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第七章 魔女だったもの

 昼過ぎになって、僕たちはフォスミロスの部屋に集められた。
「スバンシュはティスゼス近くの洞窟に潜んでいる可能性がある」
「本当ですか父さま! リッキ、ティスゼスなら今日中に行ける。すぐに行こう」
 ティスゼスはピレックルから見ると北にある、街道からはちょっと外れた小さな街だ。
「その情報は確かなんですか」
 疑っている訳じゃないけど、念のために確認する。
「ああ、見慣れぬ派手な色のオウムが洞窟の中に飛んで行ったそうだ。しかもその時、スバンシュの名前を呼んでいたらしい」
 キパポだ。それなら間違いないだろう。
「ヴェンクー、ジザは疲れてないかな? ここのところ毎日かなりの距離を飛んでいたし」
「ティスゼスに行くくらいなら全然問題ない。ジザはこれくらいで弱音を吐くようなドラゴンじゃないからな」
「じゃあすぐに行こう。みんなも……頼む。たぶんこれが最後の戦いになると思う。あと一回だけ、付き合ってほしい」
「今さら何を言っているのだ。頼まれなくてもついて行くに決まっているではないか」
「わたしもです! リッキのため、悪を倒すため、戦います!」
「ありがとう」
 戦って得るものがあるのは僕だけだ。それなのに、一緒に戦ってくれる仲間がいる。
 こんなにうれしいことはない。
 右手首の白いブレスレットを、じっと見つめる。
 こいつとも、今日でさようならだ。絶対にそうしてみせる。

 ピレックルを出発して、二時間くらい経った。
 だんだんティスゼスに近づいてきた。それにつれて、空に黒雲が多くなってくる。
「なんか、ちょっと不気味だな。まさかスバンシュがやっていることだとは思わないけど」
「もし雨が降ったとしても、洞窟の中なら関係ありません!」
 リノラナはいつも前向きなことばかり言う。僕とは大違いだ。それに今回は鎧を装備していて、戦闘に臨む気力が強く感じられる。
「私は外で待ってなきゃならないんだけど」
 ユスフィエは戦えないけど、一緒に来ている。ただ、昨日のキフォアーでそうだったように、洞窟の中へは行かず、外でジザと一緒に待っていてもらうことになる。
「ジザの翼の中に入っていれば濡れないから。ジザもわかったな?」
 手綱を握っているヴェンクーが、ジザに話しかける。それを聞いたフィオが「ジザは人の言葉がわかるのか?」と問いかけた。フィオの疑問はもっともだ。
「オレの言うことなら、ジザはわかる。オレもジザの気持ちはわかる」
「…………本当か?」
「本当に決まっているだろう」
 振り向いて、フィオに答える。
「フィオ、本当です」
 続いてリノラナも答えた。
「兄さまとジザは深い絆で結ばれています。お互いの気持ちが通じないはずがないではありませんか」
「そうなのか。なかなか不思議なものだな」
 フィオはよくわかっていなそうだけど、それでも納得してうなずいている。
「リッキ、たぶんあそこだ。下りるぞ」
 ヴェンクーの手綱に反応して、ジザが下降を始めた。

