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3 ~孤独なトップスター!! 渋谷激闘編!~

 
挿絵



 囀(さえずり)の手は震えていた。先日先輩に不審な眼で見られたとき、無理に腕立て伏せをしてみせた。元気である事を示すためだった。だがここ一月で脂肪が一気に落ち、みるみるやせてきて、皮膚は黒ずみ、一見して再び薬に手を出したという事は明らかだった。二度の麻薬使用による検挙で、芸能界落ちした彼を救ったのが先輩芸人だった。再び地方回りのお笑いライブツアーの仕事も増え、今ではかつての仕事量をこなすまでになっている。再婚し、公私共に順調だった。人生は再び上向いている。
 だが、過去の薬の経験が囀(さえずり)の記憶から呼び覚まされた。一度手にした薬への依存は、そう簡単に抜けられない体質になって、一生付きまとうのだ。逮捕されても簡単に復帰できるようでは、芸能界に自浄作用があるとはいえない。
 カツン、カツン。廊下をゆっくり歩く歩幅に聞き覚えがある。こんな風に、相手はいつも深夜に現れた。闇から忍び寄る紳士の格好をした、死神。薬の売人はおよそ三年ぶりに囀の元に姿を現した。彼は一瞬、家族の顔を思い浮かべた。囀は断った。死神は黙って去っていった。しかし、その顔には微笑が浮かんでいる。囀の中の、フラッシュバックを読み取ったに違いない。翌日から、地獄のように心の中に潜む悪魔の誘惑がささやき始めた。やめてくれ、やめてくれ……そう拒否する声は次第に小さく弱いものになっていった。
(馬鹿馬鹿しくなってきたな……俺だけがやってることじゃないんだ)
 悪魔のささやきが抵抗する心に勝ったとき、あの靴音が深夜の廊下に響き渡る。まるで、囀の心の葛藤を推し量ったようなタイミングで。カツン、カツン。見上げると、勝ち誇った顔つきの死神がポケットに手を突っ込んで、そこに立っている。
(そうだとも! 他の人間がやってるのに、アンタだけが我慢することはないんだヨ)
 足元に白い粉の入った袋が落とされた。囀は身をかがめ、両手でそれを優しく掴んだ。もしここで手を出してしまえば、あっという間に転落する事は目に見えている。見事に薬の奴隷、麻薬ゾンビが出来上がる。そんな事は分かっていた。妻にもすぐにバレる。分かっていたはずだったのだが……。
 夫婦関係は一気に冷え込み、ついに妻は離婚届を囀に突きつけた。それを何度も眺めながら、うすっぺらい紙一枚じゃないか、と呆然と考えた。
(囀サン、心配しなくてもあんたには強力なバックがついているじゃないか。仕事を失ったりはしないヨ。最近離婚したんだって? 代わりの女性なら幾らでもこっちで紹介する。さ、何もかも忘れて人生を愉しもう。パーッとやろうヨ囀サン!)
 死神はいつもそう励ますのだった。もはや奴隷がその首輪についた鎖で引っ張られているも同然、囀を運ぶ車は夜の店へと。そこは、過去何度か訪れたことがある恵比寿の地下室の店。かなり入り組んだ裏通りの路地の一角にあり、人通りが多い表通りとは全く違う、不気味なほどの静けさが支配している。「特殊な人間たち」の知る人ぞ知る店、そこで毎夜、あるパーティが行われていた。囀はそこで深夜三時まで飲んだ。「仲間」が彼を励ました。いつものように死神から配布された薬を打ち、現実と幻想の狭間を彷徨う。その間、何もかも忘れてしまう。
「よーし、もう一軒行こう」
 死神がそう言った。囀はフラフラと立ち上がる。
 外へ出ると、三日月の周りに短い雲が三連たなびいている。超現実的な風景の感覚があった。冷たい空気が死神とその仲間たちの酔いを一瞬醒ます。囀以外は、死神の売人仲間だ。薄暗い路地に光がぱっと着く。十メートル先に黒光りするバイクがあり、そのヘッドライトが彼らを照らしていた。
