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第97話 死神ちゃんとキックボクサー

 三階で人気の修行スポットにやって来た死神ちゃんは、修行に明け暮れる半裸の男を目にした。その男の様相は遠目で見ると一見ハムに似ていたが、筋肉で引き締まったその体はハムよりも細身だった。
 彼のパンチとキックはハムよりも俊敏で、そして一撃必殺の鋭さを持っていた。死神ちゃんが思わずヒュウと口笛を鳴らすと、反復練習を行っていた男がふと動きを止めた。彼は死神ちゃんに近づくと、死神ちゃんの頭をポンポンと撫でながら白い歯を見せてニカリと笑った。


「何だい、お嬢ちゃん。俺のことを、そんなジッと見つめて。俺に惚れちまったかい? 残念だが、俺には想い人がいるんだ。諦めてくれ」

「いや、普通に〈良いキレだな〉と思って見ていただけなんだが」


 死神ちゃんが半眼でじっとりと見つめると、彼は「そうかい」と言って朗らかに笑った。男はそのまま、修行スポットである広間から出ていこうとした。どこへ行くのかと死神ちゃんが尋ねると、彼は少し照れくさそうに笑って「想い人に会いに行く」と言った。その想い人とやらを是非とも見てみたいという理由をつけて、死神ちゃんは何食わぬ顔で彼に同行した。

 何でも、彼はここから少し離れた街に住む格闘家で、キックボクシングという種目を得意としているそうだ。冒険者としての職業は闘士で、以前からたびたび力試しのためにダンジョンへとやって来ているのだという。
 そんな彼は先日、ダンジョン内で一人の女性と出会ったそうだ。彼女の肢体は無駄なく引き締まっており、小柄ながらも男顔負けのパワーと技を持っていた。


「拳を交えた瞬間、体中に電撃が走ったかのような感覚があったんだ。それと同時に、とてつもない高揚感があった。――格闘家としても、男としても、俺は彼女に惚れちまったのさ」


 死神ちゃんは不思議そうに首を傾げた。すると、彼は苦笑いを浮かべて言葉を続けた。


「彼女は、モンスター堕ちした闘士なんだ。芯の通った強い瞳と、あれほどの強さを有する彼女だ、モンスターと化してしまったのには何か理由があるに違いねえ。――出会ったあのとき、俺はまだ未熟だったから彼女に勝つことはできなかったが。いつかきっと、俺のこの拳で彼女を正気に戻してみせるんだ」


 照れくさそうに頭を掻く彼から視線を外すと、死神ちゃんはよく知る友人のことをぼんやりと思い浮かべた。そして「〈そいつと定期的に、一緒に風呂に入っているよ〉などと言ったら、|顰蹙《ひんしゅく》を買うのと羨望の眼差しを受けるのと、どちらだろうか」などという少々|猥雑《わいざつ》な考えが頭をよぎり、死神ちゃんは顔をしかめた。――事実ではあるものの、さすがにそれは品がなさすぎるし、おっさんはおっさんでも極めてモテなさそうなおっさんの考えるようなことで、スマートではない。
 それは全くもって自分らしくない。最近、変なヤツに立て続けに絡まれたから、疲れが抜けていないのかな。――そう思いながら、死神ちゃんは溜め息をついた。すると、キックボクサーが心配そうに顔を覗き込んできた。


「何だい、お嬢ちゃん。辛気臭い溜め息なんかついちまって」

「いや、ちょっと、最近心身ともに疲れることが続いていたから。ただ、それだけ」

「そいつはいけない。正しいダンジョン生活は、整った心身から始まるんだぜ。――俺に付き合うことはねえ。帰って休みな」

「いや、これも仕事なんでね」


 不思議そうに眉根を寄せるキックボクサーに、死神ちゃんは〈自分は死神である〉と打ち明けた。すると、彼は何故か尊敬の眼差しで死神ちゃんを見つめ、心なしかふるふると震えだした。


「まさかそんな、〈神〉と出会えるだなんて……」

「いや、神じゃなくて、ただの罠なんだが」

「そうじゃなくて! お嬢ちゃんの存在は、筋肉界隈ではまことしやかに噂されてるんだよ! 筋肉を愛し者の元に現れる〈筋肉の伝道師〉、筋肉に一家言ある〈喋る死神〉がいるって!」

「……はい?」


 死神ちゃんは表情を失い唖然としたが彼はそんなことなど気にすることもなく、噂の死神に出会えたことを喜び、興奮で鼻息荒くしていた。そして「俺の筋肉はどうだろうか」という話もそこそこに「闘士の彼女の筋肉は」と饒舌に話し始めた。死神ちゃんは漠然と「さっきの品のない話、仮にしたとしたら、これはきっと羨ましがられるな」と思った。
 キックボクサーは嬉しそうに何度も頷くと、拳を強く握って語気を強めた。


「これはいい風が吹いているぞ! たとえ勝てなかったとしても、〈気持ちいい〉と感じることはできるかもしれない! この前は、そんなことを感じる暇さえなく死んだから!」


 死神ちゃんが失った表情は、完全にどこかへと消え失せた。何もない顔で目を|瞬《しばた》かせると、死神ちゃんは何も聞かなかったことにした。
 そうこうしているうちに、死神ちゃん達は四階の〈小さな森〉に辿り着いた。キックボクサーが事前に仕入れておいた情報によると、ここ数日、闘士らしきモンスターはこの森で目撃されているらしい。彼は草をかき分け、一生懸命闘士の姿を探して回った。
 そんな彼の眼前に、一体のモンスターがゆらりと現れた。パンチンググローブに半裸の|それ《・・》は、紛うことなく|闘士《・・》だった。死神ちゃんは|それ《・・》をまじまじと見つめると、抑揚もなくポツリと言った。


「たしかに、すごい筋肉だな。パンチだけじゃなく蹴りも凶悪そうだよ」

「いや、でも」

「正直、俺もこんな厳つい筋肉ダルマなのは初めて見たな。――お前、これに勝てる自信、本当にあるのか?」

「いや、あの」

「でも|これ《・・》、ぶっちゃけたところ、性別どっちなんだよ」


 死神ちゃんの畳み掛けに窮していたキックボクサーは小刻みに肩を震わせると、「俺が教えて欲しい」と叫んだ。そして|それ《・・》を指差しながら、盛大に顔をしかめて喚き散らした。


「俺が探し求めてるのは|これ《・・》じゃない! これ、どう見てもただのカンガルーじゃねえか!」

「いや、立派な闘士だろう」


 死神ちゃんは半笑いでぷるぷると震えた。キックボクサーはやけくそ気味に戦闘の構えをとると、カンガルーめがけて突っ込んでいった。カンガルーは思いのほか強く、ヤツの渾身の右ストレートを食らったキックボクサーは既に瀕死だった。そしてカンガルーのアッパーで打ち上げられるのと同時に、彼は灰へと変化して綺麗に散っていった。
 変に艶のある彼の断末魔が森にこだまする中、カンガルーは何事もなかったかのようにもちゃもちゃと顎を動かしていた。死神ちゃんは溜め息とともに溜まった疲れも吐き出すと、静かに姿を消したのだった。




 ――――とりあえず、自分という存在が知らないうちに〈心の師匠〉から〈神〉にまで昇格していたことに、死神ちゃんは若干戸惑ったそうDEATH。

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