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7 ~革命凶歌を唱え! ギタードレス~

 
挿絵



「なにを震えている」
 アナレンマ48選抜メンバー・六条美姫はカウンターの席でショートパンツにブーツのすらりとした足を組み、紫色のカクテル「サイレントクイーン」を口に運びながら、半眼の釣り眼で逢坂芹香を見据えている。茶髪のショートヘア。冷たく睨み付けた目は全く動かず芹香を射すくめさせる。芹香は六条のこの眼差しが苦手だった。まして今は一対一で真正面から睨まれ、逃げ場がなかった。眼で焼き殺される。八本木ヒルズのモモタロウのクラウドより高い階にあるバー「センチメンタルシティー」に芹香を呼びつけたミキティは、午前三時になるまで二人きりで話している。美姫ティの貸し切りなので、他には誰も居ない。
「大体テメーは甘いモンばっかし喰ってっから太るんだロ!」
 テーブルを軽くパシンと叩いて顔を近付ける。隣に座る芹香は黙ったまま、彼女の目の前に置かれたパフェはすでに溶けてテーブルにこぼれていた。美姫ティはイライラとした顔で細長い煙草を取り出し、一人でライターで火を着けた。フゥーと芹香の顔に煙を掛ける。不愉快そうに眉をしかめ、芹香は顔を反らした。
 美姫ティはシングルCDをテーブルの上に放り投げた。
「売れねーな。お前、もうダメなんじゃネ? -----やる気あんのか」
 キラーレディ・美姫ティは「本物」だけが見せる凄みを効かせて、低いトーンで呟いた。ゆっくりと人気のない店内を見回し、壁一面の大きなガラスの外に見える東京の夜景を見下ろす。芹香は顔を反らしたまま、床に視線を落としている。
「フンまるでダメだ! お前の出る番組ってどれも視聴率ガタ落ちだし。もう東屋に見放されたな」
 吸っていた煙草を勢い良くCDにグイグイと押し付ける。照明の加減で紫色になった煙の残りがCDから立ち上がる。散々に、芹香をなぶった後、ふと問い質した。
「それでお前は何を見た」
 美姫ティの左手の紫のカクテルが彼女の顔の前でゆらゆらと揺れる。
「いいから言ってみなよ……」
 六条美姫は宇田川リカなき後の【アドラスティア】のヘッドだった。リカが闇の帝王を目指したように、今その意思はアナレンマ48選抜メンバー、新曲「突っ走ロード」で新センターを務める美姫ティに継がれている。リカは純粋な野心家だったが、美姫ティは権力への野心ではない。本物の殺し屋だけが持つ本能だけで動いている。止まらぬ衝動を宿したキラーレディ・美姫ティは、リカ以上に配下の娘(コ)に恐れられる存在だった。
「ブラックの、加東ルミ江をリカさんが追い詰めた時、空から光る物体が現れて」
「声が小さくて聞こえねーよ!」
 美姫ティはガシンとテーブルを拳で叩く。パフェが吹っ飛んで、器が床で破片となって散らばった。念動力を使える忍は、普通の男の五~十倍は力があると考えてよい。
「……それでリカさんは、その飛行物体に連れていかれたの。UFOだったわ」
 芹香は顔を上げて結んだ。
「光る物体だって。ホントなんだろうな。-------チッ。で、あの女は逃げたのか」
 芹香はコクリと頷く。
「それだけか? --------その時お前は何をしていたかとあたしは聞いてるの」
 美姫ティは人さし指の爪先でテーブルをコンコンコンと叩いている。
「…………」
「承服できないな。肝心なところでダンマリとは、なぁ、芹香。お前が加東ルミ江の手助けをした事は知ってるんだよ。お前はモモタロウを殺させたくなかった。そうだな?」
 芹香はギロッと美姫ティを睨む。その右手はジーンズの後ろのポケットに伸びていた。
「フフフ。ハハハハハ。アッハッハッハッハ! ウルトラスタンガンであたしを焼き殺すのか?」
 殺さなければ殺される。芹香は戦う事を覚悟の上でこの場に来ていた。
「いいよ。------ならやってみようよ。雷遁の術で勝てるか。だけどここは場所が悪い。リカさんの持っていた店だ。そして今はあたしの。ん? そろそろ夜明けだな。下へ降りようか。公園は、今の時間は、……カラス共しか居ない」
 ガタンと椅子から立ち上がった美姫ティの手には、小さめのテニスラケットが握られている。芹香はそれが何なのかを必死で考えている。美姫ティの武器を、芹香は知らない。エレベータに乗った二人は無言で一階まで降りてゆく。分からない。テニスラケットではない。ラケットの形をした忍の武器だろう。だが芹香はそれを始めて見た。一方美姫ティは芹香の武器を知っている。これは都合が悪かった。しかし、芹香の都合が良かろうが悪かろうが決闘の時は来た。
