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記録10 この胸の苦しみは、一体何なんだ?

 家を出てからしばらくは、ルシアの機嫌はとても良かった。しかし、携帯ショップを回るにつれ、まるでしぼむように消えていくろうそくの火のように、彼女の表情は暗くなっていった。
 簡単なやりとりさえできればいいので、俺は彼女にできるだけシンプルな作りの携帯を勧めた。しかし、それは嫌だという。では彼女好みのものをと思い、キャリア気にせずで選んでもらうことにしたのだが、うちの近隣のショップを全て回っても、納得のいくものが無かったようだ。


「一体、どういうものならいいんだよ?」


 俺はしゃがみ込むと、しょんぼりと俯くルシアの顔を覗き込んだ。すると、彼女はほんのりと顔を赤らめてもじもじとし始めた。俺が訝しげに眉根を寄せると、彼女はようやく口を開いた。


「あのね……タクローと同じものがよかったのよ……」

「は?」

「だからね、同じものがよかったのよ……。そうすれば、ほら、使い方が分からなくてもすぐに教えてもらえるし、それに、その、ね……?」

「それに、何だよ?」


 ルシアは顔を一層赤らめると、恥ずかしそうに俯いた。そして小さくポツリと呟くように言った。


「その、同じもののほうが、特別感があるっていうか、ね……?」


 思わず、俺は押し黙った。彼女の赤面が伝染したようで、俺は頬が火照ってチリチリするのを感じた。すると、勢い良く顔を上げたルシアが真っ赤なままの顔をしかめて捲し立てた。


「別に、変な意味は無いんですからね!? 仲のいいお友達同士だって、揃いのものを持つことがあるでしょう!? その程度のアレなんですからね!?」


 ムキになって怒り出した彼女を適当に宥めると、俺は彼女を連れて俺が契約しているキャリアの店に戻った。そして同じスマホがまだ取扱われているかどうかを、店員に尋ねたのだった。



   **********



 蕎麦屋に向かうまでの間、ルシアは嬉しそうにずっと含み笑いしていた。結局同機種は既に販売終了していたので、俺が機種変更する形でお揃いにしたのだ。ぶっちゃけ、俺は昔付き合っていた彼女とだって、何かしらを揃いにしたことがない。だから正直、かなりこそばゆい。
 でも、こんなにも喜んでくれるなら、いいかな。――そんなことを思いながら隣を歩く彼女を見下ろすと、バッチリと目が合った。どうやら彼女はあまりの嬉しさに、俺の持つ〈二人分のスマホの箱〉を定期的に眺めていたらしい。ルシアは慌てて視線を逸らすと、上ずった声で「〈ソバ〉のお店はまだなの?」と聞いてきた。俺は何故だか胸がギュウと締め付けられるのを感じながら「もうすぐだよ」と答えた。

 店に入って席に着くと、店員さんがすぐにお品書きを持ってきてくれた。ルシアは早速それを開くと、キラキラとした目を瞬かせながら驚嘆した。


「わあ、おうどん様がたくさんいらっしゃるわ! 鍋焼きに鴨南蛮に、カレー南蛮? ねえ、この〈南蛮〉って何なの?」

「そう言えば、どういう意味だったかな……」


 そう言って、俺はスマホに「OK、グルグル」と呼びかけた。そして「カレー南蛮の〈南蛮〉はどういう意味?」と話しかけて、その由来を調べた。気がつくと、ルシアが羨望の眼差しでスマホを凝視していた。――あ、駄目だ。これ、さっき契約してきたプランじゃあ、すぐに通信制限がかかりそうな予感。
 とりあえず〈南蛮の意味〉を教えてやると、俺は〈どの蕎麦にするのか〉と尋ねた。ルシアは思い出したかのようにハッと息をのむと、慌ててメニューに目を戻した。


「そうだったわ。今日はソバとやらを食べに来たのよね。……ねえ、この〈とろろ〉というのは何?」

「山芋をすり下ろしたやつだよ。ネバネバしてて、ふわふわで、体にいい」

「ネバネバなのにふわふわなの? おもしろそうね。じゃあ、それ!」


 俺は頷くと、店員さんにとろろ蕎麦と天ざるを注文した。

 しばらくして、蕎麦が運ばれてきた。これはオマケね、と言いながら店員さんが机に置いたとろろ蕎麦のざるには、人参の天ぷらが乗っていた。ルシアは嬉しそうに頬を上気させると、満面の笑みでお礼を言った。
 月見とろろの器に目を輝かせたあと、ルシアは興味深げにざるの上の蕎麦を眺めながら首を傾げた。


