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宣告

 半月を、見上げていた。

 半月は、遠くにある。

 自分がどれだけ羽ばたけば、そこに辿り着けるものなのか、想像すらできない。

 けれど、そんなことも今はどうでもいい、と思う。

 自分はもう、月どころか、空にさえ羽ばたいて飛び上がることもないかも知れない、と思う。



 ずっと、この地の上に、黒犬の姿のまま伏して、起き上がることもせず、命尽き果てるまで眼を閉じて、じっと動かずにいるのだ。



 ずっと――





「おい、フラ」





 すぐ近くで、自分を呼ぶ無邪気な声が聞こえた。

 片目を薄く開けるが、映るのは暗い地面だけだった。



「また、なんだかいっぱい飯の用意がされてるみたいだぞ。喰いに行こうぜ」



 リョーマだ。

 すぐ近くで、そわそわと歩き回っている気配を感じる。



 また眼を閉じる。



「おい。フラってば」



 リョーマは、仔犬の鼻をフラの耳の後ろに当ててきた。



「行けよ」フラは面倒くさそうに、ただそう言った。



「お前も行こうぜ」耳元なのにリョーマは声量を落としもせず催促する。



 フラは、頭をぶるっと強く振った。「うるさい」



 リョーマは一歩退いたが「悪い。行こうぜ」と諦めない。



「一人で行け」フラは動かない。



「喰わないのか」



「いらない」



「ふうん」リョーマはやっと離れて行こうとしたが、また立ち止まり「ずっとここにいるのか」と訊いた。



 フラは、また片目を開けた。

 リョーマは立ち止まったまま見ている。



「さあな」フラは低く答えた。「気が向けばどこかに行く」



「スルグーンに仕えたらどうだ?」リョーマは言った。



「――」フラは両目を開けた。

 映るのは暗い地面に変わりないが、フラの眼はそれを見ていなかった。

 首を、横に向ける。

「なんだと?」訊き返す。



「スルグーンだよ」頭の後ろでリョーマの声がまた言う。「俺も、前のご主人様がいなくなった後はケイキョに仕えてる。だからお前も」



「ふざけるな」フラは立ち上がり、リョーマに振り向いた。



 小さな仔犬は邸から漏れる灯りを背にして立っている。

「ふざけてなんかないさ」真面目な声で言い返してくる。



「ふざけてるだろ」フラは声を怒らせた。「お前が誰に仕えようとそれはお前の勝手だ。けどだからって、なんで俺にまで、スルグーンなんて訳のわかんねえ奴に仕えろとか言うんだ。いい加減にしろ」



「訳のわかんねえ奴じゃねえぞ。スルグーンは鳥の」



「知るもんか。俺はそんな奴になんか仕えない」



「じゃあ、この先どうするんだ」



「知るか。ほっといてくれ」フラは叫び、背を向けて走り出した。



「フラ」リョーマは呼んだが、黒犬は立ち止まらなかった。





          ◇◆◇





「そりゃあ……」ケイキョは長い尻尾をくるりと回し、困惑したような声で言った。「まだ、早過ぎたかも知れねえでやすねえ」



「早過ぎた?」リョーマはぼそぼそと問う。



「へい」ケイキョは頷く。「なにしろ、昨日の今日でやすからねえ……キオウさんが、あんなことになっちまって」それから俯く。「フラさんもまだ、ちゃんと呑み込めてねえんでやしょう。そこへ次の仕え先の話なんてなあ、ちっとばかし酷でやすよ」