 まだ薄暗い夜明け前の公園で、仁王立ちした美姫ティが力を抜いてだらりとラケットを持って立っている。手足が長く、グラビアクイーンでもある彼女はスタイルがよい。あの小さなラケット。何かに似てると思ったら、そうだ。スカッシュだ。
「一に雌狐、二に盗人、三に青大将。これってなんだか分かる?」
 美姫ティは謎を問う。芹香が黙ってるので美姫ティが続ける。
「この体制を作り替えようと現れた奴らの順。その結果、国を滅ぼすのかもしれない連中。雌狐ってのは悪女。加東ルミ江を差す。このままじゃ本当にあいつの思う通りになるかもしれないな。盗人は天下人。褒め言葉だよ。宇田川リカさんの事。リカさんだけがその素質を持っていたとあたしは今でも思ってる。今は居なくなっちまったがな。青大将はお前の大好きなモモタロウだ。あいつは弱い。だけど、あいつの強さは、忍でない所。それを自覚して戦うところ。弱いようで強い。強いようで弱い。侮ったら危ないな。……自分でも何言ってんのかよく分からなくなっちゃったけど、【アドラスティア】にとって一番やっかいなのがこの一番目の雌狐。彼女さえ居なければ、リカさんが天下を取る事は難しくなかった。不思議と強運にも恵まれているしなぁ! もうすぐ勝つって時にUFOなんかが出て来やがってリカさん浚ってっちゃったのはそれさ!」
 芹香はゆっくりとスタンガンを掴む。
「そしてあたしにとっても、最もやっかいなのが一番目の加東ルミ江よ。お前がそいつに手を貸してたと分かったなら、これは殺すしかないな」
 芹香はラケットに注視し続ける。だらんと腕の下に下がったまま。動かない。今しかない! 芹香はスタンガンを腰のポケットからすかざず抜いた。相手に向けスイッチを入れると、闇夜を明るく照らす巨大な稲妻が走った。
 美姫ティは芹香がスタンガンを抜くと同時に、むにゅんとラケットを振り上げた。力を抜いて頭上に持っていき、突然険しい目つきで全力でスマッシュした。芹香の稲妻は美姫の手前で何かの力に包まれ、一瞬で固まりとなって、跳ね返った。芹香はびっくり顔で横に転がるように避けた。光の球は芹香の足先を直線に飛んでゆき、公園のトイレにぶつかると爆発した。トイレの炎上した炎が煌々と辺りを照らす。
 何て事。稲妻がラケットに跳ね返された?! あの小さなラケットに? 芹香の口の中で歯がカチカチと鳴っている。
 再び目を凝らしよく見るとラケットの中心に向かって周囲から青白い光が収束していっている。美姫ティは座った目のまま、歩いてきて再度ラケットを振り上げる。地面に四つん這いで見上げていた芹香は、これは勝てないと判断し、立ち上がって後ろ向きにつっ走った。
「待ちな! そんなんで終わりなのかヨ? 勝つつもりもないのにあたしと戦おうとしたのか。裏切り者が逃げられると思ったら大間違いなんだヨォ」
 振り降ろされたラケットから轟音と共に突風が吹きすさび、公園の木々が根元から折れていく。大木はもろくも吹っ飛ばされる。同時に芹香も吹っ飛び、宙を舞った。ラッキーな事に放物線を描いて落下する途中に電信柱があり、かろうじて電信柱に掴まった。柱から飛び下り、鼠のように走って裏路地を逃げてゆく。
「パンツ見えるんですケド? 見せないでくれますぅ?」
 すらりとしたスポーティな体型の美姫ティは足も早く、右折し左折しめちゃくちゃに走ってゆく芹香めがけて追い掛ける。バシバシと町中に響く音を立てながらラケットを振るった。
「ゥオラァーーーー!!! スマーーーーッシュッッ」
 夜明け前の闇夜の街に、青白い光が次々生まれては消えていく。破壊の上に重ねる破壊。彼女の通った後は、破壊されて草生一本残らなかった。

 上映が終わり、十二人だけの観客たちの顔が「コ」の字の形のデスクで向かい合って明かりに照らされている。渋面の委員会たちはお互いの顔を見合て満足げに笑った。どれもインスマウスの怪物か深海魚のような異様さを放っている。新帝国タワー、東屋財団クラウド局内部の委員会の部屋で上映された映画「下忍」。それは伊賀と甲賀の忍者が双方で一揆や武将をたきつけ、死闘を繰り広げる内容だ。
「君たちはこう言いたいのかな? 加東ルミ江が最後の勝者となると」
 <影の首相>から口を開いた。
「イヨイヨ、『業界』の帝王争奪戦もクライマックスを迎える。この映画はセレモニーだよ」
 <労働組合界のフィクサー>が返事を返す。
「わざわざこの手を映画を撮らせるとは。それも彼女を主演にして」
「それに乗って来るルミ江もルミ江だよ」
「彼女に、我々の企画を拒否する権利などない。今後も、この世界で生きようというのならな」
 <暗黒街の皇帝>は葉巻きに火を着け、ゆっくりと燻らせる。
「ところで本当なのかね、あの噂。加東ルミ江が、四百年ぶりの『蛇瞳』(じゃどう)使いだというのは」
