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1 ~死んでもらいやす!~

 
挿絵



ドラマ「マジ駆る九ノ一」の後

 新宿御苑での犯人役・ワンダー晴美との初対決シーンが終わり、主役の加東ルミ江は長い黒髪を赤いリボンで束ね、カバンから麺とソースとフライ返しを取り出して、現場に用意された大きな鉄板で沖縄風焼きそばを作っている。沖縄風は通常の具材に加え、スパムやキャベツが加わる。こうして共に作品を作り上げている仲間であるスタッフ達のためにたまに間食を作ることがあった。まだドラマは第六回の中盤で、撮影は後半分残っている。ドラマの内容同様、撮影中スタッフ、出演者とも笑いの渦が耐える事は内ない。それがこの現場の特徴だ。その笑顔は成功に裏づけされた本物のものだ。
 ドラマ「マジ駆る九ノ一」は最初が深夜放送で次が夜十一時台、三作目にしてゴールデンにお目見えし、視聴者からも好評をもって迎えられ、同時間帯最高視聴率をマークしていた。このままいけば再度の続編もありうる。加東ルミ江は共演者の蓼丸タツミとの掛け合いにおいても、第一作の頃は慣れなかった彼のアドリブのギャグの応酬に自然と対応できるまでになっていた。ドラマの中ではおどけた調子でファンを笑わせている二人だが、普段は二人ともまじめで割りと静かにしていた。和やかで楽しくまるで本物の家族のようなスタッフと出演者、それが「マジ駆る九ノ一」チームだ。このままずっと続く、自分のライフワークになるような気がしている。
 沖縄県出身、琉球系美人に特有の卵顔に長い髪、南国風の顔立ち、きりっと目元を涼しく飾る眉、落ち着いた声、芸能界有数といわれる美人である加東ルミ江の出世作が、ドラマ「マジ駆る九ノ一」だ。ドラマ不毛地帯といわれた蓬莱テレビの水曜夜九時の時間帯でも見事にヒットさせた。視聴率低迷、ドラマ不作といわれる今日この頃、「マジ駆る九ノ一」は快進撃を続けている。なぜあの子だけが、という各方面からの嫉妬とも羨望ともつかぬ声が聞こえている。
 朝は早く六時から撮影が始まり、夜は深夜まで及ぶ。次の撮影は本日最後となる奥多摩での山の中の撮影シーン。乱闘担当の蓼丸タツミの代わりに加東ルミ江自ら犯人グループと格闘するという新嗜好。様になるようでならぬ、女の子らしさを残したなんとなくおかしい、スマートでない戦いぶりが要求される。彼女の乱闘というものは、これまでの出演作の中でもほとんどない。このシーンにしても「チャーリーズ・エンジェル」や、あるいは「キル・ビル」のような派手なアクションではなく、あくまで「マジ駆る九ノ一」流のおふざけモードなのだ。
 慣れない演技を見事に演じて、撮影はなんとか十二時前に終わった。彼女はさすがに疲れたのか笑顔もなく、椅子に腰掛けるとADに向かって、「お茶」と短く単語のみで飲み物を求める。冬山の撮影は寒い。大柄の蓼丸などは衣装のコートに懐炉を十個も忍ばせている。闇の中ライトに照らされた紅茶の湯気が白く輝いて夜空に立ち上る。目を瞑るとすぐに眠りに落ちる予感がした。だが、一仕事終えた充実感は他に変えられない。彼女はうれしかった。こうしてファン達の支持により「マジ駆る九ノ一」のシリーズが続いているという事実に。そしてヒットしているという事に。周囲のスタッフ達が片付けを始める中、彼女の耳に小さなひそひそ声が届いた。
(大物女優ぶってんじゃないよ。自分を黒山恵子かなにかと勘違いしているんじゃないのか。以前はどんなADでも明るく挨拶していた子だったのに。なんだよさっきだって「お茶」って。俺はお前の手下じゃないんだよ)
(そんな事でキレんなって。でも成功して一番変わったよなー。まだ二十二歳でここまで成功できたら、人間誰だってどうかしちまうって。ところで今思い出したんだけどさ、お前、これ見た?)
(如月ヰラね……確か……彼女も【ヨルムンガンド】クラウドでルミ江と同期だったよな。最近めっきり観ないなぁ。ルミ江との違いが際立つよね。さっき読んだよ。この業界じゃ珍しくもない事だろ。でも、あの顔でよくやるよなぁ~。プッ、クスクスクス)
(おい、シッッ)
 ルミ江は大きな眼を開けて噂話する二人を観ていた。二人はそそくさと片付けに戻った。AD達も疲れているに違いない、そう彼女は察している。ルミ江は二人の言った事に特に気にする素振りも見せず、帰り支度をする。
「オツカレサマデシタァ~」
 蓼丸タツミらに笑顔で挨拶すると、ルミ江は車に乗り込み、マネージャーの熊田の運転で東京へと向かった。
「そういえばさ、つかぬ事を聞くんだけど」
「何ですか」
「この間、一週間前の木曜日。ルミ江ちゃんをメイクさんが池袋で見たっていうんだ。黒いボディコンみたいの着てて猛スピードで走っていったんだって」
「……」
「ところがその時間、蓬莱テレビの打ち合わせ中だったはずでさ。で、トイレ中に抜け出したとしても、蓬莱テレビ社屋と池袋じゃ大分離れてるよね。メイクさんの気のせいだったのかなぁ」
「そうじゃないですか。……ボディコンって(笑)」
 一瞬ギョッとしたが、妙な話だった。ルミ江はその時、池袋に行った記憶はなかった。というより、最近池袋に足を踏み入れていない。「忍」の活動の痕跡は完璧に消しているはずなのに。
「まぁいいや。ところでルミ江ちゃん、『AR-GO』って興味ある?」
 大柄のマネージャーの熊田が話題を振った。
「え……ポリゴンGOみたいなものでしたっけ?」
「そう。ポリゴンGOがスマフォの中だけだったのに対して、AR-GOはメガネをかけて遊ぶ。より安全だし、それに本物の人間みたいで、明らかにCGって分かるゲームとは違うんだ。リアリティと迫力が違う」
 AR-GOとは、地図の位置情報を利用したスマフォのゲームアプリで、そこへ行くとキャラクターに出会えるヴァーチャルゲームだ。ディスプレー・メガネを掛けて、本物の人間と見まごうキャラクターが登場するのも特徴だ。
「面白いですか」
「あぁ……面白いよ。こないだ家族とネズミーランド行ったらさ、子供達が、ネズミーマウスの着ぐるみよりそっちに熱中してるんだ。ランドにもARキャラやアイテムが沢山居てね。皆そっちのけでやってるんだよ。最近、メガネだけじゃなくコンタクトレンズVrも出たらしいよ」
 街の中に、本物の人間じゃないARのキャラが混じって歩いている……。何か不気味だ。現実と混同してしまう気がする。
「でも、くれぐれも車乗るときは運転に集中してくださいね」
「も、もちろんだとも」
 AR-GOの話題のおかげでうまくそらせたか、そう思ったルミ江は目を瞑った。
 熊田は後ろのルミ江がすでに眠りについている事を確認し、それ以後は黙って運転している。明日はオフなので、宿泊場所はホテルではなく、久しぶりに自宅マンションだ。恵比寿まで差し掛かった頃、深夜二時を過ぎていた。
「今日は、ここで降ろしてください」
 ルミ江は眼を瞑っているだけで眠っているわけではなかったようだ。あるいは都心に入って眼を覚ましたのか。なぜ?と一瞬不思議そうな顔をマネージャーはしたが、特に問いただす事はしない。彼は加東ルミ江がたまにそう言う事があるのを知っていたからだ。かといって、変な遊びをしている訳ではない事をマネージャーは知っている。加東ルミ江は超インドア派で、仕事場とマンションを行ったり来たりするだけと言っても過言ではない。こういう事を言うのもごくたまにある程度だった。何をしているのか詮索する事はしなかった。
「じゃあ、また明後日、ルミ江ちゃん。ゆっくり休んでね」
「オヤスミナサイ」
 車が去ると、笑顔は消えていた。彼女は深夜の路上の降りると、コートの中から雑誌を取り出した。ルミ江はその雑誌「週刊実談」を右手で丸めて持ち、薄暗いマンションの通りを一人歩いていく。

