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第四章 水曜日のバグ

「お母さんね、こうちゃんのゲームがどんなものか、わかってきた気がするのよ!」
「へぇ……それは良かったねえ」
「要するに悪者を倒せばいいのよ! あっちこっちに出掛けていって、あっちこっちの悪者を倒せば世界は平和になる! そういうことでしょ?」
「うん……そうかもしれないね」
 朝食のトーストを食べながら力説するお母さんに、僕もトーストを食べながら適当に言葉を返した。
 実際にはモンスターはいくらでも湧いて出てくるし、モンスターを倒さなくても街の中は平和だ。戦闘をしないプレイスタイルだってある。お母さんはわかった気になっているだけで、実際にはわかっていない。
「ちょっと行っただけでもこんなに楽しいのに、こうちゃんなんか一年間も行ってたのよ! なんか不公平よね!」
 お父さんが行っていたのは本物のリュンタルで、お母さんが遊んでいるのはゲームの『リュンタル・ワールド』だというのに、なぜかごちゃ混ぜにしてしまっている。
「お母さんまだ始めたばっかりじゃん。これからずっと遊べばいいよ。一年なんてあっという間だって」
「そうよね! あいちゃんの言う通りね!」
 愛里にそう答えてまたトーストを食べようとしたお母さんの手が止まった。俯いたまま、何やら考え事をしているようだ。
「……………………」
「どうしたのお母さん?」
 愛里が心配そうに呼ぶ。
「…………ちょっとね、こうちゃんがいなかった時のことを思い出しちゃって」
 一年間の眠りから覚めたお父さんが、実は異世界で冒険の旅をしていたのだと明かした唯一の人が、お母さんだ。
 それだけ、お父さんにとってお母さんは特別な人だった。お母さんにとっても、お父さんはその頃から特別な人だったに違いない。
 そんな特別な人が、原因不明でいつ覚めるかもわからない眠りについていたんだ。
 やっぱり不安だっただろうし、寂しくもあっただろう。
 お母さんにしては珍しく、しんみりとした空気を漂わせている。
「で、でもさ、お母さん」
 僕はお母さんには似合わない雰囲気を壊しにかかった。
「お父さんが一年間リュンタルに行ってたおかげで、こうしてゲームができて、みんなで遊べるようになったんだからさ。良かったんじゃないのかな」
 お母さんの表情が、急に晴れた。
「そうよね! こうちゃんが楽しんだ分、お母さんもこれから楽しまなきゃね!」
 お母さんはまたトーストを食べ始めた。
 心配そうにしていた愛里にも、笑顔が戻った。焼かないままの食パンを食べ、オレンジジュースを飲む。
「じゃあ、僕は先に行ってるから」
 トーストを食べ終わった僕は、いつものように後のことは愛里に任せ、部屋に戻った。

   ◇ ◇ ◇

 ログインすると、シェレラが一人で僕を待っていた。
「リッキ、ここ、ここ」
「ここ?」
 シェレラは自分の胸元を指差している。
「今日は場所空いてるよ?」
 指を差したまま、シェレラは優しく微笑んだ。
 玻瑠南がしばらく休むというのは、昨日のうちに愛里から智保に伝わっている。
 だから、シェレラはアミカが来ないことがわかっていて、その代わりに僕を……。
「い……いや、いいから」
「遠慮しなくてもいいのに」
 シェレラは胸元の布地をずらした。谷間だけ見えていた胸が、さらに露出を増やす。
「何やってるんだよこんな所で! 昨日も言ったけど、人通りがある場所なんだから」
「じゃあ防護壁(シールド)張るから。ちゃんと中が見えないように偏光タイプ使うし」
「そういう問題じゃない! それに戦闘区域じゃないんだから防護壁張れないだろ!」
「むぅ~っ」
 ちょっと怒鳴り声になった僕に、シェレラはふくれっ面になって不満を露にした。
「……リッキ! どうしても来ないなら、あたしから捕まえにいくよ!」
 そう言ってこっち向かって走ってきたシェレラから、僕は難なく遠ざかる。シェレラは足が遅いから、どんなに追いかけられても絶対に捕まるはずがない。適度な距離を保ったまま、噴水の周りを一周、二周と走り続ける。
 それでもシェレラは諦めずに追いかけてきた。
 最初にいた辺りの場所で僕は立ち止まって、シェレラが追いつくのを待った。近づいたシェレラが、僕を捕まえようとして手を伸ばす。
 僕もそれに合わせて左手を伸ばし、シェレラの右の手首を掴んだ。
 シェレラが僕を睨む。
 僕も厳しく見返す。
「前にも言ったよね、シェレラ。僕はそういう、色仕掛けをするようなシェレラは好きじゃないんだ。僕は普通の、自然体のシェレラが一番好きなんだ」
 僕がアミカと知り合った頃、シェレラはロリっ娘のアミカに対抗するように大人路線を選んだことがあった。でも、本当は現実世界と同じように普通の女の子で、普通の親しい友達なんだ。僕はそんなシェレラと一緒に遊んで、一緒にこの世界を楽しみたい。
 だから僕は、その時に言ったことを、もう一度言った。
 ところが――。
「うん。わかってる。リッキはあたしが一番好きだってこと」
「そっちじゃなくって!」
 またあの時と同じだ。
「そんなに好きだったら、遠慮しなきゃいいのに」
「するって!」
 そこへ、電子音が割って入るように鳴った。
 きっとアイリーからの連絡だ。
 僕だけではなくシェレラにも送られていたみたいで、僕と同時にシェレラも反応した。
 とりあえず、この状況からは開放されそうだ。
「……手、離して」
 手首を掴んだままで、お互い利き手が塞がっている。このままじゃウィンドウを開けない。
 僕は手を離した。
 その瞬間、
「やったーっ!」
 シェレラが抱きついてきた!
 油断した。てっきりウィンドウの操作をするんだと思い込んでしまった。
 飛び込むように抱きついてきたその勢いで、僕はバランスを崩して背中から倒れてしまった。
 仰向けに倒れた僕の上に、シェレラが四つん這いで覆い被さっている。
 シェレラの大きな胸が、目の前で揺れている。この角度からだと、谷間がさらに強調されて見えてしまう。
 思わず目を逸らして上を見ると、僕をじっと見つめるシェレラの顔がほんのりピンクに染まっていた。きっと僕の顔はそれどころではなく真っ赤になっていることだろう。
「シェ、シェレラ、ちょっと、場所を考えて」
「……そうね、今度いい場所探しておくね。ここ、下が固いし」
「なんでその方向で考えるの!? 人目につくとか、そっちじゃないの!? ほ、ほら、周りに人が」
 制限された視野から、必死に周囲を見る。すると、『(ゲート)』が発した光が解けようとしているのが見えた。
「あ……、私に構わないで、どうぞ」
 アイリーの声だ。アイリーも何言ってるんだよ全く。
「ほら、シェレラ、アイリーが来たから」
「じゃあ、続きはまた後で」
「続かなくていいから!」
 シェレラは名残惜しそうにゆっくりと立ち上がって、『門』へと歩いた。僕もそれに続いた。

