バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

望んでいたはずの再会

「いやああああああああああああっ!」
「だから見るなって言ったじゃん!」

 ランは涙目でブチ切れるブラッディにしがみ付いていた。一見細身のブラッディは見た目とは裏腹に軽々とランを抱えたまま走り続けていたが、体力の限界というものはある。正直なところ、彼は逃げ切れる自信があまり無かった。何しろ、このスラムで二人が身を寄せることのできる場所などどこにもない。だからといって足を止めたいとは思わなかった。《あれ》に追いつかれるなど、想像するだけでゾッとする。

「ネ、ネ、ネズミ多すぎないかしら!?」
「スラムなんだからそんなこともあり得るんじゃないの!? なんでこいつら僕らを追いかけてくるのかな、もしかして人喰いネズミ?」
「きゃあああああああっ!? 嫌よ、私ネズミに食べられて死にたくはないわ!」
「言われなくても分かってるから黙ってくれないかな!?」

 そう、彼らを追いかけてきているのはドブネズミ。一匹や二匹ならスラムなのだからいないほうが不自然だが、二人を追いかけてきているネズミの数は明らかに異常だった。路地を埋め尽くすほどの数のネズミが真っ赤に光る目でこちらを見つめながら一目散に走ってくる。

「私、もう一生ネズミは直視できないと思う……」
「見るなって教えてやったのに見た君が悪いんだからね!」

 気を失いかけるお姫様に文句を言いながら、ブラッディは十字路を左に曲がろうとした。特に理由はないが直感的にそちらへ行こうとしただけだ。ところが、その途端どこから湧いて出てきたのか、追いかけてくるドブネズミたちとは別のネズミたちが現れて左の路地を埋め尽くす。慌てて彼は右へと方向転換した。

「まだ増えるの!? 本当最悪」
「ねえ、私目を閉じていてもいい?」
「ついでに口も閉じておいてもらえると助かるよ!」

 ランに反論する隙も与えず、ブラッディは右へ左へと路地を駆け抜ける。最初は何も考えずがむしゃらに走っていたブラッディだったが、やがてあることに気づいた。

「はあ、はあ、こいつら……僕らをどこかに誘導しようとしてるような……?」
「ええ? どういうこと?」
「ネズミを避けて逃げようとすると、はあ、分かれ道のうちどちらかしか選べないように、ネズミたちが片方の道を塞いでる気がするんだよね! はあ、はあ、こいつらどこまで追いかけてくるのかな、そろそろ限界なんだけど……っ!?」

 そのとき、何か尋常でない《力》を感じて、二人は同時に息を飲んだ。とんでもない魔力が近くでうごめいているのを感じたのだ。

「何、この気配……?」
「ラン、頼むから目を閉じたままでいてね」

 いつにない真剣なトーンで告げられて、ランは固く目を閉じる。ブラッディは走りながら首だけを背後の走り抜けてきたばかりの路地に向けた。おそらくそこにいるのであろう、なにかとんでもないものを見るために。

「……っ!」

 巨大ネズミかなにかを想像していたブラッディは、自分の想像を遥かに上回るものが自分たちのずっと後ろからこちらに向かってきていることを知って自分の覚悟が足りていなかったことに気づかされてしまう。この汚染されたスラムでは信じられないような危険が待ち構えていることくらい予想していた。だが……あれは一体なんだ?

 それはネズミたちと同じ、真っ赤に染まった瞳でこちらを睨みつけていた。苦痛と怒りと恨みに満ちた、おぞましい表情を浮かべた老若男女様々な人間の顔がいくつも巨大で真っ黒な塊の中心に浮かんでは消え、浮かんでは消える。その塊からは無数の人間の手足が生えていた。

 これこそ本当に姫に見せてはいけない。直感的に理解したブラッディは今にも恐怖に叫び出したい気持ちを抑えて必死に走り続けた。自分が悲鳴なんかあげたら、優しい姫は心配して何が起きているのか確認しようとするだろうから。

「ブラッディ……?」

 それでも、聡い彼女は気づいてしまう。何が起こっているか分からないままの彼女だってきっと怖いだろうに、ブラッディを気遣うように名前を呼んだ。

「うるさい、黙って僕を信じて!」

 ブラッディの言葉はちっとも素直じゃないけれど、物心づく前からずっと一緒だったランは彼の気持ちがちゃんとわかっていた。だから、強がりでしかないその言葉に目を閉じたまま頷く。

「分かった。信じるわ」

 状況はちっとも好転していない。相変わらず大量のネズミが追いかけてきているし、その後ろからは得体の知れないものまで近づいてきている。けれど、ランに信じてもらえるなら何も怖くないと思えて、ブラッディは限界に近い足で精一杯スラムを駆け抜けた。

 路地を抜けてスラムの中心地の荒廃した広場に足を踏み入れた瞬間、ブラッディとランはあることに気づく。この広場より先にはとても弱い結界が張られていた。魔法の心得があるものにしか気づけないほど弱い結界ではあるが、侵入者を探知し術者に知らせるという初歩的な機能は備えているようだった。その結界の知らせを受けて、すぐに誰かが二人の近くへ駆け寄ってくる。

「誰だ!」

 ボロボロのローブのような布をまとい、フードで顔を隠した男はそう叫んですぐランとブラッディを追いかけてくる大量のネズミに気づいたらしくぎょっとした様子を見せた。まだ男はネズミたちの少し後ろから追いかけてきているあのおぞましい生き物が死角になっていて見えていないらしい。この男が何者かは知らないが、出来る限りどんな人間でもあれを目に入れるべきではないだろう。そう思い、ブラッディが声をかけようとしたその瞬間。

「ラン……!?」

 その男の口からあまりに聞き覚えのある名前が聞こえて、思わずランは反射的に目を開けてしまった。こんな場所でランの名前を知っている人間がいるとしたら二人しかいない。

「ベル? それともソルなの?」
「……後で話す。とりあえずついてこい!」

 ランに問いかけられて男は大いに戸惑っていたが、慌てて首を振ると一目散に駆け出した。

「あ、ちょっと!」

 ブラッディが必死にその後を追いかける。やがて大きな、しかしほとんど崩壊した屋敷の廃墟の門の前にたどり着くと、男はランをお姫様抱っこしたままのブラッディのローブを掴んで門の向こうへ引っ張り込んだ。門を通る瞬間、ランたちは強力な結界の気配を感じる。そして門をくぐり抜けた後ろからは、ネズミも怪物も追ってはこなかった。

「もしかして……助かった?」

 そう認識した瞬間全力疾走し続けた足が限界を迎えて、ブラッディはランを抱えたまま地面にへたりこむ。

「ブラッディ、大丈夫!?」
「なんとか。君、もうちょっとダイエットすれば?」
「な! し、失礼ね!」

 そんなやりとりを見ていた男は、二人の様子にため息をついた。

「ブラッディ、だったのか」

 そう呟いて、彼は顔を隠していたフードを外す。長い黒髪に紫色の瞳。息をのむほど美しいその顔は。

「ベル、なのね」

 戸惑いながら問いかけたランの言葉に、ベルはなぜか悲しそうな顔で笑って頷く。

「久しぶり、だな。ラン、ブラッディ」

 望んでいたはずの再会。それが叶ったというのに、なぜか喜べなかった自分がいることに、ランは気づいてしまったのだった。

しおり