 <教育界のゴッドファーザー>が今は珍しいカイゼルひげを撫で、熱心に訊いた。
 蛇瞳。映画「上忍」の中で描かれた加東ルミ江の役・お凛の必殺技だ。眼力だけで相手の細胞を破壊し、死にいたらしめる。
「本当だと聞いている。だから映画の脚本に手を加えた。忍の長から直接聞いた。ルミ江だけが伊賀の古文書に残る秘伝を体得できたらしい。だが彼女は、まだ戦いの場でそれを使ってはいない」
 <宗教界の黒い法皇>の言葉に、委員会に静かなどよめきが起こった。
「そうなのか」
 無敵の殺し屋・ルミ江はまだ、必殺技を隠し持つ。
「糸屋の娘は目で殺す、か。美しい瞳を持つ彼女に相応しい」
 <医療界の巨魁>は感慨深げに言った。
「しかし危険な美しさだな」
 あのテレビや映画で見せる美しい瞳に隠された、恐ろしい秘密を知る者は数少ない。
「来年は大河ドラマの主役が控えている。ますます、加東ルミ江の時代となる事は間違いあるまい」
 <影の首相>が確信ぶって言う。
「君が彼女の個人的なファンだから、という事も念頭に置いておかなくては」
 <労働組合のフィクサー>が突っ込んだ。
「バレては仕方がないか。だが、ここのメンバーで誰一人、彼女のファンでない者は居らんのじゃないか。このシナリオは、当初から大体決まっていた通りに進行しているのだ。その意味では、何も問題はあるまい」
「問題は彼女を取り巻く環境ではなく、彼女自身がどう考えるかだ。加東ルミ江はそれ程、業界の帝王などというポジションに興味を示していない。今迄の歴代が、野心の固まりであった事実とは大分話が違う」
 しゃがれた声の<銀行界の金融のマイスター>がブツブツと呟く。もうあと二センチ近づけば完全に深海魚の顔をしている。
「時代の違いだよ。古いタイプの人間には分からない、これからの人間というものは、権力や野心などといったものでは動かないのだ」
 <暗黒街の皇帝>が返す。誰もが信じられんという顔をした。
「ほう、なんだと言うのだね」
 <銀行界(以下略)>は目を向いて隣に座ったロマンスグレーの伊達男を見た。
「それは君のように俗にまみれた人間なんかに言っても仕方ないな」
 <暗黒街の皇帝>は銀ブチ眼鏡越しにジロッと一目した。
「言ってくれるね。まぁここでお互いを腐すのはやめにしておこうじゃないか。ここは……さしあたって目先の問題を片付けよう。先日露呈した、金剛アヤナの正体だが、敵はそろそろ本格的に動き出してもおかしくはない。おりしも、新宿ハイスカイタワーの完成が二週間後に迫っている時だ」
 東屋財団はここ新帝国タワーだけではなく、新しく新宿に「ハイスカイタワー」というさらなる大きなビルを建築中であった。高さはおよそ五百メートル。東京一のビルとなる。ほぼ完成しており、クリスマスの十二月二十五日から営業を開始する。
「それもさっきから言っている通り、全ては加東ルミ江次第だ。彼女がどう動くか、まずそれを拝見させていただくしかない」
 <宗教界の黒い法皇>はほとんど全部の指に巨大な宝石を着けた手を振って力説した。一粒一千万以上の宝石ばかりだ。
「では、これからも直接彼女に干渉はしないという事か?」
 <影の首相>は念入りに質問する。
「その方がよかろう。美しい花は、そのままで美しいのだ、これ以上何も手を加える必要がない」
『---------儂もそう思う。----------いずれ証明されるだろう。--------加東ルミ江は、我々委員会の待ち望んだ女神だという事がな』
 委員会の中で誰もが一目も二目も置く、<維新以来生きている唯一の元老>が地響きのような低い声で締めくくった。推定年齢百五十歳を超えると思われる<元老>の前では、ここに座すいかなる大物たちも一人残らずひよっこに過ぎない。彼は、その年齢にも関わらず、外見は七十代にしか見えなかった。だがその眼光は時代を超越し、あらゆる物を見てきた超越者の持つそれであった。

 一日が過ぎ、また一日が過ぎた。加東ルミ江はフラフラと歩き出した。今頃、彼女はどこへ消えたんだと、プロデューサーやスタッフ、マネージャー、業界関係者たちが大騒ぎしているんだろうなと考えながら、深夜の人気(ひとけ)もなくなった時間の渋谷の公園通りの坂道を、代々木公園に向かって歩いている。だいぶ寒くなってきた。NNKの白い建物が見えて来る。来年の大河ドラマの主演を張ったルミ江はその撮影の最中に突如失踪した。CMは現在も多数流れているし、秋放送の「マジ駆る九ノ一スペシャルドラマ」も好評を得た。燃え尽きたのではない。ルミ江にはまだやる事があった。女優街道を進む事に迷いはない。
