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陰と陽

「兄さん、三叉には慣れたか」ジライが牙を見せて笑いながら問う。



「言うな」コントクは鬼の眉を情けなく下げ、笑うしかなかった。

 鬼の中においては穏やかな性質の方であるコントクに、三叉という地獄の武器は幾分重く、なかなか手強い相手だった。

 自在に、かつ効率よく振り回せるように、牛頭馬頭について訓練をするが、気持ちがいささか焦ってもおり、床にぶつけたり手から弾き飛ばしてしまったりと、失敗が続くのだった。



 だが、弱音を吐いてなどいられない。

 なにしろ、いつテンニが再びあの打鬼棒を持ち陰曺地府に現れるのかもわからない。

 その時には閻羅王より授かりし三叉をもって、ここ陰曺地府に止まらず人間たちの棲む陽世も、そして玉帝と神仙の棲む上天をも、護らねばならないのだ。



 そう、コントクは人間としての弟ジライを失ったあの日――コントクを追い聡明鬼と二足、陰陽界を走り、また走り、そしてついに天心地胆を飛び出した後あの光景を見た時に、感じたのだ。



 そこは上天にいちばん近い所にある天心地胆なのだということは、後で知った。



 だがそれを知るよりも先にコントクはテンニが、地獄だけではなく上天までも、支配下に置くことを目論んでいるのではないか、と――





「さあ、今日もやるぞ、兄さん」ジライが三叉を振り回しながら告げ、コントクの想いを断ち切った。



「ああ」兄鬼は頷き、腰の位置に三叉を構え、二足の得物は互いの刃先を探り合い、隙を突いてはそれを弾き返し、打ち合う音を響かせた。



 しばらく稽古を続け、息も大分上がって来、いつものようにコントクの方が休憩を申し出た。

 鬼の兄弟は床に座り、小鬼の運んで来た飲み物を喉に流し込んで息を整えた。



「今日は、牛頭と馬頭の来るのが遅いな」ジライがふう、と息をついて言う。



「ああ、そうだな」コントクも同じことを思っていた。



「何事か、変化の兆しでもあったのだろうか」ジライがまた言う。



「――」コントクは何とも返答できずにいた。

 そんな事はないだろう、とは決して言えぬ状況だ。

 しかし、きっとそうだろうと逸るわけにもいかない。



「どうする、兄さん」ジライが訊く。



「待とう」コントクは弟に頷きかけた。「テンニが最終的にやって来るは、この森羅殿のはずだ。ここを離れてはいけない」



「ああ」弟も頷く。「警戒して、見張りを続けよう」





「居ましたか」陰陽師の声が遠くから二人を呼ぶ。



「おお」

「陰陽師殿」鬼の兄弟は揃って振り向く。



「ご鍛錬のところ、邪魔をします」リンケイは二人に近づきながら告げる。「どうやらあのテンニ、戻って来そうな気配ですな」



「おお」

「なんと」鬼の兄弟は手に持つ三叉をひと際強く握り締めた。「ではいよいよ」



「ええ」リンケイは鋭く眸を光らせ頷く。「時が参りました」



「聡明鬼たちは、まだ」コントクが訊ねる。



「あいつはまだ、来ていません」リンケイが答える。「先にここに辿り着くのは、テンニの方と見てよいかと」



「あの禍々しき悪鬼を」ジライが唸るように言う。「必ずや、十八層地獄へ」



「もしくは」コントクも眉根を寄せる。「彼奴をこそ血と変えてやらん」





 三足は、同時に頷いた。





          ◇◆◇





「我々は、どうするべきなのでしょうか」群集のうちの一人がマトウに向かって訊いた。「何をするべきなのでしょうか」



「我々はどうあるべきなのでしょうか」他の一人が続く。



「お教え下さい」

「マトウ様」

「主様」

「私たちはこれから何処へ行って何をすればいいのですか」



 マトウはしばらくの間、目を閉じて人々の声に耳を傾けていた。



「マトウ様」

「主様」

「マトウ様」

 人々は、あたかも水を求めるかのように答えを乞うた。



「わからないのであれば」やがてマトウは、静かなる声で言った。「ここに居て、邸の事をしていなさい。庭の手入れや室の掃除、料理ができる者は厨に行き、裁縫ができる者は針室へ、天井や壁の補修などにも人手が必要だ」