 ウォオオオオン! 単車は唸り声を上げて走り出した。闇に浮かび上がる、ライダーの女の靡いた長い黒髪。車は正面から突っ込んでくる。避ける間もないまま、売人の一人が車に轢かれた。吹っ飛び、ゴミ捨て場に頭から落ちる。川崎のバイクは停止し、ターンして戻ってきた。女の手から何か細長いものが投げられる。囀の横に居た別の売人の男の首に巻きつき、引きずられていく。
「ギャアアアーー!」
 断末魔の叫び声と共に鮮血が飛び散り、いつの間にか胴体と首が分かれていた。走って逃げる男たちに向かって、バイクの女は今度はカードのようなものを投げつける。頭に突き刺さったものはピン札の一万円。倒れこむ彼らに、ドスを振りかざした女の一撃が浴びせられる。
 死神の首にワイヤーが括られた。それは電柱の上部の機械に掛けられると、バイクは反対方向に向かって走り出した。男の身体がつるし上げられ、絶叫の挙句首と胴体に切り裂かれた。
 死体が転がる狭い路地、もはや囀しか残っていなかった。バイクは一人残った囀の元へ戻ってきた。足がもつれ、中々前に進まない。しかも彼が逃げていった方向は表通りとは正反対で、袋小路だった。追い詰めたバイクの女の白い顔が街灯に照らされて浮かび上がった。加東ルミ江?! これは一体どういう事だ。長い髪、丸い顔、きりっとした眉、整った顔立ち、間違いなかった。
「腐れ外道が……あなたのような輩が、復帰できる芸能界を私は憎んでいる」
 所詮、表に出てくるような麻薬逮捕者の芸能人、スポーツ選手、有名人はスケープゴートとして闇社会に選ばれた者たちに過ぎない。それをいい事に、いい気になって陰で薬を使っている一部芸能人も許せない。他にもやっている人間はいるが、警察が逮捕にやたらと時間を掛けすぎ、あるいは狙った一部しか逮捕しないのだから、一向に麻薬ネットワークの連中が減る気配がない。結局はスケープゴートしか捕まえないのだから、こうして見せしめに成敗するしかないのだ。そんなだから、若いタレントも薬で転ぶ人間が出てくる。そんなだから、如月ヰラが……。
「もし今度やったら、その時はただじゃ済まない。命(タマ)取るわよ。見せしめになってもらう」
 ルミ江の闇色のバイクは速やかに立ち去った。

 バイクは、夜明けの新宿まで走って、出勤者もまだ居ない、都会烏の大群だけが東京のゴミを突っつく、静かな町並みで停まった。彼女の右手は震えていた。震えがひどく、単車を停めるしかなかったのだ。左手で、右手をぐっと抑える。
「……ううう」
 震えが声になって漏れ出す。涙が濡れた。手加減するつもりが囀以外、全員殺してしまった。最近のことだ。人を殺した後、震えが来る。自分は、人を殺せなくなりつつあるのか。

 八神亜里沙(ありさ)はツアーの最中だった。夜八時、コンサートが終わり、観客が渋谷の街へと飲み込まれると、その人込みに紛れて男が自分を待っているのに気づいた。それとなく気にしながら総勢二百名というスタッフの指揮を執る。やがて汗を拭きながら九々龍俳山の元へと歩いていった。まだステージの衣装のまま、白いドレスを着ている。頭に、青揚羽の髪飾りが輝いている。
「さっき、東屋の人と何話してたの」
 あえて亜里沙から声を掛けた。白みがかった金髪。その瞳は、プルシアンブルーのカラーコンタクトが着けられている。九々龍は、東屋財団の男に対して、苦虫を噛んだような顔つき……かもしれない表情を隠したウルトラガイの仮面で、黙って話を聞いていたのを亜里沙は見逃さなかった。仮面をつけた初老の男は、取り繕ったような態度で迎えた。
「ん? あぁ、何でもないよ。今やプロデューサー八神亜里沙か。いや、立派に成長したものだ、素晴らしい」
 何だそれは、と亜里沙は思う。
「で? 九々龍さん、捨て犬の私に何か?」
「そんな厭味を言わなくなっていいだろう。調子はどうなのか気にしていたんだ。いや、これは杞憂だったようだな。私なんかの力がなくても、立派にやっているようだね。まったくあの女に酷い目に合っているのはこっちも同じだ。気づいただろうが、加東ルミ江はレンジャーの一人だった。裏切った彼女は、君の……」
