バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

出会い

       一   フィットネスクラブ
 ここは滋賀県の湖北に位置する長浜市木之本町。人口はおよそ一万人の比較的小さな町だ。滋賀県は琵琶湖を中心にして、主に「湖東」「湖西」「湖南」「湖北」この四つの地域に分類されている。そして長浜市は琵琶湖の北部にあるので「湖北地域」に入る。中でも木之本町は長浜市内より、さらに二十キロほど北になり冬は降雪量の多い町だ。

 この町にはJR西日本の北陸本線があり、木之本町にも駅がある。駅名も町名と同じ「木之本駅」と言う。そんな駅前に一軒のパチンコ店が建っていて年中無休で営業をしているが、田舎の小さな店なのでパチンコ台の設置台数はスロットマシンを含めても、百台ほどの小さい店だ。店の名前は「パーラー光」という。この店は姉妹店として隣町の高月町にもあり、こちらの店も木之本店と比べて、さほど変わらない規模の店だ。両店舗とも常連客が付いているので、それなりに賑わっていた。  
 店の規模と同じように従業員も少ないが、その中に一人の若い女性が勤めていた。
名前は岡田 久美(おかだ くみ)年齢は二十二歳になったばかりだ。髪はショートカットで顔はやや卵型、二重瞼で整った顔立ちをした美しい女性だった。彼女は高校を卒業して、すぐにこの店で働き始めた。主に高月店で働いているが、他の従業員の休暇の関係で、週に一、二度は木之本店に行くこともあった。

 時は平成十八年の三月、冬に積もった雪も融けて、除雪された固まりが道の端に残っている程度だ。そんな春が好きという久美なのだが、今年の春は少し憂鬱だった。実は小さな悩みがあったのだ。いや決して小さくはない。それは何かというと、体重が増えてきたことだった。若い女性にとって体重の増減は、一喜一憂するほどの大切な問題なのだ。仕事は早番と遅番があり、遅番の日は夜中の零時に帰宅し、寝る前に軽くではあるが飲食をするので、それが体重の増加に繋がっているのかもしれない。このままでは、ますます太る可能性が高いので色々と考えた末、近くのフィットネスクラブへ行って、汗を流すことに決めた。

 公休日にクラブへ行くと、受付で説明を聞いて会員登録を済ませた。入会金と月謝を払えば、あとは無料で毎日来ても構わないとのことだった。服装は当然のことだが、動きやすいTシャツと短パンが良いだろうと言われた。シャワーも備え付けてあるので、終わったら入って汗を流せるようになっている。バスタオルもあるが選択済みとはいえ、使い回しなので「嫌なら家から持ってきてください」と言われた。そこで明日改めて服装や持ち物を準備して、来ることにした。

 翌日の午前中に再度クラブを訪れると、受付の女性が「店内に男性と女性のスタッフが一名ずついるので、分からないことは聞いてください」と言って、女性のほうのスタッフを紹介してくれた。久美も若い女性なので、スタッフも女性のほうが良いと思ったのだろう。その女性は器具の使用方法の説明や、最初は何から始めたら良いなど、親切に指導をしてくれた。初めての経験なので分からないことばかりなのは当然だ。器具の使用方法も分からなければ、何から始めれば良いのかも分からなかった久美にとっては、とてもありがたかった。初日なので無理をせずに、少し汗を掻く程度の軽いトレーニングを一時間ばかりして、その日は帰った。クラブの定休日が月曜日なので、当分の間は月曜を除いて週に六日間、びっしりと行く予定をしている。

 翌日もクラブへ行き、トレーニングを始めた。昨日は周りを見る余裕もなく気付かなかったが、今日は少し慣れてきたのか周囲を見ることができた。それと受付の女性が言っていた男性スタッフにも気がついた。まだ話したことはないが、顔を見ると笑顔がさわやかな好青年に見えた。彼は何人かの女性達に囲まれて談笑していた。年齢は分からないが、二十歳代の半ばくらいか?身長は高くて百八十センチ近くあるだろう。髪は短髪で、いかにもトレーニングをしていると見受けられる、がっしりとした体型をしていた。

 クラブを終えて家に帰ると、妹の亜美(あみ)が話し掛けてきた。亜美は私より三つ年下の十九歳だが、四月に二十歳になる。肩付近まで伸ばしたセミロングの髪に、軽くパーマを掛けていた。顔は、やや卵型でクリっとした目は二重瞼だった。その顔を横から見ると私に似ていた。
「お姉ちゃん、今日は帰りが遅かったのね。店で何かあったの?」
「店のほうは何もなかったけど、帰りにフィットネスクラブに寄ってきたから遅くなったのよ」
「あら、突然そんな所へ行くなんてどうしてなの?」
「最近少し体重が増えてきたの。だから運動をして減らそうと思って、行くことにしたの」
「そうだったの、それで帰りが遅くなったのね」
「ええ、でも今日から初めたばかりなのよ」
「じゃあ効果が出るのはいつ頃かしら?」
「そうね、一か月くらい先かしら?」
「うまく減っていくといいわね」
 
 そんな話をしていると、母がキッチンから二人に声を掛けた。
「二人ともそろそろ晩御飯にするから、久美はご飯をよそって。亜美はお父さんを呼んできてね」
「は~い」
 二人は同時に返事をして、それぞれ言われたとおりに動いた。間もなく父がやってきて、四人とも揃ったので食事を始めた。父の名は、博(ひろし)という。母の名は幸子(さちこ)だ。父の仕事は木之本町の駅前と、隣町の高月町でパチンコ店を経営している。小さな会社ではあるが、一応社長の肩書を持っていた。そう、久美が働いている店は父が経営しているのだ。そして妹も同じく父の店で働いていて、亜美は木之本店、久美は主に高月店に勤務している。高月店は車で行かないと不便な所なので、車に乗っている久美が行き、まだ車を持っていない亜美は家から近い木之本店に行っているのだ。母はほとんど家にいて、家事全般をこなしているので父の仕事にはタッチしていない。
 
 食事を終えて後片付けをしたあと、部屋へ戻った久美は今日クラブで見たスタッフの男性を思い出していた。彼の名字が「林」というのだけは聞いて知っていた。そんな彼の笑顔が頭の中にインプットされたのだ。まだ話したことはないが(また機会があれば一度話せたら)と、思っていた。特に一目惚れをしたわけではないが、今まで生きてきた中では、そう何度もあるようなことではなかった。明日からも週に六日間は行く予定なので、またその内に話す機会もあるだろうと思った。
      
         二   会話
 フィットネスクラブへ行くようになってから数週間が過ぎた。そしてその効果が表れ始めたのか、体重計の数字も少しずつではあるが、少なくなってきた。そして好青年の林はというと、相変わらず他のお客さんと談笑しながら指導をしていた。私は最初に紹介されたスタッフの女性とトレーニングのことなどを話すが、彼とはまだ話す機会がなかった。
 
 それからまた数日が過ぎたある日、いつものようにクラブへ行くと女性スタッフの姿が見えなかった。受付で聞くと「今日は体調が悪くて休んでいる」とのことだった。それで「何か聞きたいことがあれば、男性スタッフに聞いてください」と言われた。そう言われても特に聞かなければならないというようなこともなく、いつものように順番にメニューをこなしていくだけだ。そして三十分ばかり過ぎた頃、目の前に人影を感じた。見ると林が立っていて話し掛けてきた。
「こんにちは、今日はスタッフの西野が急に休んでしまって、すみませんでした」
 久美は突然のことに驚いて「いいえ、構いませんわ」と、それだけ言うのがやっとだった。彼は続けて
「何か聞きたいことがあれば、いつでも声を掛けてください」と、笑顔でそう言って立ち去った。
 彼に初めて話し掛けられて、心臓の高まりが治まらなかった。顔も赤くなったかもしれない。わずかな会話ではあったが、目の前で彼の笑顔が見られたので少し嬉しかった。その日を境にクラブで彼と挨拶を交わすようになった。相変わらず話す機会はなかったが、挨拶だけでも一歩進展したような気になり心が弾んだ。
 
 そんな日がしばらく続いたある日のこと、久美がトレーニングの合間に休憩室で飲み物を飲んでいると、彼がペットボトルを手に持ち入ってきた。テーブルが四つばかりの、そう広くもない部屋なので自然と目が合ってしまう。そんな彼は当然のように、私が座っている所へやってきて、話し掛けてきた。
「お疲れ様です。え~と、確か岡田さんでしたね」
「はい、そうです」
「僕は林 正人(はやし まさと)といいます。よろしく」
「岡田 久美です。こちらこそよろしくお願いします」
「疲れましたか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか、無理をしないでゆっくりと進めてください」
「はい、こちらへ来るようになって、もう一か月近くなりますので慣れましたわ」
「もうそんなになりますか。こうやって話すのは初めてですね」
「ええ、挨拶程度に話したことはありましたけど、こうやって話すのは初めてです。今後ともよろしくお願いします」
「僕のほうこそよろしく。ところで岡田さんはお勤めしておられるのですか?」
「パーラー光というパチンコ店で働いています」
「そうでしたか、ここへ来られる時間が午前中の日もあれば、夕方に来られる日もあるので、何をしておられるのかと思っていました」
「パチンコ店というのは約十三時間の営業なので、早番と遅番の二交代勤務になっています。それで私がこちらへ伺う時間も仕事に合わせていますので、来る時間が変わりますの」
「それは大変ですね」
「いいえ、働き始めてもう四年ばかり経ちますので、すっかり慣れましたわ。林さんはこちらにいつからお勤めですか?」
「僕はまだ短くて、一年余りなんですよ。大学を卒業した後、ある会社へ就職したのですが、人間関係がうまくいかずに二年ほどで辞めまして、その後こちらでお世話になっています」
「そうですか、それでここの仕事は楽しいですか?」
「楽しいということはありませんが、少なくとも会社勤めをしていた時のような、人間関係の煩わしさはありませんので、辛かったり苦しかったりせずに働けます」
「じゃあこれからも、こちらを辞めずにお勤めされるのですね?」
「今のところはそう思っています」
「だったら、またこうやって話もできますわね」
「ええ、また話し相手になってください」
「それじゃ仕事に行く時間なので、これで失礼します」
 久美は林にそう言うと、仕方なく席を立った。仕事に向かう車中で彼との会話を思い出しながら、久美の顔は自然と笑みがこぼれていた。

      三   それぞれの想い
 フィットネスクラブに勤める林の家は、長浜市余呉町(よごちょう)の、中の郷(なかのごう)という村にあり、余呉町の中心部だ。一軒ずつではあるが、銀行やガソリンスタンドもある。家族は両親と兄の四人暮らしだ。兄は来年結婚をする予定で、当分の間は夫婦二人で暮らしたいとのことで、アパートを借りるそうだ。夜の七時に仕事を終えた林は家に帰り、今日の出来事を思い出していた。そう彼女、岡田さんと初めて話したことを。彼女がクラブへ来てから約一か月、定休日以外は毎日のように顔を見ていたが、担当者が違うので話すことはなかった。しかし今日は自分の休憩時間に、たまたま彼女も休憩していたので部屋で一緒になり、話すことができた。クラブ内で彼女を見ている内に好感を持ち、話をしたいと思っていたが、そんなチャンスもなく日が過ぎていったのだった。それが今日初めて話すことができて、さらに別れ間際には「また話もできますわね」と言ってくれたので、それが本当なら嬉しい言葉だと思った。しかしその言葉は社交辞令かもしれないので、素直に喜んでもいられない。それにクラブの中で話そうにも、今日のように自分の休憩時間に彼女も休憩しないと話すことはできない。トレーニング中に話し掛けて、手を止めさせるわけにもいかないからだ。
 
 一週間ほどが過ぎ、相変わらず挨拶しかしていない林は、何とかしてゆっくりと話ができないかと考えていた。何か口実を付けて外で会えるように誘ってみようかとも思ったが、断られてもつまらないし、お互いの仕事を考えるとそれは難しいだろうとも思った。よくよく考えた末、自分の休みの日に彼女が勤めているというパチンコ店に、行ってみることに決めた。行ったからといって会える保証もないが、何か行動を起こさなければ進展しないと思った。
 
 林はクラブの定休日に、木之本の駅前にあるパーラー光へと出向いた。ドアを開けて中へ入り、店内をひと回りするとカウンターに一人の若い女性がいた。(この女性は久美の妹の亜美だが、林はそれを知らない)しかし肝心の彼女の姿は見えなかった。どうしたものかと思案をしていたら、カウンターにいた女性が近づいて来て「どうされましたか?」と聞いてきた。ぼんやりして立っていた、初めて見る客が気になったのだろう。これ幸い(さいわい)と、岡田さんのことを聞いた。
「実は僕の知り合いが、このお店に勤めていると聞いたものですから寄ってみたのですけど、おられないようなので休みなのかなと思いまして」
「その方のお名前はご存知ですか?」
「岡田久美さんといいます」
「岡田久美ですか、その人ならいますけど、この店じゃなくて高月店にいます」
 林の言葉に少し驚きながらも、敢えて自分が久美の妹だと言わなかった。
「えっ、そうでしたか、てっきりここにいるとばかり思いこんでいましたので」
「よろしければ高月店へ行かれたら、会えると思いますが」
「そうですか、じゃあそうします。どうもありがとうございました」
 そう言うと店を出た。
 