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「【ヨルムンガンド】クラウド・如月ヰラの覚せい剤疑惑と黒い噂!」

 かつて昼ドラの天使といわれた如月ヰラ。その彼女がここ最近めっきりメディアに登場していない。一説では担当マネージャーとの揉め事があったというのが有力情報として語られている。だが、その彼女が最近何をしているのかというと、このところ都内各所で不可解な目撃情報が相次いでいるのだ。その目撃者の一人、Kさんによれば、なんと、芸能界の黒い人脈を通して覚せい剤に手を出し、現在は池袋の病院に入院しているという。

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 後の記事はあまりに不快で、遂にルミ江は眼を通さなかった。

 マンションの前に立ち止まり、オートロックの正面を避け、監視カメラを避けながら壁を越え、音もなく廊下へ侵入するとエレベータをあがっていく。扉の横に小さく「黄泉興信所」の表札。暴力団「黄泉会」の事務所の一つだ。
 中では、狭い部屋の中で端末がズラリと並んだ雑然とした事務所で二人のやくざがパソコンを見ながら打ち合わせの最中だった。ここは、黄泉会の諜報機関の役割を果たしている事務所である。彼らの仕事は深夜に及び徹夜することも度々だ。玄関のベルが鳴り響いたので、一人がドアを確認しに立ち上がった。ドアの小窓から廊下を覗くと、そこに居るべき人の姿は見えなかった。不審に思って、ドアを開ける。突如、スッと下から女が立ち上がった。男はぎょっとした。確認すると卵顔に涼しい眉、長い髪、男は直ぐにそれが誰だか分かった。「なぜ」という疑問が浮かぶ。同時にやばいという感情と、どう対応するべきかという計算が頭を駆け巡り、とりあえず声をかけようとしたその時、彼は後方にすっ飛んでいた。三メートルは飛んだだろうか。若いやくざの身体はデスクの上のパソコンと書類の山の上に派手な音を立てて落下した。部屋で仕事をしているもう一人は、太った四十代の本部長だ。パソコンの前から立ち上がり、入ってきた加東ルミ江を眼一杯見開いて出迎えた。彼の額には脂汗が滲んでいた。本部長は何が起こっているのか知っていた。女とは思えない力でいきなり蹴り上げられたやくざはルミ江に胸倉つかまれ、床に引き摺り下ろされる。この男こそ、「週刊実談」に匿名で登場する「K」。彼女は、例の記事をこの男が書いた事を知っている。
「北白河だな? 『週刊実談』にあることない事、書きたいこと書かせたわね。リークしたのはオマエだな? 先週、事実じゃないってクラウドが伝えたはずよッ! 【ヨルムンガンド】の警告を無視して、逆らってただで済むと思ってるのかっ! これ以上、ヰラのキャリアに傷がついたらどぉしてくれんのよッッ?!」
 ルミ江は倒れた男をドカドカ蹴りまくった。男の口から血が吹き出る。白いシャツが赤く染まる。そ、そんな事言ったって薬に溺れた人間の自業自得だろ。無茶を言うな。しかし、本当に彼女は加東ルミ江か?! 彼は信じられないという顔で混乱したまま、腹ばいになりながら逃げようとする。どう考えても、普通の女の力ではない。学生時代ラグビーをやった男の自分でもとても対抗できない。しかし顔を確認すればそれは明らかに加東ルミ江本人以外の何者でもなかった。
「たっ、助けて! 助けてくれぇ」
 本部長は若いヤクザの悲痛な叫び声にも身じろぎしない。デスクの中に銃があるはずだった。なぜ助けてくれないのか、北白河には分からなかった。迫るルミ江を両手で広げて制しながら、
「何でこんな事するんだ、こんな事して許されると思うのかッ、黄泉会を敵に回してるんだぞ。一介のタレントのクセに。あ、あんたおかしいよ。お、おかしいよ。報復してやる。絶対訴えてやる。徹底的に記事にしてやるッ!」
 と血を吐きながら叫んだ。ところが本部長が取った行動は北白河の予想とは全く違っていた。彼はルミ江と男へ近づき、いきなり土下座をした。
「謝れ、馬鹿。嘘です。記事になんかしません。訴えません。報復しません。とにかく謝るんだ」
「な? 何言ってんスか本部長ーーー」
「申し訳ありませんでした。もう二度と記事は書かせませんので、コイツを許してやってください。お願いします」
 だが、ルミ江の怒りは収まるどころかさらに点火した。
「あなたも黄泉会の本部長なら最初から分かってた事のはずだろーがッ。【ヨルムンガンド】に逆らってこの世界で生きていけるとでも思ってるのッ?」
 本部長は血を流す部下の頭を押さえつけ、「謝れ」の一点張り。
「どうしてくれんのッ! 出たものは拡散してしまう一方じゃない。どう責任取ってくれんの」
「どうか命だけは」
 本部長の態度はおかしい。これまで対抗組織の出入りを受けて、一度だってこんな事はなかった。それに命って? 常軌を逸している。この女は何なんだ。もうダメだ、と本部長を見限った北白河は走り出し、外へ出て行こうとした。
「いいや許さない。コイツの命はもらう。それが今回の落とし前だ」
 ハンドバックからするりと長いワイヤーのようなものを取り出し、ルミ江は廊下に出た北白河を追いかけていった。ルミ江が持っているのはピアノ線だった。それが投げつけられると、先端についた分銅の勢いで男の首に巻きついていく。ルミ江はグイと右手に力を込め、手前へ引っ張る。北白河は後ろに倒れ、苦しそうにもがきながら首に巻きついたピアノ線を両手でかきむしり、足をバタバタさせる。ルミ江のヒールの音が近づいてくる。右腕を挙げると、男の身体が持ち上がった。北白河は手すりを越えて、五階の廊下から宙吊りになっている。
「あが、あががが……」
 ルミ江は腕の力を緩めた。男の身体は落下し、下の桜の巨木に引っかかった。ルミ江は部屋に戻ると、本部長のデスクの前に立った。
「少しでも力を入れれば簡単に首が飛ぶ。私の力は分かったな。今度やったら命を獲る。今度は、お前だ。今日のところはお前に免じてこれで勘弁してやる」
 ルミ江が立ち去るのを見ると、本部長はフラフラと立ち上がり、廊下へ出て北白河がどうなった確認しに行った。どうやら木に引っかかった北白河は、まだ生きていた。彼女の襲撃を受けた本部長はその瞬間、加東ルミ江がどういう存在であるか、瞬時に悟ったのだった。その後、本部長は気絶している北白河を助け出した。本部長が黄泉会の応援を頼むことも、無論警察を呼ぶ事はなかった。むろん、事件がマスコミに流れる事は一切ない。