「ねえ、これって原材料は何?」

「蕎麦の実を|碾《ひ》いて粉にしたものだよ」

「ああ、ソバって蕎麦のことだったのね。私の世界ではパンケーキにしたり、おかゆにしたりするのよ。こっちでは麺にもするのね」

「あー、たしか、こっちでもそういう食べ方する国あるって聞いたことがあるような……。今度、うちでも作ってみるか」


 いいわね、と笑いながら、ルシアは箸を手に取り頂きますをした。月見とろろをしっかりと混ぜ合わせ、そこに蕎麦を投入した彼女は困惑の表情を浮かべた。


「どうしよう。美味しいんですけど、何だか食べづらいわね」

「少しだけ蕎麦つゆを入れたら? 全部は入れるなよ。とろろと蕎麦つゆで、二度楽しめるから」


 蕎麦つゆの入った瓶を指し示してやると、ルシアは早速それに手を伸ばした。そしてとろろに蕎麦つゆを追加すると、嬉しそうに顔をほころばせた。


「わああ! とろろがとろとろしたわ! 名前通りね! ……ん~ッ! ふわっふわ~! 何これ、おいひい! 人参の揚げ物も、まるでお菓子みたいね! 思わずほっこり笑みが溢れるような甘さだわ!」

「他の天ぷらも食べてみる? 欲しいのあれば、分けてやるけど」


 俺はそう言うと、天ぷらの乗ったざるをルシアのほうへと向けてやった。ルシアはざるを真剣に見つめて百面相したのち、悔しそうに顔をくしゃくしゃにして呟いた。


「……どれも美味しそうで選べないから、次に来たときにそれと同じのを頼むようにするわ」


 彼女は再び笑顔を浮かべると、先ほどまでとろろの入っていた器に蕎麦つゆを注ぎ入れた。わさびに手を伸ばした彼女を呼び止めると、俺はニヤリと笑って言った。


「それをほんの少しだけ箸の先に掬い取って、舐めてみ?」


 不思議そうに首を傾げさせたルシアは、俺の言った通りにした。そして目をこれでもかというほど見開くと、顔を真っ赤にして「んーッ!」と叫んだ。


「ひどいわ、タクロー! あんまりだわ!」

「いやいや、こういうのは体験しないと分からないもんだろう? ――それな、わさびっていう野菜をすり下ろしたもので、調味料みたいなもんなんだよ。つゆの中に少しだけ入れて、溶いてみな。美味いから」


 苦笑いを浮かべながら、俺はルシアに水を差し出した。彼女は涙の浮かんだ目で俺を睨みつけながら、水を二、三杯飲み干した。
 口の中の辛さが落ち着くと、彼女は蕎麦つゆバージョンを堪能し始めた。彼女は例のごとく、すすれずにもたもたと麺を口に運び小動物のように食べていた。しかし突如ぱっちりと目を見開くと、少しばかり丸めていた背中を伸ばして俺を見た。


「何、どうした」

「今、少しだけどすすれた気がするわ! こう、おつゆの甘みと、お出汁っていうの? あれの香りがふわっと鼻のほうへと抜けていったわ! これが〈すする〉ということなのね! たしかにこれは、お行儀の悪い行為ではないわ! 素晴らしい〈食の楽しみ方〉のひとつよ!」


 興奮気味に捲し立てた彼女は、再び〈すする〉に挑戦した。失敗のほうが圧倒的に多かったが、とても楽しそうに蕎麦をもぐもぐとしていた。
 もう少しで蕎麦も無くなるというころ、彼女は恐る恐るわさびに手を伸ばした。そしてとうとう、わさび入りのつゆに挑戦した。最後の蕎麦をつるりと口に運び終えた彼女は、何とも言い難いしみじみとした表情で呟いた。


「あんなに辛かったのに、わさび、美味しい……」


 俺は思わず笑うと、シメの蕎麦湯を勧めた。すると彼女は残った蕎麦つゆに注ぎ入れ、ひと口味見をした。そして「もう少し、わさびを入れたいわね」と呟きながら薬味皿を手に取った。――もうすっかりと、わさびに慣れたようだ。そして通ぶりながらわさびをちょい足しし、至福の吐息を漏らす彼女を可愛いと俺は思った。

 ルシアは店をあとにする前からずっと〈幸福の光〉を纏っていた。チラチラと仄かに光り続けながら、彼女は「美味しかった」と恍惚の声をあげた。そのままクスクスと笑い始めたので、どうしたのかと尋ねると、彼女はふんわりとはにかんでポツリと言った。


「すごく、幸せだなあって。……世界を救うためにも、早く元の姿に戻って帰らなくちゃいけないのは分かっているんですけど。でも、こんなに幸せなのって、初めてだから」


 その顔に哀しみが差し込んできてもなお、彼女は笑みを湛えていた。俺はまた、胸がわし掴まれるような感覚を覚えて「苦しい」と思った。そして無性に、彼女を抱きしめたいと思った。


「えっ、ちょっと、何よ、突然! まだ眠たくはないわよ、自分で歩けるわよ!」

「……別に、いいだろ。どうせ満腹で、すぐ眠たくなるんだし」


 そんな言葉でごまかして、俺はルシアを抱き上げた。――そして案の定、彼女は家に着くまでの間に寝落ちしたのだった。

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