 今日のお母さんのアバターは……小さな子供ではない。十代後半くらいの年頃に見える。
 清楚な白いドレス。白いレースの手袋。
 高貴なお嬢様、というのが第一印象だ。
 そして、なぜか不安そうな表情で、しきりに後ろを振り返っている。背中の半分くらいまで伸びた金髪が、その度に揺れる。
「大丈夫かしら……」
 声も子供ではない。ほとんどいつものお母さんの声だ。
「どうしたの? 何か心配なことでもあるの?」
『門』の中で、隣にいるアイリーが声をかける。
「追っ手が来ていないか気になって」
 追っ手?
 昨日のカイは男の子のような女の子というちょっと凝った設定だったけど、今日もまた何か一捻りあるのだろうか。
「……えっと、名前を入力してくださいって、書いてあるのが見える?」
 アイリーが話しかけ続ける。
「ええ、あるわ」
「追っ手が来ないかどうか、私が見ててあげるね。だから大丈夫。落ち着いて、そこに名前を入力して」
 現実世界のお母さんと同じ濃い茶色の瞳が、空間を見つめている。顔立ちも体つきもお母さんにとても似ていて、アーピやカイと比べればはるかにお母さんを感じることができる。ただ、何かに怯えている、とても不安そうな表情だ。普段のお母さんはいつも明るくて元気だから、こんな表情を見せることはない。
 白いレースの手袋に覆われた右手の人差し指が、たどたどしく空間をつつく。数回同じ動作をして、手を下ろした。入力が終わったのだろう。
「私はアイリーって言うの。あなたの名前を教えて?」
「わたしは……名前は教えられないわ」
 お母さんのアバターは、首を横に振った。
「ええっ!? 教えてくれないの?」
「ごめんなさい、あまり知られるわけにはいかないのよ」
 お母さんのアバターは追われる身という設定のようだから、名前が漏れてしまっては困るということなのだろう。
 でも、名前を知る方法はある。
 僕はフレンドリストから『フレンドの追加』を選んで、お母さんの顔に焦点を合わせた。こうすれば、システムに認識された時点で名前が表示される。実際にフレンド申請するかどうかは関係ない。
 ところが。
 電子音が短く不協和音を奏で、フレンド申請モードが解除されてしまった。
 これはつまり、お母さんのアバターはフレンド申請の許可をオフに設定にしているということだ。普通は初期設定時はオンになっているんだけど、これもバグのひとつなのだろうか。
 とにかく、名前を知る方法がなくなってしまったことは確かだ。
 僕は首を横に振った。状況と動作から僕が何をやったのか知っているはずのアイリーに、結果を知らせるためだ。
「とりあえずさ、スクリーンショットだけでも送るよ」
 僕は数歩下がり、お母さんのアバターを隣に立っているアイリーごと撮って、お父さんに送った。
「いつまでも同じ場所には留まっていられないわ」
 お母さんのアバターが『門』の外に出て歩き出した。アイリーも『門』を出て、一緒について行く。
 と、そこへ電子音が鳴った。
 お父さんからの返信のメッセージだった。

 Koya: すぐ行く

 お父さんが……ここに来るってこと?
 どうしたのだろう?
 よほど酷いバグでも発生したのだろうか?
 僕からすれば、今日のお母さんのアバターはアーピやカイと比べればかなり普通に見えるけど……。
「ねえ、どこに行くの? ちょっと待ってよ。大丈夫だから」
 お父さんからのメッセージはグループに送られているから、アイリーとシェレラにも届いている。だからアイリーはお母さんのアバターが『門』から遠ざからないよう、この場に留めようとしていた。
「追っ手は来ていないでしょ? だから心配しないで、もうちょっとここにいて」
「でも」
「大丈夫だから」
 アイリーはお母さんのアバターの前に立ち、なんとかこれ以上進ませないようにしている。
 そうこうしているうちに、『門』が白く光った。
 光が上に伸びて円筒が生まれ、そして消えた。
 そこに現れたのは――。
 白銀の鎧に身を包んだ、よく知っている人物。
「お父さん!」
 本物のリュンタルではこの姿のお父さんと一緒に戦ったけど、仮想世界のアバターとして見るのは初めてだ。でも、本物のリュンタルで見た時と比べると、ずいぶんと若く見える。アバターになると実際より若く見えるってのは、よくあることだけど……。
 僕の声に反応したのか、『門』に背を向けていたお母さんのアバターが立ち止まり、振り返った。一瞬目を見開き、ずっとお父さんから視線を逸らさず見続けている。
「お父さん、何かあったの? わざわざ来るなんて――」
 お父さんは僕の声なんか聞いていないかのように口を真一文字に結んだまま表情を変えず、こちらに向かって真っ直ぐ歩き出した。そのまま僕の前を通り過ぎ、お母さんのアバターの前まで来ると、立ち止まった。
 お父さんは跪いた。
「フラジウン王国のイシュファ姫でいらっしゃいますね?」
「あ……あなたは?」
「わたくしはピレックルの騎士、コーヤと申します。イシュファ姫をお迎えに参りました。ここピレックルはフラジウンからは遠く離れた地。追っ手が来ることはありません。どうかご安心を」
「……なぜ、なぜわたしがイシュファだとわかったのです?」
 お母さんのアバターは、イシュファ、と呼ばれて動揺しているみたいだ。声が上ずって、少し震えている。
「それはもちろん、姫ほどのお美しいお方は他には居りませんので。わたくしはお姿を拝見してすぐにわかりました。しかしご安心ください。イシュファ姫がピレックルにいらっしゃるというのは極秘中の極秘の情報ですので、わたくし以外に知るものはここにはおりません」
「あなた一人だけなのですか? それでは追っ手が来たら」
「ご心配には及びません。これでも騎士の端くれです」
 お父さんは立ち上がった。
 そして、空間をなぞって取り出したのは、なぜかクムズムの実だ。
 お父さんは、クムズムを軽く上に投げた。
 そして左腰に下げた剣に右手を掛け、素早く剣を抜いた――はずだ。
 はずだ、というのは、剣を抜いたと思ったのと同時に、剣を収めていたからだ。剣を抜いた瞬間が、僕には見えなかった。
 でも、ただ剣を抜いただけではなく、振ったことも間違いない。剣を振った後に残った白銀の残像が、十字に光ったからだ。
 思い出したかのように、綺麗に四等分されたクムズムが地面に落ちた。
「このコーヤ、剣の腕には少々自信がありますので」
 すごい。
 すごいということは、元々わかっている。
 それでもやっぱり、改めて思う。お父さんは、『白銀(しろがね)のコーヤ』の剣捌きは、凄まじい。
 ただ、お父さんと、イシュファという名前の女性との会話が、一体何を言っているのか僕にはわからなかった。少なくとも、フラジウンなんていう国は『リュンタル・ワールド』にはない。
「……安心して、良いのですね?」
「もちろんです。どうかご安心を」
 イシュファは胸に手を当て、大きく息をついた。
「なんだか急に疲れてしまいました。どこか休める所はありませんか?」
 イシュファの顔が緩む。初めて見せた、安堵の表情だ。
「かしこまりました。宿をご用意してありますのでご案内します」

 噴水の広場から北に伸びる大通り。ピレックルのメインストリートだ。数分歩いたところに十字路がある。横に交わる道も、負けないくらい広い。
 ピレックルで最も高級な宿が、この角にある。レンガ造りの重厚な建物だ。使う人は……ほとんどいない。体力回復ならポーションを飲めば一瞬だし、眠るならログアウトすればいい。利用するとしたらせいぜい雰囲気を楽しみたいとか、あとは……密談とかだろうか。
 そんな利用者がいない建物がメインストリートの一角を占めているのは、ゲームのためではなく、あくまでも本物のピレックルを再現した結果だ。街の奥まった細かい場所ならともかく、メインストリートでこれだけ存在感のある建物をゲーム仕様に改変することは、たとえ利用者がいないとしてもできなかったのだろう。
 僕たちは人が多い大通りから、人がいないこの宿へと入っていった。

「ではわたくしは別室で控えておりますので、ご用の際はいつでもお呼びください」
 このホテルで最も豪華な部屋にイシュファを案内したお父さんは、最後に小さなベルを渡した。イシュファに渡したものと同じベルを、お父さんも持っている。
 ベルを受け取ったイシュファが、小さく手を振った。指先で持ったベルがチリリリと甲高く響く。
 すると、お父さんが持っているベルも、何もしていないのに同じ音を奏でた。二つのベルは連動していて、片方が鳴るともう片方も鳴るようになっているというアイテムだ。