「だって私が知らないとでも? 彼女をけしかけたのはアンタの方でしょ」
 喉がコンサートで潰れかかっている低い声で、冷たく鋭い亜里沙の言葉が追求する。予想外のことに亜里沙はルミ江の正体を知っていた。
「才郎はアンタから独立しようとしていた。私は馬鹿な事はやめなよって言ったんだけど一応はアンタのレンジャーだからネ。でも才郎は聞かなかった。私は彼を助けることができなかった」
 以来、八神亜里沙はレンジャーから抜けたのだった。いや、正確にはそれ以前から九々龍との関係は冷え込み、ほとんど闇の仕事に関わらなくなっていた。亜里沙はヨルムンイエローとは違い、その仕事が嫌いだった。祭ヶ丘才郎にすら、その事を隠していた。祭ヶ丘才郎が、ウルトラガイ・セブンの仮面をつけ、九々龍と似たような事を始めようとしていたが、亜里沙は協力しなかった。ヨルムンブルーである事を告げていなかった為である。それが結果的に刺客・加東ルミ江から才郎を守れなかった理由でもある。才郎は結局殺されなかったが、今も行方不明だ。結局巨大ディスコ「東京ブレイザヴリク」の一件で【ファーブニル】クラウド代表の座を去った。
「もう私に関わらないでくれる、才郎を消されてもアンタに御礼参りもしなかったんだから、それだけありがたいと思ってよ。後は勝手にルミ江に殺されたらいい。私はアンタに何も協力しないし、アンタ達のしてること、関わりたくない。もうほっといて欲しいの!」
 亜里沙は、才郎から全ての栄光と今日のキャリアをもらった。思春期に家出をし、捨て猫同然だった自分をスカウトし、ここまで育ててくれた祭ヶ丘才郎。今の彼女があるのも、才郎から貰った命、それだけの恩人に亜里沙は報いることができなかったのだ。
「本来なら顔を出す筋合いじゃないことくらい分かってる」
 亜里沙がフッと笑った。
「さっきそこで何を話していたか私が答えてやろうか。最近、東屋に見捨てられたみたいだね。あいつらもアンタを切ろうとしているんじゃないの。芸能界のドンも後ろ盾がなきゃやっていけない。アンタもあたしも、やつら無しじゃ何もできないんだ。もうオシマイだね九々龍さん」
 九々龍は仮面の奥で目を瞑り、しばし沈黙した。
「東屋から言われてんだろ。加東ルミ江を始末できなければアンタを切るって。お金に困っているそうじゃないの、ヨルムンガンド」
 東屋クラウド局からの資金を絶たれては、【ヨルムンガンド】クラウドに生き残る道はない。大きなクラウドが小さなクラウドを包括する、芸能界の掟だ。
「そこまで見抜かれては正直に言う他はないか。降参だ。亜里沙の言うとおりだよ。ヨルムンガンドは崩壊しつつある。原因は、色々あるんだが、きっかけは加東ルミ江のせいと言えなくもない。いや……そうなんだよ。同時に組の人間も実にシビアだ。この所どうもよそよそしいと思えば、あっちにも東屋から通達が来たようだな」
 ヨルムンガンド帝国の九々龍といえど、あるいは逢魔組といえど、さらにその奥にある闇の手足に過ぎない。その闇は、政治権力をも直接間接的に支配する国家的な黒幕に通じている。闇が、闇を支配する。九々龍俳山もその一角に過ぎない。
「確かに才郎の元へブラックを送り込んだのは私だ。本当に残念なことだと思っている。彼があのような、行動に出なけりゃ決して……」
 亜里沙は九々龍のネクタイをグイと掴んで引き寄せた。
「ウザいんだよ、消えろ。私がアンタを許す訳ないじゃない。殺すとは言わないからそのウルトラガイ面、二度と見せないで!」
 立ち去ろうとした彼女を、後ろに居たはずの九々龍が前方に現れて引き止めた。瞬間移動でもしたようで、亜里沙はギョッとした。今の現象は何だ? コイツ、忍だったのか。もしかして、仮面の中身が別人の九々龍が二人居る?
