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第一章 NPC

 ――キーンコーンカーンコーン
 チャイムが鳴り、午前中の授業が終わった。これから給食だ。
 この学校では、給食として弁当が配られる。食べる場所は教室でなくてもいい。ランチルームではクラスや学年に関係なく集まって食べることができるし、同じように中庭や屋上で食べてもいい。
 僕は弁当を手に、自分の席についた。ざっと見渡すと、教室には大半のクラスメイトが残っている。今日は寒いし風も強いから、普段外で食べている人が教室に残っているのだろう。それでも僕の前の席やその隣の席は空いていた。ランチルームに行ったのかもしれない。
 僕が教室に残っているのは、隣の席の玻瑠南(はるな)と一緒に弁当を食べるためだ。今日も横目で右にいる玻瑠南をちらりと見て、弁当のふたを開け、箸を手に取った。
 そこへ。
「ここ、いいかしら?」
 赤縁眼鏡の小柄な女子が、弁当を持って僕の前に来た。
「別にいいけど……、でも、西畑(にしはた)さんがどうして?」
「いいじゃない。なんとなくよ」
 空いていた前の机を反転させ、僕の机と向かい合わせた。
 クラスメイト……特に女子の視線が、こっちに向く。
「なんであんたがここに来るのよ」
 隣にいる玻瑠南の声が、低く響く。
沢野(さわの)君がいいって言っているんだし、文句言われる筋合いはないと思うけど?」
 玻瑠南と目を合わせることもなく、椅子に座った西畑は弁当のふたを開けた。

   ◇ ◇ ◇

 牧田(まきた)玻瑠南と西畑朋未(ともみ)――正確には、仮想世界『リュンタル・ワールド』のアバターであるアミカと、『フォレスト・オブ・メモリーズ』のアバターであるフレアが、異世界である本物のリュンタルに行ったのはおとといのことだ。僕たちは一度は帰ってきたものの再びリュンタルに行き、悪党を倒して誘拐された少女を救い出し、さらに巨大な魔物を倒してきた。リュンタルで一晩を過ごし、帰ってきたのは昨日の朝だった。
 昨日は日曜日だったから、今はそれから初めての給食の時間ということになる。

   ◇ ◇ ◇

 そんな裏事情なんて全く知らないクラスメイト(特に女子)は、ちょっとざわついている。恋人宣言をしてまで僕の隣の席を奪い取った玻瑠南に西畑が果敢に喧嘩を売りにいった、と見えているのかもしれない。
立樹(りつき)は優しいからあんたを追い払わないだけ。でも私は嫌。どっか行って」
 玻瑠南も西畑を見ようとせず、スマートフォンをいじりながら話している。
「私は沢野君に訊いているんだけど」
 西畑は弁当を食べ始めた。西畑も相変わらず玻瑠南を見ようとしない。
「まあまあ二人とも落ち着いて、落ち着いて」
 僕を含めて三人とも、仮想世界で遊んでいることは内緒だ。だから本当はなんのつながりもないはずの三人が教室で一緒にいると変なんだけど、だからと言って一緒に食べようと言ってきた西畑を断ることはかえって不自然だし、なんとなく一緒に食べて、なんとなく終わらせるしかないだろう。
「怒りながら食べたっておいしくないだろ? 仲良くしようよ」
 電子音が鳴った。箸を置いた西畑が、ポケットからスマートフォンを取り出す。同時に玻瑠南はスマートフォンをポケットにしまった。
 画面を見た西畑の指がすぐに動いた。
 また電子音。今度は隣の玻瑠南からだ。
 ポケットにしまったばかりのスマートフォンを取り出し、指を動かす。指が止まった瞬間、西畑は画面に顔を向けたまま目だけで玻瑠南を睨んだ。玻瑠南も同じように、目だけで西畑を睨み返している。
 メッセージを送り合っている、というのはわかる。西畑のはわからなかったけど、玻瑠南のスマートフォンから鳴ったのは『リュンタル・ワールド』のアプリで玻瑠南が設定している音だ。
 お互いに、スマートフォンの上で激しく指を動かしている。そしてチラッチラッと目だけを動かしてお互いの顔色を窺っては、また画面に目を戻している。
 何か異様な雰囲気を、クラスメイトも感じ取っている。でも最初は視線を送っていたクラスメイトも、今は見て見ぬふりをしている。教室内をぎこちない空気が淀む。
「ちょ、ちょっと場所を変えようか。そうだ! 今日は外へ行って食べようか」
 この雰囲気に耐えきれなくたった僕は、他人の目がない場所で三人だけになることを提案した。しかし、
「嫌。風強いし寒いし」
「私もここでいいわ」
 スマートフォンから目を離さないまま、つれない言葉を僕に返してきた。たしかに、いつも外で食べている人が教室に残っているほどの天気だ。いつも教室で食べている僕たちが外で食べるのは、かなり不自然だ。
 二人は弁当を食べることなく、スマートフォン上の指をずっと動かし続けている。目の前にいるのにわざわざメッセージで会話しているということは、きっと直接口に出しては言えないようなことを言っているのだろう。
 さすがに……我慢しきれなくなってきた。
「いいかげんにしろよ二人とも!」
 僕は立ち上がって大きな声を上げた
 クラスで一番背が高い僕を、座ったままの玻瑠南と西畑が見上げる。
 教室内の空気が、わずかに凍りつくのを感じた。
 一瞬の静寂の間を、また電子音が鳴り響く。玻瑠南のスマートフォンだ。でも西畑は指を動かしていないし、そもそもメッセージ画面を開いている間は着信音は鳴らない。
 ということは、他の誰かからのメッセージだ。
 スマートフォンを見ている玻瑠南の顔が、みるみる渋い表情に変わっていく。
 玻瑠南の指が動く。そしてまた電子音。最も聞き慣れた音、つまり僕のスマートフォンが鳴った音だ。
 アプリのメッセージ画面を開く。