 僕たちは部屋を出て、二つ隣の部屋に入った。この部屋もイシュファの部屋ほどではないにしても、けっこう広い。もしこの四人で泊まったとしても、きっとその広さを持て余すだろう。
 ドンッ。
 お父さんの背中が、壁にぶつかった。
「洗いざらい吐いてくれる?」
 部屋に入るなり、アイリーが険しい顔でお父さんに詰め寄った。
 アイリーは『白銀のコーヤ』のプレイボーイな部分がどうしても許せない。ただ、身長差がありすぎてお父さんの首根っこを引っ掴んでいるアイリーの腕は伸び切っているし、顔の角度もまるで天井を見ているかのようだ。その姿からは、あまり迫力は感じられない。
 それでも、お父さんの額には冷や汗が浮かんでいるけど。
 僕はアイリーの背後に立つと、お父さんを襲っている小さな手を掴んだ。
「アイリー! 他の女の人ならともかく、中にいるのはお母さんじゃないか。許してやれよ。それに、お父さんだってこれまでと違ってものすごく礼儀正しかったしさ」
「それはそうだけど……」
 アイリーはしぶしぶ手を離した。
「ちゃんと説明してよね」
「わかった。わかったからそう怒らないでくれよ。ほ、ほら、そこのソファに座って」
 お父さんは額の汗を拭うと、テーブルを囲むソファの一つに座った。僕たちもそれぞれ座り、正方形のテーブルの四方を囲んだ。
「せいちゃんさ、高校の時、演劇部だったんだよ」
「うん。知ってる。お母さんがリュンタル始めたいって言った時に、一緒に言ってた」
 お父さんを見るアイリーの目つきは、まだ厳しい。言葉の言い方も、どことなく厳しい。
「高校の学園祭で演劇部のステージがあってさ、イシュファはせいちゃんが演じた役なんだ。主役なんだぜ。せいちゃんすごいだろ」
 お父さんは劇のあらすじを話し始めた。イシュファはフラジウンという国の王女だったが、戦争で国が滅び、逃亡の身となってしまう。お城の中で育ち、世間の常識など何も持っていなかったイシュファが、逃亡の旅の中でだんだん成長していく。そんなストーリーだ。
「でもさ、俺、その時リュンタル行ってたからさ。リアルタイムでは見ていないんだよ。後で映像で見たんだけど、そりゃあもう名演技でさ。せいちゃんって普段あんなだけど、役に入っちゃうとすごいんだぜ? 俺だけじゃなくて、誰の目にだってせいちゃんじゃなくて、本当にイシュファっていう姫がいるかのように見えたはずだよ」
 僕はセキアのことを思い出していた。
 あれはきっと、ただ単にバグが起きて強い戦士のセキアが生まれたんじゃないんだ。
 お母さんがセキアという役に入り込んでしまったからそれがバグを引き起こして、あんなに強い戦士が生まれてしまったんだ。
 赤い巨人と戦っていた時の、性格や口調まで変わってしまったセキアは、きっとお母さんの演技でもあり、バグでもあったのだろう。
 お父さんの話を聞いていると、そんなふうに思えてくる。
「まさかそのイシュファが『リュンタル・ワールド』に現れるなんて考えてもみなかった。信じられない。奇跡だよ。立場上、本当は個人プレイはしちゃいけないんだけどさ、俺が会えなかったせいちゃんに会えるって思ったらいてもたってもいられなくなってさ。仕事投げ出して来ちゃったんだよ。アバターもその時の、十七歳の頃に見えるようにちょっと修正してさ」
 お父さんは頭を下げた。
「だから頼む! 今日一日、俺にせいちゃんを貸してくれ! 頼む!」
「いいよ」
 アイリーは即答した。
「ごめんお父さん、私早とちりしちゃった。てっきり本物のリュンタルにいたお姫さまなのかと思った」
「そんなことはしないさ」
 お父さんは頭を上げて答えた。
「ゲーム内のNPCにはモデルなんていない。全員オリジナルだよ。街並みなんかはきちんと再現したけど、人は……俺の思い出の中にしまっておきたいって言うか、あまり他人に触れさせたくないというか」
「お父さん!」
 お父さんの願いを素直に聞き入れ、穏やかに話していたアイリーの声が一変した。
「どーせそういう隠しておきたい女の人がいっぱいいたってことなんでしょ!」 
「いや、ち、違う、違うって」
 お父さんが慌てて手を振って否定しているけど……。たぶん、図星だ。
 ――チリリリ チリリリ
 ベルが鳴った。
「せいちゃ……、いや、イシュファ姫がお呼びだ」
 お父さんはものすごく素早く立ち上がった。逃げるようにドアへと駆け出す。
「もーお父さんって本っ当に」
 吐き捨てるように言ったアイリーだったけど、続けて言った言葉は優しかった。
「……お姫さまをちゃんと守るのが騎士の務めだからね。しっかり役目を果たしてね」
「わかってるよ。なんてったって俺は『白銀のコーヤ』だからな」

   ◆ ◆ ◆

「こんな所にいても退屈です。外に出ましょう。賑やかな場所がいいわ」
 呼び出されたコーヤが部屋に入ると、イシュファは窓の外に目を向けながら部屋の中を行ったり来たり歩いていた。出会った時に見せた焦りや疲れは、今は感じられない。
「お元気になられたご様子で、安心しました。しかし、人目につくような場所に行くのは危ないかと……」
「そのためにコーヤ、あなたがいるのではないのですか?」
「……かしこまりました。ではご案内します」
 気まぐれでわがままな姫だ、ということはコーヤは十分承知している。しかし、この世界のすべてを知るコーヤには、イシュファのどんな願いにも対応できる自信がある。それに、イシュファの願いを叶えることは、コーヤにとって何よりの喜びでもあった。
 イシュファはまだ部屋の中を歩いている。ピレックルで最も高級な宿の中でも最も豪華なこの部屋は、歩き回るのに全く不都合がないほど広く、厚く柔らかい絨毯は足音を完全に殺している。窓の外へと向いていたイシュファの顔は、今は反対側にいるコーヤを見ていた。
「まず服を買いましょう。この姿では怪しまれます。この街の庶民と同じ服を着ることにします」
「姫、服でしたらわたくしが用意いたしますので」
「わたしが見て決めます! 自分のことは自分でやります!」
 イシュファは声を荒らげた。
「……失礼しました。では早速街の服屋へご案内しますので」

   ◆ ◆ ◆

「コーヤ、どれがいいと思いますか? これなどはどうですか? フリルがたくさん重なっていてかわいいと思いませんか? それともこの服がいいでしょうか? けっこう露出が大胆かもしれませんが――」
 目を輝かせながら、イシュファは次々と服を手に取っていく。
「ご自身でお決めになられるのではなかったのですか……」
「コーヤ、せっかくあなたに選ばせてあげると言っているのです! 素直に選べばよいではないですか!」
「わかりました。わかりましたから、そう怒らずに」
「怒ってなどいません!」
 叩きつけるようなイシュファの声に、コーヤは顔を歪めた。
「あまり声を荒らげますと目立ってしまいますので、できればもう少し声を小さく……」
「だったら早く決めればよいではないですか!」
「わ、わかりました、わかりました」
 そう言ってコーヤが選んだのは、特に飾り気のない半袖の服だった。色は水色で、襟や袖には濃い青の模様がささやかに入っている。膝丈のスカートも水色で、同様の濃い青の模様が左右に入っている。リュンタル全土で見かけるような、ありきたりの服だ。
「……地味すぎではありませんか?」
「庶民と同じ服を着ると仰ったではありませんか。それにあまり目立つ服も良くないかと」
「……仕方ないわ、我慢しましょう」
「もしお気に召さないようでしたら、やはりご自身でお選びになった方が」
「わざわざコーヤが選んでくれたのです! これで構いません! ……それと」
「それと……何でしょうか?」
「コーヤ! あなたもです! あなたも着替えなさい! そんな鎧を着ているなんて不自然すぎます!」
「し、しかし、わたくしは騎士であり、もし万が一戦うことになったら」
「いいから着替えなさい! そうね、この服がいいわ」
 イシュファが手に取ったのは白を基調とした長袖の服。選んだというよりは、ただそこにあった服を引っ掴んだだけだ。
「これを着なさい」
 やはりリュンタルのどこにでもあるようなありふれた白い服を、コーヤに差し出す。
「わたくしの服でしたら、わざわざ買わなくても持っていますので」
「わたしが選んだ服を着られないと?」
「い、いえ、決してそのようなことでは……」
「だったら着なさい」
「……かしこまりました」
「…………何をしているのです。早く着なさい」
「まだ支払いを済ませておりません」
「だったら早く払ってきなさい!」
「……失礼ながらお伺いしますが、姫はお金をお持ちでは……」
「コーヤ、あなたに払わせてあげます」
「二人分ですか?」
「当たり前でしょう!」
「…………払って参ります」