ドラマ「首都高最前線! 革命前夜」、撮影初日

 炎天下の八月。蓬莱テレビ開局五十年記念ドラマ「首都高最前線! 革命前夜」の撮影が始まる。渋谷でスポーツカーを使い、主人公・藪島がカーアクションをするシーン。本日は快晴、現場はファンサービスの意味を兼ね、公開ロケとなって多くの人が詰め掛けていた。報道陣も多数つめかけ、撮影に注目している。そのロケが始まるおよそ二十分前のこと。現場に意外な人物が忍び込んでいた。だが、その事に気づいた者は誰も居ない。もし気づいた人間が居たとしたら、さぞ驚いたはずだ。同じくこの夏より撮影が始まり、秋に続編ドラマの放送が予定されている「マジ駆る九ノ一」の主役を務める美人女優と顔や姿格好がよく似ている。
 だが目深にかぶった黒いニット帽のせいか、集まったファンの中から忍び込んだその女に気づいた者は不思議と誰も居ない。まるで忍のように慎重で、すばやいその動きは、かの女優のものとも思えない。常人ならざる、「特殊な世界のプロ」ではないかと思える動きであり、もし彼女に気づいたとしても特定の人物との共通点を思い浮かべた人間はいなかっただろう。
 青いS15シルビアに近づくと、その女は周囲を確認して、中に入った。車は、観客やスタッフから二十メートル離れた位置に駐車している。女はかがんでアクセル部分に細工をする。作業は手際がよく、人が戻ってくるほんの一分の間に行われた。それが済むと、女は速やかに人ごみの中へと消え、そして二度と現場に戻らなかった。
 主役がスポーツカーに乗り込んだ瞬間、後部座席が爆発した、屋根が吹っ飛び車は派手に炎上する。幸い観客にけが人はなく、主役も軽い打撲と気絶しただけで済んだのだった。
 結局撮影は中断され、謝罪会見の後、ドラマが放送される事はなかった。その頃、この主役の所属するクラウドが【ヨルムンガンド】クラウドと揉め事を抱えており、それで「不吉なこと」が起こったのではないかという噂が流れたが、その噂はすぐに立ち消えた。
 「首都高最前線! 革命前夜」の放送中止とは無関係に、ドラマ「マジ駆る九ノ一」はゴールデンの目玉となった。いや完全に無関係とはいえなかったのかもしれない。十月初頭、渋谷209及び渋谷駅各所に「マジ駆る九ノ一」の大型広告が展開した。蓬莱テレビは、「首都高最前線! 革命前夜」にかける予定だった予算や手間隙を、大幅に「マジ駆る九ノ一」にまわした。そして「マジ駆る九ノ一」は秋の目玉になった。無論、それだけが理由ではないだろう。「マジ駆る九ノ一」は、シリーズのDVDの売り上げが好評で根強いファン層を獲得している。だがともかく、「マジ駆る九ノ一」はヒットした。ゆえに、スタッフに笑顔が耐える事はない。ストレスがたまりやすい立場のAD達の表情すら、和らいで見える。今日も加東ルミ江は撮影現場で、屈託のない笑顔を振りまいていた。

 銀座の高級中華店「民明飯店」で、蓬莱テレビ社長は満面の笑みを浮かべ続け、分厚い両手でルミ江と握手をし、お世辞を繰り返し言い続けていた。列席の役員たちも加東ルミ江を下におかない丁重な態度で、「来年以降も、ぜひシリーズを続け、主演の加東さんと蓼丸さんにはお願いしたいと思います」という社長の言葉に賛同した。売れているタレントに対して、テレビ局が媚を売っているのは業界で良く見られる光景だが、わざわざ銀座で会食の席を設けたこの社長の言葉には真実味があった。昼の二時ごろ食事会が終了し、会社が用意した送り迎えの車中で、主役の二人は言葉少なに会話している。
「ずいぶん低姿勢でしたね」
「うん……俺も驚いた。さっきの蓬莱テレビの社長の態度には。深夜帯でやってた頃とはずいぶん違う。きっと『首都高最前線!』の中止が響いているんだろうなあ。まさかあの頃は、こんなになるなんて思ってなかった」
 蓼丸は、コメディの役が定着する事を恐れて、最初に「マジ駆る九ノ一」の企画が来たとき、天王寺シン刑事役をやるかどうか迷っていた。だが結果としてやって良かった。尊敬する先輩役者・波止場啓介の「来た仕事は断らない」という姿勢を学んだ為だった。「マジ駆る九ノ一」は二人の代表作にして、ライフワークとなるに違いない。
「ほんとですねェッ」
 ルミ江は眉を落としてかわいらしく微笑んだ。ここで、役の日芭利@美だったら「エッヘヘヘ」と笑っているところだろう。