 ティスゼスと、街道とは逆の方向にある村との間に、土がむき出しの荒れた地域がある。そこに洞窟はあった。
 崖に穴が空いているような、よくある洞窟ではない。
 地面にちょっとした段差があり、そこに横長の亀裂が走っている。まるで本当に地面が口を開けているように見えた。
「この中にスバンシュが……」
 高さは一メートルくらいしかない。膝をつき、体を傾けて中を覗いてみる。仄かに青白く光る洞窟の内部は、かなり広そうだ。
「じゃあ、行ってくるから。待っててくれ」
 振り向くと、ここに残るユスフィエに、ヴェンクーが手を振っていた。
「そんなさよならみたいなことしないでよ」
「さよならじゃないって。すぐに帰ってくるって」
「洞窟の深さも知らないくせに」
「それは、そうだけど……でも、すぐに帰ってくるって」
「うん、わかってる。ちょっと言ってみただけ」
「なんだよそれ」
 軽く笑って、ヴェンクーは体を屈めて洞窟の中へ入っていく。僕はしゃがんで地面に手をつきながら中へと進んだ。
 中は広い。天井の高さは変わらないのに地面はずっと下り坂だから、すぐにまっすぐ立って歩けるようになった。横幅はもともとかなり広いし、奥に進むほど開放感が出てくるというのがちょっと不思議な感覚だ。ところどころで柱のような岩が天井を支えているけど、その他には何もない。
「静かだな」
 何気ないフィオの一言が、空間に響く。
「魔獣を放つこともできないんだろ」
 ヴェンクーが答える。僕も同感だ。
 スバンシュの魔力は、枯渇している。戦うことも、どこかへ移動することも、もう何もできないはずだ。
 僕たちに見つかったが最後、スバンシュの人生は終了する。
 決して油断することはできないけど、僕はそうなると信じている。
 下り坂が続き、天井はかなり高くなった。十メートルはあるだろうか。柱状の岩もどんどん長くなっている。
「それにしてもこの洞窟、どこまで深いんだ? それに、スバンシュはどこにいるんだ?」
 下り坂はまだまだ続き、広々とした空間が続いている。スバンシュがいる気配は感じられないし、いそうな場所も見つけられない。フォスミロスの調査が間違っていたとは思わないけど、本当にここにいるのだろうか。
「リッキ、あれは」
 リノラナが前方を指差す。特に何もなさそうだけど……。
 駆け出したリノラナが、地面に落ちていた何かをつまみ上げた。
「これです。見てください」
 やはり走って戻ってきたリノラナが、つまんでいるものを腕を伸ばして見せる。
 黄緑や青、ピンクで彩られた、鳥の羽毛。
 キパポの羽毛だ。
「この先にいることは、間違いないみたいだな」
「はい! きっともうすぐです!」
 ちょっと生まれてしまっていた迷いが、完全に消えた。
 少し足取りが軽くなったようにも思える。
「それにしても、リノラナは目がいいんだな。僕には全然見えなかったよ」
「戦うには目の良さは重要です! 本を読むと目が悪くなると聞きましたので、わたしは一切本を読みません!」
「いや、それはちょっとくらい読んだほうがいいよ……」
「そうなのですか? 兄さまはどうですか? わたしは兄さまが本を読んでいるのを見たことがありません!」
「……本は読んだほうがいい」
「そうですか! 兄さまはどんな本を読みましたか?」
「…………言う必要はない」
「どうしてですか! 兄さまが読んだ本を、わたしも読んでみたいです!」
「そ、それは、その……、オ、オレに合う本が、リノラナに合うとは限らないからな」
「それもそうですね!」
 リノラナは大きくうなずいて納得している。
 でも、ヴェンクーが本を読んでいないことはバレバレだ。その証拠に、ヴェンクーはリノラナを見ずに話している。もし本当なら、ヴェンクーはちゃんとリノラナの顔を見て話していたはずだ。
 僕は隣のフィオと顔を見合わせ、少し吹き出しそうになりながら笑顔を見せ合った。
 最終決戦を前に、硬かった空気が和んだ。そこへ、
「ぎゃー。やめて、やめて」
 まるでおもちゃが話すような声が響く。キパポの声だ。
「やめて、スバンシュ様、やめて」
 声だけではなく、バタバタという羽音も聞こえてきた。
 和んだ空気が、一気に引き締まった。
 声の方向へ走る。
 キパポの声は、柱状の岩の陰から聞こえてくる。
「スバンシュ様、だめ」
「うるさい! お前は元々わたしが創った命だろうが! 死にはしない。ただわたしに還るだけだ」
「ぎゃー。リッキ、助けて」
 岩陰からは見えていないはずだけど、足音や話し声で把握したのだろう。キパポが僕に助けを求める。
 僕に助けを求めるその思考は理解できないけど、何が起きているのかは気になる。
「死ぬー、助けて、リ」
 僕の名前は、最後までは呼ばれなかった。
 急いで岩陰に回り込む。
 少女のように見える魔女が、柱状の岩に背中を預けていた。
 部分的に露出した派手な衣装は、大きく破れて露出度を高めている。それとは対照的に、しっかりと嵌められたままの、両手首の闇の枷。
 スバンシュの右手には、握りつぶされたキパポ。指の間から真っ赤な血がだらだらと流れ落ちている。
 そして、口元にも血の跡。
 ぺっ、とスバンシュが何かを吐き捨てた。カラフルな羽毛や肉のようなものが、血に染まったツバとごちゃまぜになっている。
 キパポを……食べた?
「はっ、はははは」
 血のついた口で、スバンシュが笑う。
「リッキ……わたしを殺しに来たのよね?」
 またキパポを一口かじる。くちゃくちゃと噛み、羽毛や皮膚の残骸を吐き捨てる。空いている左手で口元を拭いながら、もたれかかっていた柱状の岩から背中を離した。