 だが、芸能界の表だけが彼女の生活ではなかった。闇の方に疲れていた。疲れきっていた。あの宇田川リカとのバトルの後、もう戦いも殺しも権謀術数の世界にも飽き飽きしていた。二度と血を、演技で使う偽物の血のりでない本物の血を浴びたくなかった。見なくなかった。そして遂に頭の中が真っ白になり、フッと居なくなったのである。だが、行く当てなどなかった。
 夜風は寒い。クリスマスが近づいている。こんな時間には渋谷でも、少し駅を離れると誰もいなくなる。今の私はうさぎ並。寂しくて死にそうだ。NNKが探しているルミ江は今その前を通り過ぎた。ただ一人、路上に立ってギターを弾く黒いドレスの女が居る。立ち止まってそれを聴く者など居るまいに、女はハイトーンのハスキーヴォイスを震わせて唱っている。
 黒い鳥の巣のような頭に、パンク風の化粧をして、顔は美形だった。タレントでも通用する。華奢な体つき、黒いマニキュアをした細い指でギターを弾いている。通り過ぎようとして、ルミ江は十メートル離れた場所で立ち止まって演奏を見た。かなりうまい。プロでもいけるだろう。世間はあまり認知しないが、以前は大臣ファミリーのプロの歌手だった加東ルミ江は、その小柄な少女の歌唱力をすぐに見分けた。
 歌が終わり、パンク風の少女は、ルミ江の方を見て丁寧にペコリと頭を下げた。
「ありがとう。歌を聴いてくれて」
 静かなハスキーヴォイスで、雰囲気のある少女だった。
 一瞬沈黙が流れたが、ルミ江の方からゆっくり少女に近づいた。彼女に興味を持ち始めていた。
「今日はあんたが始めてさ。ちゃんと聴いてくれたのって」
 少女は、キツい顔立ちをしていたが、屈託ない笑顔を見せた。
「うまいわね。凄く、上手」
 ルミ江は満面の笑顔で、顔がばれる覚悟で話し掛ける。
「あれ、あんた……加東ルミ江じゃん」
 少女は少し驚いたような顔をした。が、リアクションは意外と薄い。ルミ江はこの少女が自然体なのが気に入った。ルミ江は少し困ったような顔で微笑む。
「ってか、なんでこんなとこに一人で居るの? 今日、NNKで撮影かなんか?」
 ルミ江は肩をすぼめて、首を横に振る。
 ルミ江はどうして立ち止まり、この少女が気になったのかが分かった。暗がりではっきりとは分からないが、それは見たような顔で、確認したかったのだ。
「それにその格好、風邪ひくんじゃね?」
 ルミ江は戦闘服の時の黒いボディコンを着ていた。
「-----顔色悪そうだし。そっか、あんたも色々あるんだな。テレビじゃあんなにキラキラ輝いてるのにな。こないださ、『マジ駆る九ノ一』やってたじゃん、観たよ。オモロかった」
「ありがとう」
「……」
 少女はじろじろとルミ江を見て、
「-----なんかあんたさぁ。チョット訊いてもいいカ? ……御飯ちゃんと食べてないでしょ。分かった。今日はもうあたしこれで帰るから、着いてきて」
 ギターをしまい、ルミ江の手を引いて少女はハキハキ歩き出した。
「そこのコンビニでなんか買って来るから、顔バレが嫌ならここでちょっと待ってなよ」
 強引さ、ずうずうしさに抵抗する間もなく、ルミ江は交差点に煌々と光るコンビニから少し離れた場所に立って少女が店に入るのを見送った。ぼうっと突っ立っているとほどなく少女は買い物袋を手にして店から出てきた。
「ほら、食べて。ここの肉マン、うまいんだ。あたし好きなの。喰いな?」
 差し出された袋には三個の肉マンが入っていた。
 その袋を受け取りながら、光に照らされた少女の顔がはっきりと見えた。
 歌手の上遠野杏奈だった。なんで気づかなかったんだろう。だが、言葉に出せない。上遠野杏奈がこんなところで一人で深夜に唱っている訳がない。通行人の誰もがそう思って通り過ぎていたのだろうか。雰囲気はテレビと一緒だが、何か言動が奇妙である。まるきりインディーズの子のそれだった。やっぱり別人か。
 言うタイミングを失したまま、ルミ江は困ったように肉マンを見つめた。
「わ、悪いわよ、受け取れない」
「いいから食べて」
 肉マンを頬張りながら少女が言った。
「じゃ、お金払うから」
「いいよいいよそんなの」
「でも、お客さん、少なかったし」
「今日の稼ぎは0さ。しょうがない。そういう日もあるから。金のためにやってるんじゃないんだ。夢の為だよ。早く食べないと冷めたらうまくない。食べて食べて」
 と、あの有名アーティスト・上遠野杏奈が言うので変だった。ルミ江は空腹だった。一口食べると、すきっ腹に応えた。たちまち三つとも胃袋の中に消えていった。少女はペットのお茶まで奢ってくれた。
「こうしてみると、なんかあたし達とあんたの間の差が幻想みたいだな。今、一瞬普通の女の子に見えたよ」
「わたし、普段は別に特別でもなんでもないのよ……」
 と言ってみた。まるで嘘である。