【ヨルムンガンド】クラウド/九々龍俳山

 秋も深まった夕暮れ、【ヨルムンガンド】クラウド本部に加東ルミ江が現れた。今回も、マネージャー・熊田は随行していない。
「ご苦労ご苦労、ブラック。どうぞ座って」
 ルミ江のことをその男はブラックと呼んだ。男は身長百七十ほど、痩身で黒いスーツに身を包んでいる。異様なことに、無機質なシルバー光沢を輝かせた面を着けている。その面は「ウルトラガイ」のもので、釣りあがった卵のような瞳のない眼、無表情な逆台形の口がついているのが特徴だ。
「お久しぶりです」
 目の前に現れたタレントがやくざの黄泉会の事務所を襲撃したことを、仮面の男、九々龍俳山は知っている。なぜなら、その事件は【ヨルムンガンド】クラウドが全て圧力でもみ消したからだ。そこには【ヨルムンガンド】、いや芸能界特有の事情があった。その事情は、「クラウド」というバズワードに集約される。
 時代はクラウド・ビジネスが隆盛となり、クラウド・コンピューティング、クラウド・ソリューション、クラウド・ファンディングなど、あちこちでクラウドという言葉が聞かれるようになった。「クラウド」には、雲(Cloud)と群衆(Crowd)の二つの意味がある。「雲のように数多くのコンピュータにデータが保管される」ことと、「インターネットの向こう側にいる大量の人々」。この二つの意味が「クラウド」という言葉には曖昧に込められている。
 クラウドが、IT技術やAI技術の進歩によってますます発展していくと、従来の企業形態は解体を余儀なくされた。事業を行うにあたって、大きな本社や資本を構えることは意味を成さなくなった。企業の規模は、それほど重要ではなくなったのだ。このクラウド革命の大波は、芸能界をも飲み込んだ。いや、企業の大小に関わらずに事業を行うことができるクラウド・ビジネスこそ、夢を求めた業界の人々にとってビッグチャンスだったのだ。
 こうして芸能界は他のどこよりもクラウド革命の影響を受け、かつての芸能事務所・プロダクション制を解体した。業界はクラウド・ビジネスを中心としたものへと再編されたのだ。こうして、網の目のような水平的ネットワーク社会が出来上がり、夢を求めて飛び込んできた人達が、より自由に活躍しやすくなったのである。
 ところがそのクラウド・ビジネスを牛耳る側に、実力の差が出てくる。さらに、小さなクラウド・ビジネスを、大きなクラウド・ビジネスが支えるという支配構造も出てきた。【ヨルムンガンド】クラウドは、その中でももっとも大きなクラウドの一つだ。こうしてIT技術の進歩とともに、芸能界のクラウド・ビジネスの覇者となった【ヨルムンガンド】は、業界の帝王として、傘下に数百の系列クラウドを抱え、芸能界に一大ネットワークを築いていた。今、芸能界で石を投げれば【ヨルムンガンド】クラウドに関係したタレントに当たると言われている。それが、ヨルムンガンド帝国。
 だがそもそもとして、【ヨルムンガンド】クラウドといえど、データセンターを構えている訳ではない。それもまた、より大きなクラウドの中の一つに過ぎないのだ。そう、全てを牛耳る巨大クラウドが存在するのである。
 それが、東屋財団のクラウドだ。東屋とは「東方屋敷」の略称で、世界最大の多国籍企業だ。敗戦以前、かつて「東屋財閥」と呼ばれていたそれは、戦後GHQとの闇取引を行うことで、戦争協力の過去を免除してもらった。戦犯を逃れると共に、GHQにとって代わり戦後日本を支配するに至った。唯一解体されなかった財閥。それが今日、東屋財団となって拡大の一途を辿っていったのだ。その巨大権力は政界・財界・マスコミ界にまで及び、戦後日本はまさに「東屋幕府」に支配されてきたといってよい。つまり東屋は、クラウド・ビジネスの根幹を握ることによって生き残りを図った巨大企業だ。クラウド化の流れは日本社会全体に広がり、非東屋系列のクラウドも存在する。
 クラウド革命がもたらした業界の再編で、芸能界は流動化し、一見して上下関係のようなものは存在しない。だが、大きなクラウドが小さなクラウドを抱えるという構造は、明らかに存在する。そうして【ヨルムンガンド】クラウドは、東屋財団クラウド局の統括するメディア及び芸能界の中の、幕藩体制における大大名として、芸能界に君臨することができていた。
 東屋のクラウドは、芸能界を影で支えている巨大機構である。その存在があったからこそ、【ヨルムンガンド】はここまでの力を行使することができた。警察や政界にも幅広い人脈を持ち、まさに日本の支配者といわれている東屋財団。その大大名【ヨルムンガンド】クラウド。クラウドを通して、各方面に人脈やエージェントを張り巡らし、支配している彼らにこの程度のことはたやすかった。
 多国籍企業・東屋財団の統括するものは、何も表だけではない。そこには裏社会も含まれている。海外のマフィア、シンジケート、やくざともかかわりがあると言われている。つまり東屋財団は、ありとあらゆる世界を支配している訳だが、それだけでは東屋財団の「真の闇」を知る事にはならないだろう。
 東屋財団・クラウド局には、戦前の諜報機関を継承する部署が存在した。ゆえに東屋クラウド局はCIA、KGB、MI6などと並び証される、戦後日本の諜報機関だなどとも言われている。その源流は、戦国時代の伊賀忍法にさかのぼる。忍者など、現代では存在しない、もしくは居たとしても、ひっそりと町道場を継いでいる程度だ……というのが一般的な認識だろう。だが、それは違う。
 彼らは明治維新後も闇にまぎれて生き残り、戦時中もさまざまな諜報活動を行っていた。戦後も一貫して同様だった。ただ、その活動は一切歴史には残っていない。それが忍というものだからだ。そして彼らは今、巨大権力者となった東屋の中に継承されている。「東方屋敷」とは、文字通り「東の城」、「東の幕府」を意味するという。東の幕府とは、一体何のことか。一説には、明治維新後社会の陰に隠れ、巧みに復活した江戸幕府の亡霊といわれている。そこで忍たちはコンピュータなど最新のテクノロジーに身をまとい、進化した忍法で戦う。こうして戦後世界の全てを支配する東屋幕府、なかんずくメディア、芸能界は、「クラウド」という仕組みを通して、この現代社会においてその幕藩体制を色濃く残した世界となったのである。
「先日の、君の黄泉会の襲撃だが、『週刊実談』の編集部は震え上がっていた。だが珍しいじゃないか。一流の女優を怒らせたんだ。斬り捨て御免が流儀だろ? 結局、殺さなかったのは何故だ?」
 それは九々龍が命じたことではない。ルミ江自身が行った事だ。
