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獄図 (了)

 荒野を見下ろしながら、飛ぶ。

 ここは、狐の精霊と闘いそれを封じた場所だ。







 陰陽師か

 そうだ







 風の中に、言霊がかそけく漂う。







 お前の名など呼ばん

 なぜだ

 名を呼ぶと、つながるからな







 さらに飛ぶ。

 二股に分かれた桃の木が見える。

 ここは、兎の精霊と闘いそれを封じた場所だ。







 なるほど、そういう技が使えるのか

 お前、どうして

 こう見えても俺には霊気が読めるしな 







 川に出る。

 ここは、無常鬼と闘いそれを封じた場所だ。







 俺も天心地胆の向こうを見てみたかった

 お前自身が鬼魂になるまで待ってろ







 山の上を飛ぶ。

 ここは、初めて模糊鬼と出逢い闘った場所だ。







 面白いだろ……引き千切ってやった

 それじゃ、それだけ痛めつけられるのも無理はないな







 海に出る。

 洞窟の入り口が見えた。

 ここは、初めて雷獣に出逢った場所だ。







 そこまで人間を怖れるとはな

 お前は怖くはないのか







 町中に出る。

 ここは、多くの鬼どもと、また降妖師と闘った場所だ。

 しばらく行くと、小さな屋敷が見えた。

 ここは――





 小綺麗に慎ましやかに整えられた、庭。池。小藪。

 小ぢんまりとした、縁側。

 日に当たりながら茶を飲み、月を眺めながら酒を飲んだ。







 月と太陽の言い伝えを知っているか

 知らん



 今宵の、下弦の月に

 ああ……下弦の月に







 傷を癒し、ぐっすりと眠り、あれこれと談義を交わした。







 お前が処方してくれた薬草が効いたんだろうな

 効きすぎだ







 ――こんなに、小さな屋敷だったんだな。



 空中から見下ろしながら、そう思う。

 そしてまた、飛ぶ。





 龍馬となってしまったため、人間たちに交じって町の建物を片付けたり怪我人の手当てをしたりする事ができない。

 それが今のリューシュンにとっては、いたたまれないほど無念なことであった。

 なので気を紛らわすため、何処へ行くあてもなく、飛んでいる。





 砂漠に出る。

 ここはリシとトハキに初めて出会った場所だ。





 ここに来た時はもう“訣別”をした後だった。







 そういう、ことだ

 そういう、ことって

 俺が陰曺地府へ行き、テンニから閻羅王を守り斃させぬ







 気づくと、もう陽は暮れ星が瞬いていた。

 ずっと飛び続けていたことに、今初めて気づいたような気がした。

 ふ、と苦笑する。





 下に見えた海辺の砂浜に、降り立つ。

 静かな波音が夜風と共に心地よい。

 馬の脚を折り、温かい砂の上に伏せる。





 --最後に話したのは、何だったっけか。





 星明りにぼんやりと揺らめく波を見ながら、リューシュンは想った。

 最後に話した、時。

 それは、あいつが己自身に呪いをかけた、あの新月の夜だった。

 あの時、儀式を執り行う前に交わした会話、それが二人の最後の会話だったのだ。





 --確か、女を抱いた抱かない、そんな話をしたんだったな。



 リューシュンは思い出し、龍の口をにやり、と笑いに広げた。



 --あいつ、本当に人間の女を抱いたのかな。式神じゃなく。



 くっくっ、と、馬の肩を揺する。



 --何も答えなかったところを見ると。



 それから、白き龍の首を持ち上げ空を見た。

 あの時と同じように今宵は月がなく、星が全天をあます所なく覆い尽くしている。





 --お前の声はもう、聞けないんだな。



 それを見つめながら、想う。



 --もっと……もっといっぱい、話せばよかったな。



 星々は答えず、誰の声も返っては来ない。

 リューシュンの問いかけを聞く者は、唯独りリューシュンだけであった。







「何を想っているのですか」







 穏やかな声が、傍からそう語りかけた。



「え」リューシュンは驚いて下を見、そして「あっ」と声を挙げた。







 玉帝が、砂の上に佇んでいたのだ。







「――兄、さん」リューシュンは小さく呼び、龍の首を下げて玉帝の傍に顎を置いた。





「龍駿」玉帝が呼び返す。「よくやってくれました」



「俺は、何の役にも立っちゃいない」リューシュンは眼を閉じた。



「お前はよくやってくれました」玉帝は繰り返す。「私の望みをかなえようと力を尽くしてくれました」その清らかな手が、白龍馬の顔に触れる。





 それだけで、まるで上天に行ったのかと思うほどの安らぎと幸福感が全身を包んだ。





「――俺は」リューシュンは薄く眼を開けた。「若く幼く浅はかで、世間知らずの馬鹿だった」





 今だったら、すべてを話せる。

 何もかも。

 想いの、すべてを。

 自分のありのまま、さらけ出して――





 玉帝の手は、温かい。