「わたしもそう。わたしもリッキを殺したい」
 体をふらふらと揺らしながら、おぼつかない足取りでゆっくりと歩く。
「いや、違う。食べたいのよ。そうよ! わたしはリッキを食べたいのよ! ちまちま調べる必要などないわ。リッキの脳みそを食べてしまえば、わたしはすべてを知ることができる。“別の世界”のすべてを!」
 スバンシュがこっちに向かってふらふらと歩いてくる。
 あまりの不気味さに、思わず後ずさりしてしまった。
「ふふっ、あははっ」
 スバンシュの口が大きく開く。右手に握っている潰れたキパポを、その口に押し込んだ。
「何が闇の枷よ。魔力を放出できなくなっただけじゃないの」
 スバンシュの体が、小刻みに震えている。
「だったら内側で使えばいいだけよ。どうしてあの時気づかなかったのかしら」
 震えが大きくなってきた。それにつれて、スバンシュの体が大きくなっていく。破れかけていた衣装は完全に裂け、体は色とりどりの鱗や羽毛に覆われていく。体の形ももはや人間のそれではない。足は肉食恐竜のように太く、しかし腕も太く長い。さらに背中を突き破って翼が生えてきた。尻には長い羽が尻尾のように伸びている。顔は犬のように鼻が突き出て、口には大きな牙。
 大きくなり続けていたスバンシュの体は、十メートル以上はあるであろう天井に届きそうなくらいに巨大化し、やっと成長を止めた。長い舌を垂らし、荒々しく息を吐く。
「これは…………人間なのか?」
 その巨大な姿を、フィオが見上げて震える。剣を抜こうとする右手が、うまく柄を握れずにいた。
 鳥と獣の合成獣(キメラ)と言っていいその巨体は、魔獣以外の何物でもない。
「そんなことは関係ない。戦うだけだ」
 ヴェンクーは冷静だ。
「しかし、どうやって戦えば」
「フィオ、慌てる必要はない」
 ミメンギの洞窟での戦闘もそうだったけど、フィオはまた巨大な敵に恐怖してしまっている。まずは冷静になることが大切だ。
「スバンシュの手首を見るんだ。闇の枷は嵌まったままだ」
 巨大化した体に合わせて闇の枷も大きくなり、鱗に覆われた手首を覆っている。
「だからスバンシュは魔法が使えない。魔法が使えない魔法使いなんて、何も怖くない」
「いくら魔法が使えないからって、あんなに大きなやつを相手にするんだぞ」
「ミメンギで勝ったじゃないか。同じだよ」
「あの時、私はろくに戦えなかった」
「二回目なんだから上達してるって。それに、あれからずっと騎士団で鍛えていたじゃないか。リノラナは戦える?」
「もちろん戦えます! 絶対に勝ってみせます!」
 鎧姿のリノラナは剣を構え、スバンシュの巨体から目を逸らさない。
「…………私も戦える!」
 フィオはしっかりと剣を握り、鞘から抜いた。
「お喋りは終わったかしら?」
 頭上から、潰れた声が響く。
「話せるのか? スバンシュ!」
「何をバカげたことを言っているの? なぜわたしが話せちゃいけないのよ」
 少女らしかった姿も声も完全に失っているのに、口調は変わっていない。そのギャップが不気味さを引き立てる。
 荒かった呼吸が、すっかり整っている。スバンシュは長い腕を振り回して殴りかかってきた。僕たち四人は距離を取って回避する。
「固まっていたら危ない。散るんだ」
 スバンシュの前後左右に位置を取り、剣を構えた。
「シェレラは? シェレラはいないの?」
 犬のようなスバンシュの顔が、周囲を見渡す。異様に首が回る。真後ろにいる僕とも目が合った。
 正面に向き直ったタイミングで、踏み込む。
 長い尾羽が左右に振られ、僕の行く手が遮られる。
「ねえ、シェレラは? いないの? ……そう、いないのね。どうしたの? 喧嘩しちゃったの?」
 答える必要などないから答えない。
 本来なら、鳥を使って情報収集ができるはずだ。シェレラがいない理由を知らないということは、その能力も失ってしまっているということだ。魔獣のような姿になったのも、キパポから得た力だ。スバンシュ自身には、本当に何も残っていないのだろう。
 だから、スバンシュは肉弾戦をするしかない。
 またスバンシュは長い腕を振り回してきた。単純な攻撃だ。簡単に避けられる。
「スバンシュは殴るしかできないみたいだ。こっちには剣がある。絶対に勝てる」
「殴るしかできない? このわたしが? そんな訳、ないで、しょっ!」
 スバンシュは翼をはばたかせ、その勢いでダッシュして蹴りを繰り出した。正面にいたヴェンクーが、その蹴りを躱す。
 あえて煽ってスバンシュに攻撃させてみたけど、やはり動きが大きい。敏捷性ではヴェンクーのほうが比べるまでもなく上だ。それに、肉弾戦であることにも変わりはない。
 ただ、避けることはできても……こっちから攻撃するとなると、なかなかできない。剣があるとは言ったものの、びっしりと鱗に覆われた足には通用しなさそうだ。かといって羽毛に覆われた上半身は高すぎて届かない。高いところへ攻撃するなら、シュニーからもらった槍がある。でもあれは核(コア)を一撃で砕くのには向いているけど、魔獣ではないスバンシュには意味がない。ただ一回攻撃したのと同じことだ。
「リッキこそ、シェレラがいないのに何ができるの?」
 剣を構えるだけで斬り込めない僕たちを、スバンシュが挑発し返す。
 本当は、僕がやるべきことは決まっている。でも言ったら終わりだ。相手は魔獣ではない。言葉がわかるスバンシュに聞かれてしまう訳にはいかない。
 チャンスは一回しかない。どうしたらいいだろうか……。
 考えている間に、スバンシュの左右にいるフィオとリノラナが同時に突っ込んだ。スバンシュは長い腕を振り回して抵抗する。それをなんとか回避して、鱗で覆われた左足にフィオが、右足にリノラナが、それぞれ剣を打ち込む。