「何も、死ななくてもよいかと思います」
「……ま、そうだな。如月ヰラの件。私自身が望んだことではないが、君の方がかなり頭に来ていたらしい。しかし連中も、これで当分、肝が冷えただろう」
 ウルトラガイの仮面さえ考慮しなければ、九々龍は一見して銀行員のような話し方で、業界帝王という感じではない。その仮面を取ったところをルミ江は一度も見たことがない。「勇気のある者だけが俺の素顔を見るがいい」とかいって、いつも過去自分が凄い戦いをした事を匂わせてお茶を濁してしまう。その理由は分からないが、正体を隠すことで身の安全を図っているのだろう。ネットに素顔が出たことはなく、情報もほとんど掲載されていない。年齢不詳だが、おそらく六十位と推定される。
「毎週、『マジ駆る九ノ一』を拝見している。いやぁ、ますます演技が光り輝いてきた。ホントに素晴らしい。さすがウチの系列のタレントだ。一方において、『首都高最前線!』の方は不運だったな。ウチに楯突くからこうなるんだ。しかし事故の規模が、思ったより小さかったが。確か、本来は車が暴走して大事故を起こすはずだった」
「結果的にドラマが中止になれば、……それでいいんじゃないですか」
 ルミ江があの細工をする直前、車が制御不能になるように他の者が先に細工していた。ルミ江はその細工を外し、事故がその場で起こるように仕掛け直した。ルミ江は乗り込む直前、車の後部に撮影用火薬をしかけ、主役のダメージが最小限になるように変更したのである。アクセルを踏むと火薬が点火する。爆発は派手に、被害は小さく。万が一にも暴走しないように、逆に車はその場から動かなくしておいて。
「もちろんだとも」
 九々龍が誰かを仕向けて、大事故を起こそうとしていたことをルミ江は知っていた。自分の主演するドラマのために、そこまでしてくれなくていい。わざわざその話題を、ルミ江に向けてきたのは疑っている証拠だ。
「九々龍さん、用件を言ってください」
 ルミ江は背筋を伸ばしてソファに座り、大きな目で九々龍の仮面を見据えた。彼女は演技でも私生活でも見せない顔で質問している。九々龍の隣で、大柄のボディガード兼秘書がアールグレイの紅茶を淹れている。
「すまん、そうだったな、超ご多忙な加東ルミ江がわざわざ足を運んでくださったんだから。時間は大切にしなければ……」
 九々龍はルミ江が行った黄泉会襲撃の詳細にそれ以上固執することもなく、呼び出した用事について語った。
「相手は、平和的な態度で共存しようという意思がまるでないと見える。困ったものだ。とくに粋がった若造というものは! いや実は過去には私も、そういう時期がなかったかといえば嘘になるがな。しかしこの世界で生きるための最低限の礼節は備えていたつもりだ。大げさに言えば、徳川家康のように耐えて耐えぬいて勝ち取ったのが我が人生だった。しかし幾ら穏健な私達でも、もう黙ってはいられないな。あぁ君はそれほど穏健でもなかったんだったかな? フッフッフ。裏には裏の流儀があるもんだがね。週刊実談の件。こう表立ってやられては、世間の注目を浴びる。どうやら向こうは、それが目的のようだ。私はそのやり方が許せないんだよ」
 この男がこれまでしてきた事は、到底穏健からは程遠いことをルミ江は嫌という知っている。とぼけた仮面とは裏腹に、その手先としてルミ江は数々の暗殺や工作を働いてきた。九々龍は重役椅子にどっかりと座り、仮面の脇から指で眼を擦り、一瞬沈黙すると、
「イエローが数日前その正体を暴いた。『週刊実談』に黄泉会にリークさせた相手をな。裏で手を引いているのは奴の仕業だ。他にも色々と……。タレントの引き抜き工作とかな。最終的にはそれが目的だろう。向こうが表の喧嘩を売っているんだ。君には、表立って殺してもらいたい」
 としめくくる。直立不動のボディガードが二人を見守っている。
「誰を殺ればいいんですか」
「彼だよ」
 机に置かれたCDにある名前を指した。
「祭ヶ丘……を?」
 さすがにルミ江も眼を見開き黙った。祭ヶ丘才郎、【ファーブニル】クラウド代表。このクラウドは最近まで、【ヨルムンガンド】クラウド傘下にあった。彼らが関わっていた闇の仕事のもみ消しも、【ヨルムンガンド】が行う手塩にかけた九々龍の部下だった。これほどの大物を殺ることはルミ江も初めてである。それほどの相手を、事件化するように表立って殺すというのだ。いくら【ヨルムンガンド】クラウドでも、そんな事をして無事で済むとは思えない。
「……いきなりですか。彼の手下なんかではなくて?」
「そうだ。昨晩、東屋財団クラウド局の表立った幹部たちと決めた結論だ。どうやら祭ヶ丘は、非東屋系のクラウドに乗り換えたことで我々から独立し、以後自分の独立系クラウドとしてこの世界で立ち上げようと必死だ。それは別に私の方も構わなかった。むしろ脱東屋派なら、それはそれでいい。本当は、陰ながら応援したかったくらいなんだ。お互いに節度を持って尊重しあえばよいのだから。しかし東屋の調査によると、相手のバックのクラウドは黄泉会とつながっている。奴らは彼をたきつけている節度のない連中なので、これも仕方がない事なのだ。残念な話だ。彼は担がれているんだ。世間知らずの若者が、バックの組織の論理に乗せられて、踊らされているんだろう。もはや共存共栄は無理だ。後ろで糸を引いている連中も、我々の領域をこれ以上侵す事は無駄だという事を、はっきり分からせてやりたい」
 こんな事を話すときの暗い目つきが九々龍の本性だとルミ江は確信している。
 ルミ江は八神亜里沙のCDを暫く見つめていたが、
「分かりました」
 とうなずいた。じいっとルミ江の顔を見ていた九々龍は、
「ブラックよ。今度君に、素晴らしい仕事を用意しておこう。君は我がグループのシンボル的存在になっていくだろう。それを私が保証するよ。これから君んトコのクラウドは【ヨルムンガンド】の主流になっていくはずだ。大いに期待させていただきたい。ハッハ、ハッハッハ」
 豪快に笑うと九々龍は、右手を田中角栄のようにパッと上げた。昼の蓬莱テレビの社長の態度と大差はない。違いは握手を求めてこない事くらいだ。加東ルミ江のクラウドは、【ヨルムンガンド】系列の関連クラウド【アルヴィース】だ。それほど大きなクラウドではなかった。九々龍の馬鹿笑いを聞き流しながら、ルミ江は頭を下げ、足早にクラウド本部を後にした。笑い声は醜悪で、彼女は耳を塞ぎたい気分だった。いつもこうして陽気に振る舞い、内面の残忍さを隠そうとする九々龍の偽善的な態度がルミ江は大嫌いだ。