「そうか……」リョーマも俯く。「おれ、どうすればいいのかな」



「今はこのまま、そっとしておきやしょう」ケイキョは窓から夜空を見た。「もしかしたら、もう戻らねえかも知れねえでやすが」



「え」リョーマは顔を上げた。「いなくなっちまうってこと? フラが?」



「なんとも、言えやせん」ケイキョはまた困ったように首を傾げた。「フラさん自身も、どうしたらいいのかわからねえんでやしょうから」



「探しに」リョーマは走り出そうとした。



「待ちやしょう」ケイキョが制する。「フラさんが、どうすればいいかを見つける時が来るまで」



「――」リョーマは俯き、ぺたりと床に伏せた。「戻って、来たらいいのに」



「――へい」ケイキョも床に座る。「そうでやすね」





          ◇◆◇





 どれほど走っただろう。

 暗い道の上を、ただ走った。

 どこへ行くあてもなく、ただひたすら、無心に走った。

 何の為という目的もなく、ただひたすら――



 はっとして、フラは急に立ち止まった。

 行く手に、佇む者がいたのだ。



 半月の灯りの下、その小さな生き物は無言で立っていた。



「――」フラは、その者をじっと見た。

 ついさっき、その名を耳に聞いた。

 自分も、その名を口にした。





 スルグーンだ。





 スルグーンは、こちらを見ていなかった。

 かといって夜空を見上げるでもなく、俯いているでもない。

 ただ真っ直ぐ、フラから見て横向きに立ち、前方を見ていた。

 フラはその視線の先を追った。

 しかし特に何か目を惹くものがあるでもなく、小さな藪と、草の茂る野原、少し先に細い川が流れているだけだ。

 人家の灯りは遠くにぼんやりと浮かび、ここまで大分距離があることを窺わせた。



「こんな所で何してるんだ」フラはつい、そう訊かずにいられなかった。「邸にいたんじゃないのか」



 スルグーンはゆっくりと、フラの方を見た。

 猫の眼は、何の感情も映さず、ただフラを真っ直ぐに見ている。



 フラは何とはなしに、近づいて行った。

 何を考えてるんだろう、という不可思議の想いが、僅かに生まれ出る。





「フラ」





 スルグーンが不意に、呼んだ。



「――」すぐに返事の言葉が出なかった。



「って、キオウがつけた名なのかチイ」スルグーンは静かに訊ねた。



「――いや」フラはぼそりと答えた。「いつの頃からかついていた名だ」



「そうかキイ」



「――なんでだ」訊く。



「――いや」今度はスルグーンがぼそりと答える。「キオウがつけたのかと思ってたチイ」



「――キオウ様のこと、考えてたのか」また訊く。



 スルグーンは黙って、半月を見上げた。

 フラも、倣う。



「キオウは」スルグーンが、月を見ながら呟く。「鬼なのに、優しい奴だったキイ」



「――ああ」



「龍馬のお前を、あんなに可愛がって大事にしていたチイ」



「――ああ」眼を閉じる。

 キオウが自分に向けてくれた笑顔、声、差し伸べてくれた手、すべてがまだフラの中に新しく、色褪せることも淀み滲むこともなく、はっきりと残っている。

 フラはぺたりと、地に座り込んだ。

 すべてがもう、消えてしまったのだ――



「鬼があんなに優しいものとは思わなかったチイ」



 スルグーンがまた言う。



 不思議なものだ、という想いがふと芽生える。

 キオウは確かに自分に対しては優しく大事にしてくれていたが、同時に閻羅王を斃し陰曺地府を滅亡させようと企んでいた、謀叛の鬼でもあったのだ。

 もしかすると、このスルグーンや聡明鬼が闘うべき相手はテンニではなく、キオウだったかも知れない――スンキが、現れなかったとしたならば。





 もし、この妙な生き物に仕えることにしたなら。





 本当に突然に、そんなことを思う。

 もしそうしたなら、自分は鬼といいこの妙な生き物といい、人間以外のものにばかり仕えることになる――





「お前は、精霊なのか」





 訊く。

 スルグーンはしばらくフラを見、それから小さな肩をすくめた。



「いや。神だチイ」