「ははは。なんてな、ごめん、あたしなんかが天下の加東ルミ江に失礼な事言っちゃってさ。ほんと、あんたの事尊敬してるし。あたし。------ねぇ、さっきから思ってたんだけど、あんた訳ありなんでしょ、あたしんちちっと狭いけど遊びにキなよ」
「え------?」
 少女の言う事に少し驚く。
「なんか分かっちゃうんだ、そういうの。一目みた時から困ってそうなのが。昔から。あたしの特殊能力みたいなモノかな。あたしなんかがそんな事いうのおかしいけどさ、なんかほっとけないよ、あんたは」
 『上遠野杏奈』はじっとルミ江を見て静かな口調で言った。
 そう言うが早いかサッと手を上げてタクシーを停めると乗り込み、少女は車内からルミ江を誘った。自分でも驚いたがルミ江は無言で続けて乗り込んでいた。
「でも、お金ないんでしょう」
 心配してルミ江は質問した。
「それくらいある。あんた、芸能人なんだよ? しかも、一回のドラマ出演料が一時間につき二百万以上のAAAAクラスの。そこいらのヤツとは違う。目的地がたとえボロアパートでも、VIP待遇させてもらわなちゃ申しわけないってもんだ」
 ギャラについて随分詳しらしい。とは言ってもギャラはルミ江も全部貰っている訳じゃない。ルミ江は未だに給料制で、売り上げの多くはクラウドの収入になる。因に加東ルミ江と同格は真崎圭未、堀内ユウコの二人、その上には一時間につき二百~二百五十万以上の柿崎タカコ、小山田マホ、小池カホルがおり、さらに三百万以上の苅田ナナ、相谷キョウコが特別クラスとして存在する。

 到着したのは雑司が谷のアパートだった。確かにボロい。昭和の香りがする。「マジ駆る九ノ一」の日芭利@美の住むアパートにそっくりだった。
「汚いけど入って」
 部屋の中の明かりをつけると、それほどでもない。綺麗に整とんされている。CDが壁一面に山のようにあった。
 少女は大きな赤い座ぶとんに腰を降ろすと、立っているルミ江に座るようにと黄色い座ぶとんを差し出した。自分は煙草を取り出し、火をつける。
「あたし東京に来たのが半年前なんだ。いろんなところでちょくちょくオーディションしてるけど、まだ受かった事がなくて。ね、あたしの歌、どう思う? ------正直に言ってほしい」
 と言うので、ルミ江はさっきから気になっていた事を口にした。
「あなた、上遠野杏奈さん? でしょう」
 少女は沈黙した。
 笑って首を横に振る。
「だって、さっきの歌だって凄くうまかった。どう考えてもあなた杏奈さんじゃない」
 歌唱力は本物で、とてもインディーズのレベルではない。
「違うよ。よく似てるんでそう言われるけどね。あたし、岬レイカっていうんだ。声も似てるでしょ。あんなに、あたし可愛くないしさ」
 いいや、違う。ルミ江は話せば話す程彼女が上遠野杏奈その人であるとしか思えない。だが、上遠野杏奈がこんなアパートで歌手を目指している訳がない。
「なんだか、一般人とお姫様の秘密の交流って感じだな、あたし達。フフフ、あ、そうだ、いいもんがあった! まだ空いてるでしょ、お腹。顔見りゃ分かるよ」
 岬レイカは立ち上がり、お湯を湧かす。無造作においてある段ボールの中からゴゾゴゾカップラーメンを二個取り出す。ガリガリに痩せてるのによく食べる子だ。確かに一両日食べてなかったので空いていた。
「これ、知らないでしょ。黒ブタのラーメン。鹿児島でしか売ってないんだ。あ、あんたって確か沖縄だよね。もしかして知ってるか」
 ルミ江は首を横に振った。
「うちの母親がさ、月に一回送って来るんだよ。この辺じゃ手に入らないから。めちゃくちゃうまくてさ、やられるよ」
 上遠野杏奈も確か鹿児島県出身だったはずだ。
 湯が沸く迄の間、静かな時が流れた。レイカは煙草を味わいながらルミ江と共有する空間を楽しんでいるようだった。
「さっきからあたしが上遠野杏奈じゃないかって考えてるんでしょ。そりゃ、嬉しいけどさ。あたしもさ-----早く彼女みたく有名になりたいよ。最初は来生ヒカルと甲斐谷マイがキャラ被るとか言われてたみたいに、あたし上遠野杏奈とキャラ被るって言われる事になるのかな。でも、後からそれぞれの個性だって認識されてって、そしていつかは杏奈も超えて。ま、そんな事今考えてもしょうがないっか。そんな事よりさ、あんたに何があったのか知りたいな。----話してよ。いや、嫌なら無理に話さなくてもいいけど」
「------疲れたんだと思う。ちょっとね」
 コトコト……キッチンから湯が沸く音が響く。
「……あっそうなんだ。うん、分かる分かる。殺人的スケジュール、売れる程自分がなくなってくし、なぁ。----なんかお湯が沸いたみたい」
