バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

龍神と鳥神

 陽はとっぷりと暮れ、リューシュンら一行はマトウの僕が用意した室にて一夜を明かした後ムイを手にスンキの身を取り戻しに発つ事とした。



 肉、魚、果実、酒――豪勢な食事を目の前に出され、自分たちが、というよりも自分自身が相当に珍重されていることを改めて知るリューシュンではあった。
 だが、リンケイの振舞ってくれていた質素な野菜の煮物、香の物などをも同時に想うのだった。



 ――同じ陰陽師でも、こんなに生活の仕方が違うんだな。



 呑み、食べながらそんなことを考える。



 ――そういえばあいつは生きたまま陰曺地府へ行ったわけだが……食い物は大丈夫なのか。



 そんなことまでをも考える。



 ――まあ、コントクやジライもいるし、なんとかするんだろう。



 そこまでを考えた時、向かい側の席に着いているスルグーンの貌が眼に留まった。
 席に着くといっても椅子に座るわけではなく、床の敷物の上に直に体を伏せているのだが、雷獣の貌は心なしか、食事しながらもどこか虚ろげに見えるのだ。



 ――さっきの……事か。



 リューシュンは今度は呑み、食べながらスルグーンの先刻の言動を想った。




 玉、帝――




 スルグーンは突然そう言い、それから茫然として何事か深く考え始めたようだった。
 深く、というよりも、嵐のように激しく、数々の想いが雷獣の裡に渦巻いていたのだろう。
 そして、




 嫌だチイ




 スルグーンは続けて、そう言ったのだ。
 何が嫌なのか、リューシュンは――彼だけでなく誰もが、すぐには判らなかった。
 しかしスルグーンは続けて言った。




 俺は玉帝が、嫌だったキイ




 ――訊いてみるのが、早いか。
 そう思ったリューシュンは杯の酒をぐっと呷り、そして席を立った。



「聡明鬼さま」マトウが微笑みながら、酒の瓶を差し出す。「まだお早いですわ」



「いや、明日は早く発つから、これでいい」リューシュンは辞した。「ありがとう」



 マトウは頬を染めながら、リューシュンを見送った。
 未だ、この鬼が玉帝の移し身なのだと思い込んでいるのだろう。




          ◇◆◇




 スルグーンには、予感があった。
 鬼が、自分を待っているという予感だ。
 それはその通りだった。
 聡明鬼は、扉を開けたすぐ向こうで腕を組み、佇んで待っていた。



 室は大分奥まで続いていた。
 寝台が三つ並び、寛いで座れるほどの椅子が二脚、大きくはないが茶器を置けるほどの卓が一つ置かれて尚通路は広く、室の奥の掃出し窓から露台へ出られるようになっている。
 元からそうなのか、さまざまな物を置いていたのを急遽他へやったのかはわからないが、彼ら一行が体を充分に伸ばして眠れるほどの空間がそこには設えられてあった。



「座るか」リューシュンは椅子にどかりと腰を下ろしたが、スルグーンは空中にふわりと浮かんだままでいた。
「キオウたちは?」リューシュンは訊いた。



「まだ、向こうにいるチイ」スルグーンは空中に浮かびながら俯いた。「酒を呑みながら、マトウの話を聞いてるキイ……ケイキョも」



「へえ」リューシュンは少し驚いた顔をした。「あいつら、陰陽師の話が面白いのかな」



「――」スルグーンは答えなかった。
 たぶん、そんなことはない。
 そう思う。



 そしてリューシュンもまた、たぶんそんなことはない、と思っていた。
 キオウとケイキョは、リューシュンとスルグーンのために時間をくれたのだ。



「それで」リューシュンは空中に浮かぶスルグーンを見上げた。「思い出したのか」いつものように、真っ直ぐな言葉で訊く。



「――」スルグーンは空中に止まったままだ。



 しばらく、時が経った。



「外に」スルグーンは掃出し窓を見た。「出ようキイ」



「うん」リューシュンは立ち上がり、二足は露台に出た。



 大気は冷たく、新月を過ぎたばかりの細い三日月と、その輝きに隠されることを免れた小さな星々が、空を彩る。
 鬼は台の床に立ち、雷獣は手摺の上に立った。
 そして鬼と雷獣は並んで空の景色を眺めた。



