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62話 世界の秩序

 奴隷の命が軽く扱われている、それこそ家畜同然の地位であることにバンディーニも異論はなかった。

「しかし、我々は人間同士です。言葉を交わせるんだ、それは心を通わせることもできるということ」
「くだらん。 まるで思春期の若造が考えるようなセンチな思考」

 老人は、バンディーニの考えを切って捨てた。

「そもそもおまえさん、何年かけてボクシングをこの世界に広めるつもりじゃ」
「たとえ何年かかろうとも、私の生涯を捧げるつもりですよ」
「決意のつもりか、馬鹿馬鹿しい。ワシらが元居た世界でも、現代ボクシングに至るまでに何百年もかかったのだ、それをおまえは一代で成すつもりか?」
「わかっています。だとしても、私にできることはこれしかないんです」

 そう、バンディーニのそれは決意と同時に自分への戒めでもあった。
 自分の教え子を死なせてしまった、不甲斐ないトレーナーの、そんな自分への。
 老人は横目でチラリとバンディーニの方を見ると酒をチビリと飲む。

「ならば、この世界の秩序そのものを変えるしかぁ、あるまい」
「秩序そのもの?」

 老人は、眉を顰めるバンディーニに向かって右拳を突き出すと、周りには聞こえないように、されど力強く言う。

「この国の、王になればいい」

 バンディーニは唖然としてしまう。
 それはつまり、王を倒せと言っているようなものであった。
 誰か聞き耳を立てていないかと周りを見るバンディーニのことを、可笑しそうに見つめている老人。

「安心しろ、これだけの喧騒じゃ。聞こえておらんよ」
「あまり滅多な事を言うものではないですよ」
「だが実際にそれしかあるまい、戦争で勝った者が世界の秩序になる、それは必然の事じゃ。政治の世界であれスポーツの世界であれなんであれ、勝って、勝ち続けて頂点に昇りつめたものが、その世界の王者なのじゃ」

 老人の言葉に黙り込んでしまうバンディーニ。
 しかし、膝の上で作っていた握り拳をカウンターに叩きつけると、老人に向かってバンディーニは怒りをぶつけた。

「私は認めない、戦争によって勝ち得た秩序など、そんなものは本当の秩序などと呼べるものか」
「青臭いことを言うな。現実に第二次世界大戦を終えて世界は秩序を手に入れたじゃろ。そして、その戦勝国が世界の秩序になった」
「そんなことはない! あなただって知っている筈だ、その後の世界の歴史を。世界にはいまだに戦争と紛争が尽きない。あなたの居たアメリカだってそうだ。ベトナム戦争に負けてなお、湾岸戦争を起こし、中東紛争に介入していったアメリカはテロの報復を受けた。パールハーバー以来の本土攻撃だ。更にその報復にとイラク戦争を起こしたんだぞ!」

 バンディーニは大声で捲し立てる。周りの奴らに聞こえたところでどうせ理解できない話だ。
 そんなバンディーニの言っていることを、老人は半分も理解できない様子であった。

「なんの話をしているのかさっぱりじゃな」
「知らないのですかっ!」
「知るものか、おまえさん何時の時代から来たのじゃ?」
「わ、私は、にせん……」

 言いかけてバンディーニは気が付く。おそらくこの老人は本当に知らないのだろうと。
 ベトナム戦争でアメリカが負けたことも、20世紀後半になっても独裁国家からの防衛を口実に始められた湾岸戦争のことも、そして21世紀初頭に起きたアメリカ史上最悪のテロ事件とその後に起きた報復戦争も、すべて知らないのだ。

「ロイムは、日本人です」

 バンディーニがそう言うと、老人の眉がピクリと反応したように感じた。

「アメリカに負けたあの国の辿った運命を、もしかしたら若い世代の私達よりもあなたの方が詳しいかもしれない」

 老人はコップの中の葡萄酒をじっと見つめている。
 バンディーニもそこに目を落とすと、酒の表面には小さな波紋が広がっていた。

「君は、反戦主義者なのかね?」
「……」

 バンディーニは何も答えずに席を立つと老人に背中を向ける。

「私はボクサーです。ボクサーが戦うのは、リングの上だけと決まっているでしょう」

 そのまま、その場を去ろうとすると老人が声を張った。

「若造! おまえの名は!」
「バンディーニです」
「バンディーニか、わしはホランドじゃ!」

 そうしてバンディーニが店を出て行ってから、数分もしない内にエドガーが酒場へとやってきた。
 エドガーはいつものようにマスターに挨拶をして、店の奥へ行くと、練習の身支度を始めるのだが、突如店内に怒声が響いた。

「エドガアアアアっ! もたもたするなぁ! アップをしたらリングへあがれえっ!」
「うっせえなジジイ、今来たばっかだっての」

 ちんたらしていると大目玉を喰らう為に、エドガーはちゃっちゃと準備を済ませてホランドの元に行った。
 すでにホランドは簡易リングの上に上がっており、もう一人スパーリング相手に何かを教えているようであった。

「今日はきさまに、とっておきの必殺技を教えてやる。今度闘う相手に有効な技じゃ、アホにはできんから心して聞けよ」
「上等じゃねえか。それにしてもジジイ、なんだか今日は上機嫌だな? なんかいいことあったのか?」
「ごちゃごちゃ言っとらんで早く構えんかあ! 始めるぞ!」

 ホランドの怒鳴り声と同時に、店内には拳闘士達の拳を打ち合う音が響くのであった。


 続く。

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