   ◆ ◆ ◆

 服屋から出てきた時には、すでに二人は買ったばかりの服を着ていた。着替えは装備ウィンドウを操作すればよいだけなので、場所も人目も関係ない。
「これでもう、わたしがフラジウンの王妃だとバレることはないでしょう」
「しかし……姫、わたくしが思うに、姫のお美しさとこの服装とはやはり少し不釣り合いのように見えるのですが」
「コーヤ、あなたが選んだ服ではないですか。今更何を言っているのです」
「はっ、も、申し訳ありません」
「それよりもコーヤ、その言葉遣いを直しなさい。いくらわたしがこのような服を着ても、あなたがわたしのことを姫と呼んでしまっては元も子もありません。これからはイシュファと名前で呼ぶこと」
「かしこまりました、イシュファ様」
「様はいりません。呼び捨てで構いません。わたしもあなたのことをコーヤと呼び捨てにしますから」
「わたくしは最初からずっと呼び捨てにされていますが」
「いちいちうるさいわね! それに敬語も禁止です。普段友達と話すような言葉を使いなさい。……いえ……そうね、こうしましょう」
 イシュファは不敵な笑みを浮かべた、
「……どうなさるおつもりで?」
 訝しがるコーヤに、イシュファは告げた。
「コーヤ、今からわたしとあなたは恋人です! 恋人同士として振る舞うことにしましょう! これで完全に追っ手の目を眩ませることができます」
「こっ、こいび……と、ですか」
「わたしが恋人では不満だとでも?」
「い、いえ、決してそのようなことはございませんっ!」
「敬語は禁止と言ったはずです!」
「は、はいっ……、で、では、恋人同士ということで……」
 イシュファの口角が、満足そうにつり上がった。

   ◆ ◆ ◆

 ピレックルの街の中を、手を繋いで歩くコーヤとイシュファ。
「……………………」
「……………………」
「…………コーヤ?」
「は、はい、なんでしょうか……いや、ど、どうしたのイシュファ?」
「どうして黙っているの? 何か言ったら?」
 馴れ馴れしく女性に接することは得意なコーヤだ。もしただの女性が相手なのであれば黙り込むことなどない。
 しかし、今の相手はイシュファだ。いくら今の自分がピレックルの騎士コーヤであるとはいえ、かつてリュンタルで自由奔放に女性と話していたように話す訳にはいかない。軽薄なことをやっていたという多少の自覚はある。それを清花に知られるのは、さすがに気まずい。

 コーヤはある確信を持って『リュンタル・ワールド』にログインし、実際にリュンタルを旅していた時の姿でイシュファの前に現れた。
 イシュファが「恋人同士として」と言い出したのも、自分が思っていることを清花も思っているからこそだ。
 しかし……。
 突然恋人になったイシュファとどう接したらいいのか、コーヤは測りかねていた。

「そ、そうです……そうだね、何か食べようか」
 何か食べながら歩けば、黙っていても言い訳にできるかもしれない。コーヤは歩きながら、食べ物の店を探して道の右へ左へと首を動かした。
 突然、腕が引っ張られた。
「これいいんじゃない? わたしこれがいいわ」
 イシュファが急に立ち止まったので、繋いでいた手が引っ張られたのだ。
 イシュファは右手はコーヤの左手と繋いだまま、左手で店先の看板を指差した。
「ピスルグか……。これ、辛いけど大丈夫?」
 ピスルグは袋状にした薄い生地の中に様々な具材を詰め込んだ料理で、現実世界で言うならピタパンのようなものだ。ピレックルを含むリュンタル南部の内陸部でよく食べられている料理で、コーヤもかつてリュンタルにいた頃はよく食べていた。香辛料をふんだんに使っているため、味は辛めだ。
「わたし、これでも結構旅を続けてきたのよ? 初めて見る料理を食べるなんて当たり前のこと。いちいち好き嫌いなんて言ってられないわ」
「いや、でも、他にも食べ物の店はいろいろあるし……」
「いいの! これにするって決めたんだから!」
 店先には肉や野菜、果物、魚など様々な食材から作られた具が並んでいる。その横には生地が積んであり、客の注文を受けてから具材を詰めるという方式だ。
「いらっしゃいませ」
 店の女性が声を掛ける。この辺りの店は全てオフィシャルショップで、店員はNPCだ。
「わたしはこの肉がいいわ! それとこの……コーヤ、これは何?」
 イシュファはクークーの挽肉を指差した後、緑色の具材を指差した。
「これはトーンゼン豆って言って、莢のまま茹でた後、豆は取り出して、莢を潰してペースト状にするんだ。それからまた豆と合わせて――」
「おばさん、この挽肉とトーン……トーンソン豆? それとこの黄色いも入れてちょうだい」
 イシュファはコーヤの話を最後まで聞くことなく店の女性に注文してしまった。ちなみに「黄色いの」とは、とうもろこしそっくりのカンルンの粒を茹でたものだ。
 慌ててコーヤも注文した。
「じゃあ俺はハージの実と、ゴエと……」

   ◆ ◆ ◆

「ジュースが欲しいわ」
 三色に彩られたピスルグを一口食べたイシュファは、口の中のものを飲み込んだ直後にそう言った。
「やっぱり辛すぎたんじゃ」
「ち、違うわ! 食べ物と飲み物はセットであるべきでしょ? ただそれだけのことよ。……ほら、ちょうどそこでジュースを売ってるじゃない」
 ピスルグの店の隣は、ジュースを売る店だ。何もちょうど都合よくそこでジュースを売っていた訳ではない。ピスルグの辛さを見越してすぐそばで飲み物を売るのはよくあるパターンだ。
「コーヤに任せるわ。買ってきて」
「はいはい。買ってきましょうかね。どうせ俺しかお金持ってないしね」
「いいから早く買ってきて!」
「……はいはい」
 コーヤは気の抜けた返事をした後、ピスルグを食べながらジュースを買ってきた。
「買ってき――」
 食べかけのピスルグを口の中でもごもごさせながら、無造作に黄色いジュースが入った紙コップを差し出した途端。
 イシュファはコップを引ったくると、初めてのジュースの味を確かめることもなく、一気に飲み干した。
「おいしい! 甘酸っぱくっておいしいわね」
「ザサンノジュースだよ。ザサンノは近くの森で採れる果物で」
「もう一杯ちょうだい」
 空の紙コップを突き出す。
「…………そんなに辛かったの?」
「ジュースがおいしいから飲みたいのよ!」
「……本当に?」
「う、うるさいわね! いいから買ってきて!」
「わかったわかった。買ってきてやるよ」
 振り向いてジュースの店へと歩くコーヤの顔は綻んでいた。

 恋人同士という設定になったというのに、イシュファは王女と騎士のような上下関係を変えていない。服装や言葉の端々を庶民っぽく変えても、コーヤに対しての態度は相変わらずだ。
 恋人同士らしくない、とコーヤは感じていた。
 コーヤ自身も、騎士のままのへりくだった態度をとる訳にもいかず、かと言って現実世界の普段の清花だと思って話す訳にもいかず、恋人としてどうイシュファと話したらいいのか戸惑うところがあった。
 しかし――。
 コーヤは、どうすればいいのかが徐々にわかってきた。
 なぜなら、イシュファの行動が清花そっくりだからだ。
 コーヤに対して取る上からの態度は、イシュファのものだ。
 しかし、あまり考えない突っ走り気味な行動は、完全に清花のものだ。今の清花もそうだが、むしろイシュファを演じた高校生の頃の清花を、より強く感じさせる。
 だったら自分も、高校生の頃に戻ればいい。
 アバターはリュンタルに行っていた十七歳の自分を再現している。
 イシュファだって、元はといえば十七歳の清花が演じた劇の登場人物だ。

