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記録22 本当にごめん

「お前、写真で満ち足りろよ」

「足りるわけ無いですよ、何言ってるんですか。あー、ルッチィの道着姿、楽しみー!」


 部屋の鍵を取り出しながら|大島《おおじま》を睨むと、ヤツは逸る気持ちを抑えきれずに身悶えた。俺がいっそう目力を籠めてヤツを睨みつけながら鍵を穴に差し入れると、ちょうどそこに大家さんが通りがかった。大家さんはニヤニヤとした笑みを浮かべて会釈をすると、お辞儀し返した大島に笑顔で保存容器を手渡した。大家さんは「作りすぎたから」と理由をつけて、ルシアに食べさせてといいお惣菜をよくお裾分けしてくれるのだ。


「これ、よかったらみんなで食べてね」

「え? みんな?」

「あら、あなた、吉澤さんの新しい彼女さんじゃあないの? 最近よく見かけるから、そうなのかしら~と思ってたのよ。ルシアちゃんの新しいお母さん候補なのかしら~なんて思ったり、ねえ?」


 ワイドショーおばはんは案の定、この恰好の獲物についてずっと気になっていたらしい。大島はこの上なく爽やかに微笑むとはっきりと答えた。


「やだなあ、冗談キツいですよ」

「えっ?」

「キツすぎですよー、いやだなあ」


 大島は何も映していない濁りきった瞳で「キツい」と繰り返した。――てめえ、この野郎。俺だって、お前が相手とか、天地がひっくり返っても無理なくらいキツいわ。
 俺は戸惑う大家さんに「ルシアの母親と仲が良くて、滅多に様子を見に来られない母親に代わって彼女がルシアに会いに来ている」とごまかした。すると大家さんは勘が外れたことに心なしかしょんぼりしたようではあったが、すぐさま立ち直って、むしろ出会い頭よりも何故か機嫌を良くして帰っていった。

 ルシアが通うことに決めた空手道場は、月謝以上の支払いなしに通いたい放題できるところだった。そのため、ルシアは可能な限り道場に通いつめた。いつ元の姿に戻って向こうの世界に帰れるようになるかも分からないから、学べるうちに学びたいのだそうだ。そのせいか、大家さんのお孫さんもルシアに付き合って道場に通う回数が増えた。俺としてはルシアの幸福のためとはいえ、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし大家さんも娘さんも、そしてお孫さんも気にしてはいないようだった。
 さらにルシアは家でも練習を怠らなかった。ルシアの通っている空手道場は投げや受け身も教えている流派らしく、彼女は広げた布団の上で受け身の練習を自主的に行っていた。しかしながら俺がいるときならまだしも、万が一俺のいない間に怪我でもしたら事なので、練習はひとりでは絶対にしないようにと約束してもらった。
 それでは〈さいきょう〉から遠ざかるとばかりにしょんぼりとうなだれる彼女を見かねて、ゴムマットを買ってきて家の中でも縄跳びできる環境を整えてやった。すると彼女は喜んで体力づくりに勤しんだ。

 ルシアが熱心に空手に取り組むにつれ、というよりも、今思えば大家さんと大島が鉢合わせて以降、大家さんの娘さん――|明海《あけみ》さんと連絡をとる回数が増えた。はじめのうちはもちろん「今日は母ではなく私が送り迎えをします」とかそういう当たり障りのない内容だったのだが、大家ミーツ大島事件以降からは子育て相談や職場の愚痴(幼子を抱える親にあまり優しくない職場らしく、シングルファザーという設定の俺からの共感を得たかったようだ)が加わった。ぶっちゃけ、俺は子育てをしているわけではないので、明海さんの苦労は分からない。だから差し障りのない返答しかできなかったのだが、彼女は「一生懸命考えて返事を返してくれた」と感じたらしい。おかげで、チャットアプリの通知音が鳴る回数が増えてしまった。