「――」人々は口をあんぐりと開けて言葉を失った。

「そんな」一人が、望みを失ったかのように呟く。「そんな事をしている場合では」

「そうです」別の一人が追従する。「鬼が、攻めて来るのですよ」

「邸の事だの、料理だの、そんな呑気な事をしている場合じゃないでしょう」

「我々にはもっと他にやるべき事があるのではないですか」



「ではそれをするが良い」マトウはまた静かに言い、にこりと微笑んだ。「もっと何か、大事な事があるのであれば」



「だから」

「だからそれを、我々に教えて下さいと言っているのです」

「マトウ様がお決め下さい」

「我々にご指示を」

「何をすべきなのか、ご命令を」



「何をすべきか」マトウは笑みを消した。「それは、お前たちそれぞれの中にこそ在る」



「――」人々はまた言葉を失った。



「私の言葉の中に在るものではない」



「そんな」

「我々には、わからない」

「あなた様は何をお考えなのですか」

「あなた様は、我々がお嫌いなのか」

 人々は、戸惑いを口々に言い立てた。





「なんだか、不穏な様子になってるみたいだチイ」



 空の上から見下ろしながら、スルグーンが言った。



「そうでやす……ね」ケイキョも心配そうに、リョーマの背の上から下を覗き込む。「何の話でやしょう」





「私がお前たちを、嫌い?」マトウはひょいと眉を上げ、驚いたような顔をして訊き返した。「まさか」



「しかし」

「けれど」

「ではなぜ」

「何故私たちをお見捨てになるのか」



「見捨てる?」マトウはまた訊き返した。「見捨てる気ならば、ここに居て邸のことをしろなどとは言わぬ」



「しかし」

「けれど」

「ではなぜ」

 人々の問いは続く。



「まずここに居れば、私と共に居れば、玉帝の加護の下にあることができる」マトウは指を立てた。



 人々は、しんと静かになった。



「そしてここに皆が集まれば、個々人でよりも尚いっそう強い気持ちと意志をもって鬼と対峙できる」



 人々は、あ、という形に口を開いた。



「だが皆が集まるのであれば、その人数に合わせて邸の様相や造りに手を加える必要が出て来る。寝泊りする室の用意、食事の用意は無論のこと、邸そのものの防護も強固にせねばならぬ。それは、集まる皆の手すべてを合わせ、心を合わせて行わなければならぬ」



