26話 トレーニングの日々
あれから一ヶ月、毎日のように山の斜面を登っては降りを繰り返していた。
俺もすっかり慣れて、今ではスイスイ斜面を登れるようになっていた。
「よっしゃあああああああっ! 一番だあっ!」
トップでゴールして俺はガッツポーズをする。
当然、脳内BGMはロッキーのテーマだ。
「くっそぉ、ロイムは小さくて身軽だからいいよなぁ」
ビリだったヤクが愚痴を零す。
小さいと言わるのは腹立つが、所詮負け犬の遠吠え。
これで一週間連続俺が一位だ。最初の二週間くらいは数々の罰ゲームを課せられて心が折れそうだったが、山の斜面登りに関してはもう俺の右に出る者はいない。
俺は斜面王者になったのだ! 嬉しくねえっ!
そんなこんなで、俺達は同じ斜面を下るとランニングで練習場に戻るのであった。
練習場に着くと、俺は用意していたある物を袋から取り出す。
それを興味深げに見ていたディックが質問してきた。
「ロイム、それはなんだい?」
「オリーブ油だよ」
「オリーブ油? そんなの何に使うんだ?」
俺は、ローションのようにオリーブ油を手の甲に塗りたくると、その上から布を拳に捲いた後、ナックル部分に薄く伸ばした粘土を貼り付けた。
オリーブ油はワセリンの代わり、粘土は緩衝剤代わり。どちらもバンディーニに頼んで調達してもらった物だ。
粘土を貼り付けた拳に再び布を巻き、革ベルトで固定していく。
俺は両手の拳を軽く合わせると感触を確認した。
「よし、いい感じだ。これなら拳の皮が捲れたり、痛めたりするのをだいぶ軽減できると思う。皆もやってみろよ」
ディックにヤク、そしてロワードも半信半疑ながら俺に言われたようにする。
そうこうしていると、バンディーニがやってきてミット打ちが始まった。
オリーブ油と粘土は思ったよりも効果があり、拳への負担も軽減されたのだが、問題はやっている内に二つが混ざって溶け出してきてベトベトになること。
これは改良が必要だと思うのだが、俺にはボクシング以外の知識はまるでないので、バンディーニの伝手で、ワセリンに代わる何かを手に入れて貰うしかないと思うのであった。
その後は、シャドーや縄跳びなんかを一通り熟し、最期にロードワークをして終了。
今日は風呂に入れる日なので、三日ぶりに汗を流せると思っていると、俺達はバンディーニに呼び止められた。
「なんだよぉ、早く汗流したいのにぃ」
ヤクが文句を言うと、バンディーニはすぐに終わるからと言って話し始める。
「おまえらもだいぶボクサーらしくなってきたね。特にロワードの成長は目覚ましいものがある。半年前とは比べものにならないくらいの成長だ。これなら十分に戦えるだろう」
「なら、遂に俺も闘技場デビューできるんですか?」
バンディーニの言葉に、ロワードの表情が明るくなる。
ずっとこの時を待っていたのだろう。
訓練生になって約2年、遂に拳闘士として闘技場に立てる日がやってきた。
だが、バンディーニはロワードの問い掛けにすぐには返答をしない。
目を瞑り少し考え込むと、思い立ったかのように告げる。
「闘技場デビューはまだだ」
その返答に、ロワードは落胆の色を隠せない。
俺に負けてから半年以上、奴なりに研鑽を重ねてきたのだろう。
しかし、バンディーニにはまだデビューには足りないと言われてしまった。
「そう暗い顔をするなよロワード。俺なんて訓練生になるのに4年も掛かったんだぜ」
ディックが言うのだが、なんの慰めにもなっていないような気がする。
「そうだな、暗い顔をするには早いぞロワード」
「でも、俺にはまだ早いってことですよね?」
「そうじゃない。おまえたちは充分に戦える力を身に着けているが、実戦経験が足りないんだ。いきなり闘技場で拳闘士達と試合をするには、少しばかり心許ない」
実際に闘技場デビュー第一戦を勝利で飾る新人は少ないらしい。
しかも、そこで再起不能になることも、しばしばあると言う。
そんな過酷な戦いを生き残った者が、現役拳闘士を続けられるのだ。
実践経験と言ったらやはり一つしかないだろうと思い、俺はバンディーニに聞いてみる。
「試合形式のスパーリングでもやるのか?」
その問い掛けに首を振るバンディーニ。
皆が怪訝顔をしていると、バンディーニはニヤリと笑った。
「さっき決まった事なんだがな……」
「なんだよ、もったいぶらねえで早く言えよお」
皆でせっつくと、バンディーニは満を持して言い放った。
「一ヶ月後に、訓練生同士による部屋対抗勝ち抜きトーナメントが開催されることになったのだああああっ!」
「「「な!? なんだってええええええええええっ」」」
*****
風呂と言っても、鍋で沸かした湯を大きな木桶に溜めて入るので、順番に湯番をしないとすぐに冷めてしまうものだ。
なので、二人ずつ順番に風呂に入ることになる。
俺はロワードと一緒に入っていた。
二人黙って湯に浸かっている。
まあ、俺とロワードの関係は良好とまではいかないが、それなりに改善されてきてはいる。
しばらくすると、ロワードの方から俺に話しかけてきた。
「なあロイム……」
「なんだよ?」
「おまえや、バンディーニ師匠は、どうしてあんな技術を知っているんだ?」
唐突に来たな。
まあ、ごもっともな疑問である。
これまでに、誰も提唱してこなかった練習方法や、ボクシング技術。
突如現れた未知の技術に、まるで宇宙人が現れたかのように感じるのは無理もないかもしれない。
しかもそれが、年齢も人種も育った環境もバラバラの俺とバンディーニ。
その二人が、まったく同じ未知の技術を知っていたのだ。
不思議に思って当然である。
「バンディーニはどこで習ったのか知らないけど。俺はなんとなく、こうすればもっと強くなれると思っただけだよ」
「そうか……、セルスタさんや、拳神ディアグラウスもそうだったのだろうか?」
ロワードの声は、悔しさに滲んでいるように聞こえた。
「さあな……」
俺はそう答えると息を止めて湯の中に頭を潜らせるのであった。