 Amica: ナオがあたらしいふくを作ってくれたから、きょうはナオのところに行くよ。

 西畑にも同じメッセージが送られていたようで、それを見てにんまりと笑っている。
「あんたに負けたんじゃないから!」
 西畑をにらみつけた玻瑠南は、そう吐き捨てると猛烈な勢いで弁当を食べ始めた。
「今度は急にどうしたんだよ。もっとゆっくり食べろって!」
「うるふぁい」
 ナオが新しい服を作ってくれるんだからうれしがるならわかるけど、どうしてこんなにヤケクソになって食べなきゃならないんだろう……?

   ◇ ◇ ◇

「罵り合い? 違う違う、そんなんじゃないって」
 胸を帯のように覆う、オレンジ色のチューブトップ。下半身は同じ色のホットパンツ。
 露出度が高い服装のフレアが、ティーカップを僕の前に置いた。
「今日はリッキと二人でどう過ごすか、っていうプレゼンを出し合っていたのよ。結局、リッキに選んでもらう前にアミカに用事ができちゃったけどね」
 向かい側の席にも紅茶を置き、フレアが座る。
「えっと……僕に予定があるかどうかは考えなかったの?」
 出された紅茶を一口飲んだ。上品な香りが鼻をくすぐる。
「予定? ごめん、何か予定があったの?」
「いや……ないけど」
「そうよね。リッキはいつもフリーだってアイリーから聞いたし」
「そ、そうなのか。アイリー……」
 はあ、とため息をつき、ティーカップを置いた。

『リュンタル・ワールド』と『フォレスト・オブ・メモリーズ(FoM)』の統合から、今日でちょうど一週間。
 僕はFoM(エフオーエム)のギルド『(ほし)(つばさ)』にあるギルドマスター用の部屋に来ていた。本来は外部の人間が入る場所ではないんだろうけど、ギルマスであるフレアはこの二つのゲームが統合された初日にも僕をここに連れてきたし、今日もフレアに誘われてここに来ている。
「ところで、今日はどうするの?」
 プレゼンを出し合っていたということは、フレアが立てた予定があるはずだ。
「ツウェロクの街のことをリッキにもっと知ってもらいたいと思って。二人で一緒に歩きたいのよ」
「うん、いいね。街の中は『(ゲート)』とギルドの間の道しか知らないし、それ以外の場所を案内してもらえたらうれしいよ」
 FoMはまだまだ知らないことが多い。慣れるまでは詳しい人と一緒にいたほうがいいというのは、統合される前から考えていたことだ。
「じゃあそれで決まりね。私とリッキが二人でいるのを見せびらかせば、恋人同士だってみんなに認識してもらえるし」
「ちょっと待って!? こ、恋人同士って」
「一夜を共にした仲じゃない」
「えっと、その言い方は、なんか誤解を生むというか」
 向かい合って座っていたフレアが、僕の隣に移動した。
 思わず身構える。またその露出度の高い体を絡みつかせて、僕を落とそうとしているのかもしれない。
 フレアの手が伸びる。そして……僕の手を取り、強く握りしめた。
「お願い、リッキがいないと、私ザームと付き合ってることになっちゃうから」
「ザームと!?」
「ほら、昨日ザームと一緒に遊んであげたじゃない。それで――」
 急に話を止め、握っていた手を離した。目を逸らし、右手の人差し指を伸ばして空間で滑らせる。メッセージを読んでいるのだ、ということは目の動きでわかる。
 だんだん表情が険しくなっていく。そして、
「ごめん。ちょっと行ってくる」
 立ち上がると同時にそう言うと、部屋を飛び出していった。
「行ってくるって、どこへ!」
 僕は椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、後を追った。