「俺は、前のことをなんにも覚えていない」リューシュンは砂浜に龍の鼻を擦り付けるようにして俯いた。「あんたに、随分迷惑をかけてたんだろ」



 玉帝は何も答えない。



「なにも覚えてはいないが、今ならなんとなくわかる気がするんだ……俺はその時、ある言葉を言うことができなかったんじゃないかな」



「言葉?」玉帝が訊く。



「ああ。その言葉、その魂--言霊を、俺はその時知らなかった。そんな風に思う」



「どんな言霊ですか?」玉帝がまた訊く。



 リューシュンは顔を挙げ玉帝を--兄を見た。「ありがとう、と」



 玉帝は碧の眸でリューシュンを真っ直ぐに見た。



「俺は、その時もしかしたらあんたに『すまなかった』『許してくれ』と、そんな言葉だけを投げつけてたんじゃないかな。だけど本当に俺が言うべきだったのはそうじゃなく……『ありがとう』だったんだ」



「--」



「今なら、それがわかる。その言霊の、本当の意味が」リューシュンはもう一度俯き、砂に鼻を擦りつけた。





「ありがとう」声がした。





「え?」リューシュンは顔を上げた。



 玉帝が微笑んでいる。



「そのことに気づいてくれたお前に、私は感謝と、誇りを感じます」兄は弟に言った。



「--」



「私はお前の過去の記憶をすべて消し去りました。けれど今ひとつだけ、お前の望みを叶えましょう」



「望み……?」リューシュンは茫然と繰り返した。



「はい」玉帝は頷く。「何かひとつ、お前の望みを教えてください」



 リューシュンはしばらく、兄の眸を同じ色の眸で見つめていた。





 その眸は微笑んでいる。





 それに似た微笑を、リューシュンは知っていた。

 かつてよく、近くで見ていた。

 そんな風に微笑む眸に向かい、話しかけていた。

 不平を言い、冗談を言い、憎まれ口を言い、笑い、怒り、相談し、たくさんのことを話した。







 その名を、もういちど口にしても、良いのか。







「--」口を開く。

 龍の口が、震える。

 白龍馬の碧色の眸から、涙が零れ落ちる。







 そして元聡明鬼は、微かな声でその名を呼んだ。





          ◇◆◇





 息が苦しい。

 息をするのが辛い。

 ここでは息をする事自体が懲罰なのだ。



 震える足を前に踏み出せば、脛を切られる。

 枝のごとくに痩せ細った骨と皮ばかりの手で目の前をまさぐれば、腕を切られる。

 俯けば背を切られ、仰のけば頸を切られる。

 その度大量の血が吹き出で、もはや枯れて声にもならぬ悲鳴を挙げるが、目を閉じてまた開ければやはり同じくそこにいる。



 血潮で目が見えなくなっても、それを拭うことすらできない。

 目の見えぬままさ迷い、躓き、転べば罵倒を浴びせられ倒れた全身に棘の鞭が執拗に叩きつけられる。



 いつからこうなのか、いつまでこうなのか、そんなことを想ったことがあったかも知れない。

 だがもう今は、何もかもが霞んでいる。

 血と、炎と、刃と鞭、ただそれだけしかここには存在しないのだ。

 自分の内側も外側も、熱と痛みと苦しみとで出来ていた。





 もうひとつ、何かが隠れて存在しているような気も、する。





 だがそれが何なのかは、わからない。

 それを思い出そうとすることも、許されない。

 考えようとする頭は真二つに叩き割られ、血飛沫を上げ、すべてを毟り取られていくのだ。



 だからその、影に隠れている何かの存在は、すぐに見えなくなる。

 だがまた、何かの拍子に、そこに何かが――何処にあるのか――そっと隠れて身を潜めている、見つからないように用心している、それでも見つけて欲しがっている、そんな気がふと、するのだ。

 そしてまた脳天から鉄の棍棒が叩き落される。







    と、くるしみ







 隠れている何かがふと見えそうになる時、誰かの声が遥か遠くでそう言っている気がする。

 次の瞬間には顔面に沸いた油をぶっかけられる。





 自分は今、死んだ。

 何度となく、そう思う。

 そう、確信する。





 けれど、少し経てばまた意識が戻る。

 相変わらず足に酷い火傷を負いながら、果てしなく歩き続けているのだ。





 熱を吸い、血を吐く。

 体の中にもはや水はないにも関わらず、血だけはずっと流れ続ける。

 永遠に。

 永久に。

 永劫に――







 リンケイ







 声が聞こえた。







 ふと、足が止まる。

 すぐに刃が斬りに来る。



 足を失い、転ぶ。



 その際見上げた地獄の空の上に、何か小さなものがきらめいた気がした。

 だがそう思ったのも束の間、その眼を抉り取られる。



 闇の中、震えながら立ち上がろうとする。

 背中に焼けた金棒が押し付けられる。







 死――







「リューシュン」







 気を失う寸前、唇が勝手に動き、そう答えていた。





 きっと、何かが違う。

 これまでとは、何かがきっと。







 熱き地に倒れながら、元陰陽師は微笑んだ。





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