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61話 酒の価値

 バンディーニはその日、街へと出かけていた。
 もちろん遊びに来たわけではない。エドガーの出入りしている酒場の拳闘ジム、それが目当てであった。

 ロゼッタから聞いた目当ての酒場に辿り着くと店内へと入って行く。
 中を見回すと昼間から飲んだくれている落伍者ばかりだと思ったのだが、奥のスペースで数人の若者達がシャドーをしている姿が見えた。
 バンディーニは店内を進むとカウンターに座り安い酒を注文する。
 まだエドガーは来ていないらしく、ここでしばらく客の振りをして待つことにした。

「お客さん、見ない顔だね」
「え? ああ、普段はマスタング商会に出入りしているから」
「なんだい港の奴か、解放奴隷かい?」
「えぇ、まあ」

 金さえ払えば文句はないと言って、店のマスターは注文した酒をカウンターに乱暴に置いて行ってしまった。
 そいつをチビチビとやりながら、先程の若者達の方に目をやる。
 皆熱心に、拳を突出しジャブの練習をしているようであった。
 バンディーニやロイムがマスタングの拳闘士達に教えたジャブは、瞬く間に他の拳闘士達の間にも広まり、今では皆かなりの使い手になっている。
 中堅やベテラン程、これまでのやり方を否定されることを嫌がると思ったのだが、むしろ実戦経験の多い者の方が、左を使いこなせると有利に試合を進められると、ジャブをマスターし始めたのだ。

 しばらく眺めていると、バッグ打ちや、仮設リングでスパーを始める若者達。
 こんな場末の酒場が、本当にボクシングジムのようになっていることに、バンディーニは感動して少し目頭が熱くなった。
 元居た世界でも、近現代ボクシングの発祥は酒場だったと言われている。
 若者達がそうやって、切磋琢磨しあい技術を磨き上がる姿は、どこか懐かしく胸を熱くさせるものがあった。

 そんな感じで待ち続けたのだが、中々エドガーは現れなかった。
 安いつまみと酒で繋ぐのも限界かと思ったので、勘定を済ませて席を立とうとすると、隣の席に小さなご老人が座った。
 席は他にも沢山空いているのに、なぜわざわざ真隣に座るのだろうと不思議に思っていると、ご老人がこの酒場で一番良い酒を二杯頼んだ。
 それを横目にカウンターに金を置いて離れようとすると、マスターがその酒を目の前に置く。

「注文してないけど?」
「そこのじいさんからだ」

 そう言ってマスターはまた引っ込んでしまう。
 バンディーニは、なんとなくだが察しはついていた。
 浅黒い肌の白い顎鬚を蓄えた老人、その姿はロイムに聞いたそのままであったからだ。

 席に座り直すと、「遠慮なく頂くよ」と言ってその酒を煽るバンディーニ。
 自分が先程まで飲んでいた酸化しきった葡萄酒とは違って、芳醇な香りが鼻腔を通り、程良い酸味と甘みが口の中に広がった。

「同じ酒とは思えないな」
「同じだと? おまえさんがさっきまで啜っていたのは泥水だ。酒を飲むのに金をケチるもんじゃあない」

 じいさんはそう言うと、自分の分を一気に飲み干して、同じものをもう一杯注文していた。
 良い酒を味わいもせずにそんな飲み方するなよと、バンディーニは心の中で毒づく。

「あの、私になにか用ですか?」
「おまえさん、敵情視察に来たんじゃろ?」
「バレてましたか」
「ふん、公開スパーではないんだぞ」

 その言葉にバンディーニは、我を忘れて立ち上がると、改めて老人のことを見つめ直す。
 小柄な体で顔には年季の入った小じわがびっしりと刻まれていた。
 左目には黒い眼帯をしている、恐らく見えないのだろう。
 老人はバンディーニのことを残った目でジッと睨みつけている。
 その眼光は何処までも鋭く、まるでナイフのように輝いて見えた。

「あなたは……一体……」
「いいから座れ、説明してやる」

 言われるままに、バンディーニは座り直す。

「わしは1966年のアメリカからやってきた。アリがパターソンを相手にベルトを防衛した翌年じゃな」
「信じられない、私達以外にも転生者がいたなんて」
「くっくっく、もしかしたらディアグラウスはシュガー・レイ・ロビンソンの生まれ代わりかもしれんぞ」

 笑いながら、オールタイム・パウンド・フォー・パウンドや拳聖と呼ばれたチャンピオンの名を口にする老人を前に、バンディーニは間違いではないと思う。

「こちらに来てもう半世紀以上経つ、わしはずうっとこの世界の拳闘を見てきた」
「拳闘士には、ならなかったのですか?」
「はっはっは、おまえらと違って奴隷ではなく市民じゃったからな。専ら観戦がメインよ」

 そういうことかとバンディーニは納得した。

「若造、おまえはなにをしようとしている?」
「エドガーさんのやろうとしていることと一緒ですよ」
「ふんっ、あのぼっちゃんも、おまえらも何もわかっておらん。そんなことはこの時代では不可能じゃ」
「どうしてですか?」
「どうして? わかっているんじゃろ?」

 現代でも、何百年もかけて成熟していったボクシング。
 それを、拳闘が生まれたばかりのこの世界この時代で、その根底さえも変えていき定着させることの難しさはバンディーニも理解しているつもりであった。
 しかし、決して不可能なことではないと思っていた。それをこの老人はあっさりと否定したのだ。

「人の…いや、奴隷の命がこれほどまでに軽く扱われるこの世界で、近代的な倫理観を持ったボクシングが支持されることなど決してない。それこそ、酒の価値さえわからんおまえらにはな」



 続く。

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