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鬼対人間

 さて――



 閻羅王は座に就き物も言わずじっとこちらを見渡していた。
 リンケイも視線を返しながら、特段歩を速めるでも緩めるでもなく歩み寄って行った。



 ――閻羅王は、俺をどう見るか。




 半ば身を切られるほどの張り詰めた大気を、そして半ば愉悦にも似た楽しみを、リンケイは心の内に闘わせていた。
 どちらにせよ、生きてここから出られるものではあるまい――



 ――なにしろ、呪いにかかってしまったのだからな、俺は。



 口許が、つい笑いを帯びる。




「貴様は何者じゃ」




 閻羅王が、恫喝にも似た銅鑼声を張り上げる。
 傍に仕える牛頭馬頭は、今更のように背を伸ばし、まるで自分らが怒鳴られたかのごとくに威儀を正す。




「人として、生きたままここに来た者」リンケイは、視線をまっすぐ閻羅王に向けたまま答えた。「陰陽師」



「――」閻羅王は眸を動かさず、じっとリンケイを見据えた。
 生半可の人であれば、その眼差しのみで命を絶たれるかも知れない。
 それほどに、鋭く、血も涙も容赦もなき視線であった。
「人として、生きたまま、とな」閻羅王は繰り返した。「して、その目的とは何ぞ」



「無論」リンケイは躊躇することなく答えた。「テンニを斃すため」



「――」閻羅王は口を閉じ、リンケイをただじっと見た。



 リンケイもまた、閻羅王をじっと見つめ返した。



「貴様」やがて閻羅王はまた口を開いた。「生死簿を儂の許から盗んだ張本人か」



「――」リンケイは、この問いに対してはすぐに答えることをしなかった。



 代わりに、コントクとジライが手に三叉を持ったまま緊張の面持ちでずいと前に進み出たのだ。
「閻羅王様」コントクが叫ぶように言った。「この者は、生死簿を悪意の企みのために盗んだのではありませぬ」
「それはそもそも、閻羅王様を斃す目的を持っていた模糊鬼に対しての方策を練るため」ジライが続けて叫ぶ。

「そう、そもそも閻羅王様をお守りするためだったのです」そして二足は揃って叫んだ。




 ――なんとこの兄弟、策士であることよ。




 リンケイは笑い出したいのをぐっと堪えた。




「なんと」閻羅王は眼を丸くした。「儂を守るためとな」



 リンケイもまた眼を丸くした。




 ――なんと、信じるかよ。




「天晴じゃ、陰陽師とやら」叫んだのは牛頭と馬頭だった。「いざ、我等と共にテンニなる悪鬼を斃し、閻羅王様に心安らかにこの世を治めていただこうぞ」



「――」リンケイは、眼を丸くしたまますぐに返事ができずにいた。




 ――まるで、正義を貫く者の言い草だな……まあ、この状況にあっては、その通りだな。




「はい」リンケイは頷いた。「必ずや」



 ――そしてまた、俺も策士だ。




「何を今更言ってるんだ」
 呆れたようなリューシュンの声が、まるですぐ隣にいるかのように聞こえる。




 陰陽師はそこでやっと、微笑みを浮かべた。






          ◇◆◇




 トハキは空中で激しくのた打ち回り、なんとかしてフラの牙から我が身を離そうとした。
 対するフラもまた龍の頚と馬の体をしなやかにそして素早くかわし、絶対にトハキから牙を抜けさせぬという決意を強く示していた。




「トハキ」キオウは叫んだ。「魔焔に焼かれた体を戻す方法を言え。そうすればフラの牙を抜かせる」




 ギオオオオオオウ




 トハキはもはや言葉では答えず、矢鱈に叫喚するのみだった。



 フラは敵龍馬に噛み付いているため叫び返すことこそ叶わなかったが、その眼、紅く燃え立つかのような視線を突き刺すかのようにトハキに据え、微塵も揺らがせなかった。
 二龍馬は激しく暴れ回り、トハキは耳を劈くほどの声を挙げ、十八層地獄も斯くやと思わせるほどの壮絶な光景がいつ果てるともなく続いた。
 フラは、トハキをこのまま殺すかも知れない――キオウはそう予測した。
 だが今の自分に、もはやフラの怒りと勢いを制することは出来ぬだろうと思った。
 実のところ、トハキの声は次第に力を失いつつあるように聞こえたのだ。