 FoMでは、街を出るということは森に行くということだ。
 街を出てすぐ――つまり森に入ってすぐの場所にある『門』に、フレアは乗った。円筒形に立ち上ろうとする白い光を飛び越え、僕も『門』に入る。光が僕の頭よりも高く上り、そして下りた時には、僕たちは別の『門』に立っていた。ここもやはり森の中だ。『門』の前には、道が左右に伸びている。
「ついて来なくてよかったのに!」
「いや、なんか慌ててたみたいだから心配でつい」
『門』を飛び出して道を右へ走っていくフレアに置いていかれないように、僕も走る。
 すると、広い場所に着いた。ところどころに身長の二倍や三倍はあるような大岩が突き出ていたり土が盛られていたりして全体は見渡せないけど、これまでFoMで行った場所同様、森を四角くくり抜いた構造のようだ。
 フレアは走って進んでいく。僕も走ってついていく。
 ――キイィィン!
 甲高い金属音が、前方から聞こえてきた。剣がぶつかりあう音だ。大岩に遮られて、様子を窺うことはできない。
 こっちに走ってくる人とすれ違う。だいぶ慌てているようだ。見たところ戦闘タイプではなく、逃げてきたのだということはすぐわかった。
 フレアは大岩を回り込みながらミニボムを投げつけた。爆発音と男の叫び声が混ざって聞こえる。
 僕もようやく大岩を回り込んだ。
「お嬢! それにリッキも!」
 戦っていたのは、ザームと見知らぬ男たちだった。ザーム一人で数人の男たちを相手にしていて、明らかに不利な状況だ。
 フレアはザームに剣を向けている男たちにミニボムを投げ続けた。男がひるんだ隙にザームが斬りかかる。僕も剣を抜いた。
「ちっ。戻るぞ」
 男の一人が吐き捨て、僕たちが来たのとは別の方向へ逃げていく。他の男たちもそれに従って逃げていった。
「悪りぃお嬢。数が多くて手に負えなかった」
「悪いのはザームじゃないわ。気にしないで。……あー頭にくる!」
 フレアのブーツサンダルが地面を蹴り上げ、土や小石が舞う。
「フレア、あいつらは一体」
「大丈夫。これは私たちの問題だから。リッキは心配しないで」
「心配しないでって言われてもさ、フレアにとっては心配なことなんだろ? それに、ここまで見ちゃったからには無関係って訳にはいかないって。よかったら教えてくれないかな?」
「じゃあ俺が教えて……ぐふっ」
 ザームが顔をしかめてうずくまる。フレアがみぞおちに拳を叩き込んだのだ。いくら痛みがないとはいえ、フレアはザームに全く容赦がない。
「私から説明するわ」

「つまり、縄張り争いってこと?」
「縄張り争いじゃないのよ。こっちはフリーな場所にしたいのに、向こうは独占したがっているってことなの」
 フレアの話によると、隣の街のギルドがここの資源を自分たちのものにしたがっているらしい。
「このゾトルハ鉱山は良質な鉱物資源が豊富にあるし、星屑もたくさん採れるから狙われやすいのよ」
「星屑?」
「ああ、星屑っていうのは、リュンタルで言う希石みたいなものよ。アイテムを作る時に何かと必要なの。えーと、どこかにないかな……」
 フレアは近くの大岩に駆け寄って隙間を覗き込んだ。
「あった!」
 戻ってきたフレアの親指と人差し指の指先が、小さな石をつまんでいる。
「これは小さいし、色もよくあるやつだから大した価値はないけど、鉱山の奥深くに行けばもっと希少な星屑が眠っているわ」
 鉱山と言っても、ここは山ではない。先のほうに地下への入口が見える。地下に鉱物や星屑といった素材アイテムが埋もれているようだ。
「この辺りの地域ではここが最大級ね。だからこそみんなで公平に利用してもらいたいんだけど……」
「俺らは別にあいつらが来るのを拒んでるんじゃねーんだ。ただ他人の採掘を邪魔するのが許せないだけで」
「あんたは黙ってていいから」
 背中越しに話すザームのみぞおちに、フレアの肘が食い込む。再びうずくまるザームに、フレアは振り返りもしない。
「まあでもザームの言った通りなんだけどね。普通に採掘しに来るだけなら、何も問題ないのよ」
 はーっ、と大きなため息をつく。
「あいつらからしてみれば、力で制圧しなくてもただちょっかいを出し続けていればいいのよ。そうすれば他の人たちは嫌がってだんだんここに来なくなるでしょ? 自然と自分たちだけが利用する場所が出来上がっちゃうってわけ」
「なんか……いろいろ大変なんだな」
 ギルドという仕組みがない『リュンタル・ワールド』では、こういう土地をめぐる勢力争いは起きない。フレアのように街を支配するほど大きなギルドの長ともなれば、それ相応の苦労あるのだろう。
「大丈夫。リッキは関係ないから。これは私たちで解決する問題。私たちでなんとかする」
 確かにこれはギルドの問題だ。そして僕はギルドに入るのを断った身でもある。事情はわかったけど、口を挟むことはできない。
「そうだぜリッキ。お嬢には俺がついてるんだから大丈ぶっ、ぐふ」
 フレアが振り上げた拳が、ザームの顎を直撃した。勢いでザームの顔が真上に向く。
「えっと……じゃあ、もしギルドだけじゃどうにもならなくなったら、僕も協力するよ。でもフレアとザームがいれば問題ないかな」
「うん、リッキの出番がないようにがんばる。それと、やっぱり今日の予定はキャンセルしていい? ちょっとこいつと対策考えたいから」
 こうなった以上、街の散策なんて呑気なことは言っていられない。
「うん、わかった」
「今日の予定? お嬢、予定って」
「うるさい」
 フレアの張り手がザームの頬に炸裂……することはなかった。寸前で止められた手が降ろされ、ザームの手を握った。そのままザームを引きずるように歩き出す。慌ててザームも歩いてついて行った。
「私こいつ連れてホームに帰るから。また今度お願い」
 フレアは振り向いてそれだけ言うと、また前を見て歩いて行った。
 あのままホームに戻るつもりなのだろうか。
 手をつないで歩いていたら、余計ザームと付き合っていると思われてしまうんじゃないだろうか……。