【ファーブニル】クラウド/祭ヶ丘才郎

 恵比寿の巨大ディスコ「東京ブレイザヴリク」、【ファーブニル】クラウド代表・祭ヶ丘才郎は、ここの仕掛け人の一人だった。芸能の他、アニメーション製作、レストラン、ホテル経営と、幅広くやっている。日本一のお祭男。このディスコでかかる音楽のCDは当然、【ファーブニル】クラウドから出ている。今、間接照明に照らされた薄暗いVIPルームに祭ヶ丘は座っていた。目的は芸能界における版図拡大に向けた黄泉会組員との話し合い。まだ三十台前半の祭ヶ丘はライトグレーのシックなスーツに身を固めている。だが、彼もまた九々龍と同じくウルトラガイ・セブンの仮面をつけていた。その面は、少し青みがかったシルバーである。九々龍の真似をしているのかもしれない。
 他に三人の中年男達が同席している。一人は【ファーブニル】の専務、あとの二人は黄泉会から来た男たち。彼らとは、反東屋で祭ヶ丘と意思を共通している。一人は黄泉会顧問、もう一人は組からつけられている用心棒で拳銃を携帯している。【ヨルムンガンド】クラウドへの再三の宣戦布告以来、祭ヶ丘の用心棒となっている。特にこの男は戦闘訓練をつみ、経験豊富なベテランだった。
 祭ヶ丘は、バックの黄泉会から芸能界の勢力図を塗り替えないか?という誘いに乗せられて、東屋系クラウドを抜け、本気で天下獲りを考えるようになっていた。【ファーブニル】のここまでの成功がその気にさせていた。しかしそれが、【ヨルムンガンド】のおかげだった事も、無視する事はできないはずだったのだが、【ヨルムンガンド】、及び東屋財団に支配されたままでは、いつまで経っても本当の力は得られない……それが最近の彼の考えだった。
 祭ヶ丘は青いカクテル「サマーバレンタイン」を手に女性達を同席させ、客達が踊る下のホールを見押す部屋で、黄泉会の関係者との話し合いを始めた。いかに【ヨルムンガンド】のタレントをこっちに引き抜くか。金、仕事。ありとあらゆる好条件をぶつけてみよう。赤や青や緑に変化するライトと、スピーディに刻まれていくテクノのリズムの音をそれとなく楽しみながら、彼は独立したばかりの自身の独立国家拡大の計画話に熱中するのだった。仮面のために、ストローでカクテルを吸っている。黄泉会から来た者は二人ともなぜかアルコールを口にしていない。刺客が来る可能性を念頭に置いての事のようだ。
 黒いボディコンの格好をしたルミ江は、ダンスホールからVIPルームを見上げている。そこに笑談する祭ヶ丘を確認すると、一挙一動をじいっと観察していた。向こうはこっちに気づいていない。稲光めいた照明が錯綜する以外は薄暗いホールの中を移動し、二階へと一気に駆け上がる。相手は加東ルミ江の正体を知らない。いや、組員たちも【ヨルムンガンド】クラウドがタレントの殺し屋を持っている事を知らないのだ。
 ルミ江は部屋のドアを開けて押し入った。一同は一斉に、ルミ江を見上げた。彼らは一瞬状況がつかめないようだった。それはそうだろう。超売れっ子のタレント加東ルミ江が、突然現れたのだ。お互いに顔を見合わせ、誰かがルミ江をここに呼んだのだと思った。まさか、祭ヶ丘がルミ江の引き抜きに成功したのか? 黄泉会から来た二人は特にそうだった。【ファーブニル】の二人は状況がつかめないまま、顔を見合わせている。祭ヶ丘はルミ江を見て立ち上がり、(おそらくは)笑顔で挨拶した。
 ルミ江はミニスカートの下に隠した太ももの短刀を抜くと、手前に座っていた短髪の暴力団の胸にいきなりズブリと刀を刺した。まずは用心棒に先制攻撃を加え、銃を奪う。あっけに取られた顔で、刺客が加東ルミ江だなどとは思っていない用心棒は血を噴出し、絶命した。完全に油断していたもう一人の顧問は、懐から銃を取り出そうとして、もたついている。そうしている間に、ルミ江がすらりとした長い足で顧問にハイキックを食らわした。壁に激突した顧問は口から血を流し、倒れ込む。すばやく二つ目の銃も回収し、脳天に打ち込んだ。ホールを見下ろす窓ガラスのブラインドを下げると、刀を構え、祭ヶ丘と対峙する。
 祭ヶ丘は、最近聞いたある噂を思い出していた。誰も知らない話だ。【ヨルムンガンド】クラウドには殺し屋部隊がある。何とそれは、タレントで構成されているという。「ヨルムンガンド・レンジャー」と呼ばれている彼らは、特殊な戦闘術をマスターし、それはかつての忍の流れを汲むというのだ。伊賀者の末裔が育てたというのだが、あまりに荒唐無稽、信じがたい話で酒飲み話で終わっていた。しかし、もし有名タレントの中にそんな殺し屋部隊が紛れているとしたら、一体誰だろうかと、考えを巡らせたこともある。身近な人間の誰かが、レンジャーとの二重生活を送っているとしたら。その時は加東ルミ江がその一人だなどとは、思いもよらなかったが。気になる点もある。【ファーブニル】クラウドの看板アーティスト・八神亜里沙が、時折口にする謎めいた台詞。今回の独立の際にも、「才郎、闇をなめちゃいけないよ」とか、とても二十歳の女性の言葉とは思えない凄みを利かせた言葉を発していた。そして何より、その彼女がたまに連絡が取れなくなってしまう件。
「あなたに、恨みはない。でも、死んでもらいます」
「九々龍の命令か?」
「はい……」
 「噂」は本当だった。【ヨルムンガンド】クラウドの中には、現代の忍たちが存在する。もはや、一般的なイメージの忍ではない。タレントとして表向き、華やかな芸能活動をしつつ、闇の活動を行う現代の忍者。それが、「ヨルムンガンド・レンジャー」だ。それは、東屋財団・クラウド局が育てた者達だった。彼らの非合法な活動は、治外法権ともいえる力を持っており、時にあたかも武家社会の斬り捨て御免のような無法行為さえまかり通る。その一人が、祭ヶ丘才郎の目の前に立っているヨルムンブラックの加東ルミ江なのである。ヨルムンガンドの忍であり、これこそ本物の九ノ一だ。祭ヶ丘は震えた。【ファーブニル】の二人も祭ヶ丘同様に眼が泳ぎ、その場に立ち尽くしている。
「……殺さないでくれっ、かっ、金なら幾らでもやるから殺さないでくれ!」
 人は金で幾らでも転ぶというのが、祭ヶ丘の常識だった。
「お金なら今のところ私は不自由していません。ホラ、幾らでもあるカラ!」
 ルミ江は何を思ったか、黒皮財布から一万円札を何枚かピッと取り出した。全て触れれば切れるようなピン札だ。右手の人差し指と中指ではさみ、シュッと投げた。札は、カカッと音を立て祭ヶ丘の後ろの壁に突き刺さった。当たれば大怪我をしただろう。ピン札に何かがコーティングされている。いや、薄暗くても良く見えた。何も細工は施されていなかった。これは忍びの術。手裏剣だ。まるで精神力が注入されて金属の板のようになっていたのだ。それが証拠に刺さったピン札はしなっている。銭形平次が小銭を手裏剣にしたように。そう、加東ルミ江は万札のピン札を手裏剣にしていた。豪勢な話だ。現時点で、大ボリュームと薄暗さに助けられ、ホールの客達は二階の出来事に気づいていない。
「そうだっ、分かったぞ。今日いらっしゃった意味が。うちでもう一度CD、出してみませんかッ。歌手の道は、まだ諦めていないんでしょ。あなたも前に、確かCDを出していますよね。残念ながら、あまりうまくいかなかった。ですね? 今日、女優として大成功を収めたあなただ。過去のそうした経験をバネにして活躍してることと思いますが、きっと歌手としても一流になられるに違いない! 今度は私が全面的にプロデュースさせていただきますから」
 ルミ江の表情は薄暗い中でも、明らかにムッとしているのが分かる。祭ヶ丘にCDの話を持ち出して欲しくなかった。確かにルミ江は、以前CDを三枚も出したことがある。つまり、歌手でもあった訳だが、それほど成功を収めたわけではない。その時代、ルミ江は苦労の連続だった。何をやってもうまくいかない。だがその後、深夜ドラマ「マジ駆る九ノ一」の主演に抜擢され、ブレイクした加東ルミ江は女優として開花し、遂に成功を収めた。その頃から、東屋の新帝国タワーの極秘訓練施設でルミ江は、レンジャーの修行を積んでいたのだった。ヨルムンガンドのレンジャーとなったタレントは、出世の道が保障されている。しかし、過去の歌手の事は人に言われたくなかった。特に才郎には。
「余計な事は言わないほうがいい。あなたは私を不快にさせているだけ」
 祭ヶ丘は震え上がった。
「でも私はピアノは弾けないけど、ピアノ線をいつも持ち歩いている。気づいた人は皆、ドラマで使う小道具だと思っているけどそうじゃない。私は肝心な相手には、銃なんか使ったことはない」
 取り出されたピアノ線は、赤やら青やらに変化するライティングの中に照らし出されるルミ江の白い顔の前でピーンと張られ、金縛りにあったように動けなくなっている祭ヶ丘の首に向かって投げられた。突然、後ろから人影が動き、ルミ江に猛烈な勢いでタックルを仕掛けてきた。さっき壁に激突した黄泉会の顧問だ。実は男は、気を失っていただけだったが、眼を覚まして反撃を開始したのである。祭ヶ丘に冷たく押し当てられたピアノ線がするりと首を抜け、今度は顧問の首に巻きついた。回転する分銅で締まったピアノ線にもがく顧問の身体を、ルミ江は自分の背後の窓ガラスに向かって思い切り引っ張った。顧問の身体は宙に浮き、飛んでいった。ガラスを突き破り、二階の窓から飛び出した男はピアノ線で宙ブランとなり、絶命した。会場内はパニックに陥っている。
「居ない……?!」
 才郎は、姿を消していた。ルミ江は探し回ったが、ウルトラガイ・セブンの仮面の男は「東京ブレイザヴリク」界隈のどこにも姿がなかった。

