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第1話:少年と辺境伯軍の兵士。

少年レオンの眼前には、天をも衝かんばかりの巨大な塔が聳え立っていた。

故郷の山岳の村から眺望する事が出来たため、見慣れているとも言えるが、こうして至近距離で見上げるのはこれが初めての事だった。

街道を少し外れ、小高い丘の上から、とても人の手で造られたとは考えられない程巨大な鈍色の塔を、見上げる。

聖歴七六二年、八の月、第五週。

日中はまだ残暑が厳しいが、今の頃、夕暮れ前ともなると、心地良い風が吹き始める。

少年の髪は美しい銀色で、さらさらと風に靡いていた。

もう少し長い髪型であれば少女と見間違っても不思議では無い様な、そう言う顔立ちだった。

まだ十代前半で身体の線は細く見え、表情は何処かあどけない。

「アンヌヴンの塔。やっぱり大きいなぁ。頂上の方は霞んでよく見えないし。それに街も大きい。街壁も高くて、街道もちゃんと整備されているし」

少年はそう言い、視線を巨大な塔から、その周辺に広がる街へと向けていた。

穏やかな口調だった。しかし、何処か興奮を抑えている様にも響いている。

雄大なカールヴァーン山脈に点在する山岳の村や集落へと延びる岩塩街道を、少年は行商隊や街道警備隊に紛れ込みつつも、一人で下りて来たのだ。

視線をアンヌヴンの塔や街から、自分が歩いて来た道へと振り返る。

昼間は人通りも多いこの道も、夕暮れ前になると閑散としてしまっていた。

「さて、そろそろ街に入ってしまわないと。陽が落ちてからだと外から街の中へは門を通して貰えないって、母さんが言ってたから」

そう言うと少年は足元に置いていたザックを持ち上げ背負い上げた。

ずっしりとかなり重量がありそうだが、その華奢な身体にしては平然と歩き出し街道へと回帰していた。

そのザックも旅用の服装も全て少年の母の手による物だった。

まだ四十歳に満たない母だったが、先月流行り病に罹り急逝してしまったのだ。

少年にしてみれば文字通りあっと言う間の出来事だった。それこそ涙を流す間も無いくらいに。

父は無く少年は生まれて以来、山岳の村で母との二人暮らしだった。

母は今際の際に「私が死んだら、アンヌヴンにいる妹を頼るんだよ。この家と土地は村長に買い取って貰って。これからは、自分が生きたい様に生きな。この村で穏やかに過ごす人生もあると思うけど、アンタは私とアイツの子だものね。こんな山の中に留まれる筈がないから」と苦しみを堪え笑みを浮かべ少年へと告げていた。

そして、少年は最愛の母が亡くなってから自分たちの畑の収穫を終え、家と土地と収穫したライ麦を村長に買い取って貰い、アンヌヴンへと旅立ったのだ。

母からは「自分が生きたい様に生きろ」と言われたのだけれど、実際ここまでは母の言葉通りに行動してる自分には少し笑みが零れてしまう。

ふと立ち止まり、もしかしたら母の妹の世話にならない人生もあるのかもしれない、と思ってしまった。

しかし、それは現実的には少々無理のある話だ、と思い直し再び足を進める。

少年は春先に十三歳になったところだった。

この世界、様々な事情や都合で、彼と同年代で一人で生きていかなければならない者は少なくは無いが頼れる存在があるのなら、常識的には気兼ねなく頼るべきなのだから。

家や土地などを売ったので当面生活には困らない程度の金は有しているが、安定して稼ぐ手段は有して無い。

小高い丘を下りてからは、もうすぐ目の前には街壁が悠然とあった。

街道はそのまま大きな門を通り街中へと続いている。

その手前には街道の左右にそれぞれ建屋があり、物々しい甲冑に身を包んだ兵士たちが警備をしていた。

兵士たちの甲冑は、所々青色の塗装が施されている。

全身では無いし、塗装の箇所が決まっている様でも無いが、はっきりとした青色で統一されているので、それがアンヌヴン辺境伯軍に所属している兵士だと一目瞭然なのだが、この街に初めて来た少年は知る由も無い。

少年が門へと辿り着く前に一人の兵士が近づいて来た。

甲冑の肩と小手の部分を青色に塗装してある。少年より頭ひとつ分大きく屈強な体躯だが、その表情は穏やかで柔和だった。

「やあ、こんにちは。今から街に入るのかい?」

兵士の声は至近距離だがかなり大きい。

「こんにちは。そうですね、陽が落ちる前に入らないと門が閉じてしまうと聞いていたので」

少年は屈強な兵士を相手にしても全く臆する素振りを見せずに、そう言った。

「そうなんだよ。それで、これからもう門を締めてしまうから、街に入るならさっさと入ってしまった方がいい。閉門してからだと辺境伯軍の駐屯所の敷地内で野宿するしか無くなってしまうからね、明日の夜明けまで」

