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75話 未完成の武器

 バンディーニは最早なにもできなかった。
 自分の不甲斐なさに、そしてホランドにしてやられた口惜しさに、歯を噛み鳴らし拳を握りしめた。

「バンディーニ先生! 一体なにが起きたんですか!」

 何が起きたのかわからないディックが真っ蒼になりながら尋ねてくる。
 ロイムは崩れるようにキャンバスに倒れ込み、うつ伏せのまま微動だにしないからだ。

「してやられたよ……エドガーは両手利き……いや、恐らくは左が本命」

 呟きながら相手コーナーのリング下に居るホランドを睨み付けるバンディーニ。
 その視線を、涼しい顔で受け止めるホランドは、内心でほくそ笑んでいた。

 見たか青二才、きさまの中途半端な正義感、相手が手の内は隠さず、真っ向勝負を挑んでくると思ったのじゃろう。
 否! 小僧が小娘と一緒に初めてやって来た時からが全て布石。エドガーが左利きであることは、絶対に漏れないように箝口令も敷いた。
 おまえらは、初めてエドガーがヒットマンスタイルを見せた時から、儂らの策の中にいたのだ。

「ロイムはずっと、利き腕のジャブを貰っていたんだ」

 バンディーニの説明にディックは唾を飲み込む。

「ロイム……立ってくれ、君の一ヶ月半に及ぶトレーニングが身を結んでいたとすれば、君は必ず立ち上がれるはずだ」

 祈るように呟くバンディーニの手には、白い布が握られていた。
 クロスカウンターは、言うなれば相手の突進力を利用したフックである。
 相手が自ら強烈なフックに突っ込んできてくれるのだ。当然そんな一撃をまともに喰らえば、下手をすれば一瞬で意識を刈り取られてしまうだろう。

 レフェリーも7カウントまで行ったところで、これ以上カウントを取り続けても意味がないと思ったのか。カウントを止める素振りを見せた。

 その瞬間、バンディーニは小さくガッツポーズをした。

「立てロイムっ! 立って帰って来い! そうすれば必ず私が逆転の道標を示してやる!」

 バンディーニの声に呼応するように、ロイムは震える足を抑え込み雄叫びを上げて立ち上がった。

「うおおおおおおああああああっ!」

 最早レフェリーはカウントを取ることを忘れその姿を棒立ちで見ている。

「レフェリー! 10カウントだ! もうとっくに過ぎている、エドガーの勝ちじゃ!」

 ホランドのクレームにレフェリーは我に返るが、逡巡すると試合を再開する。
 ふざけるなとリング下で抗議するホランドであったが、エドガーはレフェリーのジャッジを受け入れた。

「これでさっきのズルは帳消しだ、行くぜロイムっ!」
「エドガーああああああっ!」

 ロイムは声を上げてエドガーを迎え撃とうとするがよろめいた。
 その瞬間、3ラウンド終了のゴングが鳴り響く。
 二人はリングの中央で睨み合いの状態で止まっていた。

「早くコーナーに戻れっ!」

 レフェリーに注意されると、二人は互いの右拳を叩きあい、踵を返し自コーナーへと戻っていった。

 這う這うの体で再び生還してきたロイムを、抱えるようにして迎える入れるバンディーニ。まずは戻ってきたことを激励する。

「ロイム、 よく戻ってきた! カウンターフックを喰らってよくぞ生還した!」
「カウンター? 俺はカウンターを貰ったのか?」
「やはり気づいていなかったか。君がエドガーの懐に飛び込む直前。エドガーはスイッチをした」
「あいつ、両手利きなのか?」
「ああ、おそらくは初めて会った時から私達は嵌められていたようだ」
「くっそ……やってくれるぜ」

 鼻が潰れ、唇も切れている為に、顔面血塗れのロイムの顔を布でがしがしと拭くと、バンディーニは油を顔に塗り込む。
 そして右手の親指と人差し指と中指を立てて、ロイムの顔の前で振った。

「これが何本に見える?」
「2本」
「よし、見えてるな」

 今のやり取りになんの意味があるのかわからずディックは首を傾げた。

「いいかロイム。君の下半身は未完全ではあるが、確実に完成に近づきつつある。それが今の君の最大の武器となる。だからこそ、カウンターを喰らっても立ち上がれたんだ」



 一方、エドガーのサイドでは。

「なんで、ロイムは立ち上がれたんだじじい」
「……」
「答えろよ。あれが決まれば、一発で相手を沈められるって言ってただろ!」

 イラつくエドガーであるが、無理もなかった。
 カウンターが決まったのだ。自分でも確かに手応えはあった。
 勝利を確信していたのに、しかしロイムは立ち上がったのだ。
 これ以上は、エドガー自身も限界であった。何度もロイムに打たれたボディ攻撃が、確実にダメージを蓄積させていたからだ。
 ズキズキと痛む脇腹を押さえながら、顔を歪ませるエドガーのことを見つめて、ホランドは言う。

「なぜ立ち上がったか? それは、おまえのカウンターが未熟だからだ」
「なんだと? ふざけんなよ! 俺は完璧にカウンターを決めたぜ!」
「いいや、完璧ではなかった。タイミングがズレていた。いや、ズラされたと言ってもよいじゃろう」
「ズラされた? どういうことだよ?」

 ホランドは膝をつくと、エドガーの脹脛をマッサージしながら説明する。

「武器を隠し持っていたのは相手も一緒だったらしい。尤も、意識的に隠していたわけではなさそうじゃがな」
「もったいぶらずに、さっさと説明しろよ」
「あの小僧の突進力が、明らかに前半のラウンドよりも増していた。恐らくは港で鍛え続けていた下半身トレーニングの成果が、ラウンド後半になってようやく発揮されたのじゃろう」
「つまり、ロイムの突進力が想定を上回ったせいで、俺のタイミングがズレたと?」
「ヒットポイントがズレたのじゃ。完全に力が乗るタイミングの一歩手前でカウンターが決まってしまった」

 ホランドの説明にエドガーは舌打ちをした。
 これはホランドも想定外であった。まさか、この土壇場でそんな火事場の糞力を発揮するなんて思ってもいなかったのだ。
 想定外を想定しなかったホランドの落ち度であった。

「最終ラウンド。もうあとは、気力と根性で乗り切るしかない」
「あんたが一番嫌いそうな言葉だな」
「苦しいのは相手も一緒だと言う事じゃ! 男なら気張って見せろっ!」

 ホランドが檄を飛ばすと、エドガーはそれに「応っ!」と答えた。

 いよいよ、第4ラウンド。最終ラウンドを迎える。


 続く。

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