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その名

「え」またリョーマは驚いて顔を挙げた。



「あれは良い言葉だったと、今では思うからな」





 スルグーンに仕えたらどうだ





「――」

 そう言った自分の声が、聞える。





「だから、今は言わないがもう少し時が経って、まだお前が今のままの状態でいるなら、その時に言ってやる」





 ケイキョに仕えたらどうだ





「――」

 そう言っているフラの声が、聞える。





「そしてお前を不愉快にさせてやる」

 フラはつけ加えて、ふん、と鼻を鳴らし笑った。





「――何だよ」リョーマはごく小さく、不平を言った。「慰めてんのか喧嘩売ってんのか、わかんねえよ」



「やるか」フラはぐいと龍の顎を挙げた。「久しぶりに、勝負だ」



「やんねえよ」リョーマは龍の眉をしかめてくるりと背を向けた。「腹減ったから、飯食ってくる」



 そしてリョーマは犬に姿を変え、屋敷の方へと走り去った。



「ふん」フラはその背に向かって呟いた。「龍馬が、腹なんか減るかよ」



「え、そうなのか」リューシュンが龍の眼を丸くして訊いた。「龍馬は腹が減らないのか」



「そりゃそうだよ」フラが呆れたように振り返り答える。「精霊だもんな」



「そうかあ」リューシュンは龍の首を下に向け自分を見下ろした。「腹がぺこぺこになってから食う飯ってのは、随分と旨いんだがなあ……もうそういうのは味わえないのか」



 はあ、とフラは短くため息をついた。

「俺も、飯を食って来る」

 そうして黒犬の姿に化し、走り去る。



「――」ケイキョは犬を見送り、白龍馬を振り返り、また犬の方を見、「あ、あっしも……行きやす」と言い残して駆け去った。





 後には、リューシュンとスルグーンが残った。





「リューシュン」スルグーンが呼ぶ。



「うん」



「お前、なんで名乗らないんだチイ」小さな雷獣は、巨大な龍馬を見上げて問うた。「あの三足に」



「――ああ」リューシュンは改めて、三足が向かった邸の方に眼を向けた。「忘れてたよ」



「忘れてたキイ?」スルグーンが素っ頓狂な声で訊き返す。



「うん」白龍馬は龍の首で頷いた。「悪いがスルグーン、お前から皆に教えてやっといてくれよ」



「――」



「俺の名を」



「――」スルグーンはしばらく呆れたようにリューシュンを見ていたが、やがてはあ、とため息をつき、そのまま背を向けて邸の方へ飛び去った。





          ◇◆◇





「聡明鬼さんは……」言い出したのは、鼬だった。「なんとも、ないんでやすか、ねえ」



「――」他の三足は、すぐに返事をしなかった。

 恐らく皆、ケイキョと同じことを思っていたからだろう。



「なんともない、てなこたあないと思いやすが……あの様子を見てると、どうも」



「キオウ様がテンニにやられた時には、あれほど打ちひしがれていたのにな」フラが言う。



「うん」リョーマも頷く。「あの時の方が、哀しそうだった……なのに今は」



「なんていうかチイ、暢気な感じだキイ」スルグーンが嘴をすぼめるようにして言う。「あんなもんなのかチイ」



「哀しく、ないんでやすかねえ」ケイキョが言い「いやまさか、そんなはずは」



「わかんねえぞ」フラが続ける。「あんまり鬼どもと闘い過ぎて、感覚が麻痺しちまったんじゃないのか」



「そうかもな」リョーマが仔犬の前足に顎を乗せた格好で言う。「あまりたくさんの人間が殺されたから、もうリンケイさまが殺されたことなんか、何とも思わなくなっちまったんだろう」



「まさか」ケイキョが声をなくした。



「元の龍馬の姿に戻ったから、鬼だった時とは感じ方や考え方も変わったのかもなキイ」スルグーンが呟くように言う。



「そ、そんなことがあるんでやすか?」ケイキョが驚いて問う。「スルグーンさんも、感じ方や考え方が変わったんでやすかい」



「俺は元からこの姿のままだチイ」スルグーンが嘴をますますすぼめて言う。「打鬼棒にも打たれてないキイ」



「そ、そうでやしたね」



「どっちにしても」リョーマがはあ、とため息をつく。「がっかりしたな……あんなにリンケイさまに助けてもらってたのに」



「――」三足は、答える言葉を返せなかった。





 はあ、とケイキョがため息をついた。





          ◇◆◇





「行ってしまったなあ」茫然と、コントクが呟いた。



「――聡明鬼か」ジライも、茫然と答える。「そうだな……行ってしまったな」



「我々に、何も言わずに行ってしまった」



「ああ……我々も、何も言えずに行かせてしまった」



「ああ」



 鬼の兄弟は今、陰曺地府に無数に転がる鬼の骸や血に染まる地面や森羅殿の外壁などをきれいに洗う仕事を、他の鬼差や小鬼たちと一緒になって行っていた。

 牛頭馬頭らも今は三叉を掃除の道具に持ち替え、せっせと陰曺地府を元通りの姿に戻そうと頑張っている。



「また、ここに来ることがあるだろうか」コントクは曲げていた腰を伸ばし、とんとんと鬼の手で叩きながら言った。「あの姿で」



「どうだろうなあ」ジライも身を起こし、肩を自分の鬼の手で揉みながら首を傾げる。「けど、ここから出て行くことができたんなら、また陰陽界を通ってここに来ることもできるんじゃないのかな」



