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「まったく……酷い朝だな。」

 新しい朝、希望の朝とはよく言ったものだ。通りを走る荷車の音や窓から見える朝焼けと差し込んだ朝日が、一日の始まりを知らせている。
 一夜漬けの酢の物の気分を十二分に味わった俺の機嫌は最悪だった。小鳥の囀《さえず》りが実に不快だ。左半身を浸す液体が少し鬱陶しい。
 元凶であるエレナの寝顔に肉球パンチをしてみる。にへらと寝顔をとろけさせ、嬉しそうにしている。そんな顔を見てしまい毒気を抜かれてしまう。
 ため息とともに右前足でエレナの頬をぐりぐりと押し込んでいると口が少しだけ開き、再びキラリと光る雫が。

「うげ、やめておけば良かったか……。」

 口を閉じさせようとエレナの唇に前足を当てると、

「んん~、いたらひまーぅ。」(いただきます)

 俺の前足を銜《くわ》えようと口を開けてきた。
 俺は前足を引っ込め回避する。あぶないあぶない。これ以上エレナ漬けになってたまるか。
 口を閉じたエレナがもごもごしている。夢では腹一杯食べているのだろう。
 俺は自分の両前足《・・・》でエレナの鼻を押さえる。
 鼻を押さえられては口を開けるしかないだろうに、エレナはもごもごさせた口を開けようとしなかった。こいつの食い意地も大概だな、と少しずつ紅潮していく顔を見ながら思った。
 数秒後、耐えきれなくなったのだろうエレナは口をほんの少しだけ開け、おちょぼ口で呼吸を試みる。

「……そこまでして口を開けたくないのか、ここまで来ると執念だな。」

 俺を抱きしめていた手が虚空を彷徨《さまよ》いだしたので、俺はエレナ風味の胴体で口を塞《ふさ》いでやる。
 『べちょ』という音と『ぽふっ』という音が同時に聞こえたが気にしない。
 エレナは震える手で俺を引きはがし、荒い呼吸のまま起き上がった。

「はぁ、はぁ……おはよ、はぁ、なんだろ、すごく、負けられない戦いだった気がするけど、思い出せない。」
「……おはようエレナ? 負けなかったのかもしれんが、|色々と《・・・》負けていたぞ?」
「え、どういう?」
「まぁ、そんなことより、この惨状を綺麗にしよう。」
「あはは……ごめんなさい。」

 俺とエレナそしてベッドが、あっという間に綺麗になった。心まで洗われるようだ。ありがとう黒球、助けなかったことは水に流そう。今の俺は許せる子なのだ。
 黒球をベシベシと叩きながらエレナに顔を向ける。手を頬に添えた状態でぽわぽわしている。碌《ろく》なことを考えていないだろう。

「あぁ、前足をパタパタさせて可愛いなぁ。」
「おーい、エレナー戻ってこーい。」

 戻ってきたエレナは着替えを済ませ、窓を開けた。
 新鮮な空気が室内を満たしていく。窓の縁《へり》に手をついているエレナの髪は風に揺らめき、服の裾《すそ》も靡《なび》いている。

 俺が窓に近寄るとエレナは少しずれて縁《へり》を空けてくれる。
 エレナは縁に飛び乗った俺をそっと抱き寄せ、耳や背中を撫で始めた。

 朝日に照らし出された街は徐々に活気づくだろう。荷車が遠くに、眼下に人がちらほらと歩いているのが見える。出勤だろうか。眠そうに立っている見張りの兵士は交代の兵士と何やら話している。ご苦労様です。
 そんな事を考えていると、どこからかシーツを叩く音が聞こえてきた。

「ん? シーツを叩く音?」
「あぁ、カミラさんだと思うよ。あっちで干すの。」

 エレナが指差す方向には、勢いよくシーツを広げるカミラさんの姿があった。朝早くから洗濯したのだろうか。
 いくつかのシーツを干し、シーツを入れていたカゴを持ったカミラさんが俺たちを発見する。
 俺が手を振ってみると、小さく手を振り返してくれた。

「下に行ってみるか。」
「そうだね、行こうか。」

 俺とエレナが下の階へ行くと、カミラさんが入口からホールに入ってくる所だった。

「もう用意してあるから食べちゃってね。洗い物はお願いね。」
「はーい。」
「あと……これ、今日の課題ね?」
「うぐっ……がんばります。」
「あら、今日は素直に受け取るのね?」
「……がんばります。」

 茶化したカミラさんが驚くほど真剣な顔で返答したエレナが食堂に歩いて行く。
 カミラさんが俺に向き直り聞いてくる。

「エレナはどうしたの?」
「ん? いつも通りだろ?」
「|あの《・・》エレナが……。」

 エレナが歩いて行った方向を見て考え込んでいるカミラさんを眺めていると、食堂の入口で振り返ったエレナが俺を呼ぶ。
 まだ考え込んでいるカミラさんを放置して食堂に入ると、リーネが手前の席に座っていた。向かい側の席に蓋をした深皿が置いてある。旨《うま》そうな匂いがしている。

「あー、エレナーおっはよー。」
「おはようリーネ。」
「今日|は《・》早いんだねー?」
「うん、これからは早起きする!」
「お? エレナがやる気だしてるー。」

 エレナがリーネの向かい側の席に座り蓋を開けると、ポトフのようなスープから湯気とともに香辛料やソーセージの香りが鼻腔をくすぐる。
 あぁ……絶対うまい匂いだ。エレナも顔が綻《ほころ》んでいる。ポトフと一緒に食べるなら……粉チーズをかけたリゾットだろうか。オーブンで焼き目をつけると良い匂いがするんだよなぁ……。はぁ、考えたら食いたくなってきた。



