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碧の色

「リンケイ」





 そう、叫んだ。

 叫び返した。

 腹の底から、その名を呼び返した。



 そう、思った。



 だが自分の鬼の眼に確かに見えたものは打鬼棒、黒くもなく焦げてもおらぬテンニが顔中でほくそ笑みながら放った、その武器であった。

 それはリューシュンの額を打ち、ついにリューシュンの眼にその名を呼び返した相手の姿は、映らなかったのだ。





 リンケイ





 その名を呼ぶ自分の声が、自分の鬼の耳に聞えることはなかった。

 すべてが、消えた。

 自分は鬼の、碧の色を持つ眼を閉じたのだと、思った。







 ごうっ







 次の瞬間、耳をも劈くかのような轟音が聞えた。

 ハッと眼を開ける。



 そこには、碧の色が熱を持ってめらめらと揺らめき拡がっていた。





 ――何だ――





 眸を右に、左に動かしてみる。

 碧の色はどこを見てもそこに立ちはだかり、熱く揺れ視界を遮っている。





 ――熱い……これは。





 リューシュンはそれが何かに思い当たった、だがそれを信じることはなかなかできなかった。





 ――焔――





 碧の色をした焔が今、リューシュンの周囲をぐるりと取り囲み、めらめらとすべてを覆い尽くし焼き尽くしている。





「うわあああ」

「化け物だ」

「龍か」

「いや、龍馬だ」

「ひいい」

「焔を吐いてるぞ」

「焼かれるうう」

「熱いい」





 下の方で、喚き声がかまびすしく飛び交う。

 下――

 リューシュンは、足下を見下ろした。





 ――あれ。





 なんということだ。

 自分は今、遥か高いところから陰曺地府の地に立つ小さな鬼どもを見下ろしているではないか。

 鬼どもは皆、頭上にいる自分を見上げ指差し、わあわあと喚き散らしている。





 ――どうして……





 もう一度、右と左を見る。

 もうそこに碧の焔は見えなくなっていたが、代わりに見えるのは、陰曺地府の暗い地と空、それも今までに見たこともないほど遥か遠くまでが見渡せるのだ。

 そしてリューシュンは、自分の手を見た――見ようと、した。



 だがそこに、鬼の手はなかった。



 代わりに見えたのは、白馬の体だった。

 リューシュンは自分を見下ろしながら、きょろきょろと視線をさ迷わせて自分を捜した。



「あれ?」つい口にする。「なんだ、これ?」



「龍馬だ」

「なんで龍馬がここにいる」



 下で、相変わらず鬼どもがぎゃあぎゃあと騒ぐ。



「龍馬だって?」聡明鬼は眉を寄せ、辺りを見回し、そしてもう一度自分の体を見下ろした。「俺のことか?」





「そうだリューシュン、チイ」





 突然聞えた声に、リューシュンははっと首を巡らせた。

 自分の馬の背の上に、小さな雷獣がつくねんと座っている。



「スルグーン」



 驚いて呼ぶと、雷獣はばさりと翼を広げ、

「リューシュン」

ともう一度呼んだ。

「お前、打鬼棒に打たれて、龍馬に化身したキイ」



「俺が?」リューシュンは眼を見開いた。「あ……そうか。スルグーン、お前も鬼差の時に打たれて、今の姿でここに来たんだったな」



「俺は別に化身したわけじゃないチイ」



「そうか、でも分身みたいなもんだったんだろうな」



「そうかもなキイ」



「――お前」



「なんだチイ」



「俺の名前、思い出したんだな」リューシュンは背の上に向かって笑いかけた。



「あいつが呼んだからだチイ」



「あいつ、ああ」リューシュンはまた下を見た。「リン――」





 そこで、聡明鬼は見た。

 龍馬となった聡明鬼は、龍の眼でそれを見たのだ。







 女鬼を自分の後ろに隠しながら額を刺し貫かれた陰陽師の、最期の姿であった。







「――ケイ」





 聡明鬼が呼ぶその声は、陰陽師の耳に――陰陽師が生きている間にその耳に届くことは、ついになかった。





 ――嘘だ。





 リューシュンの耳を、鼻を、喉を暗闇が埋め尽くした。





 ――嘘だろ。





 陰陽師が仰向けに倒れる。

 その背後に、天心地胆に似た黒き淵がぬうと現れた。

 陰陽師は背中から、その中に落ちて行こうとした。





 ――待て。





 リューシュンはたちまち体をくねらせ、全力でその場へ向かった。

 龍馬としての飛び方をどうして知っているのか、そんな不思議にも気づかぬまま、聡明鬼であった龍馬は陰陽師であった鬼を、ただちに掬い取らんとそれだけを思い、全力で飛んだ。

 その黒き淵がどこへ続くものなのか、知っていたからだ。



 それは、十八層地獄への入り口に他ならなかった。





 ――待て!