「うむ」コントクは頷く。「聡明鬼にはまた、会えるだろう……だが」



「……うん」



「陰陽師殿には」



「リンケイ」ジライがその名を口にする。



「え」兄は眼を上げる。



「女鬼が、確かそう呼んでいた……陰陽師殿の名だろう」



「そうか」コントクは頷く。



「そして」弟は続ける。「リューシュン」



「リューシュン」



「リンケイ殿もまた、聡明鬼のことをそう呼んでいた」



「そうか」コントクは再び頷く。





 陰曺地府が元通りの姿に戻るには、まだまだ時間がかかりそうだった。

 鬼の兄弟は揃ってはあ、とため息をついた。

 そしてまた腰をかがめ、大地を洗う仕事に戻った。





          ◇◆◇





 トハキが、黒龍馬の首を持ち上げた。



「どうした」リシが、瓦礫を拾いながら顔を上げて問う。

 だがすぐにわかった。





 見上げた夜空に、その姿が今はっきりと捉えられたからだ。



「あれ、は――」身を起こし、眼を見開く。







 真っ白な、龍馬。







 煌く星々の中にあって尚、際立って美しい姿が、飛んでいる。

 そしてそれはみるみる近づき、ついにリシの立つ大地の上へと滑るように降り立ったのだ。





「ナーガ様」





 そう呼んだのは、トハキだった。



 リシが驚いて振り向くと、従者の黒龍馬は首を垂れ地に伏せ、今しがた降りて来た新参の龍馬に尊崇の意を示していた。



「ナーガ……?」



 その神の名は、マトウより聞いた事がある。

 上天にて玉帝に寵愛され、その後怒りを買い上天から堕とされたというものだ。

 それが今、この目の前にいる白い龍馬だというのか――?







「リシ」白龍馬は、呼んだ。







「――」

 リシは大きく眼を見開いた。

 その声に、聞き覚えがあった。

「――お前……か」

 声を震わせ、問う。





「ああ。俺だ」龍馬は答える。





 そしてリシは、その龍馬が碧の色の眸を持っていることに、心のすべてを奪われていた。

 そこに、碧の眸をにっこりと細め笑いかけてくる鬼の貌が、重なって見えるのだった。





「――帰って……来たんだな」



「ああ。帰って来た」頷く。



「でもどうして、そんな……龍馬の、姿に」



「鬼の俺は」龍馬は少し俯いて眼を閉じた。「打鬼棒で、打たれた」



「な」リシは愕然とした。「なん、だって」



「それで俺は、この姿になった」白龍馬は首を巡らせ、己の馬の体を尾の先まで見渡した。「たぶんこれが、俺の元々の姿なんだ」



「――」リシは言葉を継ぐことも忘れ、白龍馬の体を見上げた。



「俺はこの姿で、上天に棲んでいたんだ」龍馬はそう言い、もう一度にっこりと笑った――そのように、リシの心には伝わった。



「そう……か」





 マトウの身につけていた碧玉と同じ色の、眸。

 そういうことだったのだ。

 すべてを理解したリシは、ただ大きく頷いた。





「鬼の姿の俺は、幻だったんだ」続けてそう言う元聡明鬼は、それでも少し寂しげな表情を見せていた。



「そんなことはない」リシは首を振って言い、自分の頬を手で抑えた。「お前の手の温もりは、今でも――これからもずっと、私が知っている」



「――」白龍馬は驚いたようにリシを見つめた。「俺の」



 リシは頷き、それから両腕を高く上げ、龍馬に向かって拡げた。「――聡明鬼」



「リューシュンだ」白龍馬は言いながら、リシの腕の中に龍の顔を近づけた。「俺の名は、リューシュン」



「リューシュン」リシは呼び、龍の鼻先に腕を回した。



「怪我するぞ」リューシュンは言った。



「大丈夫だ」リシは笑った。「龍馬の愛で方は、知っている」そうして白龍馬の鬚を、愛しそうに手でゆっくりと撫でる。



 リューシュンは気持ち良さそうに眼を閉じ、リシのするがままに任せた。



「お帰り」リシは囁いた。「リューシュン」





 トハキは少し退ったところで、主人と龍神の様子を見ていた。

 そしてゆっくりと夜空に顔を挙げ、ふう、と密やかに吐息を洩らした。





 ――良かった。





 黒龍馬は、安堵の想いに包まれていたのだ。

 主リシと、そして龍神ナーガが今、ここに出逢えたことを、トハキは心から喜び、玉帝に深く感謝を捧げた。

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