   ◇ ◇ ◇

「ねーお父さん、『門』貸してよ」
「ダメだ」
「えー、いいじゃん」
「ダメ」
「……………………」
「……………………」
 寒くなってきてから、夕食は鍋にすることが多くなった。今日は特にひねりのない、醤油味のよくある寄せ鍋だ。
 その、テーブルの中央に置かれた鍋を挟んで、愛里(あいり)とお父さんが睨み合っている。お父さんが本物のリュンタルへ行くための『門』を開くことができるようになったから、愛里が本物のリュンタルに行きたくて駄々をこねているのだ。
「……やっぱダメかぁー」
 睨み合いに負けた愛里が、ため息をつきながらおたまを手に取り、鍋から小鉢へと取り分ける。
「あいちゃん、ちゃんとねぎも食べなさい」
「食べてるって! たまたま今は入ってないけど!」
「あらそう? ならいいんだけど」
 これは愛里が言い訳しているんじゃなくて、お母さんの勘違いだ。愛里に嫌いな食べ物なんかない。なんでもかんでもおいしく食べてしまうのは、愛里の特技だ。
「あーあ、本物のリュンタル行きたいなー」
 茶碗を手に持ったまま、愛里はちらりと左隣の僕に目を移した。気づいていないふりをして、僕はおたまを手に取った。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんも何か言ってよ!」
「そうだね、寒くなったら鍋はいいよね」
「そうじゃないでしょ! お兄ちゃんのバカ!」
「バカってなんだよ!」
 スルーするつもりだったけど、バカなんて言われてしまってはさすがに黙っていられない。おたまを置いて反論する。
「そんなに気軽に行ける訳ないだろ」
「行けるじゃん。行けるようになったじゃん」
「だからって」
「りっくんもあいちゃんも、喧嘩しないでちゃんとご飯を食べなさい」
 見かねたお母さんが割って入り、言い争いを止めさせる。
「「…………はーい」」
 愛里は渋々返事をしたけど、僕はこの話題が終わってよかった。遊び半分で本物のリュンタルに行くべきではない。用もないのに向こうに行って何かに関わってしまうと、良くないことが起きてしまいそうな気がするからだ。
 僕はあらためておたまを手に取り、鍋を取り分けた。白菜、春菊、ねぎ、豆腐、しいたけ、牡蠣、鶏肉などの具に醤油味が染みていてとてもおいしい。
 続いてお父さんもお母さんも、おたまで鍋を掬って取り分けた。
「おいしいわねー。やっぱり寒い時は鍋がいいわねー。そうそう、お鍋って後片付けが簡単でいいのよね。お皿をいっぱい洗わなくていいから」
 料理を作るのは僕だけど、後片付けはいつもお母さんがやっている。だからお母さんはそう思っているんだけど、作る側の僕としても、一品ずつ料理を作るよりは、鍋のほうが簡単でいい。
「せいちゃん」
「なーに、こうちゃん? こうちゃんもお鍋おいしい?」
 自分が作っているんじゃないのにまるで自分が作っているかのような言い方をするのは、お母さんの癖だ。
「せいちゃん、ちゃんとねぎも食べなよ」
「……こうちゃんも、余計なことは言わないように」