「うおおおおおぉっ!」
「はあああああぁっ!」
 しかし、渾身の力を込めたはずの剣は、弾かれてしまった。鱗が数枚飛び散る。ただそれだけだった。
「やはり通じないのか?」
「ならば何度でも攻撃するまでです!」
 フィオの不安を、リノラナの勇気がかき消す。
 リノラナがさらに剣を浴びせ、鱗を削る。
「そうだった。私は戦うと決意したばかりではないか!」
 フィオも剣を握り直し、巨木のようなスバンシュの太い足に剣を浴びせる。
「こっちだ!」
 ヴェンクーがスバンシュの注意を引きつける。自分からスバンシュの腕に近づき、攻撃を誘った。スバンシュはヴェンクーに殴りかかった。しかしヴェンクーの身軽さのほうがそれを上回る。拳が空を切った。続けざまに、両腕を振り回して左右からヴェンクーを襲う。その拳を、ヴェンクーはかすることすらなく避け続けた。
 僕だって、黙って見てはいられない。何より、これは僕のための戦いだ。
 なんとかして、スバンシュの体に取り付いて、上に登りたい。でもシェレラがいないから、振り落とされたら一巻の終わりだ。
 それでも、やるしかない。
 スバンシュの背後から突っ込む。やはりスバンシュは尾羽を振って妨害してきた。
 でも、そんなことは計算済みだ。
 僕はその尾羽を掴んだ。スバンシュに抵抗され、体が大きく左右に振られる。それでもなんとか尾羽の付け根までたどり着き、背中にしがみついた。
 背中は羽毛に覆われている。なんだか温かくてふんわりしていて気持ちいいんだけど、そんなことを感じている時ではない。早く上に行かなくては。
 スバンシュは翼を広げた。翼は急角度で曲げられ、背中を覆うように扇状に広がる。
 翼の先端が、僕を弾き飛ばした。
「ぐあっ!」
 背中から地面に落ち、衝撃で息が止まる。すぐにポーションを飲んで回復し、立ち上がった。まだそんなに高い位置じゃなかったから助かった。もし頭の高さでこれをやられたら、死んでしまう。
「リッキ、大丈夫か」
「ああ、大丈夫……フィオ、前!」
「えっ」
 スバンシュの太い足が振り上げられた。蹴り飛ばされたフィオの体が、遠くへ飛んでいく。続けてリノラナも蹴り飛ばされ、地面に倒れ込む。
 二人にポーションを飲ませる。シェレラからたくさんもらっているから、これくらいなら全然問題ない。
 ただ、やはりまともには攻撃するのはかなり難しそうだ。
「リッキ、振り落としてしまってごめんなさい。でもあなたが悪いのよ。わたしを殺そうとするから。素直にわたしに食べられてくれたら、こんなことしなくていいのに」
 僕を掴もうとして、スバンシュの手が迫る。飛び退いて回避した。
「どうして逃げるの? どうして食べられてくれないの?」
 スバンシュは続けて腕を伸ばしてきた。さらに飛び退いて回避する。
 フィオとリノラナが再びスバンシュの足に襲いかかる。スバンシュの注意は僕に向いていて、足への攻撃を避けようとしない。鱗が少し剥がれるくらい、気にしていないのかもしれない。
「リッキ、オレがスバンシュに登る。背中に登ればナイフで攻撃できる」
「あの高さから落ちたらどうするんだ! 僕が落とされたのを見てなかったのか? タダじゃ済まないぞ」
「オレなら落ちない」
 ヴェンクーは僕の制止を無視してスバンシュの背後に回り、尾羽から背中に取り付いた。
 疾い。僕とは大違いだ。
 スバンシュは翼を湾曲させてヴェンクーを弾き飛ばそうとした。しかし何度弾き飛ばそうとしても、ヴェンクーは背中から離れない。正面からはよく見えないけど、体が小さくて身軽なヴェンクーを、スバンシュの翼はうまく弾けないんだ。
 その翼が、大きくばたついた。ヴェンクーに攻撃されて流れ出た血が、飛沫となって飛び散る。
 それでもスバンシュは長い腕を振り回し、僕に攻撃を続ける。背中の痛みを感じていないのだろうか? それとも、そんなことより僕を捕まえるほうが大事だと考えているのだろうか。
「リッキ、リッキ、わたしに食べられて! わたしはただ、“別の世界”を知りたいだけなの! それだけなのよ!」
 たとえ僕たちの世界に影響を及ぼすつもりがなくても、悪気はないただの純粋な知識欲であっても、だからって僕をこんな目に合わせていいはずがない。
 僕は攻撃を避けるために後ろへ下がる。それを追って、スバンシュが前に出る。スバンシュの足を攻撃しているフィオとリノラナが、それに合わせて移動して斬り、剥がれた鱗が飛び散る。
 フィオが浴びせた剣が、鱗が剥がれた隙間を突いて肉を斬り裂いた。青や黄緑の鱗の足に、赤い血が流れ落ちる。続いてリノラナの剣も、スバンシュの足から血が流れるほどの傷を負わせた。
 僕も攻撃したい。でもスバンシュに攻撃され続けていて、なかなか近寄れない。
「攻撃は私たちに任せろ! リッキは回避に専念するんだ!」
 スバンシュの足を斬りつけながら、フィオが僕を気遣う。
「そうです! リッキはまず自分の身を」
「うるさい」
 スバンシュの右足が横に払われた。リノラナの体が軽く吹き飛ぶ。
「リノラナ!」
 駆け寄ろうとした僕に、スバンシュの長い腕が迫る。それと同時にスバンシュの左足がフィオを蹴り飛ばした。
「フィオ!」
 リノラナと違って前に飛ばされたので、僕はフィオに駆け寄ることができた。
「……だい、じょうぶだ。私に構うな」
「これを」
 ポーションが詰まったポーチを二つ置く。
「リノラナに渡してくれ」
 ずっとフィオと一緒にいたら、フィオまでスバンシュの長い腕の餌食になってしまう。離れながらフィオに伝える。
