微笑
リンケイは、その瞬間を目の当たりにした。
「リューシュンッ」
自分の呼び声に応えて振り向こうとした、聡明鬼。
「リン」自分の名を呼び返そうとした、聡明鬼。
だが鬼が自分を見るよりも早く、打鬼棒がその額を打ったのだ。
ごつ
離れたところから音は、ごく微かにくぐもって聞えた。
「リュ」
リンケイはその瞬間、すべての音が止みすべての光景が闇と化すのを感知した。
聡明鬼の姿は消え、それと同時に陰曺地府のすべてが、消えた。
周囲の鬼どもの爪も牙も、もはやリンケイの居るところからはなくなってしまった。
何もないところで、陰陽師はただ茫然と佇んでいたのだ。
意思も、感情もない、ただの棒のように。
――ここは、何処だ。
己の中の、いつも不思議の物に心奪われる自分が、そう問う。
この途方もなく暗い、闇夜のような、否それとは比にならぬほど暗い、何も無い、何も活きておらぬ、この虚無をそのまま写したような場所。
ここは一体、どこなのだ。
俺は今、何処に居るのだ。
――だがその問いかける声は、聞えた端からすべからく闇に呑まれて消えた。
それだから当然、その問いに答える声などどこからも、誰からも発せられることはなかった。
リンケイは己の問いを問いとして聞くことすらできずにいたのだ。
陰陽師は、ただ、真っ暗闇の中に独り、立っていた。
◇◆◇
「リューシュン」
スルグーンは、遠くから陰陽師の叫んだその名を、猫の眼を見開いたまま無意識のうちに嘴の中で繰り返した。
いいぞチイ
もっとやれキイ
自分の声が、蘇る。
龍駿チイ
ごつ
その次に聞えたのは、そのくぐもった音だった。
はっと我に返る。
「――リュ」
眼下に、打鬼棒を額に喰らう聡明鬼の姿が写る。
「リューシュン」
仰のいた聡明鬼の眸がその一瞬の間、眼上のスルクーンを見、そして一瞬、笑った。
思い出したか。
そう言っているように、見えた。
「リューシュン」
次に呼んだ時、もうそこに聡明鬼の姿はなかった。
◇◆◇
「――なんと」
紅き眼を、閻羅王は大きく開いた。
「こ奴が――来るか」
その紅き眼は、生死簿の上に落とされていた。
閻羅王の座の前には、いまだ血迷った鬼どもの入り込むことがなかった。
それは牛頭馬頭、そしてコントクとジライ、更には鬼差鬼卒、小鬼までもが奮闘し、閻羅王の前に悪鬼を一切近づけずにいるためだ。
そんな中、閻羅王は闘いの音や叫喚を外に聞きながら生死簿を繰っていた。
そしてそこに新たに書き加えられた文字を見たのだ。
そこにあったのは、陽世にて鬼に殺された人間の名であった。
陰陽師を生業とする女であった。
その名は、マトウ。
その者の名は、閻羅王の記憶に新しいものだった。
その者がここ陰曺地府に来るということが何を意味するのか、閻羅王にはあらかた予測がついていた。
――こ奴が……来るか。
だから、そう思った。
ついに、来るべき時が来たのだと。
その時だった。
「閻羅王様ッ」
鬼差の一足が、顔色をすっかり失った状態で駆け込んで来た。
「聡明鬼が、打たれましてございます」
「聡明鬼が?」閻羅王は、紅き眼の上の眉を寄せた。「打鬼棒にか」
「はいッ」鬼差はもはや、息もろくにできぬほどに焦燥していた。
「ほう」閻羅王は呟きながら、筆を取った。「奴は、消えたか」
「そ」鬼差はかッと眼を剥いた。「それが」鬼の唇が、震える。
◇◆◇
実のところリンケイの周囲の鬼どもに対しては、コントクとジライが三叉を操り蹴散らしていた。
そのためリンケイの身に邪なる爪や牙の届くことがなかったのだが、今のリンケイの眼には、というよりもリンケイの心には、そんな二足の働きすらも届いていなかったのだ。
彼はいまだ、真っ暗闇の中に独り、立っていた。
――俺は、何をしているのだ。
――俺は、何をしていたのだ。
――俺は、何をすればよいのだ。
――俺は
「リンケイ」
突如としてその声が聞え、リンケイははっと身を強張らせた。
振り向く。
そこにいたのは、長い髪を持つ華奢な女の鬼だった。
「――」リンケイは眼を見開き、その女鬼を瞬きもせずに見た。
「リンケイ」女鬼は、嬉しそうににこにこと笑いながら陰陽師に近づいて来た。「ここに居たのか、リンケイ」