SWITCH BACK

 加東ルミ江は、芸能界の表の世界と裏の世界を生きてきた。それは、将来の大女優、芸能界のクイーンをも約束された道だった。もちろん、闇の世界を知らずに働くタレントも多い。だが闇の絶対権力の構造を知り、その禁断の世界に入ってこそ、可能になることも多いのである。芸能界は運不運が左右すると言われる。が、それは違う。全て、日本の支配者・東屋財団クラウド局の手のひらの中なのだ。そのクラウドの仕組みと、コネクションのネットワークが張り巡らされたこのセカイでは、闇のパワーがものを言う。そして闇に気づかぬうちに接近し、闇の中へと飲み込まれてしまう哀れなタレント達もいた。
 深夜、ルミ江はまた一人で池袋にある病院へと走っていた。薄暗い廊下の先に目的の病室があった。そこにはベッドに横たわったあるタレントの姿があった。やつれきったその姿は、あまりに無残でかつての光り輝く美貌はどこにも見られない。知っている者がその姿を見れば、誰でも同一人物とは気づかない程だった。数年前まで煩瑣にテレビに顔を出し、売れっ子だった彼女は最近めっきり露出が減り、寂しさからあるものに手を出した。
 加東ルミ江は以前から、芸能界を汚染する「それ」の存在を知っていた。時折表の世界に浮上して世間をにぎわせるその存在。裏の世界に足を突っ込んでいる彼女であるから、どれほど蔓延しているかも知っていた。「薬」は世間が思っている以上に芸能界を汚染している。そして目の前の親友もまた、薬に溺れ、今廃人同様になっている。数年前まで、ルミ江と肩を並べる存在だったこの子と自分。この数年で雲泥の差が開き、それと同時にルミ江は連絡を取らなくなった。故意にではないつもりだった。しかし向こうからすれば、急にエラくなって別人にでもなったと思ったかもしれない。
 如月ヰラ。久しぶりにルミ江は元親友と対面していた。ダメだ。もうこの子は、芸能界復帰は無理だ。ここに来るまで、一縷の望みを抱いていた。かわいそうに……あまりに無残……。
 ヰラの実家は苦労人の母親が一人で彼女を育てた。上京し、スカウトされ煌びやかな芸能界に入ってきた。沖縄出身のルミ江は、同じクラウドでヰラとすぐ意気投合した。だが今、ヰラの姿は、人間としての尊厳を失っていた。ルミ江はヰラより出世したかもしれない。けど、それは闇の代償なのだ。ヰラを闇に引きずり込む事はできなかった。しかしどっちにせよ、自分達は闇と無縁にはなれないのかもしれない。
「……った、助けて。ルミ江ちゃん、……お願い……」
 声を震わせ、涙をあふれさせ、幼い少女のように懇願してくるヰラのやせこけた手を握り締める。ルミ江は知っていた。覚せい剤依存症を治療するこの病院は、そのために別の薬、つまり今度は精神を安定させるための処方箋によって、ますますヰラを苦しませているに過ぎない。薬漬けから別の薬漬けへ。この病院は、法律で保障された、国家公認の薬(ヤク)の売人。そうして、あらゆる手立てを失敗し、ヰラは衰弱の一途をたどっている。この病院に、彼女を助ける術はおそらくない。ここに放置し、このままもがき苦しみ続けさせるのはあまりに酷だ。ルミ江はドスを振り上げた。震える彼女の喉もとにめがけて、振り下ろそうとするその腕が震えていた。やがて、ゆっくりと腕を下ろす。殺せない。ルミ江にできることはただ一つしかなかった。今夜、ヰラを誘拐する。

