バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第71話 ロード・オブ・アリス 「愛ちゃんの、夢物語」

 不思議有栖市恋の町~♪ 恋の町~♪

 地下の世界はやはり生暖かかった。長い長い下り階段を下りて、巨大植物や光る巨大茸のルミネセンスが放つぼんやりとした光の世界を抜けると、地下の中央にそびえる巨大な洋館へとたどり着いた。
 地下の古城は沈黙していた。中へ入ると、何ともぬけの殻だ。
「女王は古城を捨てた? なぜだ」
 最初に口を開いたのは時夫だった。
 城にもどこにも、それどころか蜂人たちも一匹もいない。
「女王は外に出ていったって事よ。どっかに、白彩以外に外へのゲートがある。あたし達、陽動に引っかかっちゃったのかしら」
「つまり?」
「間に合わなかった。女王は……ついに……とうとう雪絵を……手に入れ……その闘いの末に、雪絵を食べた。もう……この世界に雪絵はいない」
「うわぁあああああ! そんな、そんな馬鹿なぁー……!!」
 時夫は頭を抱えて、大理石の床にうずくまる。
「敵は取るわ。まだ諦めるのは早計よ金時君。この城の中に何かヒントがあるかも」
 ありすは時夫の肩にポンと手を置いて、軽く微笑んだ。
 女王は一体地上で何を企んでいるのか。ここには、それに関するヒントがあるはずだった。だが、この城には誘拐された人質たちさえ誰一人としていなかった。
「女王の事は無論だけど、君の事も教えてくれないか。そろそろ話してくれよ。前にここに来たとき、君は何だかとっても懐かしそうな顔をしていた。それに、スネークマンションホテルのときも……。あの時、君は地下の古城を連想したから迷わず入ったんだろ?」
 唐突に冷静に立ち直った時夫がありすに訊いた。
「えっそうなの?」
 ウーが怪訝そうに時夫とありすの顔を見つめた。
「さっきこれを発見したんだ」
 時夫は小さな肖像画を机の上に置いた。
 ヴィクトリア朝のドレスを着た古城ありすの油絵。だが何かおかしかった。絵は古く、そして絵の中のありすは蜂人をはべっていた。
「何、これ……」
 ウーは唖然とした表情を浮かべた。
「白彩へ出入りする前に君、古文書の『火水鏡』、全部解読したんだろ? 俺は知ってるんだ」
 その別名を『恋文奇譚』。ウンベルトA子の協力を得て、ありすが図書館から盗み出したものだ。ありすはその後、古文書の解読に今日まで費やしてきた。
「なぜそれを……?」
「だって君、顔に書いてあるぜ」
 時夫は、デートの際、ありすが語ったことを思い出していた。その時ありすは半分しか解読していないと言ったのだが、その後のありすの独白から、ありすは全て解読したに違いないと踏んでいたのだ。そして、ありすはある種の覚悟を胸に抱き、白彩への殴り込みを決意した。これまでずっと一緒にいた時夫には、ありすの微妙な変化を目ざとく感じ取ることができたのだ。
「えぇ?」
 ありすは酷く慌てて顔をなぜた。
「それ……あたし」
 ありすは肖像画を指差した。
 あぁよかった! 時夫のはったりが当たったらしい。
「……あたし、昔ね。ここに住んでたんだ」
 ありすは意を決して言った。皆に嫌われるのではないか。いいや、嫌われてもいい。その覚悟が黒曜石の瞳に宿っていた。ありすは古文書を解読して、過去の記憶を取り戻したようだった。
「あぁーここ、4Kテレビがある。地上からかっぱらってきたものだわ。黒水晶らが作り変えたわね」
 城の随所にあるアンティーク類は、よく観察するとありすのこだわりを髣髴とさせた。漢方薬局「半町半街」では、アンティークも扱っている。それは過去の記憶のなせる業なのかもしれない。しかし、ありすが居た頃より城の規模はおよそ二倍になっているらしい。
 ありすはかつて真灯蛾サリー女王が座った食堂の長テーブルの椅子に、ゆっくりと腰掛けると、テーブルの傷を懐かしそうに白い人差し指でなぞった。三人はありすを囲むようにして左右の席に座った。
 そこへ蜂人が一匹ヌッと現れ、三人はぎょっとした。蜂人は、手にお盆を乗せて、そこにティーカップが載っている。飲み物を運んできたらしい。その飲み物はいたって普通の紅茶であるところが何だかおかしい。英国といえば、紅茶か。それ以外にもアフタヌーンティーのお菓子類がどっさり出てきた。中でも美味しそうなのがババロワだ。このわずかに残った蜂人は、すでにありすのテレパシーの支配下にあるのか、ありすを女王として扱っている。時夫がその表情から察するに、ありすが呼んだものらしかった。
 ありすはゆっくりとティーカップを口許に傾けた。長い睫が一瞬閉じられる。
「『火水鏡』に書かれているのは、百五十年前のここ、恋文町であった出来事。話は江戸の吉原から始まるの」
 何故か地下で優雅なアフタヌーンティーを飲みつつ、ありすの口から、全てが明らかにされようとしている。文献を読了し、黒水晶を統合したありすは、綺羅宮との因縁を思い出していた。