「――」フラは、言葉を返せなかった。





 鬼といい、この――





「こんなことを言ってごめんなキイ」スルグーンが突然言う。「先に謝っとくチイ」



「え?」フラは犬の目を丸くした。



「俺は」フラはまた半月を見上げた。「キオウという奴は、幸せな鬼だったと思うキイ」



「――どうして」



「スンキと一緒に、同時に消えたからだチイ」



「――」



 しばらく、二足とも何も言わなかった。



「ごめんなキイ」スルグーンが、消え入りそうな声でもう一度言う。



「――」フラは、瞬きした。



「ごめん」声もなく、もう一度言う。「チイ」





 この、神、といい。





 フラは頭の中でもう一度思った。



 人間以外のものにばかり、仕えることになる。



「神が、そんなに矢鱈に謝るなよ」言葉を返す。



「――うん」スルグーンはばつが悪そうにそっぽを向く。



「でも、そうかもな」フラは続けた。「キオウ様は、スンキ様をこの世で一番愛しく思ってた」



 スルグーンがフラを見る。



「俺のことももちろん大事にしてくれたけど、でもスンキ様の方がもっと、キオウ様には大事だったと思う」



「お前チイ、そんなこと」



「いいんだ」フラは立ち上がった。「俺は、キオウ様に仕えることが出来て、本当に幸せだった。キオウ様にも幸せになって欲しかった。だから、本当に良かった――スンキ様が来てくれて」



「フラ」



「スルグーン」黒犬は、雷獣の方に体ごと向き直った。「あんたは陰曺地府へ行けるんだろう」



「――ああキイ」



「俺は行けないけど、あんたの僕になる」フラは眸に力を宿した。「あのテンニって奴を、必ず討ち斃してくれ」



「ああ」スルグーンは大きく頷いた。「約束だチイ」



「俺に、力を」黒犬はそう言い、スルグーンの前に進み出て伏した。





 スルグーンは少しの間、フラを見下ろしていたが、ばさり、と両の翼を広げると、それをフラの頭の左右に、包み込むようにあてがった。



 次の瞬間には、焔のごとく紅き眸を持った一頭の巨大な龍馬がそこに現れていた。





          ◇◆◇





「そうか……」リューシュンはケイキョから聞いた話に、表情を翳らせた。「確かに、今は待つだけしか、できないだろうな」



「フラさん、戻って来やすかねえ」ケイキョが嘆息する。「もともとどうするつもりだったのか、わかりやせんが」



「あいつ自身にもわからないんだろうよ」リューシュンは答えた。「って、お前がそう言ったんじゃないか」



「そ、それはそうでやすが」ケイキョは言い淀んだ。



「けど、あいつがいなくなったら、リョーマも寂しいだろうな」リューシュンは腕組みをした。「主のお前がいるとはいえ、同じ龍馬の仲間だからな」



「そうでやすねえ」ケイキョも尻尾をくるりと丸め込む。「喧嘩するほど何とやら、と言いやすが、張り合いってえもんが違うでやしょうねえ」





「フラが戻って来る」





 突如、リョーマの叫ぶ声が聞こえた。

 鼬ははっと息を呑み、声の聞こえた窓へと走り身を乗り出して外を見た。



「どうした?」



 リョーマの声の聞こえぬリューシュンは不思議に思いながらケイキョの後を追い同じように窓外を見た。

 邸の庭で、リョーマがぐるぐると走り回っている。



「リョーマさんが、フラさんが戻って来ると言ってやす……ああ、本当だ」遅れてケイキョもその気配を捉えた。「フラさんだ」



「そうか」

 リューシュンが鼬を見下ろした時だった。







「龍神、ナーガ」







 夜空の高みから、そう呼ぶ声が聞こえた。

 リューシュンもはっとして上を見上げた。



 龍馬の背に乗ったスルグーンが、小さな首を覗かせていた。





「悪いがチイ、お前の僕の龍馬を一足、俺がもらったキイ」



「――」



 スルグーンの得意げな宣告に、リューシュンは茫然と見上げるばかりだったが、やがてその眼に笑いが戻った。



「そうかよ」返答する。「よろしく頼むぞ。鳥神ガルダ」

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