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記録5 その扉は開けてはならないと、俺は堅く誓ったのだった(前編)

「タクロー、朝よ! 起きなさい!」


 俺は可愛らしい幼女の声で目を覚ました。しかし、目覚めはかなり最悪だった。何故なら、異様なまでに眠たかったのだ。開けようにも開かない目を横の幼女に向けると、彼女は不服そうに頬を膨らませて俺を揺さぶった。


「ほら、早く! 起きなさいったら!」

「ちょっと待って……。今何時だよ……」

「何時って、五時ですけど」


 聖なる神官様の朝は早いのか、はたまた幼女よろしく外出が楽しみすぎて早く目が覚めてしまったのか。ルシアはこんな早朝にも関わらず元気だった。俺は「早えよ!」と文句を垂れると、問答無用で彼女を布団の中へと引きずり込んだ。


「やだ! ちょっと、何をするのよ!」

「こんな時間に店なんか開いてないわ! ていうか、俺は休日の朝くらいのんびり寝ていた――」

「ちょっと! 抱え込まないでよ! そのまま寝ないでったら!」


 これがいわゆる〈お子様体温〉というやつか。気温の落ち込む朝方にはちょうどいい温かさだ。俺はジタバタと暴れ回る彼女の抗議の声を聞きながら、再び夢の世界へと旅立っていった。
 数時間後、ようやく目を覚ました俺の腕の中では、幼女が頬を涙で濡らしたまま寝息を立てていた。起きてからも、彼女は凄まじく機嫌が悪かった。


「いい加減、機嫌直せよ」

「だって、殿方の腕に抱かれたことなんて、今まで無かったのに。二日連続で、そんな神官にあるまじき朝の目覚めを迎えるだなんて。恥ずかしい姿もたくさん見られてしまったし、こんなにも汚れてしまったらもう、神官なんて務まらないわ……」

「いやいや、この程度で〈汚れた〉とか、ないから。だって、どれもこれも不可抗力や事故だろうが。お前、そりゃあ考え過ぎってやつだよ」

「お前って何よ!? それに、昨日まではそこそこ丁寧な口調だったのに!」


 ルシアは大層おかんむりだった。しかしながら俺だって、しばらく一緒に生活することになるだろう相手にいつまでも〈外様向け〉の態度を続けるのは、正直息苦しいのだ。そろそろ友達など〈身内向け〉の態度に切り替えたって文句はないだろう。――そう主張すると、ルシアは不機嫌ながらも嬉しそうに相好を崩して、こそばゆそうに「だったら仕方ないわね」と言った。どうやら〈今まで大切にされすぎだった〉というだけあって、友人などの〈対等な関係〉の存在が彼女にはいなかったらしい。頬を朱に染め、口の端を少しニヤけさせる彼女を、俺はうっかり可愛いと思った。

 軽めの朝食をとったのだが、その最中、ルシアは心なしか落ち着きがなかった。彼女にとって〈こちらの世界〉は〈この部屋の中だけ〉だったのが、本日一気に広がろうとしているのだ。楽しみで仕方がないのだろう。〈お出かけするという事実〉は逃げないのだから、慌てて食べなくてもいいと窘めると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。しかし、それでもやはりものを口に運ぶ速度が若干早かった。
 食後、ルシアは〈髪を束ねたい〉と所望した。だが俺には、彼女がこちらの世界に来ていたときにしていたような編み込みなんて出来ない。だから、百均に自転車を走らせてヘアゴムとヘアブラシを適当に見繕った。ルシアはそれらを受け取ると、ヘアゴムに何やら魔法を施した。
 何の魔法かと尋ねると〈尖った耳を|人間《ヒューマン》と同じような耳に見せるための魔法〉とのことだった。このヘアゴムを体のどこかしらに身に着けている間は、幻術が働いて耳の形をごまかせるらしい。彼女は長い髪を横に流して三つ編みをすると、三つ編みの終点をそのゴムで括って留めた。すると説明通り、耳が人間のそれのように見えるようになった。俺は初めて魔法を目にしたことに、少なからず興奮を覚えた。

 自分の身支度が整うと、ルシアがあからさまにそわそわとし始めた。準備に手間取っている俺を急かすように見つめては、ちらちらと玄関に視線を投げて〈早くそこから出ていきたい〉と態度で示している。――ああもう、本当に可愛いな! この先、どこにでも連れてってやりたくなるじゃないか! しかしこのあと、ちょっとした悲劇が起こった。
 ルシアを連れて玄関のドアを開いたところで、大家さんとばったり出くわしたのだ。ワイドショー大好きおばはんは、旅行用のスーツケースを片手に金髪の幼女と連れ立って部屋から出てきた俺を見て、あからさまに〈事件の香り!?〉という表情を浮かべた。――あ、俺の人生、詰んだ。
 そう思って俺が顔を青ざめさせていると、ルシアが大家さんに駆け寄り何やら言葉を投げかけた。すると、おばはんの表情は〈事件の香り!?〉のままではあったが、その種類が驚愕からニヤニヤへと変化した。


「あらあ、ルシアちゃん。そんな大荷物で、どうしたの? 今日はママのところに行く日なの?」

「いいえ、これは帰りを楽にするためよ。今日はたくさん洋服を買ってくれるんですって」

「あらあらまあ、良かったわねえ。気をつけていってくるのよ~!」


 去っていくおばはんの背中を、俺は額にじっとりと脂汗を浮かせて見つめていた。おばはんが完全にいなくなると、俺は声を潜めてルシアに尋ねた。


「お前、大家に何したんだよ」

「彼女の持つ〈|タクロー《あなた》に対する記憶〉を、ちょっと書き換えたのよ。寂しい三十代独身から、寂しい三十代バツイチに。彼女の中では今、私はあなたの一人娘ということになっているわ」

「ちょっと待てよ、何でバツイチ!?」

「だって〈誰それから預かった〉だとボロが出そうというか、むしろ言い訳じみていて説得力が無いでしょう? 余計に怪しまれるじゃない」


 ルシアは〈そのくらい分かるでしょう?〉と言いたげな表情で、呆れ気味にハンと鼻を鳴らした。――いや、うん。たしかに俺は、三歳くらいの子供がいてもおかしくない年齢ですけれどもね? でも、勝手にバツイチにされるのはね? 少々、心がやさぐれるって言いますかね? しかもあなた、凄く可愛らしいでしょう? てことは、俺、〈折角射止めた美人外国妻に見捨てられた男〉っていう設定を盛られたってことですよね? 余計に痛々しくないですか、それ……。
 俺はしょんぼりとうなだれると、スーツケースのキャスターのカラカラという音を、侘びしげにアパートの廊下に響かせたのだった。

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