「ブルー。協力してくれ。君しか、ルミ江を殺れる者は居ない。イエロー、薬師寺ルカも殺された」
 顔をそらした亜里沙はルカの名前とその顛末に驚く。薬師寺ルカの正体は知らなかった。
「レンジャーの中で最強である君だけがルミ江を止めることができる。君は、才郎を襲った女をそのままにしておくつもりなのか? 私の事はひとまず置くとして、もし彼女と決着を付けるんなら協力する。その為なら東屋も動いてくれるだろう。私にとっても君にとってもチャンスなんだ。その後、私もきっちり落とし前をつける。話し合いをしようじゃないか。お前は最強のレンジャーだ」
 振り向きざま、亜里沙の拳が飛んできて、九々龍はぶっ飛ばされた。かろうじて、仮面は外れていない。口許の血をシルクのハンケチで拭き、スーツを払って立ち上がる。
「言われなくても、彼女には死んでもらうつもりだった。本音を言ってやろうか? アイツは誰にも殺させない。あたしの手で焼き殺すまでは。ひとまずアンタがあいつに殺されてからでも遅くないと思ってた。その代わりにアンタには働いてもらう。私がアイツを殺す所を、闇の偉いさん達にできるだけ多く観てもらいたい。人殺しを数字やメールやネットで、結果だけ見たり聞いたりするだけじゃ絶対許さない。いいか、殺人がどんなに残酷か、人間同士が殺し合うことがどんなに恐ろしい事か、その眼ではっきり見させてやる。もちろんアンタもだよ。そのための舞台を用意しろ」
 【ヨルムンガンド】代表の九々龍にはうってつけの仕事という訳だ。亜里沙の考えではクズに相応しい仕事だ。にしても九々龍は身軽な男だ。殴った感触がほとんどない。
「感謝する。喜んで引き受けたい。お礼と言っては何だが、一つ重要な情報を伝えよう。【ファーブニル】に、最近入ってきたスタッフが居るだろう。私の掴んだ情報では、彼らはスパイだ。聞いたことないかね。黄泉会が【ファーブニル】を乗っ取ろうとしている動きがある事を」
 祭ヶ丘才郎が黄泉会の力を得て、【ヨルムンガンド】の九々龍から独立しようとして失脚させられて以来、亜里沙は一切闇から手を引いていた。当然、黄泉会とも関係したことはない。
「一度関係を持てばとことん追いかける。才郎の存在などもう関係ない。【ファーブニル】クラウドはいずれ奴らのものになる。それがやくざのやり方だ。才郎はあまりに世間を知らなすぎた。組との関わり方は、とても難しいんだ。少しでも甘いやり方をすれば、一方的に彼らに利用されてしまう。その点、私が才郎に教えてやらなければならない事だった。安易に考えていたのだろう。君が組と関係を持ちたくないのであれば、早いうちに手を打った方がいいだろ」
 亜里沙には、心当たりがあった。このところの、スタッフやアーティストの薬の蔓延である。亜里沙は過去、薬の流通と関係した事はなかった。ところが、この業界に薬のルートが出来ている事には気づいていた。その関係者が【ファーブニル】の中にいる。むろん、この情報をリークした九々龍とて、逢魔組と関係しているのだから「白」ではない。ともあれ、【ファーブニル】の看板娘として、食い止めなければならないと思っていたところだった。

 九々龍と別れて、亜里沙は問題の五人のスタッフを見張った。亜里沙の忍術は一切の気配を消すことができる。アーティストとしての八神亜里沙の絶対的なオーラはなりを潜め、静かに闇の中に沈殿する。だが見る者が見れば、そこに違ったオーラが滞留していることが分かるはずだ。若い男女のスタッフは一箇所に固まり、その中の一人が携帯で連絡を取っていた。話の内容から、容易に黄泉会と分かる。結局、こうして敵対勢力を潰したい九々龍に操られているだけなのかもしれない。そう思いながら亜里沙は一年ぶりになる殺しの道具を手にし、腕に嵌めた。それはいつでも使用できるよう、バッグの中に忍び込ませてあった。
「ちょっとあんた達、何してんの。こんな所でさぼってないで早く戻りなさいよ」