 亜美はその男性が誰なのか気になった。姉の知り合いと言っていたが、どういう知り合いなのか?今日、家に帰ったら聞いてみようと思った。
 
 林は木之本店を後にすると車に乗り、高月へと向かった。店に着いて中へ入ると、すぐに彼女の姿が見えた。近くへ行き「岡田さん」と声を掛けると、彼女はびっくりしたように目を丸くして「あら、林さん」と言っただけで、何やら困惑しているようだったが、黙っている彼女に話し掛けた。
「今日は近くに用事があって、この近くを通り掛かったものですから、あなたの店を思い出して寄ってみました」
 そう言ったが、木之本店で久美のことを聞いた若い女性が、彼女の妹だったとは知らないので、彼が先に木之本店へ行ったことは今日中に妹の口から姉に伝わり、高月店へ行った理由が嘘だとばれるのは、時間の問題だった。
 林は話を続けた。
「帰るにはまだ早いので、しばらく遊んでいこうと思いますが、パチンコはしたことがないので、教えていただけますか?」
 久美はまだ何か頭の中を整理しているかのように、少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも「はい」と返事をしてから林に聞いた。
「初めてだったら少ない金額で遊べて、出玉は少ないけど当たりやすい台がいいと思うのですけど、どうでしょうか?」
「僕は全く分からないので任せます」
 そこで彼女は林を促して、パチンコ台の前に連れて行った。
「当たるかどうかは分からないけど、この台はどうかしら?」
「はい、これでいいです」、
 了解すると、彼女はお金の入れ方や玉の打ち方など、遊戯方法の説明を丁寧に教えてくれた。そして「分からないことがあったら、いつでも呼んでください」と言って、台の上に付いている呼び出しボタンを押すように教えてくれた。彼女が去ると、教えてもらったとおりに打ち始めた。
 
 カウンターの中へ戻った久美は、まだ頭の中が整理できずにいた。突然この店に現れた彼に対して、驚いた余韻がまだ覚めず、心臓の高まりが治まらなかった。「通り掛かったついでに寄った」と言っていたが、初めてパチンコをする彼が、パチンコをしたくて来た訳でないことは久美にも分かる。もしかしたら私がいることを知っていたので、私の顔を見るために来たのではないだろうか?そう思ったが定かではなかった。いずれにしてもこうやって会えたことは、とても嬉しく感じた。その後、遠目で彼の姿を見たり、時には近くへ行き声を掛けたりしていたが、彼は三時間ほど遊んだ結果、ビギナーズラックだったのか大当たりを何度も引き、台を勧めてくれた彼女にお礼を言って、笑顔で帰っていった。
 
 林は店を出て家に帰る道中、久美のことを考えていた。彼女の勤める店に行ったのは会えたことにより良かったのだが、やはり仕事中の彼女とゆっくり話すことは、できなかったなと思った。ゆっくりと話すには、外で会う以外になさそうだとの結論に達した。

        四   失踪
 平成十八年のゴールデンウィークが終わった五月初旬、七日の日に岡田家では、次女の亜美が一泊二日の旅行に行くと家族に伝えた。以前より一人旅が好きで、特に行き先を決めずに気の向くまま電車に乗り、飛び込みで民宿などに泊まって帰って来るのだった。
 
 三日後の十日、亜美は自分の公休日を利用して朝の十時ごろ家を出た。駅で電車の時間表を見ると、一番早く乗れるのが下りの普通電車、富山行きだったのでそれに乗った。降りる駅も決めていなかったが、車内から風景を見て気に入った所があれば、そこで降りようと考えていた。
 
 かれこれ一時間半ほども乗っていただろうか、ある駅に着いた。そこは石川県の粟津駅だった。粟津駅は石川県小松市符津町にあって、近くには温泉も多い。粟津の手前には芦原温泉や加賀温泉もあり、北陸では有名な温泉郷となっている。この駅で降りた理由は特にないが、芦原や加賀と比べて少し知名度が低く、飛び込みでも泊まれる宿が見つかりやすいかもと思ったからだ。
 
 駅を出て周りを見ながら、ぶらぶらと歩き始めた亜美は腕時計を見ると、十二時前になっていた。お腹も空いていたので昼食を摂ろうと思い、店を探したが見える所には無かった。もうしばらく歩くと喫茶店があったので、そこへ入り軽く昼食を摂った。
 店を出て街並みを見ながら歩いていると大きな川があり、そこに架かっている橋へとやってきた。その川はここ数日に降った雨で、濁流とまでは言えないまでも茶色く濁った水が、かなりの量で流れていた。
 
 北陸は昔からの言い伝えで「弁当忘れても傘を忘れるな」と言われるくらい雨の日が多い所だ。そんな川の流れを橋の上から、ぼんやりと見ている亜美に突然の強風が襲った。思わずよろめいた体は、腰付近までの比較的低い橋の欄干を越えて、川へと落下したのだった。そしてそのまま気を失ってしまった。
 その様子をちょうど通り掛かった一人の若い男性が見ていた。急いで落ちた付近へ行き、下を見ると幸いにも水の流れが少ない所に落ちたようで、流されてはいなかった。あの場所なら助けられると思い、川の斜面を降りると慎重に近づいて安全を確認してから、持っている携帯で救急車を呼んだ。
 ほどなく到着した救急隊員数名が、彼女を道へ助け上げて診察を行った。気を失っていたが、命には別状ないようだ。ただ頭部から少し血が流れているので、落ちた時に頭を打った可能性が高く、すぐに病院へ行って精密検査をしてもらったほうが良いとのことだった。そして第一発見者の男性も救急車に同乗して、病院まで付き添ってほしいと言われ、その男性も了承した。
 
 救急車はサイレンを鳴らしながら走り、十分ほどで病院に着くと用意されていたストレッチャーで、病院内へと運ばれて行った。検査が終わるまで二時間近く掛かっただろうか、彼女を助けた男性は座って待ち続けていた。しばらくすると検査をしたドクターから呼び出しがあり、話を聞くと「頭は切れていたが、脳波などは特に問題もなく、後遺症の心配もないだろう」と言われた。また他の部分も多少の打撲はあるが、骨折はしていないそうだ。幸いにも落ちた所は水草が多く繁っていたので、それがクッションの役割をしてくれたのではないかとの見方だった。しかし念のために「数日間は入院をして様子をみます」との話だったので、男性は連絡先をナースに告げて、ひとまず家に帰ることにした。
 
 一方、久美の家では夜になっても亜美からの連絡がなく、こちらから電話を何回掛けても繋がらなかったので、どうしたのだろうと心配をしていた。行き先も分からないし、宿泊先も分からない。いつも泊まりで行くときは、決まってその日の内に連絡の電話があるのに、今日はどうしたのだろうと思い、そこで両親とも相談をして、もし明日の朝までに連絡がつかないようなら、警察に届けることに決めた。あくる日もう一度電話を掛けたが、やはり繋がらず父親と一緒に警察に向かった。
 
 警察署に入り、事情を説明すると(行方不明人届け)という書類を書いてくれとのことで、亜美の名前や特徴などを書いたが、その日に着ていった服装が分からず、書けなかった。届けを渡したら、担当の署員から「この届けをパソコンで全国の警察署に配布して、もし見つかれば連絡をしますから」と言われ、警察署をあとにした。   
      
       五   記憶
 粟津の温泉旅館(湯の宿、粟津亭)では、佐々木 健太(ささき けんた)が両親に、今日の出来事を話していた。健太は両親が経営する旅館の一人息子で、年齢は二十六歳だ。憎めない顔をしていて、いかにも優しそうに見える。身長はそう高くなく、百七十センチで細身の体つきをしていた。
「今日の昼過ぎのことだけど、符津川に架かっている小松橋から若い女性が落ちてね、見に行ったら川べりに倒れていたので、僕が救急車を呼んで病院にも一緒に行ってきたよ」
 健太の話に両親は耳を傾けながら、母が聞いた。
「その子は助かったのかい?」
「落ちた時に頭を打ったようで、少し切れて血が出ていたけど、脳波の検査では異常なしとの結果だったので、心配ないと思うよ」
「そうかい、それは良かったね」
「僕が帰る時はまだ眠っていたから話せなかったけど、明日もう一度病院へ様子を見に行くよ」
「そうするといいよ。それじゃ助けついでに、家まで帰れるようにしてあげるといいわ」
「僕もそう思っているんだ。それにあの子の家族も心配していると思うから、早く連絡先を聞かないとね。あの子はバッグか何かを持っていたと思うけど、川に流されたのか何も無くて、本人に聞かない限り名前も住所も分からないから」
「それは困ったね。それじゃ明日は朝早く病院へ行って、その子に聞けばどうだい?」
「そうするつもりだよ」
 両親との会話が終わると、床についた。医者からは彼女に何かあれば連絡をすると言われていたが、それもなく朝を迎えた。

 翌日、朝食を済ませて、早々に病院へと向かった。そして彼女の病室に入ると、昨日の担当医師とナースが彼女に話し掛けていた。医師は入って来た健太に気付くと、肩に手をやり部屋から廊下へ連れ出した。
「え~と、佐々木さんでしたね」
「そうです」
「私は彼女を担当している医師の大田といいます。実は昨日助けていただいた女性のことですが、先ほど病室に行くと目を覚ましていたので話し掛けたのですが、どうも様子がおかしくて名前や住所を聞いても分からないようなのです。つまり記憶を失っているのではないかと思われます」
「それは本当ですか?」
「今のところ、そう判断しなければなりません」
「それじゃどこの誰かも分からないということですね」
「そうです、本人の記憶が戻らない限りはどうにもなりません」
「それで失った記憶は戻るのでしょうか?」
「う~ん、はっきり言って分からないとしか言えません。原因は橋から落ちた時に頭を打ったことでしょうけど、その時のショックで一時的に記憶を失っているのか、または脳に異常をきたしてしまい、一生過去の記憶が戻らないという可能性もあります。もう一度、脳の検査はしますが」
 そう聞いた健太は絶句してしまった。もし記憶が戻らなければ、これから彼女はどうなるのだろうか。
「とにかく、もうしばらく様子をみて今後の対応はそれから考えましょう」
 大田は心を見透かしたようにそう言った。
医師でもない健太にはどうすることもできないので、今日のところはこのまま帰ることにした。家に戻ると両親にそのことを話したが、だからといって何か解決するわけでもなかった。

 彼女のことを時折思い出しながらの日々は過ぎ、一週間が経ったころ病院から連絡があった。「話があるから来てほしい」とのことだった。それを母に言ってから病院へ向かい、彼女の部屋へ入った。中にはナースが一人いて、大田先生からの呼び出しの件を言うと、待っている部屋へと案内してくれた。
「先生、こんにちは」
「佐々木さん、今日はわざわざ来ていただき、ありがとうございます。正直言いましてあの子を知っているのは私たち病院関係者か、あなたしかいません。それで、あなたに協力をお願いしたいことがあります。これはあくまでお願いですので、無理だったら構いませんので言ってください」
「分かりました」
「じゃあ本題に入ります。最初に先日話していた彼女の記憶の件ですが、あれから何度か検査を行いましたが、見える範囲には特にこれといった異常は見つかりませんでした。しかし今なお記憶は戻っていません。この病院でできる検査は、すべてしましたので、あとは専門の医師に掛かって、診てもらうしかありません。ただ家族が分からない以上、専門医に診てもらうのは費用の問題もありますので、現状は難しいでしょう。この病院の治療費も頂けないかもしれません。それに診てもらっても、治るという保証はどこにもありません。体のほうはもうどこも悪い所はなく、普通に動いても問題ありませんので、いつ退院しても大丈夫です。しかし記憶を失った彼女を、病院から放り出すわけにもいきません。それでどうしたものかと、私なりに色々と考えてみました。最初は警察に届けることですが、それは病院からします。それでも彼女の家や家族が分からなければ、どうするのかということです」
「そうですね、病院にも入退院に関しての決まりなどあるでしょうから、仕方ないですね」
「ええそうです。もうしばらくは構いませんけど、何か月もというわけにはいかないのです。それで私としましては、彼女を引き取っていただける所を探さなければなりません。そんな公的機関もありますので、あなたもそこを探していただけたらと思いまして、今日はここへ来ていただきました」
「そうですか、分かりました。僕に出来る限りの協力はさせていただきます。しばらく時間をください」
「協力していただけますか、ありがとうございます。それまでに彼女の実家が見つかれば、問題は解決しますので」
「記憶が戻るか実家が見つかるのが一番良いのですが、最悪の状況も考えてのことですね」
「そういうことです。一応、一週間を目途にしたいと思っています」
       
