バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

龍馬対龍馬

 空に昇ってきたトハキを迎え撃つように、フラはかッと口を開け迫った。



 トハキの黒き体は波を打つように空中でかわし、馬の尾でフラの体をしたたかに打ち据えた。



 だがフラも同時にそれをトハキに対して行っていた。



 互いに尾で体を打ち合った龍馬は、空の上で睨み合い牙を剥き合った。




 ごう




 同時に、二体は焔を--魔焔を吐いた。



 フラのものは、紅き焔。

 トハキのものは、黒き焔だった。



 体の色と同じ黒焔を、トハキはフラに--フラの紅き焔に、ぶつけた。



 二つの焔は互いに押し合い、消し合いし、しばらくして同時にふっと途切れた。
 だが二龍馬は休むことなく、次に馬の前足を空中で高く上げぶつけ合い、押し合った。
 そうしながら互いの頸に噛み付かんと牙を剥きせめぎ合う。



 力はまったく拮抗しているように見え、どちらも相手に傷を負わせ優位に立つことができずにいた。



 キオウは従者フラを制止することも叶わず、ただ地上から二龍馬の争う様を見上げるばかりだった。



 トハキが尾を鞭のように振り、フラが後足を高く蹴り上げてそれをかわし、直ぐにフラが蹴り上げた足の蹄をひねって敵の横腹に食らわそうとするのをトハキの脚もまた素早く持ち上げられ大岩のぶつかるがごとき音を発して蹄同士弾き合う。



 そのような光景を眺めるうち、ふとキオウは、かつて山の中でフラとリョーマが闘った時のことを思い出した。
 あの時の闘いでフラは深く傷つき、自分は寝る間も惜しんで介抱したのだ。
 その中で、スンキといろいろな言葉を交わし--そこから自分はスンキという女に、少しずつ心を開いていった。




 スンキを--そのスンキを、一刻も早くこの手に取り戻さなければ。




 キオウは牙を噛み締め、眼を細めて上空を睨んだ。
 トハキの動きを追う。
 息を殺し、黒龍馬の波打つ頸、しなやかに舞うがごとく躍動する体、それを瞬きもせずに見つめる。



 そして模糊鬼はついに機を捉えた。




「フラ、右の腹だ」周囲の砂を吹き飛ばすかの勢いでキオウは叫んだ。「噛め」



 次の瞬間、フラはまさしくトハキの腹部にぐさりと牙を突き立てていた。
 黒龍馬は大地が裂けたかと思わせるような叫びを挙げ、激痛に身をよじった。
 だがフラの牙は容赦なくその肉にがっきと食い込んだまま離さなかった。




          ◇◆◇




 よく、喋る女だ。



 男は朦朧とした意識の中で、そんなことを思っていた。
 正直なところ、女が話している内容などさっきから頭の中にまで入ってきていなかった。
 そうでありながら、男は女の言葉に何度も頷き、ぼんやりとした眼差しを向け、耳を寄せた。



 そうすることで、女の手から水を--自分の命を救う水を、もらうことができるからだ。



「一度に大量の水を飲むのはよくない」女は黒い幕を男の頭上にかざしてそう言った。「少しずつ飲め……そうしながら、私の話を聞くのだ」と。



 女の口からは、マトウ様、という名が幾度も出てくるようだった。
 男は一度、そして二度、声の出ぬ喉からマトウ様、というその名を唇だけで繰り返し、その度女は大きく頷いた。
 そして一度は、男に微笑みかけもした。



 頭上にかざされた黒い小さな幕の向こうには、陽の熱にぎらぎらと揺れされている熱い大気のあるのが見える。




「今私たちは、マトウ様の言葉に耳を傾け、そして行動を起こさねばならぬ岐路にまで来ている」女は言い、男の口許にもう一度水の入った甕を近づけた。




 男は唇を震わせ、注がれる冷水を体に取り込んだ。
 また一つ、命が自分の手に戻って来る--そのような感覚が全身を駆け巡る。




「私たちは、人間だ」女は男の口から甕をすぐに離し、言葉を続けた。「人間だからこそ、さまざまなことを考え、さまざまなことを学び、そこから得た知識を活かして更に今あるこの世界、つまり陽世の姿を、我々人間にとってより良いものに変化させてゆくことができるのだ」




 男は、女が何を言っているのかまったく理解できぬまま、小さく頷く。




「それは人間であるがゆえに為し得ること。鬼や閻羅王には到底為し得ぬことだ」




 もう一度、うすぼんやりと頷く。




「マトウ様の所へ行こう」女もまた頷きながら、そう言った。「我々人間の、人間たる素晴らしさをより深く知るのだ。そうすればお前は、本当の意味で命を手に入れ、今までとまったく違う、素晴らしい世界に生きることができる」




 女はそう言ってから、ついに食べ物を--水だけでなく腹を満たす食物、それは芋を干したもののように見えた--男の口許に差し出した。



 男は眼を剥いてそれに噛み付き、獣が人の手から餌を貪るがごとく齧り取り噛み砕き飲み下した。
 女が再び甕を差し出すと、男はごくごくと音を立て、そして満足そうに息をつき眼を閉じた。




「トハキ」女は男の落ち着いたのを見届けてから、熱く揺らめく空に向かって大きく声を挙げた。




 しばらく、何事も起きなかった。




「トハキ?」女は支えていた男の体を地に置き、立ち上がった。



 男は震える手を遠ざかる女の姿に向かって差し伸べたが、女は振り向きもせずただ空をじっと見上げていた。
 やがて、
「何奴か」
と呟くと、そのまま――男に振り向かぬまま、歩を踏み出し視界から消えた。