 突然現れた八神亜里沙に、五人はぎょっとした。
「すみません」
 立ち去ろうとする男の手を亜里沙の右手が捕まえた。シルバーの腕輪が輝いている。
「待って。これ何」
 手の中に白い粉の入った袋があった。亜里沙の目つきが変わる。手を振りほどき、彼らは走り出した。一人がワゴン車に乗り込みエンジンを掛けると、後の者が続く。そのまま逃げ去ろうという算段だろう。
 亜里沙の右手が車にかざされ、その腕輪に着いたパイプから炎が迸る。携帯小型火炎放射器が、五メートルもの巨大な炎を作り出して車に達した。彼らが乗り込もうとしていた車は炎上、爆発した。男三人と女二人は路上に転がり出て、驚きつつ走って逃げようとする。彼らは亜里沙がヨルムンガンド・レンジャーであることを知らされてはいなかった。黄泉会からはそこまで伝えられていなかった。走る彼らを亜里沙は追わなかった。代わりに、そのマニキュアで飾られた両手には光る何かが握られていた。キラキラと銀色に輝く花びらのような形をした金属。その中央には小さなナイフが着いている。
 亜里沙は振りかぶってそれを投げつけた。金属の花びらはヒューンと空中を切る音を立てながら、その花びらが回転し、まるで生き物のように弧を描きながら瞬く間に目標を追尾、次の瞬間切り刻んだ。まさに空飛ぶバタフライナイフだった。一撃目で勢いを止めることなく、また回転して戻ってくると、今度は打ちもらした相手に第二撃を加えた。彼らはあっという間に空飛ぶ金属片の回転体に捕まり、何度も何度も切り刻まれて、全員が殺された。
 亜里沙がそれを操っているかのように見える「動き」だったが、彼女はそれを最初に目標に向かって投げつけたに過ぎない。あとはこの回転する手裏剣、「鉄蝶」が目標の周囲でくるくると飛び回り、収束運動を繰り返しながら標的を切り刻んでいくのである。
 【ファーブニル】クラウドという巨大な組織の一員として、今やそのリーダー的な存在としてクラウドを背負って立つ八神亜里沙は、グループを護るために、これからも表の戦い、裏の戦いの両方に受けて立たねばならなかった。決して大きくはない彼女の身体にそれら一切が圧し掛かっている。本当はもう闇に関わりたくなかったが、仕方ない。殺人的なスケジュールの中で、本当の意味で辛いと思った事はこれまで一度もなかった。だが、亜里沙の本心を知る者は誰も居ないだろう。闇社会の一員として生き、やがて表舞台のトップスターに成長した。だがまるで、その仕事っぷりはこの東京という街の人々の消費のための生贄のようだった。消費され消費され、それでもまだ消費のために生き続け、戦い続ける。亜里沙は大変だ、トップスターは大変だと皆が言う。でも誰も理解しないだろう。そう、これまでは。

 ここにもう一人。同じく闇を背負ってトップスターとなった女優がいた。加東ルミ江、彼女もまた殺人的スケジュールの中、芸能活動を続けていた。東屋財団クラウド局が敷いた巨大システムに動かされ、生きている自分を捉えなおす暇もない日常。今や、どのチャンネルを着けても彼女が居る。自分でテレビを着けても、加東ルミ江が化粧品のCMで微笑んでいる。豪華キャストをかき集めた「バーチャルスター」の主役の後は蓬莱テレビの月8の「リフレクション・夜景」の撮影だ。九々龍からの独立を宣言して以来、何故か仕事が途絶えた事はなかった。最初は九々龍の意志でもあったらしいが今は違った。九々龍の力は弱まり、その黒幕の東屋本体が加東ルミ江を消し去ろうとするどころか、逆に利用し始めたのだ。九々龍の影響を抜けて、直にである。
 それはこの月8ドラマの出演が物語っていた。加東ルミ江の反乱によって、クラウド・ビジネスが再び流動化し、闇の再編成が始まっていた。クラウドの根本を押さえる東屋財団はその激流を旨く利用しようとしていた。ルミ江を生かし、逆に九々龍の権力を奪い取る。闇の世界は冷酷だった。