 上遠野杏奈にそっくりなレイカはポットに湯を移し替え、鼻歌を歌いながらカップラーメンに注いでふたをした。
「正直に言ってくれて嬉しいよ。ちょっと距離が縮まったかな」
「こんな事あなたに話しても、しょうがないんだけど、もう、自分の中で限界を超えててね。どうしようもなくて……。ご、ごめんなさいね」
 ルミ江は体育座りで顔を膝に埋めた。
 杏奈似のレイカは指ニ本に煙草を挟んだまま、ルミ江の言葉を聞いていた。
「続けて……」
 ルミ江は顔を埋めたまま、
「何もかも嫌になってしまった」
 と言った。
「わたしは弱い人間なの。だけど周りは強いと思ってる。皆が私を必要とする、すがりついてくる。だけどもう耐えられない」
「しばらく、ここに居なよ。気が済む迄、あたしと一緒に住もう。気が済んだら元の世界に帰ればいいさ。そしたらあたし、もの凄く努力して早くあんたと同じ場所に行くから。今日のこと忘れない」
 杏奈似は、黒豚ラーメンが伸びてしまう、と言ってルミ江に食べるようにと催促した。

 杏奈の部屋に転がり込んで、今日で何日目なのかも分からなかった。記憶が混乱していた。杏奈によると、またたく間に一週間が過ぎた。ルミ江は何年かぶりの安らぎを味わっていた。久しぶりに爆睡する事ができ、体力、気力ともに回復してきた。華々しい芸能生活からは離れたが、殺し合いの日々からも無縁な生活。彼女は普通の人間だった頃の加東ルミ江を取り戻していた。岬レイカとルミ江はまるで昔からの友達だったかのように、何でも話した。とはいえ、闇の稼業以外の事で。今迄の血にまみれた生活で忘れてきたものを取り戻すかのように、ルミ江は喋って喋って……普通の女の子に戻っていた。
「なんでわたしなんかを助けてくれるの」
 ルミ江は尋ねた。
「これ、知ってるでしょ。音叉」
 レイカはU字形の金属の棒を棚から取り出し、鳴らした。
「二つの離れたところにある同じ形をした音叉が、一方が振動する事でもう一方も振動する。これと同じで、わたしは、あんたと共鳴したんだよ」
 もう一つの音叉も音を鳴らした。
(もう殺し殺されの世界には戻らない。私は二度とあんな世界には戻らない)
 レイカはほとんど毎日、夜になると渋谷に出かけていった。そしてストリートライブを行った。不思議な事に深夜近くにならないと出かけない。レイカが言うに、彼女は日光アレルギーで、日の光がまるでダメだった。だから昼間は眠っていた。ルミ江はその少女の繭に包まれたような寝顔を毎日隣で座ってみていた。
 ルミ江が思うに、やっぱりレイカは上遠野杏奈にそっくりだった。だけど、世の中には瓜二つの人間が居るのかもしれない。いぜん、対立組織の人間を暗殺しに行った時、こんな妄想を抱いた事がある。今の自分がブラック加東ルミ江なら、ブラウン管に映っている加東ルミ江はホワイト加東ルミ江だななどと。まさに分身の術、か……。世の中には、二人の自分が居る。そして何故か別人だと気づかないでお互いを一個の人間だと思っている。そんな事は、むろんありえない事だが。
 時々はルミ江もレイカのライブにつき合ったが、なにしろ自分は加東ルミ江なのでレンタカー(ルミ江がお金を出し、レイカ名義で借りていた)の車内で見ていたりする事が多かった。少し早い時間だと、結構足を止める人も増え、ファンも居るらしい。もう少し、人の多い時間に行けばもっと見てもらえる筈だが、レイカは深夜でないと出かけない。
 理由はもう一つあって、夕方六時から十一時まで週四日、Mバーガーでバイトをしていた。その後路上ライブに出かけるのである。人通りが全く誰も居なくても演奏する。お金目当てじゃないというのは本当らしいが、同時に果してレイカは人に見てもらいたいのだろうか、とも思う。
「良かったらあたし、レコード会社紹介しようか?」
 ある日疲れてるので出かけないというレイカに、ルミ江は提案した。
「こんなに世話になっちゃったんだし、何かお礼をしないと、と思って」
 めいっぱいの笑顔で、ルミ江はレイカの顔色を伺う。二人はあまり大きくないテレビで深夜番組を見ている。
「嘘……ホントに言ってるの?」
 レイカは普段黙っていると無愛想で、怒っているように見えるが、こんな風に目を丸くして顔を上気させると、決して無愛想なタイプじゃないと分かる。元々不機嫌顔なので、ルミ江は恐る恐る話し掛ける事がある。が、むしろ一度も不機嫌だった事がない。
 ルミ江はコクと頷いた。だが、レイカは顔を強張らせ、横に振った。
「ダメだよ。ルミ江さんをそんな口利きなんかに使えないよ。申しわけなさすぎるよ」
