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血の色

 他のどの鬼の姿も、眼には入らなかった。

 その眼に見えているのは唯一足、刀を手に素早く移動し続けるテンニのみであった。

 リューシュンはその姿を追い、焔を噴いた。

 だがもどかしいことにテンニはいつも寸前でそれをかわし、不敵な笑みさえ浮べながらリューシュンから遠ざかる。

 リューシュンは怒りの咆哮を挙げ、テンニを追い、焔で襲った。

 その焔がテンニ以外の鬼どもを焼き殺そうとも、今のリューシュンには何も考えられなかった。







 貴様。







 ただそれだけを、リューシュンは思っていた。







 貴様。貴様。貴様。







 これほどまでに、目の前にいる者――それが生きている者か死んでいる者かに関わりなく――に向けて怒りと憎しみを覚えたことが、今まであっただろうか。



 否。



 リューシュンはただひたすらに、テンニを己の口から吐く焔にて焼き殺す事のみ望んでいた。







 鬼差のスルグーンの姿が心の隅にいる。

 そしてそれよりも大きく、キオウの姿が見えている。





 だが今心の中で最も大きく姿を現しているのは、リンケイのものだった。





 リンケイはいつものように微笑んで、リューシュンの言葉を、報せを、或いは他愛もない世間話を、待っている。

 その姿が、リューシュンの中に今くっきりと、見えているのだった。





 それを亡き者としたのが、このテンニだ。

 テンニの、その手に持つ刀だ。





 鬼となったリンケイを、テンニはすぐに打鬼棒にて消そうとした。

 だがそれは十八層地獄への入り口が開いたことにより叶わなかった。

 それをしたのは無論、閻羅王だ。





 閻羅王は知っていたのだろう。

 リンケイが、このテンニにより命絶たれる運命にあるということを。

 それだからその後のことを予測し、審判をせず十八層地獄へと送ったのだ。







 ――貴様!