        六   亜美の行き先
 翌日、大田医師の指示を受けた病院関係者が、彼女のデータを持ち警察へ赴いた。データには身長や体重はもちろんのこと、血液型も書いた。それとその時に着ていた服を写真に撮り、データに添付した。最後に彼女の正面から顔写真を撮ったが、頭の怪我を治療したために、髪を切ったのと、まだ頭と顔の一部は包帯が巻かれていたので、パソコンを使って包帯を消して髪を描いた。髪型が分からないので、適当に描いたのは仕方がなかった。しかしまだ顔の腫れが少し残っているのだけは、修正できなかった。
 そのデータは全国の警察に送られたが、数日経過しても見つかったという連絡はなかった。もちろん亜美の家族が届け出た警察署にも、そのデータは送られていたのだが、それを見た係の署員が彼女の顔写真を見て、亜美の家族が提出した顔写真と似ていないので、同一人物とは気付かなかったようだ。写真が似ていなかったというのは、第一に病院で撮ったものは顔が少々腫れていたことと、髪型がはっきり分からなかったこと。そして家族が提出した写真は、亜美が高校生の時の写真だったので、まだ幼い顔で髪型も違っていたのだった。残念ながら最近撮った写真が一枚も無かったことが、災いとなってしまった。  
 
 一週間が経ち、大田医師と佐々木は再び病院で話をした。
「佐々木さん、先日は大変なお願いをしてすみませんでした」
「いえ、それは構いません。それよりまだ警察から連絡がないところをみると、彼女の実家は見つかっていないのですね」
「残念ながらそのとおりです。それに記憶のほうも一向に戻りません」
「そうですか、それは困りましたね」
「正直言いまして、どうしたものかと悩んでいます」
「先生、実はこの前に話させていただいたことを、家に帰って両親にも話しました。そして改めて昨夜も話したのですが、もし彼女の実家や行き先が見つからなかったら、僕の家に来てもらったらどうだろうという話になりました。僕の家は旅館をしているので、空いた部屋はいくらでもありますし、体さえ問題なければ働いてもらうこともできます。先生はこの案をどう思われますか?」
「おお、それは大変ありがたいことです。佐々木さんの家なら安心ですよ」
「先生さえ賛成していただけるのでしたら、そうしたいと思います。もちろん彼女が嫌がらなければの話ですけど」
「じゃ、今から話してみようか」
「分かりました」
 
 二人は病室へ行き、起きていた彼女に大田が話し掛けた。
「気分はどうですか?」
「大丈夫です」
「それは良かった。じゃあ今から少し話がありますので、聞いてください?」
「はい、何でしょうか?」
「まず彼を紹介しておきます。名前は佐々木さんといいます。彼は橋から落ちたあなたを、最初に見つけて助けていただいた人です」
「そうでしたか、ありがとうございました。私、何も覚えていなくてごめんなさい」
 そう言って佐々木に頭を下げた。
「それであなたのことですが、記憶を失っていることを除けば、もう体のどこも悪いところはありません。それでいつまでもこうやって病院で寝ていては、却って体が弱ってしまうので、若いあなたには少しでも早く、元の体力に戻ってほしいと思っています。そこで彼に相談したところ、両親が旅館を経営しているから、そこで働いてもらえないかという話になりました。もちろん住み込みですが、どうされますか?」
「先生、私の記憶が戻らないのでしたら、私は誰も頼る人がいません。こうやって入院している間、私なりに色々と考えましたが、どうしていいのかも分かりませんでした。今のお話、私にはとてもありがたいことなのですね」
「私はそう思います。佐々木さんの人柄をみても、信用できる人です」
「記憶を失って頼る人もいない私に、考える余裕などいただけません。藁にもすがらなければならない立場なので、先生がそう言われるのでしたら、そして佐々木さんが受け入れてくださるのでしたら、そうしたいと思います」
「そうですか、それは良かった。遠慮せず彼の言葉に甘えてください」
「分かりました。佐々木さん、ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします」
「いいえ、迷惑だなんてそんなことは気にしないで、安心して来てください」
「ありがとうございます。それでいつからでしょうか?」
「そうだね、いつがいいかな・・・もう一度彼と相談して決めるよ」
 こうして彼女の行き先が決まった。

       七   相談
 岡田家では亜美がいなくなって、もう半月以上が過ぎた。家族三人ともが心配という言葉を通り越して、彼女の死さえ頭の隅に浮かんでいた。何度も警察に足を運んだが、これといった情報はなかった。自分たちで探そうにも、行き先に全く心当たりがない。色々と考えた久美は、フイットネスクラブの林に相談してみようと思った。相談したところで亜美が見つかることはないが、誰かに話すことによって、少しでも自分の気持ちが落ち着くのであれば、彼に話すのが一番良いと思った。しばらく休んでいたクラブだが、久しぶりに顔を出すと彼がいたので、すぐに近づき声を掛けた。
「こんにちは」
「あ、岡田さん久しぶりですね。しばらく顔が見えなかったけど、何かありましたか?」
「実は相談したいことがあるので、聞いてもらえますか?」
 林は二週間以上も姿を見せない久美を(どうしたのだろう?)と心配していた。そして次の休日に彼女の働いている、高月店へ行ってみようと考えていたところだったのだ。
「分かりました。ちょうど今から休憩しますので、そこの休憩室でどうですか?」
「はい、そうしてください」
 二人は誰もいない休憩室へ行くと、久美が話を切り出した。
「前に私が働いている高月のお店に、一度遊びに来てくれたことがあったでしょう」
「そうでしたね」
「あの日、高月店に来る前に木之本店にも行ったでしょう」
「ははは、ばれましたか」
「それはいいのですけど。その時に店で私のことを尋ねた、若い女性を覚えていますか」
「もちろん覚えていますよ。その子がなにか?」
「その子は私の妹なのです」
「え、そうだったのですか。それは驚いたな」
「あの日、家に帰った私は妹から話を聞いて、その人はあなたではないかと思ったわけです」
「そうだったのですか、だったら正直に言います。あの日は仕事が休みで、岡田さんの顔を見たくなって会いに行こうと思い、出掛けました。僕はてっきり木之本店だと思っていたので行ったのですが、まさか高月店だとは思いませんでした。それでその女性、あなたの妹さんに聞いて高月店へ行ったという訳です」
「じゃあ私に会うために、わざわざ来てくれたのですね」
「用事があって高月へ来ましたと言ったのは嘘で、あなたに会いたくて行きました。すみません、迷惑でしたか?」
「いいえ、そんな迷惑だなんて。遊びに来ていただいたら、誰でも大歓迎ですわ。それに私も林さんとは外で話せたらいいなと思っていましたから」
「そうですか、それは嬉しいな」
「それで話は変わりますけど、先ほどの妹の件で聞いてほしいことがあります」
 久美は妹の失踪の件をすべて話した。彼は時折うなずきながら、最後までだまって話を聞いていた。話し終えると最後に言った。
「こんな話を林さんにしたところで妹が見つかるわけではないけど、誰かに聞いてもらうと、少しでも私の気持ちが楽になるんじゃないかと思って」
「そうだね、僕も今の話を聞いたからといって、何もしてあげられないかもしれないけど、君の気持ちが少しでも落ち着くのなら、いくらでも聞いてあげるよ」
「ありがとう、少し気が楽になりました」
「で、妹さんの手掛かりは全然ないのですか?」
「今のところはありません」
「木之本駅から電車に乗ったことだけは、間違いないのですね?」
「はい、あの子は今迄もそうしていましたから」
「上りに乗ったのか、下りに乗ったのか分かりませんか?」
「それが分からないのです」
「そうですか、じゃあ乗った時間は分かりますか?」
「多分ですけど、朝の十時頃だと思います。ただその時間の電車は上りも下りも、十分くらいの違いで両方あるので、そのどちらに乗ったのか分からないのです」
 林は少し考えてから久美に言った。
「仕事の休みはいつですか?」
「私は毎週、木曜日と金曜日の二日間です」
「そうですか、僕は月曜日なので合いませんね」
「それがどうかしましたか?」
「もし休みが同じだったら、二人で妹さんを探したらどうかと思いまして」
「それじゃあ私、休みを変えてもらいますわ」
「え、そんなことができるのですか?」
「実は私が働いているお店は、父が経営しています。小さなお店ですけど一応は社長の娘ですので、休みの融通は利いてもらえると思います。それに妹を探すという明白な理由もありますので」
「そうだったのですか、それは好都合ですね。だったら是非そうしてもらってください。月曜日に休みを合わせていただけたら、一緒に探しましょう」
「はい、必ずそうしてもらいます。あの、林さんの電話番号を教えてもらえませんか。決まったら連絡しますから」
 久美はそう言って携帯電話の番号を聞き、彼女も彼に番号を教えた。

         八   情報
 久美と林は休日を同じ曜日に合わせて、二人で一緒に亜美を探すことにした。妹が失踪してからすでに三週間が経つが、警察からは相変わらず連絡がない。次の月曜日に二人は木之本駅で待ち合わせて、午前十時に会った。妹が出掛けたと思われる時間に合わせたのだった。二人は駅の中へ入ると電車の時間表を確認した。
「やはり君の言ったとおり、十時十三分に下り電車があって、十時二十二分に上りがあるね」
「だからどっちに乗ったのか分からないの」
「本当は防犯カメラを見たいのだけど、警察官でもない限り見せてもらえないだろうね」
「あの子が何か事件にでも巻き込まれているという、確たる証拠でもない限り、警察もそこまではしてくれないでしょう」
「それで、頼んでおいた写真は持ってきてくれたかな?」
「これです。でも高校生の時なので、今より幼く見えるの」
「僕も一度しか会っていないけど、今は髪型とか化粧で変わっているからね」
「そうなの、だからあの子を知らない人は、同一人物とは思わないかもしれないわ」
「じゃあ、まずはここの駅員さんに聞いてみようか」
「はい」
 二人は切符売り場の駅員さんの所へ行き、亜美の写真を見せて聞いたが、知らないとの返事だった。ただ売り場は自分だけでないので、他の人にも聞いてくるからと言って写真を手に持ち、立ち上がった。そしてすぐに別の駅員と一緒に引き返してきて言った。
「この人に聞いてください」
二人は切符売り場の駅員さんにお礼を言ってから、彼が連れてきた駅員さんに聞いた。
「この子に何か心当たりがあるのでしょうか?」
 その駅員は写真を見ながら言った。
「この子かどうか分からないけど、三週間ほど前だったら今の時間くらいに、ひとりの女の子が切符を買ったのを覚えているよ。その子は切符を買いに来た時に(どこで降りるか分からないのですけど、どうすればよろしいのですか?)と聞いたので覚えていました」
「それでどうお答えになったのですか?」
「それだったらここから近い駅までの切符を買って乗っていただき、降りた駅で精算してください。と言いました」
「その子はどうしましたか?」
「確か途中までの切符を買ったと思いますが、どこまでの切符だったかは覚えていません。ただ下り電車に乗ったのは間違いありません。その時は下りの発車時間が迫っていて、その子は切符を買ったら急いで改札口から構内へ入ったのを見ましたから。もし上り電車なら、そんなに急がなくても乗れますから」
「そうですか、どうもありがとうございました」
 久美は今の話を聞いて、とても貴重な情報だと思った。
「岡田さん、これでひとつ前へ進めましたね」
「そうですね。それで次はどこの駅で降りたのかですね」
「それは分かりませんけど、時刻表で駅名を見ながら考えてみましょうか」
「分かりました。もしよろしければ私の家で話しませんか?」
「え、いいのですか?」
「ここからだと歩いて五分ほどの近くですし、こうやって協力していただいているので、母にも紹介しておきたいのです」
「まだ今日が初めてですよ」
「いいえ、これからもお世話になると思いますし、今日だってさっそく成果がありましたわ」
「じゃあお言葉に甘えまして、そうさせていただきます」
「それじゃあ私の家で、これからの捜索方針を相談しましょう」
 