「ううん、紹介で入る事って珍しくないのよ。この業界、なかなか伝手のない人は入りづらいけど、コネが効けばうまくいくところもあるから。あたし、思うんだけど、これはチャンスだと思うの。チャンスは掴まないと。あなたみたいに、可愛くて、歌がうまくてもチャンスを逃してしまってるっていうパターン、結構多いの。それなのに、どうしてこの人が、っていう人が、チャンスを与えられてうまくいったりする事もある」
「あはは、ルミ江さんから見ても、なんでコイツがっていうのが居るんだ?」
 物凄くおかしいらしくレイカは上遠野杏奈そっくりの顔で笑った。
「--------もちろん(笑)。内緒だよ」
 ルミ江はいたずらっぽく笑う。
「えっ、例えば誰と誰?」
「う~ん。たとえばこの人とか」
 深夜番組を眺めていたルミ江が指摘したのは、「うまっ」「うまっ」と連呼しながら食べ歩きする結構有名タレントだったのでレイカは驚いていた。「好き好きトレイン」のダンスで有名な、ちょっと小柄なダンス&ボーカルユニット「エムサイズ」、「アダノミクスのせいで云々」と言っているニュース・コメンテーターや、CMを見てもあれこれと暴露をし、レイカが寝る迄ルミ江は業界裏話を続けた。それについてはちょっとここで書けない話が多すぎるので割愛する。レイカは終始嬉しそうで、うっすら笑顔で自分がデビューする夢を語り続けた。
 テレビの中で加東ルミ江はニコニコしながら、缶コーヒーのCMに出ていた。その撮影の日から数えて三日後、ルミ江は宇田川リカと品川のホテルで戦ったのだ。今の自分は、そんな気力は微塵もない。まるで別世界の出来事だ。
 画面に上遠野杏奈が映った。似てる、などというものじゃない。ルミ江はレイカの顔をじっと見ると、レイカは口からゆっくりと煙を吐きながら、テレビ画面を厳しい流し目で見ていた。
 その日の明け方、甘えるように膝の上で眠ったレイカの顔を見ながらルミ江は考え事をした。
 喜んでくれたのは嬉しかった。だが同時に、罪作りな事を言ったとも後悔した。この世界、今のままでは闇社会とのつながりが甚だしく、八割のタレントが直接間接的に、なんらか闇に関わっているといっていいかもしれない。『加東ルミ江』などはその最たる存在で、かつてヨルムンガンド・レンジャー五人衆の一人である。何人もの人間を血祭りに上げてきた。夢の影には闇があった。果して岬レイカをその世界へ誘ってよいのだろうか。嫌でその世界から逃げ出してきたのに、レイカの喜ぶ顔を見たい、只その為だけにリップサービスをした。
 レイカはガバッと起き上がった。ルミ江の顔をまじまじと見た。
「夢じゃねぇよな?」
「えっ」
「あたしに言った事。-----レコード会社に紹介してくれるってさっき」
「-----うん。もちろん」
 レイカはにこにことして
「良かった。あたし夢かと思った。ひょっとしてあんたとも夢で一緒に生活してたのかなって」
 顔をほころばせる。二人は笑った。

 クリスマスイブをどう過ごすかについて、ルミ江とレイカはお互いの思い出を語った。沖縄では雪が降らないので情緒に欠ける、それに海開きが一月一日で終わりが十二日三十一日。常夏ゆえである。鹿児島は雪の代わりに櫻島の火山灰が降る。レイカの家は七面鳥の代わりに黒豚を食べるという。
「今日はさ、あんたに見せたいものがあるんだ」
 珍しく新宿に行くというレイカはいつものレンタカーのアウディA4に乗って、補助席のルミ江に言った。
 新宿タイムズスクエア付近に車を停めると、レイカは降りた。眼前には真新しいビルが建っていた。その日、テレビでも盛んにやっていた新宿ハイスカイタワー。高さ百メートル。東屋財団の新社屋ビル。明日から営業だ。すでに虹色にライトアップされ、しかも虹は下から上にじんわりと動いている。
 レイカはそれを数分間は黙って見ていた。その目は厳しく、風に髪が吹かれて黒いドレスでじっと立つ精巧な上遠野杏奈のフィギュアのように立っている。クルリと車の後ろへいくと荷台の蓋を開け、ギターを取り出した。そして振り返りもせず、大股でタワーの方向へ向かって歩き出す。
 車は、まだエンジンが掛かったままだった。ルミ江は急いでエンジンを切ってドアを閉めると後を追った。外気はキリリと引き締まり、冷たい風が吹いている。

 ハイスカイタワーの展望レストランでは、明日の営業を控えて一足先に関係者が集まっていた。<宗教界の黒い法皇>は一本百万円の高級ワインを飲みながら、フォアグラをナイフで切り口に運んだ。
「今日は元老はお見えにならないのか?」
 <暗黒街の皇帝>は興味なさげに
「あぁ、寒いと腰痛が痛むらしい。今日は、高輪のお屋敷にいらっしゃるのでは」
 と応え、目の前のステーキに熱中していた。
「珍しいな、こういう記念の日には必ず顔を出していた人が」
 <医療界の巨魁>も白ワインを堪能する。