「あ……お……う」



 男はなんとか引き止めようと必死で声を挙げた、だが唇はいまだ思うように動かず、言葉が結べなかった。
 無論女に結べぬ言葉の通じるはずも届くはずもなく、二度と女の姿は男の視野の中に戻って来なかった。
 男の視野にあるのはただ、おのれの震える手、その向こうにぎらぎらと揺れる熱い空のみだった。




          ◇◆◇




 リョーマは、高く飛翔した。
 山を越え、海を渡り、また山を越え海を渡る。
 鬼と化した元降妖師は勿論、龍馬の姿もまったく見えてこなかった。



 リューシュンは、大声でその名を呼びたいところを我慢していた。
 呼んだからといって、返事が返ってくるわけなどありはしない。
 フラは、しばらく消えると言ったキオウを乗せ何処とも知れぬ場所を密やかに隠れるようにして飛んでいるはずだ。
 テンニに至っては――



「ケイキョ」リューシュンは鼬に振り向いた。
「へい」
「あの、天心地胆」聡明鬼はじっと鼬を見下ろした。「あそこに、もしかしたらいるのかな、テンニの奴」
「――」鼬もしばらく聡明鬼をじっと見た。「上天、の」
「うん」リューシュンは頷いた。



 テンニを追い陰陽界を駆け、最後に抜け出た天心地胆――それは大地から遥かに離れ、上天に一番近いところにあるものだった。
 リューシュンとケイキョ、そしてコントクはそこから大地に向かって飛び降り、だが一歩及ばずテンニの毒牙によりジライの体が真二つに斬られたのだ。
 あの、遥か遠くにある天心地胆――



 だがそこへ行くには、まず陰陽界に入り、そこから長い間走り続けてゆかねばならない。
 そして果たしてそこにテンニがいるのかどうか、確たる証もない。
 そんなことをしている間に、万が一、テンニの体が回復し森羅殿へ攻め込んでいったなら――



 リューシュンは首を振った。
 今は一刻を争う。



 間違いなく陽世にいるはずのキオウを、まずは探そう。





「リョーマ」聡明鬼は前を向き、龍の後ろ頭に向かって告げた。「フラを、とにかくフラの気を探してくれ。キオウを止めるんだ」





 答える龍馬の声は、鬼には届かない。
 だがリューシュンは、リョーマが
「わかった」
と答えたに違いないのを確信した。





「鳥たちだチイ」スルグーンが呟いた。
「鳥?」リューシュンは振り向いた、だがそこにスルグーンの姿はなかった。「スルグーン?」慌てて周囲を見回す。



 雷獣は小さいながらも翼を広げ、群れ飛ぶ鳥たちのいる方へと向かっていた。




「ガルダ様」




 思った通り、鳥たちはすぐにスルグーンを認め憧憬の眼差しと声音で迎えてくれた。



「お前たちチイ」スルグーンは鳥たち――雷獣となった今も自分を神と崇めてくれる信奉者たちを見回して、言った。「龍馬を見かけなかったかキイ」



「龍馬?」
「ナーガでございますか?」
 鳥たちは一様に、驚いた声を挙げる。



「ナーガじゃないチイ」スルグーンは首を振った。「精霊だが神ではない、紅い眸を持つ龍馬だキイ」



「それは」
「いえ、私たちはその龍馬を見ていません」
「お役に立てず申し訳ありません、神よ」
「しかし私たちもその龍馬を探しましょう」
「ええ、その紅い眸を持つ龍馬を」



 鳥たちはスルグーンを悦ばせようと、口々に述べた。



「そうしてくれると助かるチイ」スルグーンは頷いた。「他の鳥たちにも呼びかけてくれるかキイ?」



「はい、ガルダ様」
「むろん私たちは必ずそうします」
「お役に立てるのであれば、喜んでそれを致します」



「うん」スルグーンは、ふと陰曺地府で再会した男の顔――それは楽しげに、眼を細めて笑っている――を思い出した。
 体が、くすぐられるように感じる。
 咳払いをして、彼は言った。
「ありがとうチイ」



「おお」
「なんと」
「もったいない」
「ガルダ様」
「我らが神よ」
「よし行こう」
「うん。すぐに行こう」
「きっと見つけるのだ、龍馬を」
「では神よ、ご無事で」
「きっと我らが龍馬を見つけてご覧に入れます」
「お任せ下さい」





 鳥たちは嵐のごとき歓喜の声を空に響かせ、それぞれの方向へ飛び去っていった。



 スルグーンはそれらを見送り、そしてまたリョーマの馬の背の上に戻った。



「何を話してきたんだ?」聡明鬼が訊く。
「龍馬を探してくれと、頼んだチイ」スルグーンはぼそぼそと答えた。
「そうか」聡明鬼は大きく頷き、それ以上は訊かなかった。



 リョーマは、また海を越え、山を超えて進んだ。



 やがて遥か先に、海でもなく山でもない、砂の大地が細く姿を現しはじめた。




          ◇◆◇




 森羅殿を、リンケイは初めて見た。

 それは一口に言ってどす黒く、すべてを呑み尽し二度と吐き戻さぬ、文字通り血も涙も容赦もなき構えの館であった。
 あたかも土の塊を怒りに任せて殴りつけて形づくったような、心安らかならざる形容を示している。
 怒りに任せて殴りつけたのは、閻羅王か、はたまた玉帝なのか――





 そんなことを想う内にも、コントクとジライに導かれてリンケイは殿内に足を踏み入れていた。

しおり