 駅を出て、まっすぐに久美の家へと向かった。
「ただいま、お母さんいるの?」
 母を呼ぶと、奥から「はいはい、いますよ」と声がしたので、久美は家の奥に向かって少し大きな声で言った。
「お母さん、先日話していたフィットネスクラブの林さんに来てもらったわ」
 それを聞いた母は急いで玄関に出てきて、林に話し掛けた。
「まあまあ、いらっしゃい。林さんのことは久美から聞いています。一緒に娘を探していただけるそうで」
「はい、お役に立てるかどうか分かりませんけど」
「ありがとうございます。さあ上がってください」
 母はそう言うと自分は台所へ向かった。久美は林を連れて応接間に入り、テーブルを挟んで向かい合って座ると、すぐに母がお茶を持って入って来た。先ほど駅員から聞いた情報を母に話すと「そうなの、よく分かったわね」と言って驚いていた。母が部屋を出ていったので林に話し掛けた。
「先ほどの話の続きだけど、これから私たちはどうするのか相談しましょうか」
「その前に妹さん、亜美さんでしたね。亜美さんの降りそうな駅を考えましょうか」
「そうでしたね、じゃあパソコンの時刻表で、木之本駅から下りの駅を順番に追っていきます」
「そうしましょう、でも敦賀駅より手前はないでしょうから、敦賀駅からいきましょうか」
「分かりました。じゃあ最初は南今庄駅ですね」
 そうやって順番に終点の富山駅まで、全部で四十四駅ある駅の中で、亜美の降りそうな所を予想してみた。とはいえ林は亜美の性格や好みを知らないので、まったく予想がつかなかった。それでその殆どは、久美の予想に任せていたのだった。妹のことはよく知っているので、駅やその町の情報をパソコンで見ながら、独り言のように呟いては予測を立てているようだった。そしてすべての駅を調べ終えたが、結局は分からないのだった。
 一泊二日の旅なので時間に余裕があり、電車に乗れば富山県はもちろん、乗り換えればその先でも行けるし、敦賀から小浜線に乗り換えたかもしれないのだ。そうなると駅は途方もない数になるだろう。  
 そこで林が提案した。
「僕の考えですが、これから先は実際に電車に乗って、順番に駅巡りをしませんか?そうすればまた何か手掛かりが掴めるかもしれません。ただお互いに仕事のある身ですから、毎日毎週というわけにはいかないので、月に一~二回くらいでどうでしょうか?」
「ええ、ただこうやって話し合っているだけでは何も進みませんし、林さんさえ良ければそうしていただけますか」
「じゃあそうしましょう。見つかる保証はどこにもありませんけど、僕たちで出来る限りのことだけはしましょう。駅が多いので、かなり日数は掛かりますが」
「そうですね、月に一~二回のペースだと三年、あるいは乗り換えたことも考えると、五年以上掛かるかもしれませんね」
 次回の打ち合わせをしてから、久美の家を後にした。

 駅前のパチンコ店の駐車場に車を停めていた林は、そこまで歩いて行く道中に久美のことを考えていた。今まで自分が彼女に対して感じていた好意が、今は愛情に変わり始めていると思った。そして彼女のためなら何だって協力しようと心に誓った。動機は不純だが月に一度か二度は彼女と会って、一緒に出掛けられることも嬉しく感じた。しかし彼女の妹を探すのは、並大抵のことではないだろう。ひと駅ずつ順番に巡って行くとしても、いつまで掛かるか分からない。行く距離は近いが駅の数と日数を考えると、果てしなく遠い旅になりそうな予感がした。

        九   ひとりの人間
 そのころ粟津の病院では記憶を失った亜美が、かれこれ一か月余りの入院から退院することが決まっていた。数日後の退院日に彼女を引き取るために、健太が自分の妹を連れて病院へやってきた。彼には二十二歳になる妹の(優子)がいて、偶然にも同じような体型をしていたので、洋服など妹の物が着られると思い、それで一緒に来てもらったわけだ。優子は嬉しそうな顔をして自分の洋服を彼女に着せ、顔は持ってきた化粧品で化粧をした。自分に妹ができたようで嬉しいのかもしれない。洋服を着て化粧が終わった亜美は、とても可愛い顔をしていた。年齢は分からないが、二十歳前後だろうか?記憶がないなどとは、とても思えなかったのだった。
 健太は彼女が病院で掛かった費用を、代わりに支払った。彼女はその費用を彼の旅館で働いて、必ず返すと言っていた。それから大田先生とは月に一度、亜美の状態を連絡する約束を交わして別れた。
 
 家に着くと出迎えてくれた両親に彼女を紹介した。両親はある意味病気の彼女を、暖かく迎えてくれた。用意しておいた部屋へ案内した母が、彼女に言った。
「この部屋をあなたの部屋として、使ってちょうだい。ひととおりの物は準備しておいたけど、何かいる物があったら気軽に言ってくれたらいいわ」
「何から何までしていただき、ありがとうございます」
「いいのよ、困ったときはお互いさまだから」
 話していた亜美の目から、一筋の涙が流れていた。見ず知らずの人にこんなにしてもらい、ただただ感謝するばかりだった。そんな佐々木家に受けた恩を、少しでも返さなければならないと思った亜美は、両親に話し掛けた。
「あの~、私ここで働かせてもらえないでしょうか?もちろん、お給料は要りません。病院で払っていただいた費用の代わりとして、働かせてください。ここに泊めていただいて、ご飯だけ食べさせていただけたらそれで充分ですから」
 それを聞いた父が言った。
「今は病み上がりだから、もうしばらく休んで体力が元に戻ったら働いてもらおうかな。そのほうが気も紛れるだろうしね」
 そこで母が娘の優子に言った。
「しばらくの間、あなたがこの子のお世話をしてあげてね。洋服も一着だけというわけにもいかないし、下着や化粧品もいるから明日にでも、一緒に買い物に行って来るといいわ」
「そうするわ。え~と、呼びたくても名前が分からないわね。兄貴、どうしよう?」
「そうだな、後で相談しようか」
 
 その夜、亜美を含めて家族会議が行われた。まずは名前を決めることになり、父が苗字は佐々木で構わないだろうと言い、誰も反対せずにすんなりと決まった。そして肝心の名前だが、皆がどう決めたらいいのか分からなかった。そこで健太が言った。
「僕がこの子を見つけたので、僕が決めてもいいかな。もちろん、この子がその名前で構わないと言ったらだけど」
 両親も妹も頷いた。
「彼女は過去の記憶を失ったけど、今日から生まれ変わって新しい人生を歩もうとしている。そしてこれからは、幸せな人生を過ごしてほしいと思っているよ。そこで名前だけど、幸せの幸を一字取って、美幸(みゆき)にしたらどうかな?美しく幸せな女性になってほしいという願いを込めて」
 健太の提案に誰もが頷き、反対する者はいなかった。しかし当の本人はどう思うだろうか?健太が彼女に聞いた。
「僕が考えた名前ですけど、どうですか?」
「はい、私はそれで構いません。とても素敵な名前だと思います」
 彼女の言葉で名前が決まった。そして誕生日は今日の六月十五日に決め、年齢は取り敢えず二十歳にした。昭和六十一年六月十五日生まれの二十歳で、名前は佐々木美幸。住所はこの家の所在地である、石川県小松市附洲町○○の△△番地だ。
 こうして今ここに一人の人間、一人の女性が誕生したのだった。しかしそれはあくまでもこの家の中だけであって、家から外へ出るとまだ透明人間のようなものだ。佐々木美幸を証明する物は何ひとつとして無いのだ。健太は色々と考えた結果、明日病院へ行って大田先生に美幸の診断書を書いてもらうことにした。そしてそれを持って町役場へ行き、住民票を作ってもらえないか、聞きに行くことに決めた。
 
 翌日、大田先生に昨夜決めた彼女の名前を言って、診断書を書いてもらった。次に役場へ行き、係の人に診断書を見せて事情を説明した。その人はしばらく考えた後「上司と相談するから少し待ってください」と言い、奥に座っている年配の男性と話していた。そして十分ほど経ってから「お待たせしました」と言いながら戻って来て、佐々木に言った。
「今ほど私の上司と相談しました。その美幸さんという方は記憶を失っておられますが、どこか別の町に住んでいたはずです。そしてその町には彼女の住民票が必ず有ります。つまり一人の人間が二つの住所を持つことになり、一人しかいない人間が二人存在することにもなるわけです。それは本来なら受け付けられない相談ですが、事情が事情ですので無下に断ることもできません。そこで役場としましては、彼女を住民として受け付けることに決めました。一人の人間が生きていく上において、病気になれば保険証も要ります。何かの証明書をもらおうと思えば、住民票も要るでしょう。但し正式にではなく、仮という形にさせてほしいのです。その人の記憶が戻れば、すぐに役場内で抹消します。それでこの用紙に必要事項を記入していただき、提出してください。そのあと保険証を発行します」
「分かりました。お手間を取らせまして、ありがとうございました」
 そうして美幸は、この町の住民として認められたのだった。
 
 それから数日が過ぎて、美幸は旅館で働き始めた。仕事は仲居見習いから始めることになった。先輩からの指導により、覚えは予想以上に早かった。まるで以前から接客の経験でもあるかのようだった。
      
       十   告白
 突如として失踪した亜美を探すため、林と久美は月に一度か二度、木之本駅から下りの電車に乗って、敦賀駅を皮切りに順番に一駅ずつ調べていった。亜美の写真と特徴を書いた紙を持ち、駅員さんや待合室にいたお客さんに「この子を見ませんでしたか?」と聞いて回った。しかし探し始めて一年が過ぎても、何も情報は得られなかった。さらに一年が過ぎ、調べた駅も三十五を越えた。その日も二人は亜美を探しに行ったが、何も成果は得られずに帰りの電車に乗った。そしてその中で、久美は林に話し掛けた。
「二人で妹を探し始めて、もう二年が経つのね」
「そうだね、たくさんの駅を調べたけど、まだ何も手掛かりが得られないのが残念だね」
「私、最近考えているのだけど、妹を探すのはもうやめようと思っているの」
「え、どうして?」
「二人でこれだけ探しても見つかるどころか、情報だって全くないでしょう。林さんにも迷惑を掛けるし、正直言って私も疲れてきたの」
「う~ん、どうしたらいいのか僕にもよく分からないけど、確かにどこかでけじめを付けなければならない日は来るだろうね。ただやみくもに探しても簡単に見つかるとは思えないし、何か情報でもあれば良いのだけど。でも残っている駅は北陸線だけなら、あと八駅だからどうだろう、その八駅を全部調べてから終わりにしないかい?」
「そうね。せっかくここまで来たのだから」
「じゃあ、そうしよう」
「それで、その残った八つの駅を調べ終えたら、私とあなたは以前のようにフィットネスクラブで顔を見て、挨拶をするだけの関係になるのかしら?」
「それはどういう意味なのかな?」
「ちょっと言いにくいのだけど・・・・妹の捜索が終わってからも、出来れば個人的に会えないかと思っているの。今まで二年間もの長い間、一緒に探してくれたあなたには本当に感謝しています。でも私と一緒に探してくれる相手が、林さんではなくて他の男性でしたら、お断りしていたと思います。あなただからこそ一緒に探し続けたのです。私が妹の失踪を林さんに話したのも、あなたに会ってあなたと話がしたいとの思いがあったのは事実です。動機が不純だったことは承知しています。そんな女だったのかと思われても仕方ありません」
 そこまで話すと、うつむいてバッグからハンカチを取り出して目頭を拭った。 
林は彼女の話を聞き、久美が自分と同じ気持ちで、また同じ考えだったことに今更ながら気づいた。自分だって妹探しを口実にして、久美と会えることを楽しみにしていたのだ。
「久美ちゃん、以前僕が一度だけ君の勤めるお店に行ったことがあっただろう。それは紛れもなく君に会うために行ったのだから、つまりその時は君に対して、好意を持っていたからだよ。そして亜美ちゃんの失踪の話を聞いて一緒に探すことになり、君と会えることに喜びを感じていた僕のほうこそ、不純な考えを持っていたのです。だからそれはお互い様ということになりますね。それで先ほど君が言った『これからも個人的に会えないか』という話ですけど、君にはとても言い出しづらいことを先に言わせて、申し訳なく思っています。本当にごめんね。それでもう少し、僕の話を聞いてほしいのですが?」
 林は彼女のことを岡田さんから久美ちゃんと、いつの日からかそう呼ぶようになっていた。
「何でしょう?」
 久美は相変わらずハンカチを手に持っていた。そして林の言葉に返事をしながら、不安そうな顔をして彼の顔を見つめた。
「僕は妹さんの捜索が終わったら、君に結婚を申し込もうと思っていました。もちろん見つけてからが理想でしたが。今まで約二年間、久美ちゃんと会い続けて君に対する気持ちは好意から愛情へと変わりました。本来なら交際から申し込むのが順番だと分かっていますが、僕は僕なりに二年間君のことを考え続けました。そしてその結果、久美ちゃんは交際相手じゃなくて結婚の相手だと結論が出ました。今日、君の話から端を発して、ここまで話すことになってしまいましたが、こんな電車の中で話すことを許してください。僕は今、正式に求婚します。返事はいつでも構いませんので、考えておいてください」
 久美は彼の話を聞きながら、目を丸くして驚いた。彼が私のことを、そこまで考えていてくれたとは思ってもみなかったからだ。 
 しばらく考えてから彼に言った。
「私が変な話を始めたものだから、あなたにそこまで話させてしまい、ごめんなさい」
「いえ、いいですよ。いずれ話さなければと考えていましたから。むしろ却って良い機会になりました。君に感謝しなければなりません」
「そう言ってもらえると助かります。先ほどの求婚のことですけど、私もあなたと同じように最初の気持ちは好意でした。しかし今はあなたと同じ気持ちです。ただ私は林さんもご存知のとおり、岡田家の長女ですし亜美がいなくなって、一人っ子の立場になりました。それで岡田家を継がなければならない運命です。今まで育ててくれた両親の意向に背くわけにはいきません。たとえ愛し合っていても、こればかりは仕方がありません。あなたがそれを承知の上で申し込んでくださったのでしたら、私は喜んで受けたいと思います」
「僕は、もちろん君の立場をよく分かっています。林から岡田という名前に変わることを前提に申し込みました。ただ僕が君の家に入ることを、君のご両親に認めてもらえるかどうかが心配ですけど」
「それでしたら心配無用ですわ。いつだったか私の母が、私とあなたがいつも妹を探しに出掛けるので『林さんって、本当に親切でよく協力してくださるわね。久美もあんな優しい人と結婚できたらいいわね』なんて言っていたのよ。父だってあなたに感謝していたわ。だから私たちが結婚しても絶対に反対はしない、いえむしろ喜んで賛成してくれるわ」
「だったら嬉しいけど。とにかく近い内に一度挨拶に伺うよ」
「分かりました。父と母には帰ったら話しておきます」
     