 ある日の昼食時、俺は大島に「ルシアの空手レッスンは順調か」と聞かれて、その流れで明海さんの話もした。すると、大島は怪訝な表情で「それ、やばくないですか?」と返してきた。


「やばいって、どういう意味でだよ」

「いやだって、それ、明らかに拓郎さん狙われてますって」

「やっぱ、そうなのかなあ?」

「そうなのかなあじゃなくて、そうですよ。ひでりすぎて好意を寄せられてるときの感覚、忘れましたか?」

「ひどい言いざまだな。――でも、たしかに、大家さんがメインで送迎していたはずなのに、最近は明海さん率が高いんだよ。惣菜のお裾分けも、大家さんからよりも明海さんからのほうが多いし」

「ほらやっぱり。それ、確実に狙われてますって。こんなことになるなら、嘘でも私が彼女だって言っておけばよかったですよ。――ルッチィは何も言わないんですか?」


 たしかに、ここのところルシアの機嫌はあまりよろしくない。お裾分けも、大家さんからだと箸をつけるのに、明海さんからだとあまり気が進まないようだった。家ではあまりスマホを触らない俺がよくスマホを手にしているのも気になるらしく「誰から?」と聞いてくるようになったし、明海さんからと返すと心なしか悲しそうな顔をした。
 そのように大島に伝えると、彼女は顔をしかめて「明海さんとはなるべく距離をとったほうがいい」と警告してきた。大げさだと思ったが、ルシアの幸福を考えるなら絶対的にそうしたほうがいいと念を押された。何となく釈然としない気もしたが、ルシア関係で大島からもらったアドバイスは常に正しかった。だから俺は、出来得る限り大島の言う通りにしようと思った。

 とは言え、こちらはご迷惑をおかけし、お世話になっている身。そう簡単に無下な態度をとることもできない。なので、送られてきたチャットメールは全てビジネス調で返すようにした。
 それでも向こうからの態度が変わらず、好意を抱かれているというのは大島の思いすごしじゃあないのかと思い始めたころ、明海さんから「こっちとそっちの家族で親睦を深めるために出かけないか」という連絡をもらった。何でも、息子さんがルシアのことを気に入っており、もっと仲良くなりたいのだとか。――これはさすがに、勝手にお断りはできない。ルシアに聞かなければ。……そう思い、絶賛縄跳び中のルシアに声をかけた。すると、彼女は俺が「明海さんが」と口にした途端に表情を失った。俺はぎょっとしつつも、しどろもどろに話を続けた。しかし、途中でルシアが力なくボトリと縄跳びを床に落としたので、俺は思わず口をつぐんだ。


「私はあなたの娘ではないわ」

「いや、そんなことは分かってるよ。でも、そういう設定なんだから、向こうがそう思ってるのは仕方のないことだし」

「仕方がないからタクローは〈パパの顔〉をし続けるのね。それで、私だけでなく大地くんのお父さんにもなりたいのね。だから始終明海さんのことばかり気にかけているんだわ」

「なんでそうなるかな。そもそも、むしろ、最近は出来る限り連絡とらないように気を配ってるんだけど。お前が嫌がると思ってさ――」


 俺は不服げに口を尖らせた。しかしルシアはみるみると目に涙を溜めた。


「嫌がるって、当たり前でしょう! あなたは私のことを幸せにするんじゃなかったの!? この、浮気者!!」


 そう叫ぶと、ルシアは靴も履かずに家を飛び出していった。不甲斐ないながらも、俺は彼女が先ほどまで縄跳びをしていた辺りをぽかんと見つめるしかできなかった。
 すぐに我に返り、俺は慌てて家を出た。しかし、ルシアの姿は見られない。俺は必死に、近所を探して回った。探している間中、俺の頭の中は真っ白だった。「もうじき暗くなるし、変質者に連れ攫われるなどなければいいのだが」とか「事故に遭ってなければいいが」とか、そんなことすら考える余裕はなかった。何かが浮かんだとしても「どこだ?」「こっちか?」くらいで、本当に余裕なんてものは微塵もなかった。
 しばらくして、雨が降り始めた。傘をとりに戻るのももどかしく、早く見つけなければという思いで俺は走り続けた。結局、ルシアは我が家すぐ裏手の公園のすべり台の下の、外側からは死角でかくれんぼするのにちょうどよく、雨も吹き込まないところにいた。彼女はひっひっと嗚咽を懸命に飲み込みながら、抱えた膝に顔を埋めていた。