 イシュファがなぜ恋人同士になろうなどと言い出したのか。
 追っ手の目を眩ますため、なんて言うのが本当の理由ではないことは、コーヤにはわかっている。
 そして、それは今日コーヤが『リュンタル・ワールド』に来た理由でもある。
 だったらイシュファの願いを叶えなければ。
 いや、イシュファの願いではない。これは二人の願いを叶えることなんだ――。
 ジュースを買いながら、コーヤはそう考えていた。

   ◆ ◆ ◆

「辛いのが苦手なんだろ? だったらなんでわざわざピスルグを食べようとしたんだよ」
 すでに食べ終わったコーヤに対し、イシュファはジュースを飲んでばかりでピスルグはまだ一口食べたっきりだ。右手に持ったピスルグをじっと見つめ、二口目を食べようとはしているのだがなかなか決意できない、そんな様子がはっきりと見て取れる。
「た、食べられるわよ」
「無理すんなって」
 コーヤはイシュファからピスルグを奪い取り、かぶりついた。
「何するのよ!」
「どうせ食べられねーんだろ?」
「そんなことないわ! ……そんなことより、それ、わたしの食べかけじゃない……」
「あ? いーだろ別に。俺の金で買ったんだし。それにお前、俺の彼女なんだし」
「か、彼女……」
「だってそうだろ? 今更何言ってんだよ。変なやつだな。変って言うか、面白いやつだよな。イシュファって。でもそういうとこ、俺好きだけど」
 高校に入学して出会った清花に初めて好きと言った時も、こんな感じのことを言っていた。ちょっと変わっているけど、それが楽しくて好きだと。
「す、好き、好きって……」
「いちいち顔赤くすんなって……その、こっちまでなんだか恥ずかしくなってくるじゃねーか……。でもさ、俺達恋人同士なんだぜ? 好きなの当たり前じゃん」
「確かに、恋人同士にとは言ったけど……」
 イシュファはコーヤを正面から見ていた顔をやや逸らし、ジュースを一口飲んだ。
「だったら何も遠慮はいらねーって。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いってちゃんと言おうぜ? な?」
「わ、わかったわ。じゃあちゃんと言うわ」
 イシュファは少し残っていたジュースを飲み干した。
「わたし……辛い食べ物が苦手で」
「ほら、やっぱり」
「わがまま言ってごめんなさい。わたしの分まで食べてくれてありがとう。わたし……わたし、コーヤのそういうところが好き」
 イシュファは赤くなった顔をさらに赤くした。
「あはは、ありがとう。俺もイシュファが好きだよ」
 コーヤはイシュファが持っていた空の紙コップを取った。
「ジュース、まだいる?」
「ううん、もう大丈夫」
「そう? じゃあジュースじゃなくて何か甘いお菓子でも食べようか。何がいい? ちょっとぐらいわがまま言ったっていいんだぜ? そのほうがイシュファらしいし」

   ◆ ◆ ◆

「せっかくピレックルに来たんだから、ピレックルらしいものを食べればいいのに」
 イシュファが食べているのは、現実世界にもあるような蜂蜜味のドーナツだ。
「これでいいわ。おいしいんだもの」
 清花と同じだ。辛い食べ物は苦手で、甘い食べ物が好き。
 おいしそうにドーナツを食べるイシュファを見て、コーヤは自信を深めた。
「イシュファ、賑やかな場所に行きたいって言ってたよな。でもさ、この街には賑やかな場所も静かな場所も、いいところが沢山あるんだ。だからさ、全部俺に任せてくれないかな? 絶対この街を気に入ってくれると思うんだ」
「ええ、それでいいわ。コーヤに全部任せる」
「ありがとう、イシュファ。じゃあまずは――」

 コーヤはイシュファを連れて人通りの多い繁華街を歩いた。ピレックルは騎士の国ということもあり、決して派手な街並みではない。それでもイシュファはその街並みを形作る建物や店先に並ぶ商品、通りを行き交う人々の姿に目を奪われていた。
「素敵な街ね! 歩いているだけでもこんなに楽しいなんて」
「気に入ってもらえて良かったよ」
「わたしはずっと城の中で育ったから、こういう街のことなんて知らなかったのよ。旅をするようになって初めて人々の暮らしがどんなものか知ったの。それでも……ずっと逃げながらの旅だったから、こんなに楽しんだことはなかったわ。コーヤのおかげよ、ありがとう」
「嬉しいよ。イシュファが楽しいと俺も楽しいからな。でもさ、ただ見て歩いているだけじゃなくてさ、欲しい物があったら遠慮なく言ってくれよ。何でも買ってあげるからさ」
「で、でも、服を買ってもらって、食べ物も飲み物も買ってもらって……」
「だから遠慮するなって。さっきも言ったじゃないか。ちょっとぐらいわがままな方がイシュファらしくて俺は好きだって」
「……じゃあ、欲しい物があるんだけど」
 イシュファはコーヤを置いて早足で歩き出した。軽く駆け足で追いついたコーヤが横に並ぶ。
「えーっと……あった!」
 アクセサリーを売る店の前で、イシュファは立ち止まった。
「これ、これが欲しいの」
 手に取ったのは、赤いリボン。特に装飾はない、ただのリボンだ。
「そんなのでいいの? もっと高価なやつでもいいんだぜ?」
「これでいいの! ほら、早く買って!」
「わかったわかった。買ってやるよ」
 支払いを済ませたコーヤに、イシュファがリボンを差し出した。
「結んで」
「俺が? そんなことしなくても、さっき服屋に行った時みたいに装備ウィンドウで――」
「いいから結んで」
「……わかったよ。結んでやるよ」
 コーヤはイシュファの背中に流れる金髪の一部を束ねた。

 思い出す。
 高校一年の時、付き合い始めたばかりの清花にリボンを買ったことがあった。
 今と同じ、ただの赤いリボン。
 その時もこうして、背中に流れる髪の一部を結んだのだった。
 リュンタルから帰ってきた時、一年ぶりに会った清花が赤いリボンを結んでいるのを見て、帰ってきたことが間違いではなかったと確信したんだった――。

 リボンを結び終えると、イシュファがその場で体を一回転させた。回転に合わせてふわりと髪の毛が舞う。
「どう? 似合う? 似合うでしょ? 似合うに決まってるわ」
「そうだな、似合ってるよ」
 劇中のイシュファは赤いリボンなどしていない。
 しかし、今のコーヤにとっては、この赤いリボンをしたイシュファこそが、他の誰よりも好きだった。
「コーヤは? コーヤは何か買わないの?」
「俺? 俺はいいよ別に。このままでいいって……それよりさ、次はどこへ行こうか?」
 コーヤはイシュファと手を繋ぎ、歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
 引きずられ気味にイシュファがついて行く。

 運営側の人間として、コーヤはアイテムやシルを自由に手に入れ、使うことができる。
 だから、欲しいもの、買いたいものというのも特にない。
 そんなことより、イシュファに楽しんでもらうことの方がはるかに重要だった。イシュファが楽しむことが、コーヤにとっての楽しみだった。