        十一   若女将
 岡田亜美こと、佐々木美幸が佐々木家に来てから二年が過ぎた。仕事をすっかり覚えた今は、他の誰よりも率先して朝早くから夜遅くまで働いた。
 そんな美幸を見て健太の母は「美幸ちゃん、まるでこの旅館の若女将ね。あの子の働きぶりを見ていると、私がここへ嫁いで来た頃を思い出すわ。亡くなった母から何年も厳しく指導を受けて、仕事を覚えた私に母が言ったの「あなたもこれで名実ともに若女将になれたわね」と。美幸ちゃんも私からはもう何も教えることはないわ。名実ともにとは言えないけど、少なくとも名実の実のほうは若女将と言っても過言ではないわね」と、息子にそう言うのだった。そして何を期待しているのか「名(めい)のほうも、若女将になってほしいわ」と付け加えたのだった。
 
 その頃、妹の優子が婚約している男性との結婚式が、数日後に迫っていた。優子は挙式前日の夜、今まで育ててくれた両親に挨拶をした後、なぜか美幸の部屋へ入った。
「美幸ちゃん、ちょっと話があるけどいいかしら?」
「何でしょうか?」
「あなたがここへ来て、かれこれ二年が経つのね」
「はい、優子さんには大変お世話になり、ありがとうございました」
「そんなことはいいのよ。それより美幸ちゃん、私がお嫁に行く前に、ひとつだけ聞いておきたいのだけど、あなたは私の兄の健太を、どう思っているの?」
「えっ、それはどういう意味でしょうか?」
「つまり兄に対するあなたの気持ちを聞きたいの。少なくとも嫌いではないと思うけど、好きなのか、それとも自分を助けてくれた単なる恩人としか、思っていないのかどうかよ」
 その言葉に美幸は少し照れたように両手を頬に当てた。それを見た優子は同じ女性として、美幸の感情を感じ取っていた。そして言った。
「やはりそうなのね。兄に人並み以上の好意を持っていてくれるのね。それさえ分かればそれでいいの」
「優子さん、どうしてそんなことを聞かれたのですか?」
「そうね、私は兄も好きだし、あなたのことも好きだわ。出来れば二人が一緒になってくれるといいなと思っているの。本当のことを言うと兄も美幸ちゃんを好きなのよ。直接聞いたわけではないけど、妹の私には分かるの。でも兄は絶対にあなたを好きとは言わないわ。それはなぜかというと、自分の気持ちを打ち明けて、もしあなたが兄のことを何とも思っていなかったら普通は断るでしょう。でもあなたは助けてもらった恩があるから、嫌でも受け入れるかもしれない。どうしても受け入れられなかったら、ここには居づらくなるでしょう。だから、それらを考えて告白はしないと思うの。しかしあなたが兄に好意を持っているのだったら話は違うわね。本当は男らしく自分から告白しなければいけないのだけど、いま言ったように告白できないのは仕方がないと思うわ。そこで私から兄に、告白する方向に仕向けようと思うの。でも私も忙しいので今すぐには無理だから、もう少し待っていてね」
 優子はそう言うと「明日の結婚式には必ず来てね」と念を押して部屋を出ていった。
 
 翌日、結婚式も無事に終わり、それから三か月程が過ぎたある日、優子が実家に帰ってきた。兄の健太に「話があるの」と言って話し始めた。
「兄貴は美幸ちゃんのことが好きなのでしょう。私には分かるの」
 健太は妹の突然の言葉に驚いて言った。
「急に何を言い出すんだ」
 優子は話しを続けた。
「私ね、兄貴と美幸ちゃんの二人で、この旅館を両親から継いでやっていけばいいなと思っているの。でもそうするには二人が結婚することが前提となるでしょう。そうなるとお互いに愛情がなければならないわ。たとえ兄貴が美幸ちゃんのことを好きでも、片思いだと無理なので問題は美幸ちゃんの気持ちよね。それで言うけど、私はあの子のことを今まで二年以上見てきたわ。多分、私よりいくつか年下だと思うけど、ほぼ同じ年頃で同じ女性だから、あの子が日頃の兄貴を見る目とか顔つきで分かるの。おそらく兄貴のことを好きだと思うわ。それと私には兄貴の考えていることも分かるの。あの子に好きだと告白したら、あの子は命を助けてもらったという大きな恩があるから、きっと受け入れてくれるでしょうね。万一、受け入れなかったら、ここに居づらくなって出て行くと思うわ。でも間違いなく受け入れてくれるわ。しかし兄貴は(僕は君を助けたのだぞ)という既成事実の恩を売って、受け入れてもらうなんてことは絶対に嫌だよね。だから告白したくても告白できないと、考えているのでしょう。でもさっき私が言ったように、あの子も兄貴のことは好きよ。私それだけは自信を持って言えるわ。だから何も心配しないで、男らしく告白しなさいよ」
 健太は妹の話を聞いて嬉しくなった。そうやって教えてくれたのも嬉しかったが、それ以上に美幸ちゃんが自分のことを、好きだと思ってくれているのが本当だとしたら、何よりも嬉しいことだと思った。確かに妹の言うとおり、好きでもないのに命の恩人だからと嫌々結婚を承諾されても嬉しくはない。それは幸せになるどころか、却って二人ともが苦しむ結果となる。特にあの子は苦しむだろう。大袈裟なことを言えば苦しんだ結果、自殺の道を選ぶかもしれない。そんな結婚は絶対にできないと考えていた。
 健太が考えていると優子が言った。
「ねえどうするの?告白するの、しないの?」
「少し考えてみるよ」
「そうね、私が話したからといって、今すぐに結論が出せる話でもないわね。でも前向きに考えてね」
 最後にそう言って部屋を出て行った。

 それからの健太は美幸とのことを、どうするべきかと考えていたが、すぐに答えは出なかった。彼女をこの家に引き取って二年余り、二人は旅館の休みの日を利用して、月に一度は必ずドライブやショッピングに出掛けた。彼女が病気のことで悩んでいるのは当然だと思い、自分の部屋に引きこもってしまうのは良くないから、少しでも気晴らしになるようにと、連れて出掛けるのだった。そうしている内に徐々にではあったが、彼女に好意を持つようになってきたのだ。その気持ちは二年が過ぎた今は、はっきり愛情と言えるものに変わった。そうなると気になるのは相手の気持ちだ。あの子は僕のことをどう思っているのだろう?そればかり気になって仕方がなかった。しかしあの子の置かれている立場を考えると、告白するどころか自分に対する気持ちを聞くことさえ、できないまま月日が流れてしまったのだった。しかし今日、優子の話を聞いて停滞している今の状況が、前に進もうとしている。優子の話を信じるなら告白するべきだと思った。しかし思い違いだったら大変なことになる。どうするべきか・・・・・。
 
 そんなことを考えている内に、さらに月日は流れ、妹の話を聞いてから三か月が過ぎたある日、健太はいつものように美幸を誘ってドライブに出掛けた。
「今日は天気もいいので日本海でも見に行こうか?」
「ええ、私も海が見たい気分だわ」
「じゃあそうしよう」
 行き先を決めた二人は健太の運転する車で日本海を目指し、到着すると車を停めて外へ出た。天気は良いが風が少しあった。健太は日本海の波が白いしぶきをあげて、岩に打ち付けられている様子を見ながら考え事をしていた(今日は思い切って彼女に告白しようか?それとも、もうしばらくこのままでいようか?)
 美幸は黙って海を見ている健太の横顔を見て、自分から話し掛けた。
「いつもこうやって私を遊びに誘ってくれてありがとう」
「そんなことはちっとも構わないよ。僕も君と出掛けるのを楽しみにしているのだから」
「そう言ってもらえると私も気が楽になります。私の病気に気を使って気晴らしをさせてあげようと思い、誘ってくれるのだと思っていましたから」
「それもあるけど、それ以上に君と出掛けて二人で話せることが僕は嬉しいのだよ。僕が君を誘うのは、君にとっては迷惑なんじゃないですか?」
「いいえ、そんなことはありません。私もこうやって誘ってくださるのを、いつも楽しみにしています」
 その言葉を聞いた健太は思い切って告白するなら今だと思い、彼女に言った。
「美幸ちゃん、本当のことを言うと僕は君が好きです。女性として異性として、今は美幸ちゃんを愛しているよ。突然こんなことを言ってごめんよ。驚いただろう」
「健太さん・・・・今のお話は本当ですか?もし本当だったら嬉しいわ。こんな私だから同情してとばかり思っていましたから」
「決して同情なんかじゃないよ。僕は本気で君のことを想っているよ」
「ありがとう、わたし健太さんの言葉を信じます。私を助けていただいた上に・・・・私は幸せ者です」
そう言って目から大粒の涙を流した。
     
       十二   目を覚ます
 一年近くが経ち、木之本町の岡田家では久美と正人の結婚式が行われた。そして粟津の佐々木家でも、健太と美幸が結婚をした。久美と、亜美こと(美幸)の姉妹は奇しくも同じ年の、同じ秋に結婚をしたのだった。
 
 年月の過ぎるのは早いもので、二組の結婚からすでに七年が過ぎようとしていた。岡田家では正人と久美の間に長男と長女、二人の子供に恵まれた。一方、佐々木家でも健太と美幸の間に、二人の子供を授かった。上は女の子で下は男の子だった。
 
 そんなある日、美幸が長女と電車の路線地図を見ていた時だった。鉄道の北陸本線の部分で、米原から富山までの駅名が書いてある漢字を読む勉強をしていて、子供に教えながら進めていくと、滋賀県にある木之本駅という名前を見て、どこかで聞いたことがある駅だと思った。しかしそれをどこで聞いたのかは思い出せなかった。

 そんなことがあって数日後、美幸は夫の健太が花粉症で何度もくしゃみをしているのを見て、突然思い出したことがあった。それは今から二か月程前の二月だった。美幸が風邪を引いて高熱でうなされている時に、健太がそばに付いてくれていて、目を覚ました時に言ったのだった。
「大丈夫かい、随分うなされていたよ。何だかよく分からないけど、独り言のように何か話していたね、うまく聞き取れなかったけど『昨日も』どうのとか『火の元』がどうのとか、そのような言葉だったかな?何か夢でも見ていたのだろうな」
 美幸はその時の夫の言葉を思い出すと同時に、うなされながら見ていた夢が木之本町だったことを思い出した。夫は「昨日も」とか「火の元」などと聞こえたのだろうけど、間違いなく木之本の夢だった。しかしなぜ行ったこともない木之本という町を、夢に見たのか分からなかった。それでそのことが気になって仕方がなかったが、それ以上には何も思い出せなくて日が過ぎていった。
 
 五月のゴールデンウィークが終わり、旅館のお客さんも減ったある日に美幸は夫に話し掛けた。
「私、少し気になることがあるの」
「何が気になるのだい?」
 そこで夫のくしゃみで思い出したことや、自分が風邪を引いて寝ている時に見た夢のことを夫に話した。
「じゃあ、その木之本という町が気になるのだね」
「ええ、滋賀県はこちらへ来てから行ったこともなくて知らないけど、木之本という所がなぜ夢の中に出てきたのか、少しばかり気になるの」
「もしかしたら記憶を失ってから、今まで眠っていた脳の一部が目を覚まそうとしているのかもしれないよ。はっきり分からないけど風邪を引いて高熱が出た時に、何かの具合で眠っていた脳が刺激されたということも考えられなくはないね」
「私には分からないわ」
「だったら一度、その木之本へ行こうか?僕も気になるし旅館の休みの日だったら付き合うよ。行けば何か分かるかもしれないし、もし分からなくても君の気持ちがすっきりすると思うから」
「じゃあ迷惑を掛けるけどそうしようかな」
 
 こうして二人は木之本という町へ行くことに決めた。そして数日後の定休日に、粟津駅から電車に乗って木之本町へ向かった。健太も全く知らない滋賀県の木之本町へ行くのに、車で行って事故でも起こすと大変なので、電車で行くことにしたのだった。やがて電車は木之本駅に着いた。駅を出た二人は周囲を見渡してから、右手の商店街らしき方向へと歩いた。すぐに突き当りになっている道は左が商店街で右には踏切があり、その先は国道八号線と看板に書いてある。二人は左へ行き、少し上り坂になっている石畳の道を進んだ。街並みを眺めながら数百メートルほど歩くと三差路になっていて、突き当りには寺院があった。そこの階段を上がると高さが六メートルもある大きな地蔵様があった。そんな大きな地蔵様を見ても美幸は覚えがないと言った。それからしばらくあちこちと街中を散策した後、特にこれといった収穫もなく、駅に戻り帰路に就いた。