   ◇ ◇ ◇

 夕食が終わってしばらくすると、お父さんが僕の部屋に来た。隣の部屋の愛里も呼んで、いつものように僕は学習机の椅子に、お父さんと愛里はベッドに座った。
「今度導入する新しいシステムなんだけど……実は、NPCの自由度を上げることになった」
「自由度? いいね、それ」
 なんのことを言っているのか僕はまだよくわかっていないけど、愛里は即座に反応した。
「えっと、愛里は、どういうことかわかってるの?」
「大丈夫。これからお父さんが説明するから」
 それってつまり、愛里もわかっていないってことなんじゃ……。
「詳しく言うと、基本的な設定が与えられているだけのNPCが、これから投入されていくことになる。これまでは店やシナリオによって決まった役割しか果たしていなかったけど、新しいNPCは自由行動で得た経験から学習して成長していくことになる。PCとパーティを組んで戦闘することも可能だ」
「ホントに!? 私すごい楽しみ! ねえ、NPCともフレンドになれるんでしょ?」
「もちろんなれるさ」
「やったあ! またいっぱいフレンドが増やせる! ねえ、いつごろから始まるの?」
「一応、二週間後くらいを予定しているけど……でもこれはFoM側からの提案で始めたことだから、こっち側の準備ができてなくて遅れるかもしれない」
「ダメ! ちゃんと間に合わせて! 私今すぐにでもNPCとフレンドになりたいもん」
「わかったわかった。ちゃんとやるって」
「それに、こんなこと考えるなんて、FoMのスタッフいい人だね!」
「俺はあんまり好きじゃないんだけどなー。特にプロデューサーの――」
「まあまあ、そこは大変なこともあるとは思うけど、これやったら絶対楽しくなるって! ……お兄ちゃんもボケッとしてないでなんか言ってよ!」
 僕を置き去りにして二人で話をしていると思ったら、今度は急に意見を求めてきた。
「ボケっとなんかしてないって! ……ちょっと話についていけなかっただけだって」
「もーお兄ちゃんわかってないんだから! NPCと一緒に遊べるんだよ? アーピやカイにもまた会えるんだよ?」
 愛里にそう言われ、二人の姿や楽しかった思い出が瞬時によみがえる。
「お父さん、それ本当?」
「うーん、決定ではないけど、可能性は十分あるだろうな。もっとも、データは完全にリセットされていて、せいちゃんが中にいた時の記憶は残っていないけど」
 夏休みに一緒に遊んだアーピやカイは、お母さんが使っていた古いゴーグルが起こしたバグのせいで出現したイレギュラーのNPCだった。NPCであるにもかかわらず、中にお母さんの意識が入っているという特殊な状態でもあった。正式に登場するのであれば、その時のことがリセットされてしまうのは当然のことだ。
「私それでも会いたいよ。また一緒にパーティ組みたいよ。……あー早く実装されないかなー。お父さんこんなところにいないで早く仕事してよ」
「無茶言うなよ! 俺一人で仕事してるんじゃないんだからさ! 一応スケジュール通りに進めていけるようにちゃんと頑張っているから、楽しみに待っていてくれよ」
「はーい」
「じゃあ、そういうことだから」
 そう言ってお父さんは部屋を出て行った。
 ベッドの空いたところに、愛里が倒れ込む。
「……お兄ちゃん、あんまり楽しみじゃないでしょ」
「いや……ちょっと、話について行けなかった」
「ほら! 興味がないからついて来れないんだよ。ついて来れないっていうか、ついて来ようとしてないんだよ。やっぱりお兄ちゃん、NPCのことちゃんと考えてない」
 そう言われると、否定はできない。アーピやカイはお母さんが中にいた特別なNPCだ。そうでない普通のNPCとは、やっぱり違う。
 愛里はベッドから起き上がった。そして、
「あー早くNPCとフレンドになりたいなー。お父さんもFoMのスタッフさんたちも頑張ってほしいなー」
 冷めた目で僕を見ながら、部屋を出て行った。