 コーヤはイシュファを連れてピレックルの街をくまなく歩いた。時には休み、おいしいものを食べ、また歩いた。大通りだけでなく裏手の路地も歩いた。やがて街の中心部から離れ、武具を作る職人たちの工房が集まる地域へと来た。鍛冶の様子は外から見ることはできないが、響いてくる金属を叩く音を聞いただけでもイシュファは興奮した。
 コーヤはイシュファの手を引き、さらに歩いた。
 二人は街の隅に辿り着いた。開発されてなく、街を囲む壁の内側だというのに外側とあまり変わりない。雑草が生え放題で、細い木が無造作にいくつも立っている。雑草の野をウサギが駆け、リスが木の実を拾っている。鳥の囀りも一つではなく、数種類の別の鳥が囀っているようだ。
「こんな場所もあるのね」
「俺もよくわかんないけど、どうせ建物作ったって中心からは遠くて不便だもんな。でもおかげでこうしてのんびりできるんだから、それはそれでいいんじゃないかな」
 二人は切り株でできた椅子に座った。
「ちょっと座って話しようか」
「そうね。この方が落ち着くわね」

   ◆ ◆ ◆

「コーヤ、騎士ってどんなことをしているの? 国を守るために戦っているんでしょ? わたしは城で訓練している騎士しか見たことがないの。コーヤはこれまでどんな戦いをしてきたの? 教えて?」
「俺の場合は、騎士団には所属していなかったから、城で訓練はしていないな……。訳あってたまたま一緒になった奴がピレックルの騎士だったんだ。しかもそいつは旅をしていたから、俺も一緒に旅をすることになった。だから国を守るためじゃなくて、旅先で出会った人たちのために戦っていたんだ」
「戦うために旅をしていたの?」
「いや、逆さ。あくまでも見聞を広めるための旅で、その先で騒動に巻き込まれたり自分から首を突っ込んだり、そんな感じだった」
「何だか賑やかで楽しそうね!」
「そんな楽しいことばっかりじゃなかったって! そりゃあ、俺達が戦ったことで救われる人もいて、そんな時は嬉しかったけど……。中には死ぬかと思った時だってあったしな」
「そんな危険なこともあったの? 大丈夫? ねえ、どんな目に遭ったのか教えて?」
 イシュファは身を乗り出して訊いてきた。
「俺が危険な目に遭ったのがそんなに面白いの?」
「面白いんじゃないわよ。心配で気になって……」
「ごめんごめん。わかってるって。心配してくれてありがとう。でも俺はこうして今もちゃんと生きているし、心配はいらないさ」
「それはわかってるけど、つい……」
 コーヤは俯いたイシュファの頭を撫でた。そのまま赤いリボンに触れ、背中に流れる金髪を指で梳く。
「そうだなあ……」
 コーヤは困っていた。
 自分がリュンタルでどんなことをしていたかは、すでに多くのことを清花に話してある。今話したことも、清花は知っていることだ。
 いくらイシュファに聞かせるのだとは言っても、このまま清花が知っていることを話し続けるのはおかしい。
 まだ清花に話していないことは……。
 コーヤは記憶を辿った。
「じゃあ、ある女の話を…………」

 その女は魔法の能力に長け、実益を求めず、ただ趣味で、ひたすら面白半分で、凶悪な兵器や魔獣を創り出し、そして凶悪な魔法も新たに創り出す――そんな女だった。
 知識欲の塊で、リュンタル中のあらゆることを知ろうとしていた。旅の途中でコーヤはその女と出会い、罠に嵌まり囚えられてしまった。そして――
「体を解剖されそうになってしまったんだ」
「解剖!?」
「やっぱり驚くよな……俺もまさかこんな目に遭うとは思ってなかったよ。相棒の助けがなければ死んでいたかもしれない」
「それで、その後はどうなったの?」
「なんとか逃げ出した後、野放しにはしておけないと思ってまた踏み込んだんだけど……。なぜかその土地に入った瞬間には出てしまっていた。中に入った一歩が、中から出た一歩になってしまっていたんだ。何度も試みたけど、どうしても中に入ることができなかった。強力な結界が張られていたんだろう。俺達は諦めるしかなかった。悔しい思いを残して、そこを離れ、旅を続けた」
「そんなことがあったのね……。騎士って大変なのね」
「普通の騎士はこんなことないはずなんだけどな。俺は旅をしていたから、人より珍しい経験が多いだけで。大変なことはあったけど、イシュファが言うように楽しいこともあった。旅そのものは幸せな経験だったよ」
「……ところで、コーヤ」
「ん? 何だい?」
「どうしてその女の罠に嵌ってしまったの? 罠って? どんな罠だったの?」
「いや、そ、それは……」
 コーヤは顔を引き攣らせた。
 リュンタルでの女性遍歴については、さすがに言うのはまずいと自覚している。清花に話したことはない。美女の誘いにのこのこついて行ったら実はその女がとんでもない悪人だった、なんて話せるはずがない。
「それは、その……思い出すと辛いというか、思い出したくもないというか……つ、次の話をしようか。そうだ! やっぱり楽しい話がいいよな。えっと……」
 コーヤは焦りながら記憶を辿り、まだ清花に話していない楽しい話はなかったかと頭をフル回転させた。イシュファはやや不満そうな顔を見せたが、楽しい話を話し始めたコーヤを止めることはしなかった。
 次々と繰り出されるコーヤの話は、イシュファを飽きさせることがなかった。
 知らず知らずのうちに、時間が過ぎていた。
「コーヤが羨ましいわ。わたしの旅も自由気ままにできればいいのに」
「イシュファ……」
「わたしはただひたすらフラジウンから遠く離れていくだけの旅。逃げるための旅。父も母もどうなったのか……。もうこの世にはいないのだと、わたしは諦めている」
「そんなことはないさ。イシュファ、いつかきっと」
「ううん、もういいの。今のわたしに祖国なんてないのよ。今を生きるだけで精一杯。でもコーヤ、あなたに会えてよかった。コーヤのおかげで、こんなに楽しい時を過ごすことができた。一生忘れないわ」
「イシュファ、もし君さえ良ければ、もう旅をやめてずっとここで暮らしたって――」

 空間が歪んだ。
 さっきまで何もなかった目の前の空間のあちらこちらが歪み、陽炎のような荒いドットの集合体と化している。
 透明なままだった荒いドットはやがて色を持ち、細かいドットとなり、そして――。
「追っ手だわ!」
「まさか!」
 コーヤが見たこともない兵士が、出現していた。