 健太は帰りの電車の中で昔の話を思い出していた。それは美幸の記憶喪失のことだ。十一年前に担当医である大田先生と話をしていて、先生が言うには「彼女の記憶が元に戻るかどうかは分からないが、もう一度何かがあって頭にショックを受ければ、記憶が元に戻る可能性もあるとのことだった。但し、それは両刀の刃で元に戻ることによって、逆に記憶を失ってから現在までの記憶がなくなってしまうかもしれない。もし過去の記憶を思い出し、現在のことも覚えているとしたら、それは彼女が徐々に記憶を取り戻すことが条件になるだろう」そう言われたのを健太は思い出していた。そんな先生の話を思い出し、健太は少なからず不安を覚えた。美幸の記憶が元に戻るのは喜ぶべきことではあるが、もしも今の記憶がなくなれば自分のことも子供のことも、すべて忘れてしまうかもしれないのだ。それだけは絶対に嫌だった。
      
        十三   新情報
 さらに半年が過ぎた平成三十年の秋、十一月のことだった。木之本町の岡田家に一本の電話があった。母の幸子が出ると男の声だった。
「もしもし、岡田久美さんのお宅でしょうか?」
「はいそうです。久美は仕事でいませんが、私は母です。どちらさまでしょうか?」
「私、JR北陸本線の粟津駅で駅員をしている山田と申しますが、実は今から十年近く前になりますが、岡田久美さんという女性が妹を探していると言って、駅に尋ねて来られたことがありました。それで写真を見せられたのですが、そのとき私は『分かりません』と言いました。しかし今になって思い出したことがあり、電話をさせてもらいました。ただ電話だと長くなりますので、今からその思い出したことを手紙に書きます。二、三日で着くと思いますので、お待ち願えますか」
 幸子は突然の話で何が何やら分からぬまま「はい、分かりました」と言って、電話を切ってしまった。後で考えると、もう少し詳しく聞いておけば良かったと思ったが、すでに後の祭りだった。
 家に帰ってきた娘にその話をすると、久美は驚いて「もう少し詳しく聞けなかったの」と言ったが、その男性の話を信じるなら数日で届くはずの手紙を待ち、それを読めば分かるので取り敢えず手紙を待った。
 
 それから三日後にその手紙が岡田家に届いた。封を切るのは家族全員が揃ってからと決めていたので、母の幸子は郵便受けから取り出した手紙を大事そうに持ち、部屋のテーブルの上に置いた。
 
 夜になり久美が手紙の封を切ると、その中に入っていた便箋は二枚あった。それを久美は両親と夫に分かるように声を出して読んだ。

「前略、岡田久美様 私はJRの粟津駅で駅員をしている山田と申します。先日、お母さんには電話で少しだけ話しましたが、その続きをこの手紙に書きます。ただ最初にひとつだけお断りをしておきます。この話に関しては何しろ十年以上も前のことですので、私の記憶も定かではありません。間違っているところもあると思いますので、それだけは勘弁願います。それで探しておられた妹さんの件ですが、それは岡田さんが粟津駅に来られた年の前年だったと思います。私は妻がお産で入院していたので、病院に通っていました。その日も病院へ行っていたのですが、私が家に帰ろうと玄関付近まで来た時でした。ちょうどそこへ一台の救急車が来まして、私は邪魔になるといけないと思い、病院の出入り口付近で横にどいて待っていました。すると救急隊員がストレッチャーに人を乗せて、私の脇を運んで行かれました。私はその人を一瞬でしたが見まして、若い女性だと分かりました。どうしたのかとは思いましたが、特に深くも考えずにその日はそれで帰り、そのことはすっかり忘れていました。そして十年以上が経った今、なぜその女性が岡田さんの探している人ではないのかと思ったのは、何日か前に私は自分が診察を受けるため、同じ病院へ行ったところ、偶然にも又救急車が来まして、その車から運ばれた人も若い女性だったものですから(そう言えばずっと以前にも見たことがあったな)と思い出しまして、思い返してみるとそれは妻が子供を産んだ年の、産んだ月だったと分かりました。ただ日に関しては岡田さんに頂いた名刺の裏に書いてありましたが、行方不明になられた五月十日だったかどうかは定かでありません。間違いないのはゴールデンウィークが終わって、何日かが過ぎた日だったということです。たまたまですが、あなたから頂いた名刺を私はまだ持っていましたので、連絡することができました。つきましては一度、粟津赤十字病院へ行き、その時のことを尋ねられてはどうでしょうか。たったそれだけの情報なので、その女性が岡田さんの妹さんである可能性は低いかもしれません。わざわざ来ていただいて徒労に終わるかもしれませんが、少しばかり気になったので連絡させていただきました。私の話は以上です。妹さんが見つかることを心より祈っております」                                    草々  
 山田の手紙を読み終えた久美は、両親と夫の顔を見て言った。
「この手紙の内容だけでは山田さんも書いておられるけど、病院で見た女性というのが亜美だという可能性は低いかもしれない。でも一度確かめたほうがいいんじゃないかしら。もし違っていたとしても、それはそれで情報がはっきりするわけだし。あなたはどう思う?」
「そうだなあ、亜美ちゃんが粟津へ行ったという証拠はないし、若い女性が病院へ救急車で運ばれることも、日常茶飯事とは言わないまでも時々はあるだろうね。あまり期待できる情報ではないかもしれないけど年月も合っているし、その山田さんという人が親切に教えてくれたのに、知らん顔で聞き流してしまうのもどうかと思うよ。それに粟津駅へ行って、その人に情報のお礼も言いたいしね」
「そうよ、こうやって手紙まで書いていただいたのだから、お礼を言わないといけないわ」
二人がそう話していると、傍らで父が言った。
「よし分かった、そうしなさい。お礼をするのは常識だ。そして病院へ行って話を聞いてくるといいよ」
 次に母も言った。
「病院だと平日に行かないと開いていないだろう。子供たちの面倒は私が見るから、あなたたちで行ってらっしゃい」
 四人の意見が一致したので、来週の月曜日に行くことに決めた。

       十四   小松赤十字病院
 月曜日、久美と正人の二人は山田へのお礼に木之本名物の、でっち羊羹(ようかん)を買ってから電車に乗り、粟津へと向かった。 

 粟津駅に到着すると駅の事務所に行って、山田にお礼を言ってからタクシーに乗って病院へと向かった。山田は「もし違っていたら申し訳ありません」と先に詫びていた。病院へ着いたので中へ入り、受付の女性に名前を名乗ってから事情を話すと、彼女はもう一度久美の話を確認した。
「平成十八年の五月十日に救急車で搬送されたと思われる若い女性ですね」
「そうです」
「では調べますので、そちらの待合所で暫くお待ちください」
 そう言って電話の受話器を手に取った。待合所の椅子に座って十分近く経っただろうか、先ほどの女性がやって来て「長い間お待たせしてすみませんでした」と謝ってから話を切り出した。
「今、電話を掛けて聞きましたところ、その年月日には内科に一人の女性が搬送されて入院されましたが、年齢が八十台のおばあさんだと分かりました。次に外科に聞いたところ、先ほど岡田様がお話しされていた若い女性が搬送され、入院されていることが分かりました。その女性のことをもう少し詳しく聞くと良かったのですが、電話に出たナースが忙しそうだったので、そこまでしか聞けませんでした。もし差し支えなければ三階の外科病棟に行って、詳しい話を聞かれたらどうかと思います」
 受付の女性にそう言われて(ここまで来たのだから詳しく調べよう)と思い、三階へと向かった。

 外科の入院病棟にも受付があったので再度事情を説明すると、その女性は「お待ちください」と言ってナースのいる部屋へ行き、話し掛けていた。しばらくすると、そのナースが久美と正人の所へやって来て「先ほど一階の受付から電話があった件ですね」と確認をして、手に持ったカルテを見ながら彼女は二人に説明を始めた。そのナースはまだ若くて二十代の前半だと見受けられた。
「え~と、その日に救急搬送されて入院された患者さんですが、個人情報ですので詳しくは言えませんが、わざわざ遠い所から来られて事情が事情ですので、教えられる範囲で言います。まず名前は苗字しか言えませんが、佐々木様です。住所はこの小松市内です。年齢は二十歳ですね。私から言えることはそこまでですが、これでよろしいでしょうか」
 この時ナースは忙しかったのか、亜美のカルテに書いてある傷病の欄を見なかったのと、まだ若かったので十年以上も前にその入院患者が、事故により記憶喪失になってしまったことを知らなかったのだった。カルテをしっかり見れば書いてあったので、そのことを二人に話せば、その後の展開も随分変わってくると思われた。
久美と正人は名前を聞いた時点で、すでに違う女性だったと思い込み、詳しく聞かずにナースにお礼を言って、病院を後にした。

 駅に着くと両親に電話で報告をした後、駅員の山田にも残念な報告をしてから電車に乗った。
「あなた、今日は付き合ってくれてありがとう。期待していたわけではないけど、やはり違うと残念だわ」
「そうだね、なにしろ十年以上も前のことだから、情報もあまり期待はできないね。でも駅員の山田さんはよく覚えていて教えてくれたよね」
「亜美ではなかったけど、あの方には感謝するわ」
 
 木之本駅に着いて家に帰ると、両親に電話で話したことを、もう少し詳しく話した。両親も残念がっていたが、こればかりは何とも仕方がない。またいつあるとも分からない次の情報を待つだけだ。本来なら自分たちで、もっと行動するべきなのだが、十年という年月の流れが皆の心に諦めを植え付けていた。

       十五   匂いと音
 佐々木家では温泉旅館という仕事上、家族そろっての晩御飯など滅多に食べられることはなかったが、定休日だけは一緒に食べられた。その日も週に一度の定休日で、家族が一緒に食事をしていた。そしてその席で母が言った。
「健太、たまには美幸ちゃんをどこかへ遊びに連れて行っておやりよ。毎日子供の世話と旅館の仕事で、ストレスも溜まっているはずよ」
 そこで美幸が母に
「お母さん、私は大丈夫ですからそんなに気を使わないでください」
 そう言うと、夫の健太が言った。
「いや、お母さんの言うとおりだ。僕もそれは分かっていたのだけど、旅館が提供している食事の新しいメニューとか考えていたので、少しばかり忙しくしていたものだから申し訳ないと思っているよ。そうだなあ、次の休みにどこかへ行こうか。子供が帰って来るまでに僕たちも帰ればいいから」
 その言葉を聞いた母が「子供のことは私が見るから心配いらないよ。一日ゆっくりしてくるといいよ」と、言ってくれたので美幸は二人の言葉に甘え、出掛けることに決めて母に言った。
「ありがとうございます。子供は二人とも三時過ぎにしか帰ってこないので、それまでには必ず帰ります」
 
 次の定休日に健太と美幸は二人で出掛けた。しかし事前に行き先を相談しなかったので、車に乗ってから「さあどこへ行こうか?」と話す気楽な二人だった。二人が知り合ってから十年以上も経てば、近くではすでに行っていない所がないくらい行った。昔は二人で行き、子供が生まれたら子供達と一緒に行った。そんな二人が、いざ出掛けようとしても行き先を迷うのは当然だろう。改まって観光に行くよりも、食事とか買い物に行くのが一般的な中年夫婦の行動かもしれない。そう思った健太が提案した。
「美幸、もし良かったらデパートでも行って、何か欲しい物を買ってあげようか。それから何かおいしいものでも食べに行こう」
「私は特にほしい物は無いけど、子供の服とか見に行きましょうか。そして食事に行きましょう」
「じゃあそうしよう」
 子供の服や要りそうな生活用品を買い、レストランで昼食を摂った。それでもまだ帰るには時間が早かったので、健太が言った。
「まだ時間が早いので帰り道にあるパチンコ店にでも行って、時間をつぶそうか?」
「あなたの言うとおりにするわ。でもパチンコをしたことがあるの?」
「若い時は時々だけど行っていたよ。君と結婚してからは行っていないけど、久しぶりにやりたくなってね」
「そうだったの、じゃあ私にも教えてね」
 