「フ――」



「トハキ!」



 キオウの声を押し退けて、女の声が叫んだ。
 はっとして振り向くと、キオウの背後に一人の人間の女がいつの間にか立っていた。



 ――この女が、トハキの主か。



 キオウは咄嗟に悟った。
 女はキオウには目もくれず、その傍を走り抜けて暴れ回る二龍馬の下に近寄った。



「危ないぞ」キオウは思わず叫んでいた。



「トハキ」女は返答せず、再び龍馬を呼んだ。



 呼ばれた黒龍馬は苦痛に身をよじりながらも主を見下ろし、
「リシ、さま……」
と、か細い声で呼び返した。



「貴様」リシと呼ばれた女は、そこで初めてキオウに向き直り、怒りのこもった眼と声で唱えた。「何故こんな事をする。何者だ」



「――」キオウは、これほどまでの憎悪と殺気を放つ人間を見たことがなかったので、少し気圧されるものを感じつつも「俺は、キオウ」と答えた。



「鬼か」リシは顎を引き、上目遣いでキオウを睨んだ。「鬼の分際で、龍馬を操り陽間を掻き乱すか」



「そうじゃない」キオウは首を横に振った。「俺は龍馬を遣う者に訊きたいことがあって旅をしているのだ」



「ふざけたことを言うな」リシは腕を上に伸ばし、いまだ暴れるトハキとフラをその指で差した。「あれが、人にものを訊ねる者のする事か」



「――」キオウにも言いたいことはあったがそれをぐっと呑み込み、空を見上げ「フラ。その龍馬を離せ。戻って来い」と命じた。



 フラは、素直に牙を抜き、トハキを睨んだまま砂の上に降りた。
 黒龍馬トハキはもはや力尽き、砂埃を高く舞い上げて大地に落ち、そのまま動かなかった。



「トハキ」リシは狂ったように叫び、従者に駆け寄った。



 模糊鬼にはかける言葉もなかった。
 フラもかなりの消耗であったらしく、黒犬の姿になりキオウの足許に蹲り眼を閉じ息を整えていた。



「ああ、トハキ、死ぬな。今、薬を」リシは取り乱したように肩に提げていた布袋に手を突っ込んで探り、浅黄色の水の入った小瓶を取り出した。



 だがそれは、とても今のトハキの傷の大きさに間に合うとは思えぬほど微量のものだった。



「トハキ。トハキ」それでもリシは名を呼び続け、その水をトハキの傷に振りかけ始めた。



 ギウゥゥゥゥ



 トハキが、首を絞められたような声を絞り出す。
 薬が染みるのか、主人に甘えて啼いているのかわからなかった。



 キオウも自分の荷を探り、薬草の束を取り出して女に近づき「これを」と差し出した。
 女は振り向きもせずにいたが、しばらくして突然手を出しキオウの手から、キオウを見ないまま薬草だけを奪った。
 そうしながらもう片方の手で再び袋を探り、鉢を取り出し、キオウの薬葉をちぎり入れて浅黄色の水をかけ、手早く擦り合わせた。



 ――この女……陰陽師か?



 その慣れた手管を見て、キオウはふと思ったのだ。



 だが陰陽師といえば、今まで共に闘って来た冷静で智に富むあの男の姿がどうしても浮かぶ。
 今目の前にいるこの女の、感情に任せた取り乱し方は、キオウにとってはあまりにも陰陽師の名から程遠い印象だった。




「鬼」




 突然女は呼んだ。



「――何だ」キオウは答えた。



「貴様は何を知りたいのだ」女は訊いた。「龍馬を遣う者に、何を訊きたいというのだ」



「魔焔による火傷を治す方法だ」キオウは答えた。「それも時間を置かず、直ちに」



「――」女はトハキを見つめたまましばらく黙っていたが、やがてキオウに振り向いた。「貴様自身も龍馬を遣う者でありながら、それを知らぬのか」



「――ああ」キオウは小さく頷いた。「時間に任せることしか、思い浮かばない」



「この薬草」女は鉢の中に出来上がった糊状の薬を手で直に掬い取った。「これを持っていながら、それを使うということを知らぬのか」言いながら掬い取った薬をトハキの傷にそっと擦り込む。