 無事に見つけることができて安堵したからか、俺の膝はがくんと抜けた。その音に驚いて顔を上げたルシアは、ずぶ濡れな俺を見てさらに驚いた。そして心の優しい彼女は、さらに逃げたり怒ったりなどせず、むしろ心配して俺に近寄ってきた。俺は彼女を抱きしめると、開口一番「好きだよ」と言った。他にもいろいろと言うべき言葉はあったのだろうが、それしか出てこなかったのだ。そして、一度それを口にしたが最後とばかりに「ちゃんと好きだよ」とか「お前だけだから」とか、それ関連ばかりが溢れ出て止まらなくなった。
 ルシアは俺を抱きしめ返すと、俺の腕の中で元の姿に戻った。そして、返事をする代わりに彼女は何やら呪文を唱えた。直後、俺たちは我が家の風呂場へと移動した。俺が驚いて彼女から身を離すと、彼女は俺の体が冷え切ってしまっていることに心を痛めて幼女の姿へと戻ってしまった。


「私のせいで、本当にごめんなさい。私はあまり濡れてないから、あなたが先にお風呂で温まって。――着替え、運んでおくわね」


 そう言って浴室から出ていった彼女は、悲しそうながらも心なしか嬉しそうだった。俺はもたもたと服を脱いでシャワーの栓を開けると、熱い湯を浴びながらじんわりと思った。――本当に、無事でいてくれてよかった。ルシアを失うということがなくて、本当によかった、と。
 女ひでりが続き恋愛からも遠ざかっていて、人を好きになるという感覚がいまいち思い出せなかった。日々の生活に疲れていて、異世界ハーレムなんていうどうしようもない夢を抱えていた。久々の恋愛だから、自分の気持ちに自信が持てなかった。――そんな、いろいろな理由で、ずっと「好き」と言えなかった。でも、咄嗟に出たあれが俺の全てなのだ。俺は、彼女のことが好きで好きで仕方がないのだ。
 彼女のおかげで、俺の毎日は楽しくなった。毎日が幸せで満ちていた。だからもう、ハーレムなんていらない。いや、彼女さえいれば何もいらない。きっと、一番最初に「俺が幸せにする」と宣言したときから、俺は彼女のことが好きだったのだろう。そして彼女も、そのときから俺のことを異性として見て、俺だけを思ってくれていたのだろう。

 俺は湯船に張った湯にゆったりと浸かりながら、そんなことを考えて思いっきり相好を崩した。――やばい、俺ってめっちゃ幸せ者なんじゃん? 異世界ハーレムルートを選択はしなかったけど、勝ち組なんじゃん? ていうかもしかして、もしかしなくても、相思相愛!? すごく照れるすごく恥ずかしい。
 しかしながら、明確な答えを提示するまでにかなり彼女をお待たせしただろうことも事実だ。現に、俺が中途半端なことをしているせいで浮気の心配をさせてしまったわけだし。――そのことについて、すさまじく申し訳ないと思うとともに、本当に申し訳ないと俺は思った。すると、タイミングよく脱衣所から「着替え、ここに置いておくわね」という声がした。……なんだよ、それ。めっちゃ嫁さんっぽい。

 俺は、ニヤニヤと口角が上がるのを止めることができなかった。そして、どんな顔して出ていくのが最適解なのかと考えつつ、いろいろな意味で「本当にごめん」と思ったのだった。

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