   ◇ ◇ ◇

 アップデートは、予定通りに行われた。
 でも、僕にはあまり関係ないだろう。これまでと同じように遊んでいれば、NPCとの接点は特に変わらないはずだ。

 円筒状の仄白い光が降りた。
『門』に立つ僕の前に、いつもと同じピレックルの噴水の広場の光景が広がる。
 普段と変わった様子はない。NPCが自由に行動するといっても、実はこれまでとそんなに変わらないのかもしれない。
 今日は特に予定はないし、まずアイテムを補充してからソロで攻略できそうなクエストでもやってみることにしよう。
 そう思って街を歩いていると、
「あ、お兄ちゃん。お兄ちゃんも買い物?」
 立ち並ぶ店の中から、僕を呼ぶ声が聞こえた。店の中を覗くと、アイリーが手招きしている。買い物している店の前を、偶然通ってしまったようだ。
「アイリー、どうしたの?」
 僕は足を止め、店の中へ入っていく。
「新しい服の生地を選んでんの」
「生地?」
「うん。ステージ衣装で使うやつ」
 急に呼ばれてよく確かめずに入ってきたけど、この店は手芸用品店だ。棚には様々な種類の布や糸、ボタン、そして裁縫道具などが並んでいる。モンスターを倒した時に手に入る革や、魔石を原料に使っている特殊な耐性を持つ染料なんかも売っているのが、いかにも仮想世界らしい。現実世界では智保に付き合って手芸用品店に行ったことはあるけど、智保と違って僕に手芸の趣味はないし、現実も仮想もあまり縁がないタイプの店だ。
「あ、それ見せて!」
 アイリーが店の奥へと駆け寄っていった。奥には店主のおばさんと、その後ろに店員でも客でもなさそうな若い女性が立っている。
「うわー、すごい滑らか!」
 筒状に巻いてある布を少しだけ広げ、アイリーは手を滑らせる。
「それに薄いのに丈夫そうだし、それでいて伸縮性もあって柔らかいし。私これ買う!」
 店の外にまで響きそうな大きな声だ。ちょっと恥ずかしい。
「ねえお兄ちゃんもこっち来てよ! すごいよこれ」
 この騒がしい人の兄だと思われると、余計に恥ずかしい。
 でも、アイリーはやたらと知り合いが多いし、おかげで僕もアイリーの兄としてよく知られる存在になってしまっている。今さらごまかしようがない。
 仕方がないので店の奥に行くと、
「ちょうど納品のタイミングだったみたい。すごいラッキーだったよ」
 アイリーのテンションがやけに高い。でも、僕にとってはどうでもいい。
「そうか。よかったな」
「もーなんでそんなに棒読みなの? 信じらんない! 私すごい感動したのに! もっと高級な専門店とかで売っててもいいくらいすごいのに! それに、この機織り職人さんともフレンドになったし!」
 いったいいつの間にフレンドに?
 確かにアイリーはすぐに誰とでもフレンドになれる特技を持っているけど、全然気づかなかった。とんでもない早業だ。
 ということは、この若い女性は機織り職人なんだな。アイリーに布を絶賛されて頬をわずかに赤らめている。
「ねえ、せっかくフレンドになったんだし、今度一緒にパーティ組んで冒険に行こうよ」
 アイリーが機織り職人の女性に話しかける。
「え、私ですか? でも私、戦ったことなんてないんですけど、いいんでしょうか」
 穏やかな、優しい声だ。ゆるくウェーブがかかったアッシュの長髪とスラリとした姿も相まって、大人っぽさ、そして清楚さを感じる。
「いいからいいから。ちゃんと強い人たちが守ってくれるから」
 アイリーにはこの女性のような要素は全くない。
「私のお兄ちゃんだって、こんなに頼りなさそうだけど意外と強いよ」
「頼りなさそうってなんだよ」
 頼りがいがあるとまでは言えない自覚はあるけど、こう言われるのはさすがにちょっと腹が立つ。
「アイリー、そんなことないですよ。私にはお兄さんがお強く見えます」
 この人本当にいい人だ。アイリーとは全然違う。ほんの欠片だけでもいいからこの人を見習ってほしい。
「でしたらせっかく誘ってくれたことですし、都合をつけてご一緒させていただきますね」
「ありがとうキュイア! それでいつにする? 今からでもいいよ!」
「今から、ですか? えっと、それはちょっと……」
 キュイアと呼ばれた機織り職人の女性が、戸惑い気味に返事を濁す。
「アイリー、いくらなんでも無茶すぎるだろ。また今度にしろよ。そもそもパーティに入ってもらうだけでも無理があるってのに」
『リュンタル・ワールド』には、冒険以外の目的があってプレイしている人も多い。例えば、アミカのステージ衣装を担当しているナオは現実世界では服飾の勉強をしていて、それを生かす場として『リュンタル・ワールド』に来ている。
 きっとキュイアも布を織ることが目的でプレイしているのだろう。現実世界で機織りなんてそうできるものではないし。
「そっかー、じゃあまた今度ね」
「もしパーティを組むのなら連絡が取れたほうがいいから、フレンド登録していいかな?」
 僕のフレンドリストは相変わらず少ないままだ。キュイアはとてもいい人そうだし、この機会にフレンドになって今後も仲良くしていきたい。
 僕はキュイアに視線を合わせ、フレンド申請を送ろうとした。
 が。
 一瞬、指が止まった。
 視界に表示された『Cuyia』の文字。その左端に、小さな点が付いている。

 NPCであることを表す、小さな印。
 そんな。
 全然、気づかなかった。

 アイリーがじっと僕を見つめている。僕の言動を咎めるために。キュイアからはアイリーの背中に隠れ、僕の指先が見えていない。僕の動きが止まったとわかっているのは、僕とアイリーだけだ。
 これ以上止めていられなかった指が、キュイアにフレンド申請を送信する。
 PCと同じ動きで、NPCのキュイアはフレンド申請を受諾した。
「ありがとうございます。近いうちに連絡しますね」
 キュイアの優しく穏やかな声を、僕はどこかうわの空で聞いていた。

   ◇ ◇ ◇

 店を出た僕の前を、通行人が行き交っている。
 ここに来るまでは全然想像しなかったけど、この中にもきっとNPCはいるのだろう。誰がPCなのかNPCなのか、見た目では区別がつかない。もしかしたら、たまたまこの店にキュイアというNPCが来ていただけであって、今目に映っている通行人は全員がPCなのかもしれない。
 でも、逆に全員がNPCってことだって、あるかもしれない。
 もう訳がわからなくなってきた。
 なんだかクエストをする気分ではなくなってきた。
 今の僕は混乱している。こんな状態では冒険は無理だ。
 でも、他にやることは……。

 あった。

   ◇ ◇ ◇

 NPCの自由度が上がった以外にも、今回のアップデートで追加されたことがあった。シェレラがすぐに利用すると聞いていたので、工房へ行ってみることにした。
 大事な作業中だといけないので、いつものようにそっとドアを開ける。
「おじゃましまー……っ、とっ、と、う、うわっ!?」
 入っていきなり、何かにつまずいて転んでしまった。膝を強く打った衝撃だけが響く。もし現実なら、痛さのあまりしばらくはうずくまったまま立てずにいたかもしれない。
 でもここは仮想世界。すぐに起き上がって振り返る。
「…………亀?」
 ドアの辺りに、亀の甲羅の形をしたものがある。一メートルくらいの大きさもさることながら、ピンクや黄色の蛍光色で彩られたその鮮やかさが、亀であると認識することを妨げている。
「リッキ、ダメじゃない! シェレラを蹴飛ばさないで!」
 と言いながら工房の奥から駆け寄ってきたのは、もちろんシェレラだ。
「えっと……シェレラ?」
「大丈夫シェレラ? 痛いとこない?」
 シェレラはころんだ僕はそっちのけで、蛍光色の硬い物体を優しくなでている。
「……シェレラ、ちょっと、よくわからないんだけど」
「ペットを飼ったの、言わなかったっけ?」
「いや聞いたけど。だから来たんだけど」

