5-3. さよならの日
十二歳になったユウリは、こっそりと家を抜け出し、薪割り小屋の近くで遊んでいた。
がさり、と音がして、驚いて振り向くと、そこには深く傷ついた子鹿が怯えた様子で佇んでいる。
「大変! 血がいっぱい出てるよ」
ヨロヨロとユウリから遠ざかり、でも走り去る体力は残っていないようで、それは地面に倒れこんだ。
短く荒い息をして、
ユウリは泣きそうになりながら、機械時計を握り締めた。
ふわり、と暖かい空気が子鹿に向いて、けれども、それはそこで途切れる。
「なんで……?」
何度試しても、子鹿は動かない。
ユウリは、知らなかった。
無限の魔力を持つ《始まりの魔女》にとって、唯一不可能なこと。
だから、ユウリは動かなくなった子鹿が悲しくて哀しくて、機械時計を外した。
制限なしの魔力で願えば、この子は動くかもしれないと思って。
揺らめく魔力は、どうやっても子鹿に届かない。
何度も、何度も、何度も、祈るたびに魔力が踊る。
「ユウリ様!」
グンナルが青い顔で駆けてくるころには、ユウリは大きな魔力の塊の中で、子鹿を抱いて泣いていた。
「なぜ、言いつけを破ったのです! 機械時計は何処に……!」
「グンナル、なんで? 私は《始まりの魔女》なのに、《始まりの魔法》が使えるのに、なんでこの子を治せないの?」
「ユウリ様……」
初めて、生き物が死を迎えるのを眼前にして、はらはらと涙を零しながら聞くユウリの隣に、グンナルは悲しそうな顔で跪く。
「貴女の力は、生きとし生けるもの全てに恵みを与えます。けれど、それでも、消えてしまった命を与えることは、《魔女》でさえ許されていないのですよ」
「じゃあ、もうこの子は」
「喪くしてしまった命は、大地に返すことができます。時計をつけたら、一緒にその子のお墓を作りましょう」
こくん、と頷いたユウリの濡れた頰を拭って、グンナルは追いかけてきたシーヴに視線を向けた。
彼女は慌てて、落ち葉の上に無造作に置かれた機械時計を拾い上げている。
それに手を伸ばそうとして、グンナルは全身の肌が粟立つのを感じた。
シーヴが、はっと空を仰ぎ見る。
それは突然にやってきた。
赤黒くうねる、魔力の塊。
落ち葉を踏みしめる、複数の足音が遠くから聞こえる。
「……遂に来たか」
「そのようですね」
首に機械時計を掛け直すシーヴの手が心なしか震えているような気がして、ユウリは不安げに彼女を見上げた。
「あの、赤いの、何……? 私が、約束守らなかったから……悪いことが起こるの?」
その問いには答えずに、シーヴは優しく微笑み、ユウリの頭を撫でた。
「慌てて探しに出たので、お鍋を火にかけたままでした」
「シーヴ?」
「ユウリ様、先に戻って、今日の夕食のシチューが焦げないように、かき混ぜててもらえますか?」
「でも、グンナルも……」
「私たちは、ユウリ様がぐっちゃぐちゃにしてしまった、ここを片付けていきますから」
グンナルは黙って、ユウリの魔力に巻き込まれて弾き飛ばされた薪を拾い集めていた。
ユウリと目が合うと、怖い顔をして首を振る。
ユウリが悪戯した後の、いつもの光景。
「一人で、帰れますね?」
シーヴの有無を言わさぬ声音に、びくりとしたユウリが頷いて機械時計を手にすると、その姿は搔き消える。
「グンナル」
ユウリの移動魔法を確認したシーヴの呼びかけとほぼ同時に、辺りが炎に包まれた。
続いて降ってくる鋭い氷刃の雨。
「……チッ、容赦ないな」
防御が間に合わず、グンナルの額が切れた。
シーヴの詠唱で、土の障壁が森の中に伸びていき、グンナルが放った雷撃がそれを追従する。
向こう側から放たれた矢が幾度も掠め、徐々に傷が増えていく。
「……騎士団まで連れていますね」
シーヴの呟きが、次の爆発音に重なる。
二人が飛び退き、着地したそこに広がる闇。
「くっ!」「ああっ!」
巨大な岩石が避けきれずに、二人に直撃する。
すんでのところで砕いて、致命傷を免れた。
相手の数が、多すぎる。
「シーヴ」
「ええ」
手を合わせて、同時に詠唱する。
「《グラヴィ》」
それは、『失われた魔法』。
二人の、切り札。
見えない何かが、前方を空間ごと抉っていく。
焦りと恐怖が、相手の攻撃の手を緩め、後退させる。
残りの魔力は、もうごく僅かしかない。
どうしても、残しておかなければならない量だ。
相手が立て直すわずかの隙に、力の限り、森を走り抜ける。
勢いよく扉を開けて家の中に駆け込むと、言われた通りに鍋をかき混ぜていたユウリが、驚いてオタマをとり落した。
「二人とも、怪我してるよ!」
「ご安心を、かすり傷です」
「すぐ、治すから! ごめんなさい! ごめんなさい!」
涙目で機械時計を握ろうとする手を、シーヴに優しく包まれる。
驚いたユウリの頭を撫でて、グンナルは彼女の肩を力強く掴んだ。
残党が、もうそこまで迫っていた。
ザワザワと外の樹木がうねる。
二人が詠唱を始め、家具が動き、床に跳ね上げ戸が現れた。
何が始まろうとするのかを察して、ユウリの瞳から大粒の涙が溢れる。
「逃げてください、ユウリ様」
「嫌だ、嫌だよ!」
「さあ、こちらです」
泣きじゃくるユウリを、無理やり地下に押し込めながら、血濡れた顔で二人は笑う。
「どうか、ご無事で」
光が消えると同時に、扉そのものが消えて無くなる。
冷たい石の天井を叩くが、もう外の音すら聞こえない。
刹那、眩い光。
一方的な転移魔法。
強制的な封印魔法。
何度も何度も説明を受けた、緊急事態の最期の魔法。
それは、この世ではもう、二人に逢えなくなることを意味していた。
「シーヴ! グンナル!」
その慟哭は、光の収束とともに跡形もなく消えていた。