「全部、ってわけじゃないチイ」スルグーンは言った。「思い出したのは――おれがどうして玉帝を怒らせるようなことをしたのかって事だキイ」



「本当か」それでもリューシュンは体が熱くなるのを覚えたのだ。「どうして」



「おれは――おれは玉帝の感覚的なのが、嫌だったんだキイ」



「感覚的……?」リューシュンは小さく訊き返した。
 自分が、何かに衝かれるように口にした言葉だ。



「玉帝は感覚的だったんだチイ」スルグーンは天から眼を下ろし、足元に広がる闇を見つめた。「上天を統べるやり方も、律令に則ってではなくふわふわとした感覚のようなもので事をすすめていた、俺はそれが気に食わなかったんだキイ」



「――」リューシュンには、その記憶がなかった。
 そういった事を自分も感じていたという記憶、友であるスルグーンが感じていたという記憶、玉帝がそのような考えで上天を統べていると語った記憶、それらが今のリューシュンの中には、まったくなかった。



 だが恐らく、いつかどこかでそんな話をしたことがあったのだろう。
 スルグーンとしたのか、玉帝としたのかは分からない。
 しかし誰かと、どこかで――恐らく上天で――「感覚的」という言葉を交えて話したのだ。




 その言霊の欠片があの時、リューシュンの裡からほろりと崩れて堕ちて来たのだ。




「――だから」リューシュンは、かすれた声で言った。「上天で、何か叛乱を起こしたのか――俺とともに」



「だからおれは、お前に……」スルグーンはぎゅっと猫の目を閉じた。



「――」リューシュンは少し待ってから「俺に?」と訊いた。



「――」スルグーンは長く黙っていた。「――燃やせ、と」







 いいぞチイ







「――」リューシュンは眼を閉じた。
 洞窟の中で、自分はその言霊を聞いたのだ。







 共にある時は炎のごとくに熱く激しく燃え盛るものに包まれる







 重ねて声が、聞こえた。
 どこで、だったか。
 いつ、だったか。







 ――リンケイ。



 閉じた眼の裡に、今は陰曺地府にいる陰陽師の顔が浮かんだ。
 そうだ。
 これはリンケイが、キオウと、キオウに攫われたスンキとの相性とやらを観た時に告げた言葉だ。
 共にある時は、炎のごとくに――







 燃やせリューシュン、キイ







 眼を開けた時、星々が滲んで見えた。
 思い出した、のではない。
 だがリューシュンは、確かに自分がそれを聞き、そしてまた自分もそれに答え、何かの行動を起こしていたのだということを、今やはっきりと感じていた。




「ああ」滲んだ星を見上げながら、聡明鬼は答えた。「そうだ」




 ――兄さん。




 そっと心の中で、玉帝を呼ぶ。
 答えは恐らく、今日もないのだろうと分かっている。
 星が滲んで見えるのは、その悲しみのせいではない。
 自分もまた、玉帝を怒らせるようなことを、このスルグーンと共に上天でやってしまったのだ。
 この、友であった鳥の神と共に――炎のごとくに熱く激しく燃え盛るものに包まれながら。




「何を、燃やしたんだ」リューシュンは星を見上げたまま、スルグーンに訊いた。「俺は」



「――」スルグーンはしばらく考えた。「分からないチイ……それは思い出せないキイ」三日月のごとく頼りない声で答える。



「そうか」リューシュンはスルグーンを見て、こくりと頷いた。「なんだったんだろうな、上天から追い出してしまおうと思うほど大事なものとは」少しだけ、笑う。




 笑い事ではないのだろうが、それを思い出せなくしたのもまた玉帝だ。
 反省したくともできぬようにしたのは、玉帝だったのだ。
 反省して謝ることさえも許してもらえない――星が滲んで見えるのは、そのことに対する悲しみ、苦しみ、もしくは畏れのせいだ。
 これは誰にも投げて渡してしまえる悲しみでも苦しみでもない。
 スルグーンが同じ悲しみと苦しみを持っているとしても、それを受け取ってやることもまた出来ない。



