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記録5 その扉は開けてはならないと、俺は堅く誓ったのだった(中編)

「わあああああ! すごい! 馬も無しに、ワゴンがひとりでに動いているわ! これはなんて魔法なの!?」

「これは〈科学〉っていう魔法でな、あの〈馬無しワゴン〉は自動車っていうんだよ」


 ワイドショーおばはんとの交戦を無事に切り抜けた俺は、ルシアを連れて駅へと向かっていた。しかしその道すがら、彼女はいちいち足を止めては何かしらに感動し、アレは何コレは何と質問しまくってきた。幼児はニ、三歳くらいになって言葉を覚え始めると、親御さんを質問責めにすると聞く。きっと、俺も傍から見たら〈お子さんにコレ何攻撃を食らっているパパさん〉に見えていることだろう。――うっ、つい先ほど受けた心の傷(バツイチ設定を盛られた)からまた、血が吹き出しそうに……。
 しかしながら、目につくもの全てに興奮して瞳を輝かせているルシアは、正直可愛らしい。可愛らしいんだが……。これでは、いつまで経っても駅には辿り着けず、買い物も出来ないじゃあないか。俺は意を決すると、彼女を抱き上げた。もちろん、彼女からは大層|顰蹙《ひんしゅく》を買った。そして腕の中で暴れられ、周囲からは〈あれ、親子で良いのかしら? それとも、通報したほうがいいのかしら?〉という感じの視線を投げつけられた。でも、そんなことを気にしていたら、一日が無駄に終わってしまいそうだったのだ。


「のんびり散策させてやりたいのは山々なんだがな、今|それ《・・》をされると、本日の目的が達成できなくなってしまうんですよ。分かりますか、ルシアさんや」

「はっ、そうよね! ごめんなさい、少し興奮しすぎたわ! でもね、タクロー。だからって抱き上げることはないと思うのよ!」


 ルシアは〈どこを見ても知らないものばかりの世界〉に対しての興奮と〈殿方の腕の中に収まっている〉という羞恥で、目を白黒とさせながら捲し立てた。しかし、今の俺に〈可愛いなあ〉と思う余裕はなかった。――幼児って意外と重いんだな! 片手で荷物持って、もう片方で抱っこの辛いこと辛いこと! 世のパパさんママさん、よくこんなこと出来ますね! マジで尊敬しますわ!
 早く目的地に辿り着くべく抱き上げたわけだが、既に〈電車降りたらやっぱり自分で歩いてもらおう〉と妥協することに俺は決めた。そしてホームに走り込んでくる電車に興奮して突っ込んでいこうとするルシアの手を慌てて掴むと、俺は心底、世の親御さん達に再び敬服した。

 電車に乗っている間も、ルシアは落ち着きのない調子でキョロキョロとしていた。さながら幼児のように座席に乗り上げようともして、俺は即座に「それをやるなら靴を脱げ」と注意した。ルシアは〈靴を脱げばいいのね!〉とばかりに目を輝かせると、一生懸命に靴を脱いだ。そんな俺らを、周りは微笑ましく見つめてきた。――くそう、本当はこいつ、美人なお姉さんなんだよ! だから、本当ならこれは、デートみたいなもんなんだよ! なのに何でこんなにも、俺はどんどんパパさん風味を増していっているんだよ!

 電車を降りると、ルシアがくしゃみや咳を連発し始めた。彼女は表情を暗くすると、心なしか苦しげにポツリと言った。


「何だか、息苦しいわ。空気があまり良ろしくないっていうか……」


 俺の住んでいるところも一応都会の範疇には入る。だが、ここと比べれば田舎だ。庭をたぬきに荒らされるくらいには。しかし、ここは緑も少なく、人だらけ車だらけだ。――だから、排気ガスなんかが存在しない〈空気が綺麗な世界〉から来たであろう彼女にとっては、この世界は息苦しくて仕方がないのだろう。
 俺はまず、駅の改札を出てすぐのところにある百貨店に立ち寄った。ところ狭しと商品が陳列されているのを見て興奮し足を止める彼女を抱き上げると、サービスカウンターで〈あるもの〉の取扱場所について尋ねた。そしてそれが、本日のお買上げ商品第一号となった。


「良いわね、これ! おかげさまで、先ほどよりは呼吸がマシになったわ!」


 ルシアはただいま購入したばかりの布製マスクにご満悦だった。これは先日、〈ツブヤイテー〉を見ていたら、プロモーション広告としてタイムラインに流れてきて知ったものだ。顔にピッタリとフィットするだけでなく、綿で出来ているのに花粉はもちろんウイルスも防ぐという優れものらしい。〈この先も外出する機会があるだろうから、使い捨てマスクを消費しまくるよりは、洗えるもののほうがお財布にも優しいだろう〉と思ったら、こいつのことを思い出したのだ。


「そんなに快適なら、俺も自分の分を買えばよかったかな」

「駄目よ、そんなの!」


 ルシアは素っ頓狂な声でそう叫ぶと、ボッと顔を真っ赤にした。意味が分からず、俺は首を傾げた。すると彼女が小さな声でポツリと「そんな、お揃いだなんて」と呟いた。ようやく意味を理解した俺の顔も、真っ赤に染まり上がりかかった。しかし、それはすぐにスッと消え失せた。――恥ずかしさでちょっと顔を背けた隙に、ルシアが目の前から忽然と姿を消したのである。
 俺は必死に、彼女を探して辺りを駆けずり回った。だが、周辺をくまなく見て回っても、彼女の姿を見つけることができなかった。――もしも、誰かに連れ去られてでもしていたら。いきなり車道に飛び出して、車に轢かれてでもいたら。そんなことを考えると、気が気ではいられなかった。


「う゛えええええええぇぇぇぇぇぇ……ッ! 〈どこから来たの〉って、そんなの知らないわよおおおおおおおッ!」


 とりあえず近くの交番に助けを求めようと思い、全速力でそこに向かってみると、見慣れた幼女が困り顔の警官相手にギャン泣きしていた。どうやら彼女は〈お揃いだなんていう、まるで恋人同士みたいなこと〉に並々ならぬ恥ずかしさを覚えて全力でその場から逃げたはいいものの、土地勘が無いことを思い出してパニックを起こし、そして泣き始めたところを警官に保護されたらしい。


「あっ、もしかして、この子のお父さんですか? このくらいの年頃の子はちょっと目を離した隙に姿をくらましますから、こんな人の多いところでは、しっかり手を繋ぐか抱っこしていたほうがいいですよ?」


 |子育て《・・・》に不慣れであるように見えたからだろう。警官は「お節介かもしれないけど」と言いながら、そんな忠告を俺に与えてくれた。俺はすっかり幼女スイッチが入り「私は子供じゃない!」と泣き叫ぶルシアを抱き上げると、警官の言葉に静かに頷いたのだった。

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