 すべてはこの、テンニの所為だ。

 テンニの打鬼棒による、ふざけた野望の行われようとした所為だ。

 このテンニがリンケイを鬼と化し、十八層地獄へと落としたのだ。





「貴様あぁッ」





 リューシュンは咆哮し、ごう、と焔を吐いた。

 テンニは身軽に飛び退り、刀で邪魔な鬼どもを切り倒しながら逃げてゆく。





「燃やせ、リューシュン」雷獣のスルグーンが背で叫ぶ。「もっとだ、リューシュン」





 その声を聞くと、何故だろう――体の中を何か、丸いものが弾むような気がする。

 それを、愉しいと言い現すことは無論、憚られる。

 第一今この時、この状況をもって「愉しい」などということは決してない。

 けれどリューシュンは、その感覚を知っていた。

 自分はかつて、今のこの感覚をスルグーンと共に味わったのだ。



 上天において。







「いいぞリューシュン、もっと燃やせチイ」

「すげえな、スルグーン」

「すげえぞキイ」

「はははは」

「はははは」







 自分とスルグーンとは、上天でそのように愉しげに笑い合い叫び合い、そしてすべてを燃やし尽くした。

 だが今はここ陰曺地府で、愉しい気持ちとは真反対の極にある、憎しみと哀しみと怒りとに包まれながら、同じくスルグーンと共に叫んでいる。





「燃やせえッ、リューシュンッ」

「待ちやがれテンニ、貴様あッ」





 どこまでも飛び、どこまでも焔で焼き尽くす。

 あの時と、同じだ。





 もはや記憶にはない、あの時と。





 記憶にはないのに、感覚だけは知っている。

 リューシュンは焔を吐きながら、龍の首を右に左にと振った。

 消えてなくなりはしない。

 憶えてはいないのに、決してこの感覚は消えないのだ。







 だが、リンケイは消えた。

 リンケイも、キオウも、スンキも――消えてはならぬものだけが、消えてしまった。







「うがあああああッ」





 叫ぶ。

 怒りに任せて、吼える。

 哀しみと苦しみを焔として吐き出し、すべてを焼き尽くす。





 いつしか陰曺地府は、碧の焔の色で覆い尽くされた。

 鬼どもが泣き喚き暴れ回り、ある者は焼かれある者は血となって流れ、あれだけひしめいていたのがすっかり始末され減っていた。





 テンニが、大地の上で大きく刀を振った。

 それはリューシュンに届かなかった。



 だがリューシュンは素早く視線を辺りに巡らすことを怠らなかった。

 奴の狙いは、そうだ。



 ――俺が俺自身の傷つくことよりも怖れている事を、奴は知っている。



 だから奴はきっと――





 向けた視線の先に見えたのは、コントクとジライの兄弟の姿だった。

 それはリューシュンの焔がほんの僅か届かぬだろうところに居たのだ。



「コントク、ジライ、避けろ」叫ぶ。「打鬼棒が来るぞ」



 白龍馬の叫びに鬼の兄弟ははっと緊張し三叉を構え直した。







 びょう







 聞き慣れた音が、風を切る棒の音がした。



「避けろッ」



 飛びながら、全身で叫ぶ。







 ばしん







 大きな音が、続いた。

 それは打鬼棒が、何かにぶつかった音だった。





「――あ」





 リューシュンは龍の眼を大きく見開き、空中に立ち止まった。





 閻羅王が、そこに立っていた。







 がらん







 打鬼棒が、勢いを殺がれ情けなく地に転がる。



 誰も声を挙げることができなかった。

 今起きたことを、皆自分が目にしたのかどうか、よくわからずにいたのだ。

 リューシュンも、同じだった。

 今、何が起こったのか――





 閻羅王を、打鬼棒が打ったのか?

 否、では閻羅王がいまだそこに立っている事はないはずだ。

 では一体、何が――





「閻羅王」

 やっと、その名を口にすることができたのはテンニだった。

「貴様は今、打鬼棒に打たれたのか」



「打鬼棒?」

 閻羅王はテンニを見て訊き返した。

「これか」

 そして閻羅王は地に転がる打鬼棒に手を伸ばし、拾い上げた。





 陰曺地府にいるすべての者たちが、息を呑む。

 だが閻羅王はそこに居り、血になることも消えることもなかった。





「消えぬのか」テンニまでが声もなく呟いた。



「消えぬな」閻羅王は打鬼棒で他方の掌をぱしぱしと叩いた。「儂を消せるとすれば――そうさな、玉帝の法力ぐらいのものだろうの」



「――玉帝、の」元降妖師は眼を大きく見開く。



「見誤ったのう、テンニよ」閻羅王は打鬼棒の先を相手に向け、告げた。「貴様が力を頼むべきは、ムイでも打鬼棒でもなかった」



「――」



「玉帝側に心を置く者――つまり、陰陽師リンケイであったという事じゃ」



「――」



「もしくは、聡明鬼リューシュン……否」閻羅王は再び打鬼棒で掌をぱしぱしと叩いた。「奴は玉帝から追い出された者じゃから玉帝の助けは得られなんだやも知れぬな」





 そう言って、かかかか、と閻羅王は高笑した。



 テンニは、何も返す言葉がない。



「さて」閻羅王は笑いを止め、元降妖師にぐいと視線を向け直した。「お前をどのように始末してくれようかの。打鬼棒がよいか、それとも十八層地獄へ行くのがよいか」



「――」テンニは眼の下を震わせたが、閻羅王の隙を狙っている眼は尚もぎらついた光を持っていた。





「閻羅王様、そ奴を簡単には殺さずにいて下さい」

「とことん苦しめて、泣きたくとも涙の出ぬほどまでに痛めつけ、苦しみ抜いて死ぬようにしてやってください」

「死んだ方がましだと思うまで死なせず、今まで殺した者の数だけ詫びをさせてから殺して下さい」

 わあわあと鬼どもが叫ぶ。





「ふむ」閻羅王は少し上を見た。「しかし十八層地獄にはあ奴、リンケイが先に行っておるのう。あ奴はもう充分に闘ってくれた。今更お前と十八層地獄でまで闘いたくもなかろうて」

