お返しと言わんばかりの右ストレート。俺のガードの上から思いっきり叩きつける。
 セルスタの本気の右ストレート。子供の頃の俺だったら喰らった瞬間にガードごと弾き飛ばされて意識が飛んでいただろう。
 でも、今なら耐えられる。受け止めきれる。渾身の力を両足に籠めて、踏ん張るんだ。
 そのまま一気に押し返して、懐に飛び込んでボディーだ。
 今の俺のリバーブローは、あの頃の比じゃないぜ。これを何発も喰らえば流石のおまえだって、立っていられないだろう。

 セルスタ、今の俺なら……今の俺ならお前にだって……。



 気が付くと俺は、キャンバスの片膝をついていた。
 まだ、まだまだ今の俺では、想像の中のセルスタにさへ、遠く及ばないのか……。

 悔しさの反面、なんだかスッキリとした。
 そして嬉しくもなった。
 俺は、まだまだ強くなれるんだ。大きな目標があることが、こんなにも楽しいことだということを忘れていた気がする。
 もしかしたら俺は、この世界に来ることによって、もっとボクシングというスポーツを好きになれたのかもしれない。

「ロワード、おまえももしかしたら別の世界で、俺と同じようにボクシングを続けているのかもしれないな……」

 そう呟いてリングから降り帰ろうとすると、出入り口の所に人影が見えた。

 それは真っ白な寝巻き姿で、じっと俺のことを見つめているロゼッタであった。
 月明りに照らされたその姿に、俺は一瞬目を奪われる。はっ、とするとロゼッタがゆっくりと近づいてきた。

「こんな時間に、なにをしているの?」
「おまえの方こそ、こんな所でなにやってんだよ」

 お互いの言葉には返事をせずに黙り込む。
 ロゼッタはその間、ずっと俺のことを見つめたまま視線を外そうとはしなかった。
 なんだかその視線に俺は、うしろめたい気持ちになりロゼッタから目を逸らす。

「一緒に……」
「え? なんだって?」

 ロゼッタがなにかを言うのだが聞き取れない。
 聞き返すとロゼッタは少し困惑したような表情をした後、再びその言葉を口にする。

「私と一緒にここから逃げない?」
「は? はあっ? 逃げって、おま、え? なに言ってんだおまえ?」

 わけがわからず慌てる俺のことを真剣な表情で見つめるロゼッタ。

「私達のことを誰も知らない場所に行くの。そこで二人、小さな農場でも経営しながら暮らす。贅沢なんてしなくてもいいわ。子供を作って、小さな家族だけで慎ましい暮らしをするの。それでもいいじゃない」

 言いながらロゼッタは少しずつ俯き、声も震え、今にも泣き出しそうになっていた。
 そんな馬鹿なことができないことは、ロゼッタだってわかっている。
 奴隷の逃亡は重罪だ。ロゼッタは市民ではあるが、大商人の一人娘である。二人で駆け落ちなんてしようものなら、当然追われる身にもなるだろう。

 俺が返答に困っていると、ロゼッタはゆっくりと顔を上げた。
 ロゼッタの碧い瞳からぽろぽろと流れ落ちる大きな涙。

「どうして……どうしてあんたなんかを好きになっちゃったのよ……」

 そう言うとロゼッタは、俺の胸に縋り付き大きな声を上げ子供のように泣きじゃくるのであった。


 続く。

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