 いくら人気のない、建物もない場所とはいえ、ここは壁の内側、ピレックルの街の中だ。つまり、非戦闘区域だ。
 あり得ないことが、重なって起きている。
 イシュファが逃亡中の追われる身であることを強く思い出してしまったことで、バグが発生してしまったのだ。
 コーヤは素早く指を滑らせ、白銀の鎧を装備した。細身の長剣を右手に握りしめる。
 空間は今も荒いドットの集合体を発生させ続けている。
 五人、十人……そしてさらに兵士の数は増え続けている。
「姫、離れないでください」
 身を隠せる場所がない。このまま戦うしかない。
 兵士は皆同じ中肉中背の体つきをしている。胸や腕など体の一部を覆う程度の簡素な鎧、そして白い仮面を身に着けているというのも皆同じで、それぞれの兵士の見分けはつかない。
 兵士が一人、斬りかかってきた。
 コーヤは右腕を振った。
 振り始めた瞬間には、もう振り終わっていた。
 兵士がいた場所には、人型の光の粒子と白銀の残光が残った。
「見ての通りです。こんな奴ら、わたくしにとってはただのゴミです」
 これといった特徴のない一種類のモンスターが、ちょっと多めに出現しただけだ。難しい戦いではない。
「大丈夫、なのですね?」
 背中に寄り添うイシュファの声は弱々しい。
「お任せください」
 二人目の兵士を難なく斬り捨てながら、コーヤは答えた。
(とはいえ……ちょっと数が多いか)
 兵士は堰を切ったようにコーヤに斬りかかってきた。コーヤは剣を振った。白銀の光が剣の軌道を残し、兵士であった人型の光の粒子を線となって繋ぐ。周囲をぐるりと囲まれ、前の兵士だけを相手にしていたのでは背後のイシュファが襲われてしまう。コーヤはしきりに体の向きを変えながら、襲い来る兵士たちを次々と斬り捨てていった。
 今もまだ空間からは新しい兵士が生まれてくる。
 いくらバグとはいえ、さすがにおかしい。
「姫、追っ手とはこんなにも大人数なのですか? これまでもこれほどの人数に追われていたのですか?」
「…………」
「姫!」
「いえ、決してそのようなことは……」
 イシュファがそう言った瞬間。
 空間が作り出していた荒いドットの動きが止まった。
 兵士の形へと発展していくことなく、ただの空間へと戻っていく――。
 イシュファの心理が生み出していた兵士だったが、生み出すのを止めたのもまたイシュファの心理だった。
 もう兵士は生まれてこない。
 すぐにこの戦いは終わる。
 それが――一瞬の気の緩みにつながった。
「きゃっ」
 背後から近づいてきた兵士への反応が遅れてしまった。
 兵士はイシュファの腕を掴み、そのままイシュファを連れ去ろうとしている。
「姫!」
 兵士を斬ろうとしたコーヤの前に、別の兵士達が割って入った。
 コーヤはすぐに割って入った兵士を斬り捨てた。
 しかし、その僅かな時間の間に、コーヤとイシュファとの距離は離れてしまった。
「姫!」
 イシュファを救おうとするコーヤの前に、兵士達が押し寄せる。もう生まれてこないとはいえ、まだまだ残っている兵士達は大勢いるのだ。
 このままではイシュファが連れ去られてしまう!
 コーヤがそう思った時。
「やーーーーっ!」
 気合いの入った雄叫びが轟いた。
「姫!?」
 声の主――イシュファは、兵士の腕を掴み、地面に捻じ伏せていた。
 兵士は腕の関節を極められ、倒れたまま身動きができないでいる。
「いつ襲われるかわからない身ですから! 護身術くらいは心得ています!」
 イシュファはさらに兵士の腕をあらぬ方向へと捻っていく。
「遠慮なんてしないんだから!」
 ついに兵士の腕は肩から先が人体ではあり得ない方向に曲がりきってしまった。戦闘不能と判断された兵士は光の粒子となり、消えていった。
 さらに別の兵士がイシュファに向かっていった。捕らえることが目的なのか斬りかかることはせず、二人の兵士が前後から剣を突きつけイシュファの動きを封じた。イシュファは素早くしゃがみ、前にいる兵士の懐に飛び込んだ。剣を突きつけるために伸ばしていた右腕を掴み、足を引っ掛け腰を跳ね上げた。兵士は豪快に投げ飛ばされ宙を舞う。落下地点はイシュファの後ろから剣を突きつけていた兵士の上だった。兵士は気絶し、二人重なったままぐったりと横たわっている。止めとばかりにイシュファは兵士の腹を勢いよく踏みつけ、踵をねじ込ませた。兵士は二人とも光の粒子と化した。
「姫……強い」
 劇中のイシュファは格闘などしない。
 想像だにしていなかった事態に、コーヤは思わず声を漏らした。
 コーヤも負けてはいない。イシュファの体術に驚きながらも剣を振るう手を休めることはない。立ち塞がる兵士達を斬り捨て、前に進む。
 離れてしまっていたコーヤとイシュファが合流した。
「姫! 一体どこでそんな技を」
「そんなことよりこいつらを片付けるのが先よ!」
「はっ! お任せください!」
 きっと『リュンタル・ワールド』用に清花が思い描いた設定が反映されたのだろうと思いつつ返事をし、コーヤはまた一人兵士を斬った。
「コーヤ、私も戦うわ」
「お任せくださいと言っているではないですか……姫が自ら進んで戦ってしまっては、騎士としての立場が形無しです」
 どこかとぼけたようにコーヤは言った。余裕と自信の現れだった。コーヤは兵士を斬りまくった。背後からイシュファを捕まえようとする兵士もいたが、イシュファは軽い身のこなしで躱した。その直後、兵士は振り向いたコーヤの剣の餌食となっていた。
 兵士の数は徐々に減っていき、そして――。
 最後の兵士を、コーヤが斬り捨てた。

   ◆ ◆ ◆

「コーヤ……」
 イシュファは真正面からコーヤの顔を見つめた。
「ここにわたしがいると知られてしまったからには、これ以上留まることはできません。すぐにでも次の国へ向かうことにします」
「姫! ずっとここにいては駄目なのですか? たとえまた追っ手がやって来ても、わたくしが倒せば済むことです」
「そうはいきません。コーヤ、いつまでもあなたに面倒を見てもらう訳にはいきません。あなたにも本来の務めがあるのでしょう?」
「構いません! わたくしはいつまでも姫のお側に」
「コーヤ、楽しかったわ。今日のことは絶対に忘れません。ありがとう」
「そうですか……どうしてもお別れしなければならないのですね。では、せめて次の国へ着くまでの護衛を――」

 コーヤのメッセージアイコンが電子音を響かせた。

 Airy: 私たちそろそろ落ちるんだけど、そっちはどう?

「何かあったのですか」
 フレンド登録をしていないイシュファには、メッセージが伝わっていない。
「アイリーから……最初に会ったあの子達からの連絡です。これからどうするのかと」
「そうね……、最後にあの子達にも挨拶していきましょうか」
「ではそうしましょう。きっとみんな、姫に会いたがっているでしょうから」

   ◇ ◇ ◇

「あ、来たよ。おーい」
 アイリーが頭上に手を伸ばして大きく振った。
 夕焼けに照らされ、白いドレス姿と白銀の鎧姿の二人が、何かを話しながらこっちに向かって歩いてくる。二人ともずっと笑顔で、楽しそうだ。
「なんかお姫さまと騎士っていうより、恋人同士みたいだね」
「やっぱりアイリーもそう思った? 僕もだよ」
 朝は主従関係にあったはずの二人だけど、今はそんなことは全く感じさせない。
「あたしもそう思った」
 隣でシェレラが僕の手を握った。
「恋人同士みたい」
「えっと……シェレラ、それはどういう意味で」
「どうって言われても、そのままだけど?」
 お父さんとイシュファがすぐそこまで近づいてきた。とりあえずシェレラのことは置いておこう。
「どうだった? 楽しかった?」
 アイリーが二人に訊いた。
「ええ、コーヤのおかげでとても楽しい一日を過ごせたわ。とてもいい街ね、ここは。別れるのが辛いわ」
「え、別れるって?」
「実は、追っ手に見つかってしまって……」
「えっそうなの!? 大丈夫?」
 アイリーが驚いているけど、僕も驚いた。追っ手って本当にいたんだ……。
「大丈夫だ。追っ手は全て俺が倒した。……いや、俺と姫とで倒した。まさか、姫があんなにお強いとは……」
「ちょっとコーヤ、あまり言わないで。弱い人間だと思われていた方が、逃げるには都合が良いのです」
「例えばこう……」
 お父さんは何を思ったのか、イシュファを背中から抱き寄せた。そして、手はイシュファの胸に……。
 イシュファがその手を掴んだ。
 その瞬間。
 白銀の鎧姿が、宙を舞った。
 綺麗な弧を描いたお父さんの体が、背中から地面に激突した。その衝撃を足元の振動で感じる。
「ご、ごめんなさいコーヤ。つい手が出てしまって」
「あーいいっていいって。全然謝んなくていいから」
 アイリーはイシュファに軽く答え、地面に仰向けに倒れているお父さんを冷たい目で見下ろしている。
「いや、こ、これは姫がいかに強いのかというのを実際に見てもらいたくて……」
「だからってわざわざあんなことする必要ないでしょ」
「そ、それはだな、そうかもしれないけど」
 言い訳をしたいようだけど、僕は完全にアイリーと同じ意見だ。
 お父さんは立ち上がった。
「とにかく、姫はこれから次の国へと旅立つことになった。俺はそれまでの間、もう少し護衛をすることになったから、アイリーたちは先に帰っていてくれないか」
 護衛……必要なのか?
「うん、わかった。お兄ちゃんもシェレラも、それでいいよね?」
 僕もシェレラも、アイリーに同意した。
 そして、ログアウトしようとした時。
 アイリーがある事に気づいた。
「あれ、そのリボン……」
 朝にはなかった、イシュファの頭の赤いリボン。
 イシュファは頭の後ろに手をやり、軽くリボンに触れた。
「これはわたしの宝物。一生忘れないわ」
 隣にいるお父さんを見上げる。
 そうか。お父さんが買ってあげたんだな。
 それにしてもただ赤いだけのリボンなんて。お父さんだったらいくらでもシルを使えるんだから、もっと値の張るものを買ってあげてもよさそうなのに。
 何か、理由があるのだろうか?
 不思議に思いながら、僕はログアウトした。