 今日から新しく、ペットを飼うことができるようになった。ただし、飼えるだけの場所を持っていることが条件となる。だから家も何もない僕はペットを飼うことができないけど、シェレラは工房を構えているので、ここでペットを飼うことが可能なのだ。

「リッキもシェレラをなでていいよ? かわいがってあげてね」
 手足も頭も甲羅の中に引っ込めているその亀は、やはりシェレラが飼い始めたペットで間違いなさそうだ。
「あのー、まさかとは思うけど、その亀の名前って」
「シェレラだけど?」
「どうしてペットに自分の名前を付けるんだよ!」
「…………??」
 僕の質問に、シェレラは答えない。答えたくないというよりは、質問の意味がよくわかってないようだ。ただぽかんとしている。
 一応、シェレラの答えがなくても、理由はわかる。
 シェレラという名前は、そもそも智保(ちほ)が飼っていた亀の名前だからだ。それでこの亀にもシェレラという名前をつけたのだろう。シェレラが僕の質問に答えられないのは、亀の名前といえば当然シェレラなのに、なぜそれをわざわざ訊くのか意味がわからない、どう答えていいのかわからない、ということのはずだ。
 もし、現実世界で智保がまた亀を飼ってシェレラと名付けるのならわかる。でも、仮想世界では自分の名前がシェレラなのに、それでも亀にシェレラと名付けてしまう感覚は、僕にはよくわからない。
「ほら、リッキもシェレラをなでてあげて」
 僕の質問なんかなかったことにして、シェレラの右手が僕の左手首を掴んだ。無理やり手を引っ張られ、僕は手のひらを亀のシェレラの甲羅に乗せた。
「シェレラ、かわいいねシェレラ」
 シェレラは自分と同じ名前を柔らかく包み込むように言いながら、力を込めた右手で僕の左手を前後に動かす。確かに僕の手のひらは亀のシェレラの甲羅をなでているけど、そこに僕の気持ちは全く込められていない。
「リッキもちゃんと言って。『シェレラはかわいいね』って」
「えっ? えっと……」
 それはちょっと言いづらい。
 言うのをためらっていると、シェレラは掴んでいた僕の左手首をひねり上げた。
「ほら、早く言って」
 シェレラが優しく微笑む。
 行動と一致しない微笑み。最も怖い時のシェレラだ。
 こうなったら、もう逆らえない。
「シェ、シェレラは、か、かわいい、ね」
 精神に抗った理性が、強引にのどを動かし、声を発した。シェレラに掴まれたままの左手をじっと見つめ、ぎこちなく甲羅をなでる。
 シェレラは掴んでいた右手を離した。僕も左手を甲羅から離す。
 やっと開放された。
 ほっとして頭を上げると、そこには微笑んだままのシェレラの顔。
「…………えっと」
「それだけ?」
 再びシェレラに掴まれた左手が、亀のシェレラの甲羅に乗った。同時にシェレラの口が開く。
「シェレラ、大好き!」
「……え?」
「ほら、早く言って」
 言わなければ、ならないのか。
「シェレラ、だ、」
 シェレラとはあくまでも亀のことだ。そう、今僕が言っているシェレラとは亀のことなんだ。間違いない。亀で間違いない。
「だ、だいすき」
「もう一回」
「……もういいだろ」
「…………」
「…………」
 どうやら、言わないという選択肢は与えられないらしい。
 嫌な予感がする。でも、僕は言わなければならない。
 こうなったらヤケクソだ。
 僕は目を閉じた。
「シェレラ、大好き!」
 無理やり言ったせいで、自分でも驚くくらい大きな声が出てしまった。決してより気持ちがこもっているからとか、よりはっきり伝えたいとか、そういうことではない。それに、僕が言っているのは、亀のシェレラのことだ。しかも言わされているだけだ。それ以外の何かなんて、ない。
 それなのに、なぜか心臓がバクバクする。それに変な汗が流れている。
 なんでうろたえなければならないんだ。なんで――。
 僕を掴んでいたシェレラの手が離れた。
 ということは、もう開放してくれるのだろうか。
 おそるおそる、目を開ける。
 潤んだ水色の瞳が、くっつきそうなくらい目の前にあった。
「あたしもリッキが大好き!」
 超至近距離から、シェレラが僕に飛びついてきた。勢いで倒れ、硬い床に背中を打つ。
「リッキはあたしが大好き。あたしもリッキが大好き」
 力強く抱きしめられ、僕は身動きが取れない。
「ち、違う! そうじゃない!」
「そうじゃなくない!」
 こんなことだろうと思った。こうしてシェレラに飛びつかれたことはこれが初めてではない。
「シェレラ、離れて」
「どうして?」
「どうしてって、ダメだろ、こんなことしちゃ」
「どうして?」
「どうしてって、だから……」
 僕は言葉を探した。
 でも、こうなったら何を言ってもシェレラは聞いてくれないだろう。
 だからといって何もしない訳にはいかない。なんとかしなければ。とにかくなんとかしなければ。
 と、その時。
 ズッ、ズッ、と、何かを引きずるような音が聞こえた。
 かろうじて動く頭を、少し持ち上げた。
 すると、さっきまで甲羅だけだった亀のシェレラに蛍光色の頭と手足が生え、ゆっくりとドアの外へ向かって歩き出していた。
「ほ、ほら、亀が、シェレラが外に出るよ! 逃げちゃうよ!」
 シェレラは即座に振り向いた。
「シェレラ! どこ行くの!」
 シェレラは自分と同じ名前を蛍光色の亀に向かって叫ぶと、やっと僕から離れて亀のシェレラを捕まえに行った。
「ダメじゃないシェレラ! ちゃんとおうちの中にいなきゃ!」
 シェレラは一メートルもある亀のシェレラを抱えて、工房の奥へと向かった。ドアの近くにいたらまた逃げ出してしまうかもしれないと思ったのだろう。
 いつまでもここにいると、またシェレラに何かされてしまうかもしれない。
「じゃ、じゃあ、また来るから」
 立ち上がった僕は奥にいるシェレラに早口でそう言い、急いで工房を後にした。