 もう二人に無理はさせられない。僕が攻撃しなきゃ。でも、どうやったら……。
 考えながら攻撃を躱す。僕を捕まえようと長い腕を伸ばすスバンシュの攻撃を、とにかく下がって回避する。
 頭上から、何かがパラパラと降ってきた。
 ……砂? それに、小石だ。
 この洞窟は入口が低く、奥に進むほど深く、天井が高くなっている。
 下がる僕を深追いしたせいで、スバンシュの頭が天井に当たってしまったんだ。
「リッキ、逃げないで。早く私に食べられて」
 それでもスバンシュは僕を追い続ける。天井からは砂や小石だけじゃなく、もっと大きな石も落ちてきた。
「兄さま!」
 フィオにポーションを渡してもらったリノラナが叫ぶ。
 スバンシュが尾羽を左右に振った。その先にヴェンクーがしがみついている。頭から流れ落ちた血が頬を伝っていた。石が当たって、スバンシュの背中から落ちてしまったんだ。
 振り回されたヴェンクーが地面に落ちた。それがちょうどフィオとリノラナの前に飛ばされたのは幸運だった。ポーションを飲み、ヴェンクーのダメージが回復する。
「これからは僕が戦う! みんなはもう、僕のために危ない目に遭わないでくれ!」
 これ以上、仲間が傷つくのを見ていられない。いくらポーションで回復できるとは言ってもだ。
「何を言っているのだ」
 フィオが僕のところへ駆け寄ってきた。フィオだけではない。ヴェンクーとリノラナも続いて集まってきた。
「リッキ、君が嫌だと言っても、私は戦うぞ」
「わたしもです! スバンシュは倒さなければならない敵です!」
「こんなやつを野放しにできるか? できないに決まっている」
 三人は僕の前に立ち、壁となった。
「あの手を斬ってしまえばよいのだ。それならばリッキを捕まえられまい」
 降ってくる石を避けながら、フィオが突撃する。
「わたしも!」
 リノラナもフィオの後を追う。
「やめるんだ、二人とも!」
 下がって避けるのが精一杯だったというのに、突っ込んで行くなんて無謀すぎる。対象が二人になるぶん、攻撃が散ることに期待するしかなさそうだけど……。
 迫りくる手を躱しながら剣を振る。最初の数回はダメージを負わせることができたけど、傷はだいぶ浅い。そして、
「ぐあああっ!」
 スバンシュの横殴りの拳が、避けきれなかったフィオの体を吹き飛ばした。左右の拳に追われることになったリノラナも、まともに拳を食らって体が宙に舞う。
「こんなやつらはどうでもいいわ。リッキ、大事なのはあなただけ」
 天井を削りながら、スバンシュが僕に迫る。隣にいるヴェンクーはお構いなしに僕だけ狙って来ているのをはっきりと感じる。足のケガと天井の低さのせいか、多少は歩きにくそうだ。それでも僕は攻撃を躱すのが精一杯で、こっちから攻めに行くことはできない。
「お願い、もう逃げないで」
 スバンシュの翼が大きく羽ばたき、風を起こした。
 石や砂が不規則に舞う。
 その石が僕に向かって飛んできた。
 顔に当たりそうになり、思わず顔の前に腕をかざしてかばう。
 視界が一瞬途切れた。
 その瞬間、横からの衝撃。そして体が浮き上がる。
「あははははっ! ついに、ついに捕まえたわ!」
 スバンシュの大きな手が、僕の体を掴んだ。
「くっ! 離せ!」
 必死にもがいても、両腕ごと胴体を掴まれていて身動きがとれない。足が空を蹴るだけだ。
 スバンシュは顔の前に僕を掲げた。
「うれしいわ。ついにわたしは“別の世界”を知ることができるんだもの。さあリッキ、わたしに食べられて」
 犬のようなスバンシュの顔が迫る。
「リッキ!」
 ヴェンクーがナイフを投じた。スバンシュの人差し指にナイフが突き刺さる。
 僕を掴む力が、少し緩んだ。
 必死に身を捩り、左腕を大きなスバンシュの手から抜け出させる。
 今しかない。
 左手の指先で空中を叩く。
 出現させたのは、シェレラの銃。
 引き金に指をかける。
 目前に迫るスバンシュの口に銃口を向け、引き金を引く。
 一発だけ残っていた弾丸を、スバンシュの体内に撃ち込んだ。
「ぐうぉあおあああああああああああああぁぁああぁぁぁっ!」
 潰れた絶叫が、洞窟に響き渡る。
「ああああああああああああああああああああああああああああっ!」
 スバンシュの体内で、闇の枷が魔力を縛る。
「あああああああ……あああぁぁ……」
 足元をふらつかせ、今にも倒れそうだ。僕を握りしめている手も緩む。
 そしてついに、スバンシュは仰向けに倒れた。開放された僕はスバンシュのおなかにバウンドし、地面に落ちた。
「リッキ! 大丈夫か?」
「大丈夫。なんともない」
 駆け寄ったヴェンクーに答える。
 飛ばされたフィオとリノラナも、なんとか立ち上がって集まってきた。
 壊されて脆くなってしまったのか、天井からは砂や石が今も落ち続ける。その中で、巨大なスバンシュの体が、どんどん小さくなっていく。
「……死んだのか?」
 ヴェンクーが僕に問いかける。
「……わからない」
「勝手に殺すな」
 スバンシュがよろめきながら立ち上がった。元の少女のような体に戻ったスバンシュが、両手首の闇の枷だけを身に着けた姿でふらふらと歩きながら近寄ってくる。
 もう何もできないはずだ。
 その確信はあるけど、迎え討つために剣を構える。
「リッキ……わたしはただ、あなたの世界を知りたいだけ……」
 闇の枷を嵌められた腕を伸ばし、傷ついた足でゆっくりと一歩ずつ、僕に近づく。
「お願い、わたしに、べつの、せか」
 天井から剥がれた大きな石が、スバンシュの体を直撃した。
 石は地面に落ちた衝撃で割れ、四方八方に飛び散る。
 そこには、かつて魔女だった者の潰れた肉塊があるだけだった。