「加東さんて、中々質問しても教えてくれませんね」
「ええ?」
 ルミ江は笑って共演者の男にごまかした。
「いえ……人と話すのが苦手ですから」
 「マジ駆る九ノ一」で演じる、饒舌な日芭利@美役のイメージとはかけ離れた、素顔の彼女はおとなしい人間だ。しかしあまりに「マジ駆る九ノ一」のイメージが業界に定着しすぎていた。ルミ江は美人でありながら三枚目も演じることができる、明るく面白い人物であると思われている。CMでもそのイメージが強く反映されていて、コミカルな演出が多い。が、実際のルミ江は人見知りするタイプで、そう容易に自分をさらけ出す事はない。よほど長く仕事の付き合いのある人間でも、心を打ち明けて話すタイプではなかった。
「お疲れさま」
「ありがとう」
 ルミ江がにっこりと微笑んだ相手はマネージャーだ。大柄な熊田はルミ江の一番の理解者と言ってよい。時折連絡が取れなくなったり、居なくなるのが少し気にかかるが、仕事には決して遅れず、手を抜かないのが加東ルミ江である。スキャンダルも皆無の生活。どこで気を抜いているのだろうと心配になる事もあるが、今が一番芸能生活で輝いている時。多少の無理は仕方ないだろう。熊田にできることいえば、フッと居なくなった時に余計な詮索をしないことくらいだ。
 マネージャーから受け取った紙コップのコーヒーを飲みながら、彼女は思い出していた。映画「ビューティーバニー」の中で、神有月バニーがコーヒーを飲み干すシーン。ヒーローでありながら、孤独な生活をしているバニーを演じた薬師寺ルカは、もうこの世に居ない。蓬莱テレビの屋上から突き落とし、自分が殺してしまったからだ。あのナイスバディはもう存在しないのだ。あの時以来、人を殺した直後に震えが激しくなった。大抵は一時間程度で止まるが、演技に支障が出たら大変だ。いやそれどころか日常生活さえも。震えと共に、涙が溢れて来る。もう、限界が近いのかもしれない。九々龍を追い詰めた今、最後までやり遂げることができるのか。今も、奥多摩の山奥で療養生活を続ける親友の仇を取ることができるだろうか。
 控え室に戻る。マネージャーはスタッフとの打ち合わせ仲で一人だった。ドアを開けるとメモが一枚、机の上に載っている。そこには紙製の青揚羽がついていた。
『BLACKへ。スタイリストの南優子は預かった。殺されたくなければ今夜、渋谷のコンサート会場へ来い。BLUE』
 さっきから姿が見えないと思っていた。優子はルミ江が今親友といえる数少ない人間の一人だ。そして瞬時に悟った、今度のレンジャーが何者であるのか。ヨルムンブルー。それは今、渋谷でコンサートをしているあの超メジャー歌手だ。だが、人質を取るとは何と卑劣なコトを! 許せない。ルミ江は疲れも忘れ、マネージャーに心の中で詫びると、メモをクシャッと握り締め、ポケットにしまいこんだ。ワイヤーの入ったショルダーバッグを担ぎ、部屋を去る。

 日が暮れ、プルキニエ現象で青く染まってゆく夕空。ルミ江が運転する黒い川崎のバイクは夜の代々木公園まで来た。八神亜里沙のコンサートは、すでに始まっている。外からも亜里沙の曲が聞こえてくる。だが、ルミ江が現れるとスタッフは沈黙したまま裏手へと案内し、会場内へ通した。盛り上がる会場内にピンクの照明に浮かび上がった歌姫の姿を、観客席の奥からルミ江は観ている。亜里沙がレンジャーの一人だったとは。だとすると、一つの結論に結びつく。自分が祭ヶ丘才郎を襲ったことを、さぞ恨んでいる事だろう。だが、九々龍にも憎しみを抱いているに違いない。では今夜の戦いは、純粋にルミ江への復讐か。ステージ上の亜里沙は輝いていた。赤や黄色に変化する照明の中、亜里沙は十回も衣装替えをした。まるで、これから戦いが控えているとは思えないくらい華麗で儚げで、時代を疾走していくトップスターの姿だった。