 打鬼棒を顔の正面から頭上へと振り上げる。

「ならばこの棒にてお前を打つことにしよう」





 閻羅王の紅き眼が、燃え立つように光った。

 テンニはその途端、身動きを封じられた。



 テンニが自らの体を律する力を、閻羅王の紅き眼は消し去ったのだ。

 だが同時に閻羅王は、テンニが最期の時に見るべきものを確かに用意しておいた。





          ◇◆◇





 何も考えずにいられた降妖師時代を想う。

 今となっては体中を這いずり回っていた虫どもとの戯れすらも懐かしい。

 他に何も考えられなかった――愉しみがあるなど考えもしなかった。

 けらけらと笑い合いちゃらちゃらと気楽に生きている奴等を疎ましく思った。

 自分とは縁のない世界なのだと思っていた。

 現(うつつ)など見たくもなかった。

 もし現に眼を向けたとして、それが自分の望むものではなく、それどころか自分を否定し貶めるものであったなら、どうする?

 どのようにして、生きてゆけばいいのか?

 現など見なくとも済むように必死で手段を探し回り、辿り着いた答えがムイだった。

 ムイがあれば、自分は立っていられるのだ。

 ムイが手許にあれば、自分は自分の望むままの自分として在り続けられるのだ。

 そしてムイがあれば自分は、何も失うことなく、何も怖れることなく、永久に最強の者として君臨し続けていられるのだ――





 テンニは己の頭上から振り下ろされてくる打鬼棒を見た。





 何も、怖くはないのだ。

 儂を消すことなど、誰にも出来はしないのだ。

 ムイがある限り。





 にやり、と笑う。





「ひいい」

 突然に、涙を流し悲鳴を挙げる鬼の姿が眼に浮んだ。

「やめろ。許してくれ。打たないでくれ」

 必死に叫び、尻餅を突いたまま手を上にかざす。

「どうか助けてくれ」

 その直後、打鬼棒を頭のてっぺんに受け血となって流れる。

「うわあああ」

「やめてくれ」

「打たないでくれ」

 次から次へと、助けを乞う鬼どもの姿が現れては血となって流れてゆく。



 ――なんだ……



 テンニの顔から笑みが消える。

 だがすぐにそれらの鬼どもは自分がこれまで手にかけてきた、打鬼棒の餌食となった鬼どもの最期の姿であることを思い出した。

 眼にも止まらぬ速さでそれらは次々に現れ、しまいには渦のようにテンニの視界の中で激しく回り出した。

 そしてテンニはその中に、自分に向かい足早に歩いてくる若い鬼の姿を見た。

 スルグーンという鬼差だ。

 それから、固く抱き合った若い鬼の夫婦の姿も見た。

 キオウと、その妻スンキだ。



 この者たちは、泣きながら許しを乞うことをしなかった。

 それどころかいずれも、打たれる寸前まで自分がこれから打鬼棒に打たれ血となって流れることになるなど露ほども思っていなかったことだろう。

 それでも、同じように血となり流れて消えた。



 消えるなどと考えていなかった者たちでも、それは消えたのだ。







 ――お前たちも――







 テンニの額の真ん中を、打鬼棒が強く打った。







 ――そう、だったのか――







 視界がすべて、血の色に染まる。







 ――儂と同じく――







 テンニは流れ、消えた。





          ◇◆◇





「さて」





 そう言うと閻羅王は、打鬼棒を握り締め高く差し上げた。

 その瞬間棒は焔に包まれ、あっという間に消し炭となり地に落ちた。





「これで終わりじゃ」

 閻羅王はくるりと向きを変え、森羅殿に戻って行った。





 後には、もはや立つ気力さえも残らぬ鬼どもの生き残りがへたり込み、がっくりと肩を落とし、項垂れ、倒れ込んでしくしくとむせび泣く姿があちこちに見えるばかりだった。







「リューシュン」







 静かに呼ぶ声が、背中で聞えた。

 リューシュンは白龍の頸を巡らせ、声の主を見た。



「帰ろうチイ」

 スルグーンは猫の眼で真っ直ぐにリューシュンを見て言う。

「陽世に、キイ」



「――」

 少しの間、リューシュンは答えを言えなかった。

 だがやがて、前を向き、

「ああ」

と、答えた。





 その視線の先には、黒く震えながら佇む天心地胆があった。

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