   ○ ○ ○

「またコーヤと二人っきりになりましたね。そして、こうしていられるのもあとわずか……」
「日が暮れぬうちに、次の国へと向かいましょう――――」
 二人は見つめ合ったまま動かない。
 少し経って、コーヤの口が開いた。
「でも、次の国って言ったって、どうやって行きゃいいんだ? ……なあせいちゃん、どうしよっか? もう終わる?」
 コーヤを見上げていたイシュファの口が、ややあって開いた。
「…………そうね。こうちゃんの言う通りね。ここで幕を下ろしましょう」
 視線を逸らせたイシュファの指が、空間をなぞる。
「あー、現実が、三十七歳のわたしが待ってるわー。若いっていいわねー」
「俺も『本来の務め』をほったらかして来ちゃったからな。現実に戻って仕事するか」
 コーヤも空間をなぞった。
「こうちゃん、晩ご飯、お寿司でも取ろうかしら」
「おっ、いいねー。じゃ、また後で」
 二人のアバターが姿を消した。

   ◇ ◇ ◇

「お母さん、どうして今日お寿司なの?」
 愛里が甘エビのしっぽを取りながらお母さんに訊いた。
「たまにはこういうのもいいかなーって」
「ふーん」
 愛里は甘エビの寿司を口に入れた。「ふーん」に続けて何か言うかと思ったけど、何も言わなかった。

 今日の夕食は、お母さんの希望で寿司になった。だから僕は味噌汁を作るだけだった。料理をするのは全然苦にならないけど、たまにはこういう簡単な日があったほうがいいかな。
 お母さんが『リュンタル・ワールド』を始めてからは、夕食の時間がお父さんへの報告会になっていたけど、今日はそれはなしだ。
 むしろ僕のほうが、二人で何をしていたのか聞きたい。
「お母さん、今日はどうだった? 楽しかった?」
「とっても楽しかったわ~」
 お母さんは顔を綻ばせながらいくらの軍艦巻きを箸で取った。
「それだけ? もっと教えてほしいんだけど……」
「うふふ、言わなーい」
 お母さんは軍艦巻きを口に運び、半分だけ食べた。
「おいしいわね~」
 お母さんはずっと笑顔だ。寿司がおいしいのもあるんだろうけど、それよりも今日の『リュンタル・ワールド』が相当楽しかったのだろうということが伝わってくる。
「お父さんはどうだった?」
 お母さんからは詳しい話を聞けそうにないので、僕はお父さんから聞くことにした。
 でも、
「言わなーい」
 お父さんも言うつもりがないようだ。赤身をつまんでさっと醤油をつけ、口に放り込んだ。
 僕は鉄火巻きを食べながら……いつもと違う雰囲気を感じていた。
 右隣がやけに静かだ。
 いつもならおしゃべりを欠かさない愛里が、さっきの「ふーん」からずっと黙っている。
 と思ったら。
「お母さん、これなんだけどさ」
 スマートフォンを取り出して、お母さんに何かを見せようとしている。
 愛里のことだから、またスクリーンショットを大量に撮っていたのだろうか。
「今度新しい水着買おうと思うんだけど、これどうかな」
 は?
「そうねえ、いいかもねこれ!」
「あとこれなんかも気になってるんだけど」
「ちょっと待って!」
 僕は思わず叫んだ。
「いきなり何? ネットショッピングの話? リュンタルの話じゃないの? っていうか愛里、毎年新しい水着買ってるだろ?」
「いいじゃん別に。成長期なんだから。ちゃんとサイズが合った水着買わなきゃ」
「どこが成長してるんだよ!」
「してるって!」
「ああそうか、身長の話か。身長は人並みに伸びてるからな」
「なんでビキニ買うのに身長の話が出てくんのよ」
「どうせずっとゲームやってばっかりでろくに泳ぎもしないくせに」
「じゃあ家で水着着てリュンタル行くよ」
「なんだよそれ。水着の意味ないだろ」
「りっくんもあいちゃんも、ちょっと落ち着いて! せっかくおいしいお寿司を食べているのに……あいちゃん、ちょっとそれ貸して」
 お母さんに叱られて、僕も愛里も黙った。お母さんは愛里のスマートフォンを取り上げた。……のかと思ったら、何やら操作をしている。
 お母さんの指の動きが止まった。
「こうちゃん、わたしこの水着買おうと思うんだけど、どうかしら?」
 お母さんも水着買うの!?
「おっ、いいんじゃないか? せいちゃんなら絶対似合うよ」
「どれどれ? 私にも見せて? うわ、お母さんけっこう攻めてるねー」
「うふふ、いいでしょうー」
「でもお母さん、これもいいんじゃない?」
「うーん、そうねえ……」

 結局、『リュンタル・ワールド』の話に戻ることはなく、夕食が終わった。

   ◇ ◇ ◇

 その後、部屋でゆっくりしていたら、
 ――コンコン
「お兄ちゃん、いい?」
「いいよ」
 愛里が部屋に入ってきた。どうしたんだろう。
「お兄ちゃんさ、いちおう確認しておくけど」
 愛里はドアを閉めると、ドアの前に立ったまま話し続けた。
「わかってるよね? 今日のお母さん、『オートなんとか』じゃなかったってこと」
「え? ……どういうこと?」
「あーもうやっぱりわかってなかった」
 愛里はベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
「お父さんが言ってたでしょ? 『リュンタル・ワールド』のNPCにモデルはいない、全員オリジナルだって」
 体はうつ伏せのまま、顔だけ学習机の椅子に座っている僕のほうに向けている。
「あー……言ってたね、そんなこと」
「それに、イシュファが現れるなんて全然考えてなかったって言ってたし」
「うん」
「つまりね」
 愛里は起き上がって、ベッドの上に座った。
「NPCのデータの中に、イシュファはいないってことなの。お父さんはNPCのイシュファなんて作らなかったし、他のスタッフが作れるはずもないし。
 イシュファのアバターは、お母さんの脳を読み取ったゴーグルが、ログインした時にバグで生み出したんだと思う。お母さん、朝ご飯の時に『お父さんがいなかった時のことを思い出した』って言ってたでしょ。それが影響したんじゃないかな。
 そしてイシュファはNPCじゃないから、当然、AIなんて積んでない。つまり中身は完全にお母さんだったってことなの」
「えっ!? それって……」
「そ。イシュファの行動は全部お母さんのお芝居だったの。すごいよねお母さん。もしお父さんに言われなかったら、私絶対見抜けなかったよ」
「いや……むしろ愛里はよく見抜けたと思うよ。僕なんか今の今までわからなかったんだし」
 そこで僕に疑問が浮かんだ。
「じゃあお父さんは? お父さんはこのことを知ってたのかな?」
「そりゃあ最初っからわかってたでしょ。だからわざわざ二十年前の『白銀のコーヤ』のアバターで、二十年前のイシュファになったお母さんに会いに来たんだよ」
 お父さんにとって今日のイシュファが「二十年前の会えなかったお母さん」だったように、お母さんにとっても今日の『白銀のコーヤ』は「二十年前の会えなかったお父さん」だったんだ。二人にとって、今日は人生の空白を埋めるための一日だったのだろう。
「言わなーい」と答えた二人の気持ちが、なんとなくわかった気がした。

   ■ ■ ■

 やっと、やっと穴が空いた!
 待ってて! すぐに行くから!

しおり