 その内、ルミ江はある事に気づいた。青い照明が照らされると、亜里沙はかならず一度はこちらを見上げた。偶然ではない。彼女はルミ江の存在に気づいている。もしかしたら、こんな事にならなければ、亜里沙と一緒に手を組んで芸能界を変えられたのかもしれない。この後、一体どんな戦いが待っているのだろう。敵の武器は何か。自分は、ちゃんと戦えるのだろうか? しかし、優子ちゃんを助けなければならない。
 アンコールの曲が二度続き、コンサートは終わった。帰宅する観客の引き潮のような流れの中、ルミ江はそこに岩礁のように立って、ステージをじっと見ていた。スタッフの誘導の中、あっという間に会場は空になる。ルミ江はステージの裾に消えて以来、姿を現さない亜里沙の動向を伺う。コンサートで感じたことだが、亜里沙は会場にいる観客の顔が全員見えている。亜里沙はすでに、ルミ江が来たことに気づいていたし、スタッフからも聞かされているだろう。
 そんな事を考えていると、ルミ江は突然スポットライトに照らされた。ステージ上を見ると、いつの間にか亜里沙がステージ衣装そのままの格好で、再び立っていた。今度は仁王立ちして、確実にルミ江の方を見上げている。キラキラ光る鋲を沢山取り付けたプルシアンブルーのジャケットとフワフワの白ピンクのミニスカート姿。手に黒い手袋、金属の腕輪を嵌め、足はブーツだ。そして、頭に光り輝く青揚羽の髪飾り。
 コンサートが終わって約四十分、客が居なくなるのと入れ替わるように、外ではゴツい車が続々と停まった。どれも国産外車問わず高級車ばかり。中から現れたのは最初に東屋財団関係者、次に政府の高官、財界のドン、ヤクザといった黒幕系の大物たち。呆れた。決闘を見世物にしようというのだ。ルミ江はスポットライトに誘導されるがままに光り輝くステージ上へ上がった。客席を見ると九々龍俳山が居る。そうか、これも九々龍の差し金か。では亜里沙と和解したのか。彼らはレンジャーの殺し合いを見せてショーにしようというのか。きっとアメリカにある地下プロレスみたいなものなのか。優子ちゃんはどこに居るのだ。これからが亜里沙とルミ江にとって、ステージの第二幕の始まりだ。
 亜里沙はステージに上がってきたルミ江をギロリと睨みすえ、マニキュアで飾った右手をかざした。真っ赤な炎が、腕輪の下に取り付けられた火炎放射器から飛び出す。ルミ江はびっくりしたが、前転して避ける。火遁の術の使い手か! 回転しながらピン札手裏剣を投げた。カキンと金属音が響き、一万円札は真っ二つに裂けて床に落ちた。亜里沙の両手には、花びらのような金属片が握られている。あれは何だ。ルミ江も見たこともない武器だ。
 亜里沙の両腕が舞うように振り下ろされる。これが鉄蝶。
 鉄の蝶はギュルギュル……と回転音を響かせながらルミ江は飛び掛ってくる。ワイヤーをシュルッと伸ばして、鉄蝶をムチの要領で跳ね飛ばそうとする、だが、軌道を変えられた筈の蝶は軌道修正してまた襲ってくる。何故だ? まるで生き物のような動き。五回六回跳ね返して、ようやく鉄蝶を床に叩き落すことに成功した。ブラック加東ルミ江だから避けることができたが、普通の人間ならとうに殺されているだろう。
 しかしそれは、第一撃に過ぎなかった。亜里沙の手から、絶え間なく鉄蝶の死の羽ばたきが繰り返され、放たれていく。ルミ江はたまらずワイヤーを照明に引っ掛け、上へとジャンプした。鉄蝶はそれを察していたかの如く、上へと方向を変えて飛んでくる。そんな馬鹿な! やっぱり亜里沙がルカのヨーヨーのように操っているのか? いいや、ワイヤーの類は見られない。あくまでこっちの動きを予測して亜里沙は投げている。プロペラの円の動きで予想がつかない。ルミ江の太ももに蝶のナイフが通り過ぎた。スッと一線赤い傷が出来る。