 ギゥゥゥ




 トハキがまた喉の奥で啼く。



「知らな、かった」キオウは頭を垂れるようにして眉を寄せ正直に告げた。「俺は……俺には、あんたほどの知識がない」



「何の為にその知識を学ぶ」リシはトハキの体をゆっくりとさすりながら訊く。「龍馬遣いとしての精進の為か」



「――いや」キオウは足許に伏せるフラを見つめて、少し躊躇った後答えた。「それを知らなければ、俺の妻と子が殺されるからだ」



 フラは何も言わず、眼を伏せ体を伏せたまま動かなかった。
 キオウはしゃがみ、黒犬の頭から背にかけてを手で撫でた。
 こんな身勝手な自分に、変わらず従ってくれるフラに、何と言葉をかければ感謝に絶えぬ想いのすべてを伝えられるのか、知る由もなかった。



「誰の体を治すのだ」リシはさらに訊く。「どこかの町の統治者か」



「――違う」



「賊か」



「――そうじゃない」



「鬼か」



「――」キオウはフラを見たまましばらくして「そうだ」と答えた。



「お前の、仲間か」



「違う。敵だ」キオウはその問いには直ちに答えた。「仲間が俺の妻と子を殺すわけがない」



「――」今度はリシが黙り、少ししてふふふ、と低く笑った。「それもそうだな」



 キオウは戸惑いを覚え、ただリシの次の挙動、もしくは言葉を待った。



「貴様は鬼のくせに、なかなか頭がいいと見える」リシはトハキをさすり続けながらまた言った。「土地爺か」



「いや……違う」キオウは首を振った。「俺は模糊鬼……地獄で生まれた鬼だ」



「模糊鬼?」リシはそれを聞いて初めて、キオウに振り向きその顔をじっと見た。「――随分と、若いのだな」



 キオウは黙っていた。



「なるほど土地爺ではなさそうだ……だがそれならば何故、陽世に居るのだ」



「――話せば、長くなる」キオウはリシの強き視線から眼を逸らし足許の砂を見下ろした。



「まさかお前の妻というのは、人間なのか」リシは眉をひそめてそう訊いた。



「――」キオウは、このリシという女に言い知れぬ恐れを腹の底で感じ始めていたのだった。
 感情的ではあるが、それ以上に理知的でもあり、洞察力もある。



「お前の仲間」リシはさらに問う。「それも、よもやまさか……人間なのか」



「正直に言おう」キオウはぐいと顔を上げリシを正面から見据えた。「人間も、いる。鬼も、いる。ついでに言えば精霊も、いる」



「なんと」



「俺の妻は、今は鬼だが、一緒になった時は人間だった」



「――」リシは口をあんぐりと開けたが、言葉を思いつけずにいるようだった。



 正直に言う、そのことが、果たして自分の進退にとり意味を成すものなのか、はたまた害をなすものなのか、この時点でのキオウには判断がつけられなかった。
 だが――鬼の勘、とでも呼べるものが、否――鬼の勘、としか呼び得ぬものが、正直に言うことを強く求めていたのだ。





「何故」リシはやっと、なかばかすれた声で言葉を発した。「人間の女が、鬼のお前と一緒になったのだ」



「――」キオウの心中に、白い花を手に持ち花のように笑っていたスンキ、人間であった頃、まだ自分と触れ合う前のスンキの姿が浮かんだ。



 その姿を見た時、自分は何も考えられず――自分が鬼であるとか、相手が人間であるとかいう制約など欠片も思うことなく、ただ抱き締めていたのだ。
 あの頃に感じていた、燃えるようでありながら水の中に揺らめくような感覚――今にして想えばそれが鬼にとっての思慕、恋慕といえるものなのだろう――が、ふと蘇る。



「わから、ない」キオウはそうとしか答えられなかった。「ただ――そうなりたいと、俺たちは想った」



「貴様がかどわかしたのではないのか」リシは眉を険しくさせた。「その女を」



「――」違う、とは言えなかった、確かにそもそもは、かどわかしたものだったからだ。



「そうなのだな」リシは眉をひそめたまま口元で笑った。「そうだろう、そうでなければ人間の女が、鬼になど嫁ぐはずがない」



「違う」キオウは首を振った。



「いや、違わん」リシも首を振った。「その女は、お前に嫁ぐことなど望んでいなかったのだ。内心では嫌がっていたものを、無理矢理」




 ひゅッ




不意に鋭く風を切る音がしたかと思うと、フラの馬の尾がリシの身体の脇すぐそばでぴたりと止まった。




「それ以上言うと、お前もこんな風になるぞ」紅き眸で締め上げるかのように睨みながら、フラはリシに向かって告げた。




 リシはゆっくりと眼を動かし、敵の龍馬を見た。
 彼女と敵龍馬の間には、いまだ苦しげに顔を歪め横たわる黒龍馬の姿があった。

しおり