 ふと、何かを感じた。
 右手首を見る。
 僕を長い間苦しめていた白い毛糸のブレスレットは、そこにはなかった。
 左手で、右手首を包むようにさする。
 重さなんてないに等しかったけど、それでも軽くなったように感じる。
 やっと、終わったんだ。

「危ない!」
 フィオが僕の手を引いた。
 引っ張られるままに動く。続けて低く鈍い音。
 さっきまでいた場所に、天井から石が落ちてきたのだ。頭より一回り大きな石が砕け、小さな破片が体に当たった。
「いつまでもここにいては危険だ。すぐに出よう」
 まだまだ降り続ける石に注意しながら、僕たちは出口へ向かった。

   ◇ ◇ ◇

 洞窟から外に出ると、激しい雨が僕たちを打ちつけた。
 外はすっかり暗くなっている。土砂降りの雨のせいで星も見えず、本当に真っ暗だ。
 魔石灯をつけ、先を照らす。
 激しい雨をものともせず、ジザは来た時と同じ場所に佇んでいた。
「ユスフィエ! 帰ってきたぞ!」
 ジザの翼が、かすかに持ち上がった。
「ヴェンクー!」
 ユスフィエの顔が、魔石灯に照らされた。と思ったら、土砂降りの雨に濡れるのも厭わず飛び出してきたユスフィエが、ヴェンクーを抱きしめた。
「よかった! 無事で! スバンシュは? どうなったの?」
「ちゃんと倒して来たさ」
「ユスフィエ、これを見て」
 僕は何もない右手首を魔石灯で照らした。
「あっ、ない! 本当に勝ったのね!」
「うん、みんなのおかげで勝てたよ」
「いや、それはどうだろうか。私はあまり力になれなかった」
「そんなことないって! フィオが足を攻撃してくれたから、スバンシュの動きが鈍ったんじゃないか。もちろんリノラナだってそうだし、最後はヴェンクーが攻撃してくれなかったら、僕はスバンシュに食べられていたし」
「食べられて? って、どういうこと?」
 ユスフィエはスバンシュが巨大化したことを知らないし、戸惑うのも無理はない。
「それは……そうだな。こんなひどい雨だし、ティスゼスの宿屋に泊まらないか? 今日はもう、ゆっくり休もうよ」
「そうだな。ジザもオレも平気だけど、ユスフィエを雨に打たせたくないしな」
 提案は受け入れられ、ジザに乗った僕たちはティスゼスへ向かった。

 ティスゼスは小さな街だ。
 だから宿屋の数も少ない。
「二部屋しか空いてないんですか?」
「はい、ですが三名様のお部屋と二名様のお部屋ですので、人数的には合うかと」
 僕たちは宿屋が思うように見つからず、困っていた。
「……どうする?」
「最初の宿屋が満室、二番目も満室、そしてやっとここだ。五人ぶん空いていただけでも十分ではないか」
 宿に苦労していた過去があるからか、フィオはここでいいと主張している。
「ここはティスゼスで一番大きい宿屋ですし、よそへ行かれましても空いているかどうか……。この雨の中お探しになるのも大変でしょうし……」
 賛成が一人出たのがいいタイミングと見たのか、宿屋の主人もここに泊まるしかないかのように畳み掛ける。こういう会話は慣れている感じだ。
「でも、三人と二人に分かれるとなると……」
「俺はユスフィエと一緒がいい」
「兄さま! わたしも兄さまと一緒がいいです!」
「では、私とリッキが二人部屋ということだな?」
 フィオが僕の顔を見る。
「う、うん」
 こうもすんなりと決まってしまうと、うなずいて返すしかない。
「お決まりということでよろしいでしょうか? それではお部屋にご案内いたします」
 すかさず主人は鍵を持ち、僕たちを誘導した。その動きには全く無駄が感じられなかった。僕はこの人を心の中で宿屋職人と呼ぶことにした。

 一階には酒場があるけど、僕たちはそこへは行かなかった。酔った客に絡まれたくなかったし、フォスミロスやコーヤの息子だと知られて騒がれるのも嫌だったからだ。
 広い三人部屋のほうに集まり、シェレラがくれたランチボックスを食べながら、ユスフィエに洞窟でのことを話した。ランチボックスはサンドイッチだけではなくおかずもたくさんあって、飽きることなくおなかが膨れるまで食べることができた。
 食事が終わり、僕とフィオは二人部屋に戻った。
「なんだか旅をしていた頃を思い出すよ」
 二つあるベッドの一つに仰向けになり、天井をぼんやり見ながら話す。
 旅をしていた時は当たり前だったけど、旅が終わってからは二人きりの夜というのは今日が最初で、そして最後だ。
「そうだな。なんだか懐かしいな。そんなに昔のことではないというのに」
「いろいろあったからね。長かったのか短かったのか、僕もよくわからないよ」
 まだ二人で旅をしていた時のことが、頭の中を駆け巡る――。
 ふぁ~あ、と、大きなあくびが出た。
「ごめん、眠くなってきちゃった」
「うむ。ゆっくり休め。ようやく安心できたのだから」
 これまでは、いくらのんびりしている時でも、いつ元の世界に帰れるんだろうか、本当に帰れるんだろうかという不安がつきまとっていた。
 でも今は、それがない。
 二つのベッドの間にある魔石灯を、フィオが消した。
 真っ暗になった部屋で、何も考えず、僕は目を閉じた。