 上のルミ江に向かって、下に居る亜里沙が右手の炎を吹き上がらせ、やむなくルミ江はワイヤーを手離した。無様に尻餅を着いて床に着地する。こうなったら武器は短刀しかなかった。ミニスカートからドスを抜き、構える。炎といい鉄の蝶といい、接近戦に持ち込まなければ勝てない。ルミ江はたまらず声を掛けた。
「大した才能ね、歌も、自身をプロデュースすることも、それに殺しも」
 このコロシアムを計画したのは八神亜里沙だ。
「自分に才能があるなんて思ってないよ。ただ昔から好きだった事をやってるだけ」
「嘘」
「本当だよ」
「死ぬ事はどう思う?」
「それは考えないから怖くない」
「今何を考えているの」
「才郎を破滅させた女を殺す事」
 亜里沙の大きな眼がルミ江を見下ろしている。怒りが宿った彼女の、美しく可愛い顔を見上げたルミ江は再び見た。その華麗な手には、再び鉄蝶が握られていた。考えてみれば、接近戦でも鉄蝶をナイフとして使えるのだ。
 九々龍は、複雑な気分で二人の決闘を観ていた。他の観客となった大物たちは、ただ二人の対決を楽しんでいるだけだ。皆にこの殺し合いを見せろとは、亜里沙がどういうつもりなのか、いまだに真意がつかめない。だが、痛々しかった。自分に「そんな感情」があるとはこれまで思わなかったが。ずっとレンジャーに指示を出した側だったが、実際にレンジャー同士が殺し合う様を見せられた事はなかった。思った以上にきつい。それが亜里沙の目的だったのかもしれない。だが今、彼女達を、殺し合わせているのは自分のせいだった。こんな風に育てた事を、今まで後悔した事はなかった。どちらかというと、逃げ出したい気分だった。どっちが勝つのか、見ていられなかった。だが、身体は椅子に貼り付けられたように張り付き、闇の紳士達の前で席を立つ事が出来ない。
 亜里沙の手から鉄蝶が放たれ、ルミ江はドスでそれを叩き落していく。すぐ炎が降りかかる。バック転して避ける。避けているうちに、亜里沙は側転しながら鉄蝶を拾い上げた。近寄ることができない。ルミ江はワイヤーのところまで戻り、するりと回収する。
 今度はルミ江の番だ。ワイヤーを投げつける。それは亜里沙の首に向かって伸びていった。亜里沙はマイクスタンドを手に取り、ワイヤーを絡みつかせ、その動きを止めた。亜里沙はマイクスタンドを持ち出して構えた。横殴りに振り回す。ルミ江は短刀で応戦する。ルミ江の頭上で、短刀に遮られたマイクスタンドがグニャリと歪む。ルミ江は踏み込んでダッシュし、亜里沙に得意のタックルを仕掛ける。後方に吹っ飛ばされた亜里沙に圧し掛かり、ドスを振り下ろそうとする。ドスは亜里沙の右手に遮られる。腕の火炎放射器を抑えなければならない。亜里沙の整った美しい顔立ちを間近で見ながら、ルミ江は歯を食いしばり、思いっきり刃を振り下ろした。
 亜里沙は鉄蝶を二人の上空に投げ上げた。ヴーンと金属音の殺気が襲ってきてルミ江は避けた。鉄蝶が再び戻ってくる。亜里沙は立ち上がり、放射器を翳してルミ江めがけて炎を放射する。ルミ江はワイヤーを振り回し、鉄蝶を避ける。ちょうどルミ江の足元にコードがあった。亜里沙はコードを引っ張り、ルミ江の足に引っ掛けて転ばす。亜里沙は両手をクロスし、止めの鉄蝶を二つ投げつける。ルミ江はゴロゴロと転がり、起き上がり様に亜里沙のほっそりした腕を掴むと、二人はくるくるともつれてステージで回る。ルミ江の渾身のドスが亜里沙の胸に突き刺さった。可愛い顔が苦しみに歪んでいく姿はルミ江にも痛々しい。戦闘で久しぶりに感じた高揚感。不思議と彼女に震えは襲ってこなかった。最強の相手と戦った充実感だけがそこにはあった。
 ルミ江は立ち上がり、死んだ八神亜里沙を見下ろすと九々龍を睨み、ステージを立ち去った。まだ殺さない。スタッフに南優子を渡すように命ずると、優子は眠らされていた。おそらく、優子が何も知らないうちに全ては終わったのだろう。幸いだ。ここが渋谷のステージであることも、八神亜里沙が犯人であることも、自分が殺し屋であることも……。

しおり