 駐車場に車を停めると店の自動ドアの前に立った。健太が先に入り、次に美幸が店内へ足を踏み入れたその時だった。美幸は店内で何かの匂いを感じた(確かこの匂いはどこかで嗅いだ記憶がある。どこだっただろう?)思い出せない。
 立ち止まっている妻を見て、夫は「どうしたの?」と聞いたが「なんでもないわ」と答えたので店の奥へと進み、あまりお金を使わずに遊べそうな、一円パチンコのコーナーへ行った。そして比較的当たりやすい甘デジと呼ばれる台に座った。夫の隣も空いていたので美幸は隣に座った。
 お金の入れ方と玉の借り方、玉の打ち方などを夫に教えてもらい、打ち始めた。右手でハンドルを握り、右へ回すと玉は勢いよく弾かれて盤面に飛び、上から下へと流れ落ちていった。そしてまたその時だった。美幸は打ち出した何発もの玉が盤に打ち付けてある釘に当たって、ジャラジャラという音を聞いた途端(この音は・・・確かどこかで聞いたことがある)そう感じたが、やはり思い出すことができなかった。二人は二時間ほど遊んでから、三時前に店を出て家に帰った。
 
 数日後、美幸は先日行ったパチンコ店の匂いや音がどうしても気になり、夫に「お願いがあるの」と言って、もう一度パチンコに連れていってもらえないかと頼んだ。それも出来れば別の店にと言った。夫はいぶかしげに「どうして?」と聞いたが「ちょっと気になることがあったので確認のために」と言って「詳しい訳は、後で話すから」と付け加えて言った。どこの店に行っても玉を弾く音は一緒だろうけど、匂いは店によって違うかもしれないと思ったからだ。夫は快く引き受けてくれ、さっそく次の休みに先日とは別の店に連れていってくれた。そして店の中に入ると、やはりこの店でも先日の店と同じ匂いを感じた。夫は、まだ何も聞かなかったが「せっかく来たのだから、少し遊んで行こう」と言って、店の奥へと歩いて行った。美幸も後ろから付いて行き、今日も並んで座った。そして玉を打ちながら音を聞いていた。

 家に戻ると、夫は何か聞いてくるかと思ったが、何も聞いてこなかった。美幸から言い出すまでは、黙っていようと思ったのかもしれない。ただ「後で話すから」と言っていたので、黙っているのも悪いと思い、話すことにした。そして最初に行ったパチンコ店で自分が感じたことと、今日行った店で感じたことをすべて話した。夫は黙って聞いていたが、話を聞き終わると「もしかしたら記憶を失う前にパチンコをしていたか、それともパチンコに関係した仕事でもしていたのかもしれないね」と言った。美幸もそれは考えたが、思い出せないので何とも答えられなかった。
 
       十六   決断
 それから数か月が過ぎ、相変わらず何も思い出せない美幸は、この数か月の間、考えていたことを夫に話した。
「最近、考えていることがあるの。私はあなたや両親、そして子供たちに囲まれて幸せだけど、もし私に家族がいれば家族は私のことをどう思っているかしら。きっと心配していると思うの。もっとも、もう諦めているかもしれないけど。私は自分のことは思い出せなくてもいいのだけど、家族には「元気で幸せに暮らしているから」と、どうにかして伝えられないかと思っているの。そこで考えたのだけど、十二年前に事故にあった場所へ行って、自分のその日の足跡をたどってみたらどうかと思ったの。そうすれば事故に遭う前の行動が、何か分かるかもしれないし、誰かと会ったり話したりしているかもしれないわ」
 それを聞いた健太が答えた。
「それもそうだね。君の言うとおり、家族はすごく心配しているよ。結果は別として、まずは何か行動を起こさないと何も生まれないから、美幸の思ったとおりにすればいいよ」
 そう言ってくれたので次の休みに、事故のあった場所へ事故が起きた時間近くに連れていってもらうことにした。

 三日後、美幸は健太の車で事故にあった場所へ向かった。車を降りる時に「一人で行動して、帰りはタクシーで帰るから」と言って車を降りた。
(平成十八年の五月十日、時間は午後の十二時四十分頃、私は一人でここに来て、この橋から落ちて病院へ運ばれたのだ)
 後で教えてもらった事故の日のことを思い出しながら、緩やかに水の流れている川を見ていた。そしてこの橋にどこから来たのだろうと周りを見渡したところ、一方は静かな住宅街になっていて、その道は山の方へと続いているようだった。もう一方は道幅も広くて、その先を見ても山は無くて道の両側に住宅や商店が混在しているように見受けられた。そこで山から来るはずはないと思い、道幅の広い方向へ足を進めた。しばらく歩くと喫茶店があった。店の前で立ち止まり、入ろうか迷っていたが事故の時間が昼過ぎなら、自分はどこかで昼食を摂ったかもしれないと思い、店に入ることにした。
 
 中へ入ると昼時を過ぎたせいか、お客さんは一人しかいなかった。カウンターの中には、この店のママさんと思われる中年の女性が常連らしき客と話をしていた。入って来た客を見て「いらしゃいませ」と言い、テーブルに座った美幸に水を持ってきた。そして顔を見た後、何か遠くを見るような目をしたが、美幸はそれに気付かなかった。ホットコーヒーを注文して店内を見渡したが、特に見慣れたものは無かった。仮にこの店に寄っていたとしても、十二年が過ぎた今は店内の模様も変わっているかもしれない。ママは注文したコーヒーを持ってきて、テーブルに置くと話し掛けてきた。
「失礼ですけど、以前どこかでお会いしませんでしたか?」
「いいえ、会っていないと思いますが、どうしてですか?」
「私も商売柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なほうなのですが、あなたのお顔は以前どこかで見掛けたような気がしたので、聞いてみた訳です。でも私の記憶違いですね」
 それを聞いた美幸は、もしかしたら十二年前の私を見たのかもしれないと思い、ママに聞いた。
「あの~、ママさんに少し話したいことがあるのですが、構いませんか?」
「もうお客さんもいないからいいですよ」
 カウンターを見ると先ほどいた客は、すでに帰ったようで居なかった。
「今から十二年ほど前のことですけど、私はこの町に来ました。そしてここから十分ほど歩いた所に在る橋から川に落ちたのです。でも助けていただいて軽い怪我で済みましたが、その時に頭を打ったのとショックで、記憶をなくしてしまったのです」
 そう聞いたママは思わず「あっ」と声をあげて、美幸に聞き返した。
「今から十二年前とおっしゃいましたね」
「はい、間違いありません」
 するとママは頭の中で記憶を辿るように目を閉じた。そして言った。
「私の記憶だと、あれは確か十年以上も前のことだったと思うわ。お昼が済んでお客さんもいなくなった頃、この店によく来てくれる常連さんが入って来て、言ったの「ママさん大変だったよ、一時間ほど前にそこの橋の上から若い女性が川に落ちてね、幸い川の岸辺だったので草も多くて流されずに助けられたのだけど、救急車が来るやらパトカーが来るやら大騒ぎだったよ」って。そんな話をしていたのを思い出したわ。その時に私はその人に「近所の子なの?」って聞いたら、その人は「いや、見たことがないから、地元の子じゃないだろう」と言っていたわ。それで「地元の子ではない若い女性だ」と聞いて、ドキッとしたの。もしかしたら先ほどこの店に来ていた女の子ではないだろうかと思ってね。でもまさかと思い、その話はそれで終わったのよ。そして今のあなたの話でしょう。私が最初にあなたを見て「どこかで会ったような気がする」と言ったのは、多分その時にあなたがこの店に来たからだと思うの。確かに十二年も経つと顔も多少は変わるけど、それでも私は分かったわ。そう間違いないわ。はっきりとした日は覚えていないけど、間違いなくあなたよ」
 話を聞いて、やはり私はこの店に来ていたんだと確信した。そしてママに聞いた。
「私、このお店に来た時、ママさんと何か話しませんでしたか?」
「どうだっただろうね、話したかもしれないけど、そこまでは覚えていないわ」
「そうですか、いえここに来たことが分かっただけでも嬉しいです。ありがとうございました」
「それで、今はどうしているの?」
「ある男性と縁がありまして、その方と結婚しました。その方は粟津で湯の宿、粟津亭という旅館をなさっている家の息子さんで、橋から落ちた私を助けてくださった人です。それでママさん、その時に私と会話したことを何か思い出されたら、連絡をしてもらえませんか。名前と電話番号を書いておきますので」
「そうだったの、それは良かったわね。じゃあ思い出したら連絡するわ」
 メモ用紙に名前と電話番号を書いてママに渡すと、お礼を言って店を出た。そして今度は粟津駅へ行ってみようと思い、駅に向かった。五分ばかり歩くと駅が見えてきた。中へ入り周りを見渡したが、特に思い浮かぶような風景はなかった。少し疲れたので待合室の椅子に座ると、そんな彼女を一人の駅員が見ているのを美幸は気付かなかった。それから十分ほど休んで駅前に停まっているタクシーに乗って家に戻った。
 今日の行動によって、あの日あの喫茶店に寄ったということが分かっただけでも、大きな収穫だったと思った。そしてそのことを夫にも伝えた。

      十七   再びの情報
 美幸の取った行動は、あの日喫茶店に寄ったという収穫以外に何もなかったように思われたが、実は本人も気が付いていない大きな収穫が、もう一つあったのだ。それは最後に立ち寄った粟津駅だった。

 その日、粟津駅では駅員の山田が切符売り場に座っていた。午後の二時頃ということもあり、乗降客も少なく少々暇を持て余していたとき、一人の女性が駅舎内へ入ってきた。その女性は待合室の椅子に腰かけて休んでいるようだった。切符売り場からは女性の横顔しか見えなかったが、どこかで見た記憶があった。そしてすぐに(そうだ、あの人だ)と思い出した。あの人というのは数か月前に会い、妹さんを探していると言った滋賀県の岡田さんだ。いま駅の椅子に座っている女性の横顔は、岡田さんによく似ていた。近くまで行って見たかったが、その女性は間もなく立ち上がり駅から出て行ってしまった。出て行くときに正面から顔が見えたが、もちろん岡田さん本人ではない。しかし顔の輪郭や目鼻立ちは似ていると思った。山田の仕事はいくら暇とはいえ、持ち場を離れることができないので、その女性と話はできなかったが、もしかしたらと思った。そして滋賀県の岡田さんに連絡しようかと考えたが、前回間違った情報を教えたという、苦い経験があったのを思い出して止めることにした。
 
 そんな折、温泉旅館の粟津亭に団体客が訪れた。宴会が行われる大広間に集まったお客様の所へ、女将と若女将が恒例の挨拶をするため宴会場に入った。二人は座ると、まず女将が挨拶を始めた。
「皆様、本日は粟津亭を御利用いただき、誠にありがとうございます。私はここの女将をしております、佐々木 葉子と申します。こちらは若女将の美幸です。どうぞよろしくお願いします。・・・・」
 女将は少しばかり店の話をして挨拶を終えた。若女将は頭を下げただけで話すことはしなかったが、団体客の中にその二人をじっと見ている一人の男がいた。年齢は五十歳前後か?柔和な顔立ちで眼鏡を掛けていた。その男性は挨拶をしている女将の隣に座っている若女将を見て(あの若女将、誰かに似ているな、さて誰だったかな?)と考えながら、じっと見つめていた。しかし誰だったかは思い出せなかった。その後、その客は二度と若女将の顔を見ることもなく翌日の朝、粟津亭をあとにした。
 
 半月近くが過ぎ、木之本町の駅前にあるパチンコ店の(パーラー光)で、久美がお客さんの遊戯を見ながら働いていると、一人の男性客が声を掛けてきた。
「ああそうだ、あんたを見て思い出したよ。実は半月ほど前に会社の慰安旅行に行って来たんだが、そこの温泉旅館であんたによく似た人を見掛けたよ。その人はそこの若女将で歳は三十前後だったな。まあそれだけの話だけどね」
「それはどこの旅館ですか?」
「石川県にある粟津温泉という所で、確か粟津亭という旅館だったな」
 久美は、またしても粟津という名前が出てきたことに戸惑いを隠せなかった。数か月前の情報も違ってはいたが、粟津駅の山田から届いたものだった。やはり粟津は妹の失踪に何か関係しているのだろうか?気にはなったが明確な答えは出なかった。
 その後、数日間考えて夫とも相談した結果、もう一度粟津へ行ってみることにした。今度は自分一人で行って、町中も見て来ようと思った。
 
 久美は公休日に電車に乗って粟津へと向かった。粟津駅に着くと駅員さんに尋ねた。
「山田さんは出勤しておられますか?」
「中にいますので、すぐに呼んできます」
 そう言うと中へ入り、入れ替わりに山田が出てきた。それぞれが挨拶を交わし終えると、山田が久美に聞いた。
「今日はどうされたのですか?」
「温泉旅館で妹に似た人を見掛けたという情報があったので来ました」
 そう答えると、彼はびっくりした顔をして話し出した。
「実は先日のことですが、自分もこの駅の中であなたに似た人を見まして、岡田さんに連絡を差し上げようかと思ったのですが、また間違いだと却って迷惑を掛けると思って知らせませんでした」
 その話を聞いて、今度はまったく同じ情報がふたりの人から寄せられたことに対して、かなり信憑性(しんぴょうせい)が高いのではないか思った。パチンコ店の常連さんと山田が見たという女性が、同じ人かどうかは分からないが、取り敢えずその温泉旅館に行ってみようと思い、お礼を言ってタクシーに乗った。