 目が覚めた。
 まだ暗い。それに、なんだか息苦しい……。
 こ、これって、もしかして…………?
 腕を伸ばし、魔石灯をつける。
 僕の体に、フィオの体が重なっている。毛布は剥ぎ取られ、ベッドの下に落ちているようだ。
 隣のベッドには、当然ながら誰もいない。
 どういうこと?
 フィオが僕の体に覆いかぶさっているのは、これが三回目だ。でもベッドが別々なのにこんなことになっているのは初めてだ。
 どうして、こんなことになったんだ? 僕はどうすればいいんだ?
「んっ、んん、んぅう~ん」
 艶めかしい声。これまでもそうだったけど、こういう時、フィオは夢を見ているのだろうか。そのせいで寝相が……いや、隣のベッドからこっちへ来るのは、寝相以前の問題だ。
「フィオ、起きて」
 軽く背中を叩く。
 さすがに朝までこのままという訳にはいかない。フィオには悪いけど、一旦起きて自分のベッドに戻ってもらおう。
「ねえ、フィオ」
「んん~~っ、んっ……」
 フィオの目が開いた。
 いつもならここで絶叫して体をのけ反らせて慌てふためくけど、今日はこれまでと違ってまだ夜中だし、大きい声は出さないでほしいな……。
「……………………」
 ベッドに手を付き、わずかに体を起こしたまま、フィオがじっと僕の顔を見つめる。
 夜中だから、寝ぼけているのだろうか。
「フィオ、自分のベッドに行っ」
 伸ばしていた腕を、フィオは畳んだ。体が密着する。
「どうして」
 フィオは体をこすり合わせてきた。腕を僕の背中に潜り込ませ、抱きしめる。
「どうして私は、リッキと別れなければならないのだ」
「どうしてって言われても……」
「リッキを救うため、リッキをリッキがいた世界へ帰すために旅を続け、そして戦ってきた。それはわかっている。わかっているのだ。それなのに、いざリッキが帰ってしまうとなったら、それがつらくて耐えられぬのだ」
 僕を抱きしめるフィオの力が強くなる。
「リッキ、私は君との時間を過ごすうちに、いつしか君を好きになってしまっていたのだ。いつか君は元の世界へ帰ってしまう。それがわかっていたから、私は自分の気持ちに蓋をしてきた。だがもう我慢できぬ。リッキ、私は君が好きだ。どうしようもなく好きになってしまったのだ。私の心が迷った時、心が弱くなった時、いつも君は私を励まし、進むべき道を照らしてくれた。君がいない世界で、私は一体どうやって生きていけばいいのだ。そうだ、スバンシュを倒したからといって、無理に帰らなくてもよいではないか。ずっとこのまま、リュンタルに留まっていればいい」
「……フィオなら大丈夫だよ。僕なんかがいなくたって」
「どうして! どうして私を突き放そうとするのだ! どうして私がこんなに強く抱いているのに、抱き返してくれないのだ! もしリッキが望むなら、このまま私の服を剥ぎ取って、好きなようにしてもよいのだぞ? 私は抵抗はしない。むしろ喜んで受け入れよう。私は君と一つになりたいのだ!」
「できないよ、そんなこと」
「一夜限りの遊びでもよい。それでもよいから」
「……ごめん。僕には、待っている人がいるから」
「どうしても、ダメなのか? ……リッキ、覚えているだろう? 年上の人間の言うことは聞くものだと」
「…………ごめん」
「……………………そうか」
 フィオは体を起こした。目を真っ赤に腫らしているのが、青白い魔石灯の光でもはっきりとわかる。
「ここまで完全にフラれてしまったのなら、納得できる」
 ベッドから降りたフィオが、自分のベッドへと向かう。
「安心してくれ。私はちゃんと私の人生を歩む。だからリッキはリッキの、そしてシェレラと二人で歩く人生を、しっかりと進んでくれ」
「わかった。約束するよ」
 どうして待っている人がシェレラだとわかったのだろうか。でもそれは合っているんだし、気にすることではない。
「気持ちの整理はついた。これで私もぐっすり眠れそうだ」
 フィオは魔石灯を消すと、自分のベッドに横になった。
 毛布をかぶる音が、かすかに聞こえた。
 僕もベッドの下に落ちていた毛布を拾って掛け直し、目をつぶった。