――― 5分後 ―――

 宿舎の食堂でエレナとリーネが朝食を食べている間、俺はエレナの膝の上で丸まっていた。

 ポトフ風スープの匂いに釣られてリーネの足元で『お座り』の姿勢になると、黒パンをちぎってスープに浸した後、俺に分けてくれた。
 リーネの手にあったパンは、鼻先を近づけただけで光に分解され俺に吸収された。
 食べたかった……。食べたかったのだ。
 面白い食性らしく、リーネに何度かパンを貰ったのだが、やはり全て光と散った。
 しょんぼりした俺はエレナの膝の上で丸まり、いじけているのだ。

「さっきの光が吸い込まれていったのって、キツネさんが食べたわけではないの?」
「味がしない食事なんて食事とは言えないだろ。」
「……まぁ、味がしないのは、ねぇ?」
「考えただけで嫌だねー。」
「ぐっ……わざわざ言ってくれてありがとうよ。」
「あはは……ごめーん、でも匂いは分かるんだねー?」
「そうだな。そのスープは良い匂いだ。」
「そかそかー。メモしておこー。」
「ねぇ? キツネさん。何でも吸い込んじゃうの?」
「ん? どういう意味だ?」
「えっとね……石とか草とか、あとは水とかも吸っちゃうのかなーって。」
「あー、試したことは無いな。」

 エレナが飲みかけのコップを近づけてくる。水を飲むため鼻先を近づけると、分解されなかった。舌をつけても分解されず、舐《な》めることができた。

 大発見である。
 パンはダメでもスープは飲めるのではないか。確認する必要がある。

 俺はエレナのスープを分けてもらい、鼻先を近づけた。脂で光り輝く厚切りのベーコンやホクホクのじゃがいも、ベーコンのうまみを含んだ野菜そしてスープ。あぁ、食べたい。俺は口を開け、エレナの持つスプーンを迎え入れる。

「いただ……。」
「あらら……。」

 結論から言おう。スープは淡い光とともに俺に吸収された。口を開けたまま呆然とする俺。エレナも何と声をかけて良いか分からず困っている。リーネはまたメモを書き始めた。

「と、とりあえず水でもどうぞ……。」
「……ぐすん。」(チロチロ)

 エレナが水を分けてくれる。チロチロと水を飲んだが、無性にやるせなくなり、エレナの膝の上で丸まる。心泣《うらな》きだ。エレナが背中を擦《さす》ってくれる。

「リーネ、どうしたら良いんだろう。」
「んー、ちょっと試してみようかー。」
「え? 何を?」
「ちょっとねー。」

 メモを書き終え、席を立ったリーネが俺の近くに顔を寄せてくる。リーネは至近距離で俺の顔を見て言った。

「口開けてー?」
「はぁ?」
「ほらほら、あーん。」
「なんなんだよ……あー」
「それー。」

 リーネは軽快な声とは裏腹に、結構な速度で何かを俺の口に投げ込んだ。思わず口を閉じ、それを噛《か》む。すっぱい果物だな……リンゴのようなトマトのような。リーネは笑顔で俺を見ている。

「噛んでみてどうかなー?」
「ん? 味が……分かる。」
「おー成功だー」
「え? 何で? キツネさん食べられないんじゃなかったの?」
「多分、食べようと思う前に口に入れたからだよー。」
「食べようと?」

 口に入れられた果物は『アプェル』という正式名称らしいが、『アプ』と言えば通じるらしい。
 エレナとリーネは何やら考察しているようだが、俺は自分の口をペタペタと触りながら、久々の味を嚙みしめていた。
 至福の時間が過ぎてしまい残念に思っていると、エレナが俺を見て笑顔になっている事に気づいた。

「ん? どうした?」
「キツネさん、幸せそうな顔してたから。」
「食べられないと思ってたからな。」
「そうだね、これからは食べられるって事なのかな?」
「その事なんだけどー。」

 リーネが手を挙げて俺たちの視線を集める。
 俺はエレナの膝の上で立ち、スープを飲もうとする。
 リーネが俺からスープ皿を遠ざけ、ギリギリ届かない位置に……。おのれっリーネめ。俺は机に突っ伏してリーネを半眼で見る。

「はーい、ちゃんと聞いてねー?」
「ぶーぶー。」
「聞いてくれたら、外で何か買ってきてあげるよー?」
「はいっ! 食べ……聞きたいです。」
「よろしー。」

 リーネの考察は、『口を開けた状態で、食べ物を鼻先に持っていくと吸収されるのではないか』というものだった。
 試しに口を閉じた俺の横からエレナにパンを口に押し付けてもらう。リーネの考察通り分解されることは無かった。

「光らないね。」
「実験成功だねー。メモしとこー。」
「食べるって素晴らしいな! もぐもぐ。」
「あー! 私のパン全部食べちゃダメだよ!」
「ふっふっふー食べた者勝ちなのだ。」

 騒がしい朝食を終え、リーネはギルドへ出発する。|約束の品《・・・・》が楽しみだ。
 エレナが朝食の片づけをしている間、食事の余韻《よいん》を楽しむ。
 鼻歌でも歌いたくなるほど上機嫌なので、俺の尻尾も軽快に揺れていた。

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