 ……もう沢山。

 ルミ江は夜明けの池袋駅でタクシーを拾って、一人【ヨルムンガンド】クラウド本部に向かっている。病院へ向かうまで、こんな気分になるなんて思わなかった。この世界でがむしゃらに生きていくために、どんな非情な事も躊躇わなかった。生き残り、勝つ側に立つために、闇の構造の一部分に成り果ててきた自分。やくざをあんなに派手に殺しても、翌日の報道では事故で死亡という事になった。どうしたらピアノ線で首を吊って事故死になるのか。恐るべき【ヨルムンガンド】のクラウドマジックとしか言いようがない、完璧な隠蔽工作。だが、これで闇同士の喧嘩に一つの結果が付いた。ここまでやった【ヨルムンガンド】の勝ちだ。こうしてある程度まで表沙汰になり、後は闇から闇へと葬り去られる現実の中に彼女は生きてきた。だが、自分にはどうやら一片の善なる心が存在していたらしかった。もううんざりだという感情が。
(約束する。あなたの「仇」はとってあげる。あなたの仇は、この芸能界)
 当の九々龍といえば、【ヨルムンガンド】クラウドの若いタレントと打ち合わせの最中だった。彼らはどうも【ファーブニル】に引き抜きを持ちかけられたタレントたちらしかった。九々龍は再度の好条件を持ちかけている。そこへ出入りから戻ってきたばかりの加東ルミ江がいきなり現れたので、九々龍は驚き、仮面の向こうからでもあからさまに不快そうな気配を示した。
「はぁ……ちょっと君。必要ないときまで顔を出さんでくれんか。今、ちょっと」
「九々龍さん。お話があります。私は独立します」
 突如ルミ江の口から切り出された言葉に、クラウドの後輩たちは唖然としている。九々龍はルミ江を睨みつけている。
「やったのは用心棒だけです。祭ヶ丘を殺るつもりは、最初からありませんでした」
 祭ヶ丘才郎がどこへ消えたのかは分からなかった。才郎が自分のような忍を出し抜けるとは驚きだったが、今はどうでもよかった。
「待て! 一体何の話だ」
 帝王は立ち上がり、両手でルミ江を制すと、落ち着かない様子でタレント達に、
「すまないが今日はこれで終わりにしよう。話し合いはまた今度、追って連絡する」
 といって彼らを帰した。タレント達は九々龍に握手を求めたが、なぜか九々龍は握手を拒んだ。タレント達は笑って去っていった。きっとルミ江が変わった芝居をしているとでも思っているのだろう。誰が聞いてもそうとしか受け取れない、この世界の住人だけの奇妙な特殊事情。
「他のタレントがいるところで変な事を言うな! 君が何をしているのかは秘密なんだぞ」
「分かっていますとも」
「どういうつもりだ。……何故、祭ヶ丘を殺さん? 私の命令を聞けんのか。このところ君は、以前のように殺さなくなったな。あれほど冷酷な殺し屋だった君が……。レンジャーとしての非情さは何処に行った」
「そんな事、どうでもいい。もう何もかもうんざりなんです」
「いつからだ。独立って何の事だ。まさか」
 祭ヶ丘のように自分を裏切るというのか。
「抜け忍するつもりなのか?」
「如月ヰラの事よ。見捨てて犠牲にしたわね、九々龍さん」
 ルミ江は病院での経緯を語った。
 だが、この男の反応は予想通りだった。
「ハ! それが何だ。落ちぶれたタレントに同情したか。それで黄泉会の襲撃を計画したのか? ばかばかしい。そんなヤツと君は別格の存在なんだぞ。同情するに値しない、負けた人間のことなんか、一々気にしてこの業界でやっていけるか。一生この世界で生きるつもりなら、そんな甘さは初めから捨てろッ!」
 明らかに九々龍は如月ヰラを見限っていた。薬の件の原因はヰラの弱さだ。しかし、「週刊実談」が暴露しても、しっかりもみ消してくれなかった。【ヨルムンガンド】は、ありていの抗議文を編集部宛に送っただけだった。金やコネを使い、あるいは別のネタ提供までして、これまで完璧なスキャンダルもみ消しに数多く成功したのに。だから、あの時は九々龍の命令ではなく、ルミ江は自分で行ったのだった。
 このクラウドとて、やくざと共同で行う麻薬ビジネスに手を染めていることくらいルミ江は知っている。根幹は、全て東屋財団につながるクラウド・ビジネスだ。しかしそれは闇の最深部なので、これから調べなければならないことがたくさんあった。こうして弱肉強食の芸能界で、弱者は切り捨てられ、消えてゆく。強いものだけが生き残る。果たして、本当にそれでいいのだろうか?
「今すぐ、ここであなたを殺すことだって出来ます……でも今はしません。この芸能界が浄化されるまで、生きて、あなたという人間に自分の目で見定めていただくために」
「生意気言うな! 俺に逆らうというのか。俺から独立するだと? 小娘が、百年早い。そんなつまらん事を言って、キャリアを台無しにしたり、あるいは死んでいった者が数多くいるんだぞ。それを君も知ってるんだろうが」
 顔をどす黒く興奮させながら、九々龍は怒鳴った。
「俺を殺すだと……ッフン」
 九々龍はどかっとソファに座り、なぜか急に静かにバーボンを飲み始めた。仮面なのでストローで。その仮面の眼は宙をにらみつけたまま暫く沈黙していたが、クルッとルミ江を見て言った。
「やってみるがいい。だが、自分の腕前に相当自信を持っている事と思うが、ヨルムンガンド・レンジャーは君一人ではない。分かってるな? ヨルムン・ブラック加東ルミ江よ」
 九々龍の言うとおり、自分のような立場の人間は、この業界に複数居ることをルミ江は知っていた。しかしそれが誰なのかはヨルムン・ブラックである自分にも分からない。お互いに、他のレンジャー忍がどこに潜んでいるのか隠されているからだ。
「君が私に逆らうのなら、その時は他のヨルムンレンジャー達と戦うハメになるんだぞ。いいな。それでもやるつもりか! ええ? 君を含めて五人のヨルムンガンド・レンジャーなんだ」
 自分はブラック加東ルミ江だ。【ヨルムンガンド】には、他にブルー、イエロー、ピンク、レッドのレンジャーが存在すると聞いている。他の四人のレンジャー達は完全に敵側に回った。今後九々龍の命令を受けて、自分を襲撃しに来るだろう。
「恐れなんか、あなたの元でヨルムンガンド・レンジャーになった瞬間に捨てましたよ」
 ルミ江は右腕をすばやく振り上げた。一万円札がビュンと飛び出す。ルミ江の念の力が篭り、手裏剣と化した札は、九々龍が注いだ高級酒のボトルのビンに命中し、それを割った。長い髪をなびかせて、ルミ江はクラウド本部を立ち去った。

 自分がこの世界を変えてやろう。腐敗しきったこの芸能界を。この世界で覚えた力で、血で染まったこの手で。……仇は必ず取ってやる。見てて、ヰラ……。


※この作品は現実の人物、タレント、団体、業界、法律と一切関係有りません。

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