「お年だからだろう。百四十じゃあなぁ」
 そう少し離れた席から口を挟んだのは、伊勢海老が大好きな<教育界のゴッドファーザー>である。
「もうそろそろ引退かな」
 <影の首相>は痛風が痛むので、あっさりした高級お茶漬けをわざわざ和食料理屋からもってこさせて食べている。
「おっと、君々、よしたまえ。今のは本音かな」
 <銀行界(略)>がやけに嬉しそうに突っ込んだ。
「君こそ狙ってるんじゃないのか、後釜を」
 うわっはっはっは……深海魚たちの笑い声が響く中、
「それはそうと結局、金剛アヤナの件では、加東ルミ江が失踪中なので一向に動きなしだな」
 <宗教界の黒い法皇>が思い出したように言う。
「一体どうなっとるんだろうな、彼女は来年の大河、しばらくはこれまで撮った分だけで時間を稼げるが、このまま彼女の動向を黙って見守るだけでいいとは思えん」
 <暗黒街の皇帝>は単に話題として返す。いぜん、ステーキと格闘中。
「特に元老がそのように仰る。まったく『女神』がどうとかこうとか、突然いい年でメルヘンチックな事を仰るので聞いてるこっちがびっくりするわい」
 <教育界のゴッドファーザー>は海老の三匹目に突入した。
「おっと、今日は毒舌が冴えますな!」
 <影の首相>は沢庵をパリパリしながら喜色満面。
「そっちこそ」
 がっはっはっはっは……俗物どもの集会は苑もたけなわである。

 ハイスカイタワーを離れたところから見上げている岬レイカは依然無言だった。ルミ江はどうしてレイカがハイスカイタワーを見に来たのかがちょっと分からなかった。そこは通りの裏手で、彼女はギターを持って立っているが、誰も人が通らない。
 ドォ---------…………低いアンプ音がどこからともなく響いて来る。それが全身をゾワゾワさせる。レイカはギターを構えたまま、已然じいっとタワーを見上げ、ルミ江が感じるアンプ音にも動じない。
 キョロキョロみまわして、音源を探した。まさか。ルミ江は単なる裏路地のビルの背だと思っていた場所に、アンプの絵が入った巨大な広告が入っているのに気づいた。広告と言ってもビルの一面全体が精巧なアンプの画像だった。音は、ビル全体がアンプになっている場所から出ている。地上十階建てのビルの壁面、それがアンプだった。それは巨大な、紙のように薄いアンプだった。
「レイカ、あなた……」
 レイカのギターにはアンテナがセットされており、アンプと繋がっている。
「心配しないで。ギガアンプは指向性のアンプ。目的のところ以外にはほとんど音が届かない。だから鼓膜をやられる心配もない。だからここに居てくれ」
「あなたは何者なの」
 ルミ江は低い声で聞いた。
「あたしあんたのファンなんだ。だからあんたを助ける」
「知ってたのね、そうなんでしょ」
 私がブラック加東ルミ江だという事を。
「うん。あんたが権力との戦いを始めた後、辛そうなの知ってたから、あたしは助けなくちゃと思ってた。そしてあんたと話してもみたかった」
 少女は流し目で睨み付けるように微笑んだ。
「それはさ、以前のあんただったら絶対助けなかったよ。只の人殺しなんか。人が殺せないって事はさ、良心の呵責に悩むって事はさ、人として大切な事なんだ。あんたは成長したんだよ。今あの中には人間はいない。只、俗にまみれた怪物どもが宴会しているだけだ。あいつらは人間じゃないよ。あたしはあんたを応援するよ。この世界、変えてよ。この特権と諦めに満ちた世界をさ。あんたしか居ないよ。だから、あたしはあんたの背中を押してやる。それともう一つ。嘘着いて悪かった。あたし、上遠野杏奈だよ。でもこの間はさ、まじに嬉しかった。あたしの為に口聞いてくれるって言ってくれた事が。あんたは、あたしが上遠野杏奈じゃない岬レイカっていう無名の人間でも、分け隔てなくつき合ってくれたんだ。今日は一緒に来てくれて感謝する」
 上遠野杏奈のギターがかき鳴らされた。ギガアンプが爆音を発する。鼓膜をやられないと言っても、ルミ江は両耳を塞いだ。
 一分も経たない内に、目の前のハイスカイタワーに異変が生じた。左右に振動を始め、やがてそれは次第に激しくなっていく。
 「キャア!」
 ルミ江は叫ぶ。
 ズドドドドド……地響きと共に、ハイスカイタワーは折れ曲がり、崩れ去った。
 白い粉塵が舞い上がって、街のネオンを反射する。ギガアンプの音は音叉の共鳴と同じ原理でビルを破壊した。一種の音波兵器だ。
 地震のように地面が揺れ、瓦礫が崩れ落ちる音が響く。

「大人になったな」
 上遠野杏奈が振り返って、爆発するありとあらゆるものの中でそう言って微笑んだ。

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