 人々は、言葉もなきまま息を大きく吸い込んだ。



「しかして皆は真に一体となり、まさに鬼をも恐れぬ個々の力を凌駕した大いなる力と成れるのだ」



「おお」

「まさしく」

「仰る通りだ」

「マトウ様」

「マトウ様!」

 群集は今や腹の底から歓喜して主たる陰陽師の名を叫び、気持ちを一にし両手を振り上げた。





「さすがでやすね」ケイキョがぼそりと呟く。「見事にまとめた」



「うんキイ」スルグーンも同意した。「あの女、聡明鬼に頼まれたことをちゃんと守ってるチイ」





          ◇◆◇





「お疲れ様でございました」リシが労い、マトウの手の器に酒を注いだ。



「我々が嫌いなのか、と問われたのは、初めてのことだ」マトウは面白そうににやりと笑い、酒を口に含んだ。「この私がそう言われるとはな」



「まことに」リシは愁眉を寄せ嘆息した。「やはり皆、この状況に少し精神を狂わせているものかと」



「人間は好きだ」マトウは室の天井を見上げた。「だが人間から特別の感情を向けられるのは嫌いだ」



「え――」リシは驚いて主の横顔を見た。



「と、昔私に向かって言った者がいた」マトウはリシに眼を向け、くくく、と喉を鳴らして笑った。





 ――リンケイ様だ。





 それを聞いた時、仔犬の姿で室の片隅に寝そべっていたリョーマはすぐに察した。

 人間を観察するのは好きだが、こちらに向かって特別な感情を振りかざして来られるのは好きじゃない。

 前の主は、その通りの人だった。

 リョーマは、そんな人に仕えて、ずっと傍に居たのだ。





「誰、ですか」リシは戸惑いながら訊ねた。「そんな事をマトウ様に言うなど」



「ふん」マトウは不敵の笑みを浮べ、もう一度酒を口に運んだ。「今は、地獄にいるらしいぞ。この私を出し抜いて」



「えっ」リシは驚いた。「鬼、でございますか」



「違う。人間だ」マトウは首を振る。「人間として、生きたまま地獄へ行った」





 ――やっぱり。





 リョーマはまたしても思った。

 やっぱり、リンケイのことだ。





「だが私はやって見せる」マトウは眼を閉じた。「どんな感情を向けられようとも、私は奴のごとく逃げたりなどせぬ」







「逃げたんじゃない」

「逃げたわけじゃありやせん」

「逃げてないチイ」







 仔犬と鼬と雷獣が、同時に反論した。

 マトウとリシには龍馬の声も聞こえるので、吃驚して振り向く。



「なるほどな」だがマトウはすぐに、また笑った。「だがあいつは確かに逃げたよ、この私からな」



「どうして、あんたから逃げなきゃいけないんだよ」リョーマはむきになって言い募った。



「感情を、散々向けてやったからだ」マトウはむっつりと答えた。「あいつの嫌いな、感情というものをな」



「――」リョーマは少しの間、考えた。

 リョーマにも、この女は見覚えのある存在だったのだ。

 かつて、主と共に陰陽道の修行をしていたと憶えている。

 そして確かにこの女は、やたらリンケイに対し口うるさく小言を言っていたのだ。



 マトウの方は、どうやらリョーマのことを憶えてはいないようだった。

 龍馬を見慣れ過ぎているせいか、人間ほどには龍馬になど興味がないせいかは知らないが、リョーマは面白くもなさげにぷいとそっぽを向いた。





「なんだお前チイ」スルグーンがずけずけと言い立てた。「あの陰陽師と友達だったのかキイ?」



「違う」今度はマトウが反論した。「友達などではない」



「じゃあなんだチイ」



「――共に」マトウは言い、それから手の器を見下ろして中の酒を飲み干した。「ずっと共に、陰陽道を極めたいと思っていた」



「共に?」仔犬と鼬と雷獣はまた同時に訊いた。



「そうだ。私があいつの足らぬ部分を補い、あいつの支えとなり、そうして世の悪霊を共に打ち払い、ずっと」



「夫婦になりたかったのかキイ?」スルグーンが訊いた。



「――」マトウは吃驚したように眼を見開いた。「まさか」声を枯らす。「でも、もしあいつが望むのであれば、私はそうなっても」





「でも望まなかったんだろ、ご主人さまは」リョーマは低い声で言った。



「――」マトウが、黒い仔犬を恐る恐るのように見る。



「望まないだろうなチイ、あいつなら」スルグーンは頷く。



「そうでやすね」ケイキョも頷く。「何しろ人間が嫌い――じゃなくて、人間から特別な感情を向けられるのが嫌いな、お方でやしたからねえ」



「――」マトウは瞬きも忘れて床を見た。



「マトウ、様」リシは戸惑い、ただ主を呼ぶだけだった。



 マトウは無言で器を差し出し、リシは再びそれに酒を注いだ。

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