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其の一

 
 
 およそ人の世というものは、予期できないことの連続で成り立っている……。
 
 まだ王立学院の学生だった頃。先生の一人であった老齢の哲学者が授業のたびに口癖のようにそう語っていたことを、当時生徒の一人であった【彼】はふいに思いだした。
 
 だからこそ人生は面白いのだとその先生は続けたのだが、現在の【彼】に言わせれば予期せぬ事態など、面白いどころかはなはだ不愉快なことでしかなかった。
 
 それも当然であろう。
 
 なにしろ今日の【彼】は、女王の主席侍従官という要職にある者として朝から何かと多忙を極め、それこそ山のように積まれた仕事や案件を処理するため深夜まで奔走していたのだ。

 そんな仕事の山も日付けの変わる直前にようやくすべて片付け、「これでやっと眠れる!」とベッドに飛びこんで朝まで熟睡しようとしたら、それから半刻と経たないうちに予期せぬ訪問者が、なんともヒステリックな声で【彼】の名を叫びながら寝所の扉をドンドンと叩いているのだから。

 それはもう、今にも扉をぶち破りそうな勢いで。
 
 これで不機嫌にならない人間がいたら、ぜひともお目にかかりたいものだと「彼」は思わずにはいられない。

「……な、なんなんだよ、おい。なんの騒ぎだ?」
 
 底知れない疲労と睡魔で半分死んでいた【彼】は、無神経な訪問者に対する怒りや苛立ちもあって、熟睡をよそおって無視してやろうかと考えた。

 しかしあの切迫した様子はただごとではないし、なにより他人の部屋と間違えているのではないことは「ランマル卿! ランマル卿!」と、自分の名前を連呼していることからもあきらかである。
 
 あの調子ではきっと、応対するまで扉を叩き続けるであろう。
 
 そのことが明白だったので【彼】はしかたなしに寝所から出て、乱れた寝着を直しながら部屋の扉に向かったのだが、「それにしても……」と歩きながら【彼】は思った。
 
 今日いう一日を振り返ってみれば――正確には昨日だが――朝から不運なことが重なっていたなと。

 深夜までおよんだ「激務」などはその最たるものだろう。
 
 具体的にはこの地への行幸――地方視察にやってきた女王との謁見を求めて列をなす地元の貴族や名士一人一人に応対し、彼らの要望をひとつひとつ聞いてまわり、謁見の段取りを決め、その合間に行幸を祝うパーティーの準備を進めたりと、ともかく事前に定めたスケジュールを滞りなく進めるだけでも大変だというのに、当の女王は女王でそんな【彼】に慰労の声をかけるどころか、ここは内陸部にもかかわらず、

「今日はカニが食べたいわ、ランマル」
 
 などと、場所柄も無視して無茶な要求をしたり、

「なんだか疲れちゃったから視察先減らしておいて、ランマル」
 
 などと、唐突に予定の変更を命じたものだから、おかげで予期せぬ仕事が増えた【彼】は楽しみにしていたパーティーにも出れず、華やかな祝宴が催されている同時分、一人寂しく自分の部屋で視察スケジュールの練り直しを余儀なくされたのだ。

 それ以外にも城内の階段で足を踏みはずして転げ落ちたり、その姿を女王近習の女官たちに見られて失笑されたり、外出した際にはカラスに糞の一撃を頭にくらったり、買ったばかりの新品の靴ヒモが切れてすっ転び、その拍子に目の前にあった排泄したての馬糞をわし掴みにしたりと、思いだすだけでもはらわたが煮えくりかえるほどの散々な目に遭い、しかし、そんな不運続きであった一日も就寝と同時にようやく終わりを告げたと安心していたら、今度は寝たばかりのところをたたき起こされる始末である。
 
 ここまでくると、もはや不運をとおりこして凶運というしかないと、【彼】は心底から思わずにはいられない。
 
 ともかく扉の前までやってくると、その扉越しに【彼】は誰何《すいか》の声を投げつけた。
 
 じつのところ声だけで何者かはすでにわかっているのだが、これくらいの意地悪は天上の神々もお許しになられるだろうと【彼】は信じて疑っていない。

「誰だ、こんな夜中に他人の寝所を押しかけてくる無礼者は?」

「わ、私でございます、ランマル卿! マッサーロにございます!」
 
(うん、それはわかっている)

 心の中で意地悪く答えてから【彼】は扉を開けたのだが、開けると同時にニンジン色の髪の若い男が、応対に出た【彼】を突き飛ばさんほどの勢いで室内に転がりこんできた。
 
 幸い、その突進を動物的本能でとっさにかわしよけて事なきを得たのだが、当の本人は勢いあまってすっ転び、部屋の床を五転六転したあげく背中と腰をしたたかに打ちつけて悲鳴をあげる始末である。