兵士はそう言って街道沿いの建屋を指差していた。

格好は物々しいが愛想は悪くない。

それから「では、街に入ろうか」と言って少年を誘う。

「あ、はい、ありがとうございます。ぼく、アンヌヴンに来るの初めてで、これから叔母の家で世話になるんです」

少年は兵士の後につきつつ、聞かれても無い身の上話を始めていた。

「叔母さんの家で?という事は、もしかして身内に不幸があったのかな?あ、いや、すまない別に立ち入った話を聞きたい訳では無いのだけれど。あと、それと、キミは男……でいいんだよな?」

兵士はちらりと少年の事を返り見てそう言った。

「はい、男ですよ?実は、山岳のドーン村で、母と二人暮らしだったのですが、先月、母が流行り病で急逝してしまって、それで山から下りてアンヌヴンに住む叔母の家でお世話になる事になったのです」

「そうか、キミの母上だからまだ若いだろうに。残念だったね。父上は存命では無いのかな?」

「父は、冒険者で、ぼくが生れる前に塔で亡くなったそうです。母からは凄く強くて優しい人だったと聞いてます」

「ほう、そうか、お父上は冒険者だったのか。ちなみに、名前は?」

「えーっと、ぼくですか?レオンです」

「ああ、うん、そうだなキミの名前もだけれど、その塔で亡くなったと言う父上の名前を伺ってもいいかな?」

「あー、あはは、父の名前ですか。えーっと、ブレイズ……トワイニングだった様な。ごめんなさい。名前は何度も聞いていましたが、姓の方は合ってるかどうか……母が父の事を話てくれる時はいつもブレイズと呼んでいたので」

少年の口から零れ出た名を聞き、兵士はぴたりと足を止めた。丁度、街へと入る門の真下辺りだった。

「ブレイズ・トワイニング?お父上の名前がかい?では、そうすると、キミはレオン・トワイニングということになるね?」

兵士は少年に向き合い、信じられない様な表情を浮かべそう言った。

「そうですね、多分、はい。村ではレオンとしか名乗って無いので、よく分からないですけど、父はそう名乗っていて、凄く有名な冒険者だったと聞いてます。亡くなった母もぼくを身籠るまでは冒険者で父と一緒にアンヌヴンの塔に入っていたみたいで、昔の話はよく聞いてました。ドーン村には母以外にも父と旧知の間柄のドワーフもいましたし。だから、単なる母の作り話では無いと思って今まで聞いてきたのですけれど、父の事は……」

母から聞かされていた父やその仲間たちとの冒険譚の数々はあまりにも、壮大で奇想天外なものだったので、初見の相手にそれを話したところで到底信じては貰えないだろうけど、と少年は兵士の様子を伺いつつそう思っていた。

兵士は暫く少年の様相を見てから漸く口を開いた。

「いや、すまない、キミを足止めするつもりは無かったのだけれど、流石に驚いてしまってね。それよりも、その叔母さんの家の所在は知っているのかな?」

「いえ、詳しい場所は分かりません。酔いどれ小路にあるルロイという名の酒房で働いているみたいですけど」と、少年は母との会話を思い出しつつ言う。

「なるほど、酔いどれ小路の酒房ルロイか。それでは益々、キミがブレイズ・トワイニングの子供だと信憑性が出て来るな。確かそこは元ベリアルの面々が集う店だった筈だから。よし、では、これも何かの縁だから私が酒房ルロイまで案内してあげよう。陽が暮れてしまってから、キミの様な子供を一人で酔いどれ小路を歩かせるわけにもいかないからね」

そう言うと兵士は、街の中へと足を踏み入れた。

「あの、いいんですか?まだ仕事中なのでは?」

「構わないよ。私の仕事は、夜明けに開門してから夕暮れに閉門するまでだから。その逆の時もあるけれどね。それに、これからキミはこの街の住人になるのだろう?」

「えーっと、はい、そうなると思います」

「では、この街の住人の安全を守るのは我々辺境伯軍の務めだから。この街は、夜でも昼間でも子供が一人で歩くには危険な地帯が幾つかあるからね、残念だけれど。特に、今からキミが向かう酔いどれ小路は、まじない小路と並んで魔窟と称される様なところだから」