   ◇ ◇ ◇

 あれからしばらく、キュイアとは何もなかった。会うこともなかったし、メッセージのやりとりをすることもなかった。僕からキュイアに会いに行く理由はないし、それに……やっぱり、あまり関わりたくないという気持ちがあった。
 シェレラの工房には何度か足を運んだ。最近は亀のシェレラのキャラクターグッズを作っていることが多いみたいだけど、需要はあるのだろうか。
 アミカが新しい服を着た画像を送ってくるたび、実際にその姿を見るために会いに行った。最近は特にナオの創作意欲が湧いているようで、アミカのための新しい服が次々と作られている。
 FoMのギルド『星と翼』のホームにも行った。ゾトルハ鉱山の件はフレアを悩ませ続けていて、メンバーには言えないような愚痴を聞かされたりもした。
 でも、知らない人に会ったり、知らない場所に行ったりすることは、避けてしまっていた。PCと見分けがつかないNPCと関わってしまうことを恐れてしまっていた。
 僕はどうしても、この新しいシステムに馴染めずにいた。

   ◇ ◇ ◇

 そんなある日、僕が台所で夕食の支度をしていると、ドタドタと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。
「ねえねえお兄ちゃん」
 スマートフォンを手にした愛里が、台所に飛び込んで来た。
 いつもなら愛里はこの時間は『リュンタル・ワールド』にいる。どうしたのだろうか。
「ん? 何かあったの?」
「お兄ちゃん、今度の日曜日だけどさ、キュイアが時間あるって言ってたから一緒にパーティ組むことになったんだけど」
「えっ、キュイアが?」
 もしかしてメッセージが来ていたのか? 着信音は鳴っていないはずだけど。
 一応スマートフォンを見て確認する。やっぱり何も変わっていない。過去ログも何もない、空白の画面のままだ。
「僕のところにはメッセージは来ていないけど?」
 もしかしたら、フレンド申請した時の微妙な反応をAIに察知されていたのだろうか。それで、表向きは親しそうにしていても、内心、というかAIの考え方としては親しさの優先度が低く、アイリーにだけメッセージを送ったのかもしれない。
「大丈夫。さっき会った時に直接聞いたから」
 なんだ、そうだったのか。余計なことを気にしてしまった。愛里がスマートフォンを持っているから、てっきりメッセージで連絡が来たのかと思ってしまった。
「……で、お兄ちゃんも、来るよね?」
 キュイアとフレンドになった時の、あの厳しい目を僕に向ける。そのために、わざわざログアウトして直接言いに来たのだろう。
 はっきり言って、気が乗らない。うまく断る方法はないだろうか。
 僕が答えるのをためらっていると、
「七人パーティ、やってみたくない? お兄ちゃん入れるとちょうど七人なんだけど」
「あーそうか、七人で組めるんだっけ」
 パーティの人数は六人が最大だ。
 でも、アップデートされた時に、NPCを入れるなら七人まで組めるようにルールが変更されていた。NPCとのパーティに興味がなかったから、僕は愛里に言われるまですっかり忘れてしまっていた。
 キュイアが戦力になることはないかもしれないけど、PCが六人いればそれだけキュイアを守ってあげやすいだろうし、何よりまだ経験したことのない七人パーティを早く経験してみたいという気持ちがこみ上げてきた。
「うん、僕も行くよ」
「ありがとお兄ちゃん、じゃああとの四人は私が探しておくね」
 は?
「ちょっと待って。僕を入れるとちょうど七人って言っただろ。六人決まっているんじゃないのかよ」
「あーごめん、私忙しいから」
 愛里は僕を一瞥すらせず、スマートフォンに指を滑らせながら階段をゆっくり上がっていった。
 なんか……うまいこと騙されたような気がする。
 でも、キュイアとパーティを組むのは約束していたことなんだし、きっと気のせいだろう。
 僕は愛用の左利き用包丁を手にし、夕食を作り始めた。

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