「――」リンケイは尚も目の前の鬼を瞬きもせずに見た。「……マトウ……か」のどの奥から、微かな声が出る。
「そうだ。私だ」鬼女はますます嬉しそうに笑みを広げ、大きく頷いた。「お前の昔馴染み、マトウだ」
「何故、陰曺地府に」リンケイは色を失った声で問うた。「お前は上天に行くはずの者ではなかったのか」
「ここに、お前が居ると聞いたからここに来た」鬼となったマトウは牙を見せ笑った。「聡明鬼さまから、聞いた」
「聡明――」リンケイは口を開いたが、次の瞬間
びょう
という音を聞き、反射的にマトウの鬼の手を引き、自分の後ろに隠した。
ごつっ
打鬼棒を、自らの腕で受ける。
生身の体であるリンケイの腕の骨は、その瞬間に折れた。
「――くっ」
歯を食いしばる。
「リンケイッ」
背後でマトウが叫ぶ。
ぎらり
次の瞬間、リンケイの視野には銀の色が細く映った。
それはほんの一瞬のことであった。
そしてそれが、最期の一瞬であった。
リンケイの眉間に、テンニの右手により突き出された刀が深く刺さり、頭蓋の後ろまでも貫いたのだ。
「リンケイィィッ」
人としてリンケイが聞いた最後の声は、背後で狂ったかのように泣き叫ぶマトウのものだった。
◇◆◇
「ふむ」閻羅王は小さく頷き、筆を生死簿の上に置いた。
穂先が素早く動き、生死簿に一筆が書き加えられる。
その筆を止めた後、閻羅王は呟いた。
「よくぞ闘ってくれた」
それから、窓の外を見上げる。
「後は、奴に任せるがよい」
◇◆◇
体が、仰向けに倒れてゆく。
マトウの喚き声が、遥か遠くに持ち去られたかのように小さくなってゆく。
リンケイの頭は今、何の言葉も想ってはいなかった。
ただ、陰曺地府の暗い空が、空とも知れず眸に映るだけだった。
だがそこにその時、それが姿を現した。
それが何か、はっきりと判るものだった。
龍馬だ。
一匹の龍馬が、陰曺地府には来ることの出来ぬはずのその霊獣が、今リンケイの上を、陰曺地府の灰色にくすんだ空を、身をくねらせながら飛んでいた。
「ああ」ゆっくりと倒れながら、リンケイは口にした。「お前か」
無になりかけていた頭の中に、想いが、記憶がいちどきに翻りだす。
それは色鮮やかな帯のように、リンケイの中を駆け巡り流れた。
そんな中でリンケイの眸はただ、上空を飛ぶ龍馬を見ていた。
リンケイは、その龍馬を知っていた。
見たことが、あった。
だが見たことがあるのは、現物ではなかった。
絵だ。
いつぞや、雷獣スルグーンが洞窟の岩壁に石で刻みつけ色を挿して描いた龍馬。
その現物が今、そこに存在していた。
陰曺地府の暗い空を、飛んでいた。
何故それが、スルグーンの描いた龍馬だと判ったのか。
それは、同じ色をしていたからだ。
今目の前に飛んでいる龍馬と、スルグーンの描いた龍馬とは同じ色をしていた。
真っ白い、色だ。
スルグーンはその絵を岩に刻みつけたあと、栗鼠のような小さな手をその上にかざし、少しずつ、色を──紅、朱、藍、さまざまな色を挿し込んでいった。
だがその絵の中心にある、龍馬に挿した色は、他とはまったくかけ離れた、まったく無垢といっていいほどの、白だった。
そしていちばん最後に、スルグーンは龍馬の眸のところに手をかざして、最後の色──碧を、そこに挿し入れたのだった。
リンケイは今、陰曺地府の暗い灰色の空を飛んでいる龍馬、うつつの龍馬の眸を見た。
目の醒めるような、碧の色だ。
真っ白い龍馬は、碧の眼を持っている。
びょう
再び、風を切る音がした。
打鬼棒が、死んで鬼となったリンケイを打たんと飛んできたのだ。
だが、それがリンケイの体を打つことはできなかった。
何故ならリンケイが鬼となったのを生死簿にて知った閻羅王がすかさずリンケイの項に、
十八層地獄ヘ
と記したからだ。
風を切った打鬼棒は堕ちゆくリンケイの体、仰のいたリンケイの体の僅か上を虚しく通り過ぎたのだ。
「リューシュン」
仰向けに倒れながら、最後にリンケイは微笑んだ。
「お前……美しいな」
白い龍馬は、陰曺地府の空を翔る。
これが上天の、あの色鮮やかな景色の中であったならば、それはどんなにか見目麗しいものだったろう。
「面と向かっては言えぬがな……死んでも」
くすくす、と笑い、そうして陰陽師は黒き淵へ--十八層地獄の中へと、仰向けのまま墜ちていった。