兵士と少年が街の中へと入ると、他の兵士たちが木製の巨大な門を三人がかりで閉じだした。

それから兵士は少年に「ここで少し待っていてくれるかな?夜番の者に申し送りをして来るから」と告げて閉門していた兵士たちの下へと駆けて行った。

その間、少年は街の様子を眺め見ていた。

岩塩街道から続く街の大通りには中央に露店並んでおり、大通り沿いには大小様々な店舗が建ち並んでいる。

陽が暮れようとしていても、街中には人通りが多く、街燈も灯っておりまるで収穫祭の様に賑やかで華やかだった。

街行く人々も、冒険者、商人、軍人等々様々で眺めているだけでも、少年は心が色めき立つ様な感覚に包まれていた。

「――やあ、レオン、待たせてしまったね。夜番へ申し送りも済んだ事だし、そろそろ行こうか。それとも少し街の中を案内しようか?」

兵士は、甲冑は身に着けたままだったが、兜は取り外していた。

左の腰元にはサーベルがぶら下げてあるため、物々しさは勤務中と然程変わらない。

「案内はして欲しいですけど、もう陽が暮れてしまいましたからね。出来るだけ早く叔母さんに挨拶したいので……と、その前に兵士さんのお名前を聞いてもいいですか?」

「ああ、そうかまだ名乗って無かったね。それは失礼した。私の名はチャック・ラムゼイ。辺境伯軍都市警備隊に所属している。生まれも育ちもアンヌヴンだ。だから、この街の事なら大抵何処へでも案内出来ると言う訳さ。よし、では取り敢えず酔いどれ小路へと向かおうか。街の案内の方は、また後日、私が休みの日でも良いだろう?」

そう言うとチャックは愛嬌のある笑みを浮かべて歩き始めた。

黒髪短髪で精悍な顔つきだが、何処か憎めない表情を持つ男だ。仕事を終えて勤務から解放された直後なので尚更なのかもしれないが。

レオンはチャックの半歩後ろくらいに着いて歩いていた。

「えーっとチャックさん、色々とありがとうございます。出逢ったばかりで案内してくれたり街の事を教えてくれたり……」

「気にしなくていい。ふふふふ、キミのお父上さ?ブレイズ・トワイニングの事だけど。街では今でも英雄の中の英雄として知らない者はいない存在なんだよ。最強の戦士で最高のユニオンマスターで、お父上に憧れて冒険者になったヤツなんてそれこそ星の数くらいいる事だろう。この私だって御多分に漏れず、ブレイズ・トワイニングに憧れて冒険者を目指していた頃があったからね。子供の頃に見た、塔から凱旋したブレイズ・トワイニングの雄姿は今でも目に焼き付いているくらいだから。まぁ色々事情があって今は軍属になってはいるけれどさ……」

チャックは少し興奮気味に拳を握り締めつつ、熱く語っていた。

「……それで、さっきキミと話している時にふと、思い出したんだよ。そう言われてみればお父上もキミと同じような美しい銀髪を靡かせていたよなぁって。白銀の獅子と通り名があった。子供の頃に冒険者ごっこで誰が白銀の獅子役をやるかでよく揉めたものだよ。いやいや、実際ね、彼の英雄の名を語ったり血を引いてるとか嘯く輩は今でも結構いるんだ。だけど、キミの言葉やその風貌は、何だか妙に得心してしまったと言うか、直感的に信ずるにたる存在だと感じてしまったんだなぁ。だから、要するに、自分が子供の頃にさ、夜寝れなくなるくらい興奮して憧れた英雄の息子に、自分が出来る事は何でもしてやりたいって気分なワケだよ。とまぁ、勝手なお節介でしか無いから、気にせずに付き合ってくれれば私はそれで嬉しい」

熱弁しそう言った後、チャックは俄かに頬を紅潮させて恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。

二人は商売の神コーリングの名を冠した大通りを南下してゆく。

少年レオンは時折、聳え立つ塔を見上げて息を飲んだ。

真下から見ると、少し寒気を覚える程巨大で威圧感すら覚えてしまう。けれど、何度も何度も見上げてしまうのだ。

そこから街中へと視線を戻す。

がやがやと雑踏に包まれ、街の中へと進むほどに人の流れが多く雑多になっている様に見えた。

少年はその光景を呆然と見詰めていた。

チャックは身振り手振り何やら話している様だけれど、少年の耳には殆ど入って無いだろう。

高揚と沈滞の狭間を行ったり来たりしてる様な感覚。

いや、少年自体その様な感覚は初めての経験だったのでそう言う表現すら思いつく事も出来ない状態だった。

「――で、この路地裏に入った所からが、酔いどれ小路と称されているんだ」と、チャックの声が響く。

いつの間にか、コーリング大通りから路地裏へと入っていた。

大通りは華やかで人通りも多いが、一本中へと入り込むだけで随分と辺りの様子が変わってしまった。

しかし、若干都会酔い状態にあったレオンにしてみれば、華やかな大通りより静かな路地裏の方が適しているのかもしれない。

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