 陰陽師が、見上げる。

 今や生気を失った切れ長の黒い眸が、リューシュンを見る。





 その時、眼にも止まらぬ速さで打鬼棒が倒れ行く陰陽師の体の真上をかすめ飛んでいった。





 リューシュンはただ、あ、と口を開き硬直することしかできなかった。

 打鬼棒はそのままリンケイに触れることなく、背後の地の上にがらんと落ちる。







 ――あ……







 リンケイはリューシュンを見ながら、黒き淵に落ちていった。

 そして淵がその口を閉じる寸前、元陰陽師はほんの少し、微笑んだ。





          ◇◆◇





「そういう、ことであったか」





 呟いたのは、閻羅王だった。

「マトウなる者がリンケイの人生に大きく深く関わったというは――つまり、その者を助けたが為に死んだと、そういう事だったのじゃな」

 生死簿を閉じると立ち上がり、窓外を見上げる。





 白き龍馬は狂ったように焔を吐き、尻尾を打ち振るい、凶暴なまでに陰曺地府の大地を攻め立てていた。





「じゃがそれは」閻羅王は見上げたまま呟いた。「龍駿が、聡明鬼として生死簿に名を記されておらなんだからそう見えただけであったのだろう」





 龍馬はしかし、何の狙いも目的もなく暴れているのではない。

 その焔の、牙の、尾の向かう先は、ムイにより体の回復を得たテンニだけであった。





「聡明鬼――その名を持つ者こそが、やはりリンケイの人生には最も大きく、深く、かかずらわったものであるに違いない」



 大地を踏み散らし逃げ惑う鬼共の足元――リンケイを飲み込んだのち跡形もなく閉じ塞がった、十八層地獄へ続く穴のあったところを見下ろす。



「なにしろ、最期の最期に語りかけたのは、他でもない聡明鬼――リューシュンにだったのじゃからのう」閻羅王は、眼を閉じた。「リンケイよ」





          ◇◆◇





 鬼の兄弟もまた、壮絶なる陰陽師の最期を見届けたのだった。



「お」

「おん」



 生きたまま陰曺地府へ来た生身の人間である陰陽師は額から後頭部までを刺し貫かれ、瞬きもせず仰向けに倒れた。

 だがそこに大地はなかったのだ。

 陰陽師が倒れてゆく先には、まるで陰曺地府の大地がその体を呑みこもうとするかのように黒く大きな穴が、ぽっかりと現れていた。





 ――十八層、地獄――





 鬼である二足には、誰に聞かずとも咄嗟にそれが判った。

 あの黒く巨大な“口”は、陰曺地府の口ではなく、十八層地獄の口なのだ。



 今そこに、陰陽師の体は仰向けのまま沈んでいこうとしている。





「な」

「何故」

 二足は叫んだ。

「陰陽師殿!」

「何故、陰陽師殿が!」



 無論、それをしたのは閻羅王に他ならない。

 閻羅王により「十八層地獄行き」と生死簿に記されたからこそ、今陰陽師はそこへ堕ちようとしているのだ。

 つい今しがた、死んで鬼となったばかりの陰陽師を、何故審判もせぬうちに――





 びょう





 その時、二足はその音を聞いたのだ。





 がらん





 次には、その音を。



 それは打鬼棒の奏でた音で、まずは陰陽師の倒れゆく体の上すれすれを飛んでゆき、次には陰曺地府の大地に転がったのだ。

 二足は、体を強張らせ息を呑むことしかできなかった。







 ごうっ







 その時、上空で音と熱が生まれた。

 鬼の兄弟ははっと見上げた。



 そこには、真っ白な龍馬が怒りに狂ったように、魔焔を吐いて陰曺地府の大気を焼き焦がそうとしていた。



「あ――」

「あれは――」



 二足はそれまで、地の上にて鬼どもばかりに眼を向けていたため、リューシュンが打たれたことも、打たれて龍馬に化身したことも知らなかったのだ。



 そして二足は、その龍馬が口から吐く焔の色にいっとき心を奪われた。

 それは、陰曺地府にまったく似つかわしくもない、目の醒めるような碧の色だったのだ。



「そ」

「聡明、鬼――」



 二足は誰に聞かずとも、その龍馬が聡明鬼の成れの果てなのだと悟った。

 どういう経緯でそうなったのかを考える暇もないが、その焔の色がすべてを語っていた。





 あれは、聡明鬼だ。





          ◇◆◇





 テンニは、鬼どもの中に己が姿を紛れこませようと巧みに逃げ回る。

 だが白き龍馬は力の尽きることも知らず、どこまでもそれを追う。

 テンニの盾となり焔に焼かれ尾で撃ち飛ばされる鬼どもが、もはや閻羅王につくものだろうとテンニにつくものだろうと人間につくものだろうと、何も考えたりしなかった。



 無論、スルグーンとてそんなことはもはやどうでもよかった。



「もっとだ」碧色の劫火の中、龍馬の背の上で叫ぶ。「もっと燃やせチイ」



 その言葉はかつて上天でリューシュンに向け放ったものと同じだった。

 しかしあの時と違うのは、今スルグーンはその言葉を、愉しみのために愉快げに叫んでいるのではまったくないというところだ。

 かつて鳥の神であった雷獣は今、怒りと哀しみを全身から噴き出させ、全霊をもって友に戦うことを求めているのだ。



 友を--もう一人の友を亡きものにした、憎き敵と戦うことを。





「もっとやれ」スルグーンは全身で叫んだ。「燃やせ、リューシュン」

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