 永遠に、自分の中に持ち続けなければならぬものなのだ。




 ――それとも、俺のするべきことは反省でなく、もっと他の事なのかな。




 もう一度、星を見上げる。
 どの星の辺りが、上天に一番近い天心地胆であったのか、今となっては見分けがつかない。
 そこへ行けばまた、兄の声を――言霊を、聞くことができるのだろうか。




 ――ああ、やっぱり俺は。




 兄の、答えが聞きたいのだな。
 そう、想う。



 兄の、声を。




「残酷なもんだチイ」スルグーンはずっと俯いたままだ。「こうやって、少しずつ記憶がこぼれ出して来るっていうのはキイ」



「――」雷獣を見る。「うん」



「玉帝は、こうなることを知ってたんだろうかチイ?」



「――さあ……どうだろうな」



「そういえばキイ」スルグーンは顔を上げリューシュンを見た。「お前、さっきどうしておれに謝ったんだチイ?」



「――」言葉に詰まる。



「玉帝が感覚的だっておれが言った時、膝を突いてすまないと言ったキイ」



「――」雷獣の猫の眼をじっと見る。




 この生き物と自分は、上天において同じ神として生きていたのだ。
 龍神ナーガと、鳥神ガルダとして。
 ならば、これを話しても良いのではないだろうか。
 かつては無論、鳥神もこれを知っていたのだろうから。







「俺は、玉帝の弟だ」リューシュンは、告げた。







「――」スルグーンは猫の眼を大きく見開いた。「なんだってチイ?」



「弟だ」もう一度、告げた。



 リューシュンはそれを「弟だった」とは言いたくなかったのだ。
 今も自分は、玉帝の弟であるのだ。
 それは、玉帝の威光を借りたいという野望の成せることではない。
 ただ、そうありたいだけなのだ。



 何故ならこのことは、自分がみずから思い出したものではなく、玉帝の口から聞いた唯一の事だからだ。



「俺の兄のやっていたことが、感覚的で気に入らなかったと聞いた。だから兄に代わってすまなかったと言ったんだ」リューシュンは淀むことなくそう言った。



「――」スルグーンはすぐには何も答えられないようだった。「そう、だったのか、チイ」少しずつ、下を向く。



「うん」頷く。



「おれは弟に、兄を裏切ることをさせたんだなキイ」



「――」



「おれの方がよっぽど、残酷だったんだなチイ」



「そんな事を言うな」首を振る。



「――」



「たぶん玉帝は」空を見る。「わざと記憶が少しずつこぼれ出すことを予測なんてしていなかったんだろうよ。ただ感覚的にそうしただけさ」



「――」



「そして今、玉帝が望んでいることはたぶん、俺たちが反省することでも、記憶の欠片に苛まれて苦しむことでもない。戦を止めさせることだ」



「――戦を」スルグーンが、はっと息を呑む。



「うん」頷く。「戦を」



 二足は互いの眼を見た。




 龍神と、鳥神。
 いつぞやは上天にて、玉帝への裏切り成すを、このように互いに眼を見交わし決意したのだろう。
 だが今はまた、違う。




 龍神と、鳥神。
 いまここ陽世にて、玉帝の望み成すを、互いに眼を見交わし決意したのだ。




          ◇◆◇




 翌朝一行は、陽が昇らぬうちにマトウの屋敷を発った。
 主の陰陽師は魔が来ぬようにと進むべき方角を占い、道筋を示した。
 そして手渡す小振りの甕の中には、粉に挽いたムイが入っていた。



「ありがとう」リューシュンは改めて礼を言った。



「お名前を、教えてはいただけぬのですか」マトウは最後になってから、どこか悲しげな眸でそう問うた。



「今は、名乗れん」リューシュンは謝った。「すまない」



「――」マトウは寂しげに首を振り、一行を見送った。







「聡明鬼」




 空の上でその声が呼ぶのを聞いたのは、マトウの元を飛び立ってしばらく経った頃だった。
 振り向くと、黒い龍馬が空の向こうから近づいて来るのだ。
 トハキに乗った、リシだった。




「お前、どうしたんだ」リューシュンは少し驚いて訊いた。「その龍馬、もう回復したのか」



「ああ。マトウ様の薬でな」リシは龍馬の背にまたがり頷く。「私も、お前たちと一緒に行かせて欲しい」

しおり