 目が覚めたら、すっかり朝になっていた。雨は上がっていて、太陽の光が眩しい。
 フィオはまだ寝ている。
 そっと起き、足音を立てないように部屋を出て、隣の部屋のドアを軽くノックする。
「起きてる?」
 返事よりも先に、ドアが開いた。
「リッキ、食事にしましょう!」
 ドアを開けたリノラナは、もう片方の手に剣を握っている。まさかここで朝の稽古をしていたの?
 その向こうではユスフィエが髪を梳かしていて、それをヴェンクーが眺めている。
「フィオがまだ寝てるんだ」
「そうなんですか? 珍しいですね。何かあったのでしょうか」
 フィオは毎朝リノラナの朝稽古に付き合っていたから、朝になってもまだ寝ているのを不思議に思ったのだろう。でも、夜中に一回起こしてしまったし、少しくらい起きるのが遅くなってもおかしくない。どうして起こしてしまったかは言えないけど。
「えっと……戦いが終わって、ホッとしたんじゃないかな」
「それもそうですね!」
「とりあえず、食べ物は置いていくからさ、先に食べててよ。僕は一旦戻るから」
 部屋の中に入り、ランチボックスを取り出してテーブルに積み上げた。そして隣の部屋に戻ろうとした時、
「おはよう」
 生気が感じられない、挨拶の声。
 半開きのドアをくぐるように、フィオが姿を見せた。
 それを見て、この部屋の三人は固まってしまった。
 開ききっていないまぶたは腫れ、目は真っ赤に充血している。目の下には濃いクマ。髪はボサボサに乱れている。
「どうしたのですかフィオ! 病気ですか?」
「病気? 私が? いや、私はなんともないぞ」
 話す声も、なんだか力が抜けていて、全然いつものフィオじゃない。
「ちょっと、部屋に戻ろうか」
 僕はフィオの肩を抱くようにして、隣の部屋に戻った。
「ここに座って」
 椅子を引き、フィオを座らせる。
「えーと……そっか、ちょっと待ってて」
 急いで隣の部屋に行き、ユスフィエから櫛と鏡を借りてきた。フィオも当然持っているけど、屋敷に置いてきている。日用品を持参していたのは、戦闘をしないユスフィエだけだ。
「髪が乱れているからさ、僕が梳かすよ」
 フィオがこんなになってしまったのは僕のせいだ。口ではぐっすり眠れると言っていたけど、実際にはろくに眠れなかったんだ。
 テーブルに置かれた鏡を、フィオが覗き込む。
「……なんだ、この顔は。みっともないな」
「ダメだよフィオ。自分の顔をみっともないなんて」
「でも、そうだろう?」
「うわっ」
 急にフィオが立ち上がった。絡まりそうになった櫛を、落ち着いて髪から離す。
「今日、ついにリッキは帰ることができる。つまり今日がリッキと出会ってから最高の日ではないか。それなのにこんな顔をしているなんて、私はバカだ」
 フィオは僕の手から櫛を取り上げ、自分で髪を梳かし始めた。
「心配はいらない。私はもう大丈夫だ」
「じゃあ、僕は隣の部屋で朝ごはんを食べているから」
「うむ。私もすぐに行く」
 腫れぼったかったフィオのまぶたも、だいぶ戻ってきた。
 僕は安心して隣の部屋に行き、先に食べていた三人に交じって朝食を食べ始めた。
 あとから来たフィオは、もうすっかりいつもどおりのフィオだった。

   ◇ ◇ ◇

 洞窟へ行った時と同じく二時間くらいかけて、僕たちはピレックルに帰ってきた。
 フォスミロスとミオザに、スバンシュを倒したこと、ブレスレットが消滅したことを報告する。
「長い間協力してくれて、本当にありがとうございました」
「俺ができたことなどほとんどなかった。俺の力不足で帰るのが遅くなってしまったこと、申し訳なく思う」
「そんなことないです。屋敷に住まわせてくれただけでも感謝しなければならないのに、ティスゼスにスバンシュがいるって教えてくれたじゃないですか。もしこの情報がなかったら、今もまだブレスレットを嵌めていたはずですよ」
 突然押しかけてきた僕のために協力してくれたフォスミロスには、本当に感謝している。
「じゃあ、僕は帰ります」
「お昼ごはん、食べていったら? 何もそんなに急がなくても」
「すみません。どうしてもすぐに会いたい人がいるので」
 ミオザの気遣いはありがたいけど、それよりも優先させたいものがある。
「そうなのね。それなら仕方がないわ」
 にっこり微笑むミオザ。僕の気持ちなどお見通し、といったところなのかもしれない。

 色とりどりの花壇のそばに、昨日シェレラが帰っていった『(ゲート)』がある。
 今日は僕が、ここから元の世界へ帰る。
「みんな、本当にありがとう」
 見送ってくれる仲間たちに、最後の感謝の言葉を言う。
「私のほうこそ、リッキに感謝したい」
 フィオは僕の手を取り、両手で握りしめた。
「君とともに過ごしてきた日々の、何と濃密であったことか! 君と出会ったおかげで、私は成長し、強くなれた。私はまた旅を続け、きっとレイアンツェレ様のような立派な剣士になってみせる。君に誓って、必ず」
「うん、フィオならなれるよ」
「ありがとう。その言葉、絶対に忘れない」
 フィオが手を離すと、今度はヴェンクーが手を握ってきた。
「フィオは旅に出るけど、オレはここにいるからな。もしまたこっちに来たら、今度はすぐにベルを鳴らしてくれよ」
 僕がこっちに来てすぐにベルを鳴らさなかったのは、ヴェンクーの旅を邪魔したくなかったのと、何より僕が旅をしたかったからだ。でもそんな事情は、今後はない。
「わかった。今度はすぐに鳴らすよ」
 いつになるのか、本当にまた来ることがあるのかどうかわからないけど、一応約束しておく。
「リッキ、今度来た時はぜひとも手合わせを」
「えっと、もし来たらね」
「リッキも帰ったら私たちみたいに結婚すればいいわ!」
「ええっ? そ、それは、まだ早いかな」
「まだ早いとはどういうことですか? リッキには結婚する相手がいるのですか?」
「え、えっと、僕はもう帰るよ」
 大丈夫だとはわかっているけど、少しずつ右手を『門』に伸ばす。
 何も起こらない。
 軽くうなずき、僕は『門』に入った。
「じゃあね、みんな」
 僕が手を振ると、みんなも手を振った。
 白い円形の光が、『門』から立ち上る。
 光に遮られ、みんなの姿が見えなくなった。

   ◇ ◇ ◇

 白い光が下りた。
 目の前には、誰もいない。
 色とりどりだったはずの花壇には、黄色い花しか咲いていない。
 やっと、帰ってきたんだ。本物のリュンタルから、『リュンタル・ワールド』に。
 でも、本当に帰るには、もう一つすべきことがある。
 左下のメニューアイコンから、ウィンドウを開く。
 最下段にある「ログアウト」の文字を、左手の人差し指で触れる。

 ――本当にログアウトしますか? <はい> <いいえ>

 本物のリュンタルでは、決して出ない表示。
 その表示の<はい>に、指先を伸ばした。

しおり