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23話 この世界のアリになれっ!

「あ……蟻?」

 目の前の男は、俺の大真面目なボケにズッコケる。

「アリだよ! ア・リ! アの方にアクセントをつけて。え? 知らない? あれ? 私の早とちりだったかな?」

 まあ、蟻と言うのは冗談である。

 知らないわけがない。

 20世紀で最も偉大なアスリートの一人である、モハメド・アリと言うボクサーを、元プロボクサーである俺が知らないわけがないだろう。
 アリは1960年代から1970年代にかけて活躍した、世界ヘビー級チャンピオンだ。


*****

 ここからは余談です。
 ストーリーにはあまり関係ないです。

 モハメド・アリと言えば、ボクシングに詳しくない人でも、名前を聞いたことがあるくらい有名なボクサーだろう。

 彼の口癖であった「蝶のように舞い、蜂のように刺す」は、まさにそれを体現するもので。
 それまで鈍重な動きでパワー任せだったヘビー級に、華麗なフットワークと、そして蜂のように刺すジャブを駆使するアウトボクシングを持ちこんだのだ。

 アリの生涯戦績は、61試合56勝37KOである。
 無論素晴らしい戦績ではあるが、ボクシングの長い歴史の中では、アリ以上の戦績を誇るボクサーは沢山居る。

 しかし、何故21世紀になっても、モハメド・アリと言うボクサーがこれほどまでに人々を魅了するのか。
 それはアリと言う男の戦ったのがリング上だけではなく、様々な人種差別や国家と言ったものであったからではないだろうか。

 詳細は省くが、ベトナム戦争を期にアメリカ社会は大きな転換期を迎える。
 民衆の求めた時代のヒーローは、アスリートでありながら人々の不満や鬱憤を肩代わりし、国家と言う大きな組織と戦う現代の義賊だったのだ。

 彼ほどセンセーショナルで観衆の心を大きく動かしたアスリートは、アリの前にも後にもいないと思える。


*****

 ロイムに話しを戻します。

「モハメド・アリに、マイク・タイソン……なぜ、その名前を?」

 眉を顰めながら言う俺の言葉に、ホッと胸を撫で下ろしたような表情になると、男は上機嫌になり捲し立ててきた。

「いやあ、驚かせないでくれよ。やっぱり君も、この世界に転生してきた人だったんだね。いやあ、いやあ、本当に驚いたよ。ロワードに君の話を初めて聞いた日から、私はずっと君のことを観察していたんだ」

 ロワードに話を聞いた? ああ、たぶん俺が初めてロワードと試合をしてKOしたことだろう。

「君が、同年代の練習生達と一緒に行っていたトレーニング法は、こちらの世界ではまずありえないことでね。一日に何十キロもロードワークを熟すなんていう、現代のボクサー的思考なんてありえないことなんだ」

 これは本当である。
 ボクサーはミット打ちやバッグ打ち、ウェイトやスパーリング等、様々なトレーニングを一日の内に行うのだが、一番時間を掛けてやるのがランニングだ。
 ボクサーは、本当はマラソン選手を目指しているんじゃないか? と思うくらい走りまくる。

 それはどんなレベルの選手でも変わらない、世界チャンピオンであろうが、4回戦の新人ボクサーであろうが一緒だ。
 それくらい、ボクシングと言う競技はスタミナを消耗するものなのである。

「そして君が浸透させた、ジャブやノックアウトなんて言う単語も、当然こちらでは使われていない。これは紛れもなく君が、私と同じ世界から来たボクサーであるという証左ではないかあああああっ!」

 感極まって涙を流しながら立ちあがり両手を突き上げる男を前に、俺は変なやつに目を付けられちゃったなぁ、と思うのであった。



「自己紹介がまだだったね。私の名前はスターバンディーニ、勿論偽名だ。アリのトレーナーであったバンディーニから取ってる」
「スターってのは?」
「私ほどの才能を持つ人間には、やはり隠しても隠し切れないスター性があるということさっ!」

 歯を見せながらニカっと笑い、親指を立ててみせるバンディーニ。

 うぜえなこいつ、ぶっとばして話切り上げてやろうかな……。

「で、俺と一緒にボクシングの未来がどうたらこうたらって言っていたけど?」
「そうそう、危うく話題が逸れてしまうところだった」
「既に逸れてたけどな」

 俺の突っ込みに大きく咳払いをすると、バンディーニは神妙な面持ちになる。

「君も知っての通り、こちらの世界の拳闘はまだまだ発展途上段階だ。はっきり言って競技なんて呼べる代物ではなく、ただただ野蛮な殴り合いをしているにすぎないと私は思っている」

 真剣な表情のバンディーニの言葉を、俺は固唾を飲んで聞く。

「劣悪な環境下でのトレーニングに、死亡率の高い試合。当然だ、バンテージやグローブもなく、階級なんて言う概念もないんだ。硬い革ベルトにビスを打ち込んで殴り合うんだぞ。死に至らなくても怪我による再起不能なんて日常茶飯事だ!」

 言いながら拳を握りしめるバンディーニの姿は、怒りに震えているようにも見えた。

 俺も同じ思いであった。
 ジョーンさんを見ていればわかる。
 どんなに頑丈な人間でも、数か月おきに素手で殴り合いの戦いをするのだ。無事でいろと言う方が無理である。

「バンディーニさん、あんたはその状況を変えたいって思っているのか?」
「そうだ、私と君で、近代ボクシングをこの世界に広めよう」
「どうやって?」

 言いたいことはわかる。
 試合中の怪我による再起不能、ましてや死亡なんてものは、ボクサーであれば誰もが敬遠したいものである。
 例えそれが他人だったとしても望ましくないことである。

 でも、俺達はこの世界では、なんの権力もない単なる奴隷だ。
 そんな奴隷が、近代的ボクシングルールを導入してくれと言ったところで、聞き入れて貰えるわけがない。

 しかしバンディーニは、そんな俺の思いを見透かすかのようにニヤリと笑って言い放った。

「私と君で作り上げたボクシングで、拳神を倒せば叶う夢だとは思わないかい?」
「拳神を……倒す」

 それは、図らずも俺が掲げた目標であった。
 バンディーニの眼を見つめた瞬間、俺は身体が震えた。

 この男は本気だ、本気であの神の拳に勝とうとしているのだ。


「ロイム、その為に君は、この世界のモハメド・アリになれっ! 君が勝って勝って勝ち続け、拳神をも凌ぐボクサーになれば民衆達も味方にできるはずだ!」


 バンディーニの野望と俺の目標が一つになった時、この世界の拳闘に大きな変革が訪れると、俺はそう予感するのであった。



 続く。

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