 まったく夜中にはた迷惑な奴だなと、【彼】は眉をしかめずにはいられなかった。
 
 ちなみにこのニンジン色の髪をした男の名はマッサーロといい、女王に仕える侍従官の一人で、早い話が【彼】の部下である。
 
 年齢はこの年21歳。

 並びの悪いすきっ歯にくわえ、鼻のあたりに薄いそばかすが広がるその風貌は一見、どこか間の抜けた印象を見る者にあたえるが、じつは【彼】の母校でもある王立学院を学年次席で卒業したほどのエリート官吏なのである。
 
 実際、計数に長じ、書類の扱いにも長け、勤勉で几帳面な性格で上司である【彼】としてもなにかと重宝しているのだが、一方で胆力に乏しい性格で、少々のことで狼狽したりとり乱したりする癖があるので、【彼】としても気疲れすることもしばしばであった。
 
 そのマッサーロがどういうわけか血相をかえて、上司である【彼】の寝所に転がりこんできたのだ。しかもこんな夜中にである。
 
 いったい何事だろうかと【彼】はいぶかった。

 まあ、どうせたいしたことではないだろうが……。

「どうしたんだ、マッサーロ? まったく騒々しい奴だな」

「た、大変です、ランマル卿。何が大変かって、とにかく大変なのです!」
 
 わかったような、わからないようなことをひと息に言い放つと、マッサーロは乱れた呼吸を直すべく深呼吸を繰り返した。
 
 胆力も体力もないくせに慌てるからだ、と内心で呆れつつ【彼】――ランマル・モーリウッドはハアハアと肩で息をつく部下に飲ませるため、すっかり温くなったピッチャーの水をグラスに注いだ……。
 
 ランマル・モーリーウッドは、この年25歳になる。
 
 黒い瞳と髪をもつ細身中背の、いかにも文官らしい繊弱な容姿をしている子爵家出身の青年貴族で、威圧感や力感というものとは見るからに無縁である。
 
 実際、荒事にはてんで弱く、腕力も度胸もからっきしな彼であるが、その反面、黒い頭髪の下には王城随一と称されるとびきりの知性が秘められていた。
 
 なにしろ本来であれば五年かけて卒業する王立学院を、ランマルはわずか二年で、それも学年主席で卒業したのである。
 
 そんなランマルの「学院創設来の英才」という評判を聞きつけた女王フランソワーズ一世に、自らの主席侍従官として召し抱えられたのだ。
 
 今から八年前、ランマルがまだ学院を卒業してまもない17歳のときである。
 
 ――オ・ワーリ王国。
 
 それは大陸のはるか東に海に浮かぶ【ジパング島】の内に在る国である。
 
 かつてこの島は【ジパング帝国】という統一王朝が千年以上も支配していたのだが、今から二百年前、皇帝の座をめぐる皇族間同士の争いというありがちな理由を端に帝室は四分五裂の状態となり、そんな内紛を延々と続ける帝室に見切りをつけた各地の豪族や貴族が、混乱に乗じて次々と離反。
 
 そればかりか、自らの領地で自らの国を次々と興したことで千年帝国は崩壊。以後、勃興した中小の国々が乱立する状況が現在も続いている。
 
 オ・ワーリ王国も他国同様、帝国の崩壊によって誕生した一国である。
 
 そのオ・ワーリ王国にあって、建国以来最年少で女王の主席侍従官という要職に就いたエリート官吏の青年は、目の前の部下が呼吸を整えたのをみはからい、手にするグラスを手渡した。

「ま、これでも飲んで落ち着け、マッサーロ」

「ありがとうございます。しかし、こういうときは冷水であった方が心身ともに落ち着くのが早まるかと存じます。そのあたりにもお心を配っていただければ、部下もよりいっそう仕事に励めるという……」
 
(や、やかましいわっ!) 

 厚かましい部下を内心で怒鳴りつけると、ランマルはふたたび問うた。

「そ、それより、いったいなにがどうしたというんだ?」
 
 ランマルがそう訊ねると、マッサーロはひとつ生唾を呑みこみ、

「ともかく、城の外をご覧になってください!」
 
 などと必死の形相で訴えたものだから、ランマルとしてもそれ以上子細を質す気にはなれず、言われるまま部屋を出て、廊下の窓から望む城の外界《そと》の様子を眺めやった。
 



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