 目的の旅館には十分ほどで着いた。いよいよ常連さんが話していた、若女将さんに会える時がやってきたのだ。さて似ていると言われたが、どんな女性だろうと思いながら玄関から中へ入ると、すぐに「いらっしゃいませ」と言いながら、仲居さんらしき中年の女性が出てきて久美の顔を見ると、はっと少し驚いたような顔をした。
「ご予約ですか」と聞かれたので「いえ、客ではないのですが、ここの若女将さんに用事があって来ました」と答えた。するとその女性は少しけげんな顔をしながら「少々お待ちください」と言って、奥へ消えた。
 しばらく待っていると年配の女性が出てきて「私はこの旅館の女将ですが、どちらさまでしょうか」と聞きながら久美を見て、やはり女将も先ほどの仲居さんと同じように、ほんの一瞬だが(はっ)としていた。
「すみませんけど、こちらの若女将さんに面会したいのですが」と言うと、女将は久美の顔と言葉で何かを悟ったのだろう。
「若女将はいますが、その前に私と少しばかり話をしてくださいませんか」と言った。
 女将の言葉に何か訳ありだと感じた久美は「分かりました」と答えた。いずれにしても、ここでは女将の言葉に従うしかないのだった。女将は入り口付近にあるテーブルに案内せずに、奥へと歩いて客間と思える部屋に案内した。まるで他の人に見られたり聞かれたり、されないようにしているようだった。
 
 部屋に入ると座るように促して、お茶の用意を始めた。お茶を出した後、座った女将は話を切り出した。
「先ほどは、ぶしつけに変なことをお願いしまして、大変失礼しました。どうぞお許しください。私は女将の佐々木葉子と申します。よろしくお願いします」
「私は岡田久美といいます。滋賀県の長浜市から来ました。私のほうこそなんの連絡もしないで、突然ここへ押しかけてしまい申し訳ありませんでした」
「それは構いません。お気にしないでください。それより遠い所から来られて、お疲れのところ時間を取らせてしまってすみません。それで若女将に会っていただく前に、私から岡田様にお聞きしたいことがあります。それでそのお答えによっては私の話を聞いていただきたいと思いまして、こちらに来ていただいた訳です」
「そうでしたか、分かりました」
「ありがとうございます。ではお聞きします。今日、この旅館に来られた理由をお聞かせください」
「はい、その理由は・・・話が少し長くなるかもしれませんが、構いませんか?」
「大丈夫ですよ」
「それじゃ話します」
 そう言って亜美が失踪した十二年前の状況から話し始め、知り合いの情報を元にこちらへ来たことを話した。かいつまんで話せる内容ではないので時間は掛かるが、話し漏らさないように出来る限り丁寧に話した。
話を聞き終えた女将は、すでにすべてを悟ったかのように、納得した顔をして言った。
「話はよく分かりました。それでは今度は私から若女将のことをお話します」
 久美は女将の話を聞くにあたって、かなりの緊張を感じた。
「今から十二年ほど前のことです。どこから来られたのか分からない一人の若い女性が突風に襲われまして、橋の上から川に落ちたのです・・・」
 女将はそこから話を始めた。そして「その女性を自分の息子が助けたが記憶喪失になってしまったので、行くあてもない彼女をこの家に引き取り、佐々木美幸という名前を付けて今では自分の息子と結婚して、この旅館の若女将になっています」と言って、話を締めくくった。    女将も若女将のことは自分の知っているすべてを、丁寧に話してくれた。
「それでは若女将を連れてまいりますが、先ほども話しましたとおり、若女将は記憶が戻っていないので、岡田様を見ても分からないと思います。それだけは了解してください」
 そう言って女将は部屋を出ていった。

       十八   再会
 五分ほどするとノックの音が聞こえ「女将です」と声がした。
「はい」と返事をするとドアが開き、先に女将が入ってきて、その後ろから若女将が入って来た。久美は若女将を一目見ただけで亜美だと分かった。そして立ち上がると若女将に向かって言った。
「亜美、あなた亜美ね。私の妹の亜美よね」
 若女将はそれを聞いて久美をじっと見た。二人の顔はそっくりとは言えないが、確かに似ている。ただ記憶のない美幸は自分の姉と言われても、すぐにピンとは来なかった。もし記憶が戻っていて姉だと分かるのなら、久しぶりの再会に泣きながら抱き合うような場面になるのだが。美幸は立ったままで、どう返事を返せばいいものか分からなかった。すると女将はその場の雰囲気を感じ取り、若女将を座らせて自分もその隣に座ると美幸に言った。
「こちらは滋賀県から来られた岡田さんです」「岡田様、この子が若女将です」
 そう言って二人を紹介した。しかしただ見つめあうばかりで黙っている二人を見て、再び女将が口を開いた。
「美幸、先ほどこちらの岡田様から話を聞きました。そして美幸のことも話しました。もう二人とも分かったと思いますが、まず間違いなくあなた方は姉妹でしょう。岡田様は長い間、美幸を探してようやくここに辿り着き、見つけられたのよ」
 女将は美幸にそう言うと、続けて久美に言った。
「この子も『自分に家族がいれば、きっと心配していると思うから』と言って、自分がどこの誰なのか分かるようにと、最近は事故に遭う前の足跡を辿って調べていましたの。そんなお二人の努力があったからこそ、こうやって再会できたのだと思います。美幸は記憶が戻らず、姉と言われても分からないので、どういうふうに感情を表に出せばいいのか分からないのでしょう。でも心の中では喜んでいるはずです。それは分かってやってくださいね」
「はい」
 久美は思った(記憶の中に自分の姉だという認識がない以上、見たこともない人から、いきなり姉だと言われているようなものだろう)と。
 そこで女将が「今から二人で話をしなさい」と言って、部屋を出ていった。そして少し沈黙の時間が流れたあと、久美が亜美(美幸)に話し掛けた。
「本当に大変だったわね。私は亜美がそんな事故に遭っていたとは夢にも思わなくて、でも元気そうで本当に嬉しいわ」
 すると亜美も口を開いた。
「お姉さん、本当に私のお姉さんなのね」
 久美は声を聞いて確信した。そう間違いなく二十年間聞き慣れた妹の声だと。
「そうよ。亜美の顔を見て、声を聞いて分かったわ。私は間違いなくあなたの姉、姉の久美よ。そしてあなたは私の妹だわ。住んでいた所は滋賀県の長浜市木之本町よ」
 住所を聞いた美幸は「あっ」と言って思い出した。そう、何年か前に自分が子供と一緒に勉強をしていた北陸線の駅名で、木之本という駅を地図で見た時に心のどこかで引っ掛かるものがあったこと、そして木之本町が夢の中に出てきたことを。自分が住んでいた町だったからこそ、高熱で寝ていた時に頭の脳が反応したのだと思った。    
 久美は話を続けた。
「私たちは姉妹で父の経営しているパチンコ屋さんで働いていたの」
 そう聞いた美幸は再びハッとした。以前夫に連れて行ってもらったパチンコ店に入った時、そこの匂いと飛んでいる玉の音に、私はなぜか懐かしさのようなものを感じたのだった。そうだったのか、私が記憶を失う前にパチンコ店で働いていたのであれば、あのとき感じた匂いと音も理解できる。そうよ、きっとそうで間違いないわ。私は木之本町に住んでいて、パチンコ屋さんで働いていたのだわ。美幸は記憶が戻らなくても自分がどこの誰だったのか、少しずつ分かってきた。
「お姉さん、わたし分かったの。何年か前のことだけど夢の中に木之本が出てきたの。行った覚えもない町を夢に見るわけがないわ。それにこの町のパチンコ屋さんに行った時、何か分からないけど懐かしい感じがしたわ。パチンコ屋さんにも行ったことがないはずなのに。そのいずれもが私の過去に関係していたからだったのね」
「そうよ、亜美の頭の中の脳が、少しずつ過去を思い出させるようなヒントをくれていたのかもしれないわ」
「私もそう思う。いつかきっと思い出せる日が来るかもしれないわ」
 そう話しながら二人の目からは光るものが落ちてくるのだった。
「お父さんもお母さんも元気でいるわ。亜美のことを早く知らせてあげなくちゃ」
 久美はそう言うとカバンから携帯電話を取り出した。両親はもちろん、夫も大変喜んでいた。そして美幸、いや亜美は結婚していることを姉に言って夫を紹介した。子供も二人いると知らされ、ここで幸せに暮らしていたことは明白だったので嬉しかった。
 それからもう一度、亜美の夫や義理の両親と一緒にお互いの家のこと、家族のことなど話をした。積もる話はたくさんあるが、時間の関係でいつまでも話してばかりはいられない。女将は久美に泊まっていくようにと言ったが、子供のこともあるので「今日は帰ります。後日、改めて両親と一緒にお邪魔します」と言って、後ろ髪を引かれる思いで電車に乗った。

       十九   未来
 数日後、久美は佐々木家に「お伺いします」と電話をしてから、両親とともに再び訪れた。夫には仕事と子供のことを頼んで、今回は来てもらわなかった。十二年前、行方不明になった娘に会った母は感動のあまり、ただただ泣くばかりで声が出なかった。父の目にも涙が光っていた。両親は亜美に聞きたいことや話したいことがたくさんあるのだろうけど、そのすべてを忘れてしまったかのように、ただ亜美の顔を見ているばかりだった。

 双方の家族はひと部屋に集まり、色々と話をする中で今後のことが話題になった。そこで佐々木家の女将が言った。
「岡田様にはひとつだけ、お詫びしなければならないことがあります。それはこの若女将のことですが、この子の記憶が戻らないまま私どもの息子の嫁に来てもらいました。こちらの都合で勝手なことをしまして、申し訳ありませんでした。遅まきながらもお許しください」
 久美の両親に謝ると、父の博があわてて言った。
「何をおっしゃいますか。許すも許さないもありません。娘の命を助けていただいたばかりか、家に引き取ってまでくださり、ただただ感謝するばかりです。もし佐々木様がおられなければ、この子はどうなっていたか分かりません。それにこんな立派な息子さんと結婚をして、子供もできて亜美は幸せ者です。こちらこそどうお礼を言えば良いものか、本当にありがとうございました」
「いいえ、困っている人がいれば助けるのは当然です。それよりもこの子には、この旅館で働かせてしまいましたことをお詫びします。この子は本当によく働いてくれました。みんなが嫌がる仕事だって率先してやってくれました。こんなによく働いてくれる子を私どもは手離したくなくて、息子と結婚してもらいました。それは冗談ですけど、若い二人が好き同士になったのなら結婚をするのは当然の流れです。ましてこんないい子ですから今では私も娘のように思っています」
 嬉しそうな顔をしながら話した。そして続けて
「実はこの子の名前のことですけど、これも勝手ながら私どもで付けさせていただきました。町役場にも佐々木美幸という名前で住民票を作っていただきましたが、本名も分かりましたのでこれからは名前をどうしましょうか?亜美さんという名前は御両親が付けられた大切なお名前ですから」
 そう聞いてきた。
 両親は少し考えた後、ぼそぼそと相談をして父が言った。
「確かに亜美という名前は私たちが付けました。しかし亜美の名前をこうやって呼べるのも、佐々木様に命を助けていただいたからこそで、もし亜美がもうこの世にいなかったら亜美という名前はすでに存在しなかったでしょう。それで私どもは今の美幸で構わないのではと思いますが、最終的には本人に任せたいと思っています」
「分かりました。私も本人に任せたいと思います。佐々木という苗字は変わりませんが、名前は本名の亜美に変えるのか、それとも今の美幸で通すのかということですね。じゃあ美幸ちゃんはどちらの名前がいいと思うの?」
「私、美幸のままがいいです。両親には申し訳ないけど、私の命を助けてくれた夫が考えて名付けてくれた、この名前を大事にしたいのです。お父さん、お母さん許してください」
「ああ構わないよ。これからも、ずっとこちらでお世話になるのだから、お前の好きなようにしなさい。私も今までこちらで呼んでいた名前が一番いいと思うよ。だけどおまえが里帰りしたら父さんも母さんも、つい亜美って呼んでしまうかもしれないな。そうだろう、母さん」
「私もお父さんと同じだよ。それよりも長い間、お前を見つけてあげられなくてごめんよ。随分辛かっただろう」
 謝る母の言葉に、美幸が答えた。
「ううん、いいのよ。事故に遭って病院で記憶喪失だと言われた時は確かに辛かったけど、それからの十二年間はこんなに優しい夫や両親に出会い、可愛い子供にも恵まれてとても幸せだったわ。これから先、もし記憶が戻らなかったとしても、将来自分の過去を振り返った時【それでも私は幸せだった】と、きっとそう思う。だってこんなに素晴らしい家族に囲まれて暮らせたのだから」
 そう言いながら、こんなに優しい家族の愛に包まれて生きていけば、いつの日か分からないけれど、記憶が戻る日は必ず訪れると美幸は信じていた。
                                         
                                         完
     
 最後に・・・
 小説の文中に在る建築物の名称は駅名と木之本地蔵以外、すべて架空のもので実在しません。
     
       

しおり