吉原の国のありんす

 明治維新前夜の三年前の事。
 綺羅宮神太郎(きらみやこうたろう)は、幕府に追われた討幕運動の蘭学者だった。江戸の新撰組ともいえる「新徴組」に追われ、吉原にかくまわれた綺羅宮は遊女の愛に援けられた。
 その夜、綺羅宮は、愛に自分の持っている『不思議の国のアリス』の内容を意訳して語って聞かせた。それはルイス・キャロルが、一八六五年に出版したばかりのものだった。一晩中、綺羅宮が語るその物語に、愛は夢中で聞き入った。
 その後、吉原の花魁・愛は、小火騒ぎのドサクサで綺羅宮を逃がした。小火は愛が起こしたものではなかった。だが綺羅宮を逃がした際の不審な行動から、後に放火の下手人として新徴組に追われる事になる。
 綺羅宮は一旦、仲間の故郷である千葉県東部にある農村にかくまわれた。恋文町は二百年前の江戸時代に由来する。この地にあった恋人たちの悲愛の伝説が名前の元になっている。その内、曹洞宗に属する幻想寺の住職という世を忍ぶ仮の姿をとりながら、寺の中で世直しのために洋の東西を問わず文献研究に没頭した。どこかに、世の中を善くする新しい学問があるのではないか? 西洋の学問と東洋の学問、科学と宗教。それらを合流すれば生み出せるはずだ。
 そして綺羅宮は研究を重ね、遂に、西洋哲学で語られた意味論が、昔から歴史やこの世の事象を動かし、有らしめてきた実体のある「力」であった事を発見する。この社会を突き動かしているもの、それは「意味論」の存在である。それは科学より魔術より、ずっと根底にある原理である。綺羅宮はそこに、人類の能力の新しい地平線を切り開いたのであった。この件(くだり)を綺羅宮は、興奮と共に書いている。そして遂に綺羅宮神太郎は、西洋の科学と魔術とを、西洋医学と東洋医学とを、弁証法的にアウフヘーベンした結果「科術」を生み出し、最初の科術師となった。
 その頃、吉原の愛が千葉の故郷の村へと帰ってきた。実はこの村こそ、幻想寺がある村だった。花魁の愛は新徴組に追われ、逃げてきたのである。……そこで幻想寺の住職になった綺羅宮と再会した。
 だがこの頃、この村では飢饉が起こり、それをきっかけとして米騒動が始まった。その百姓一揆に愛も参加した。綺羅宮はどうしたら人々が死なず、また食糧難を救えるだろうかと必死に頭を悩ませた。
「あなたの知識が必要なのです」
 綺羅宮には、愛に吉原で命を救ってもらった貸しがあった。
 かくて、綺羅宮は村長とつるんで一揆に参加した元花魁の愛に、協力する事にしたのだ。そこで綺羅宮は、幻想寺で古今東西の文献から生み出した科術の力を使うことにした。弟子になった愛は、たちまちにして綺羅宮の教える科術を修得した。愛にはもともと、科術師としての才覚が備わっていた。その噂は村人たちに広まっていった。
 だが指導者に祭り上げられた愛の絶大な科術の力は、百姓一揆をあらぬ方向へとなだれ込ませる結果となっていった。綺羅宮は恐れた。このままでは、幕軍との闘いで多くの人が死ぬだろう。そこに和平も何の解決もない。
 結果は綺羅宮の予想通り、愛に操られた百姓一揆と幕軍との戦で、多くの人が死んだのだ。綺羅宮は人々を助けられず、多くの人が亡くなった。愛は侍達を恨み、怒りから精霊と契約し、さらに危険な科術の力を使った。
 世直しのために、科術を開発したのに……。
 綺羅宮は事態の収束のために、科術の力を行使した。問題は愛だった。科術師としての力が暴走し、このままではさらに大きな災禍をもたらすことになるだろう。愛自身も、どうにもならぬ程に、その力は強大化していた。やむなく綺羅宮は罠を仕掛けて、井戸の中へと愛を落とした。この村の地下に、愛を封印したのである。
 その後、幻想寺での科術研究に戻った綺羅宮は、この奇譚を文献に記した。綺羅宮は最後に、この町に将来災厄が訪れるとき、地下を目指せという言葉を残した。そしてあの科術師・愛に操られた百姓一揆の悲劇と同じことが、またこの土地で繰り返されるだろうという予言の言葉で、古文書は締めくくられている。

『愛ちゃんの、夢物語』

「このタイトルってもしかして……」
 「不思議の国のアリス」の、最初の日本語訳のタイトル。
「そう。文献収集を趣味とする綺羅宮は、日本に『不思議の国のアリス』を紹介した。その時、日本人になじむ様にありすの名を『愛』と改めたんだ」
 最初の科術師・綺羅宮神太郎は、明治維新後も幻想寺の住職として科術の研究を続け、丸山英觀に『不思議の国のアリス』を翻訳するように進めた人物でもあった。綺羅宮の科術には、意味論の教本であるアリスの物語から得た着想がふんだんにあったのだ。その時のアドバイスに従い、丸山はタイトルを『愛ちゃんの夢物語』とした。名前を、日本風に「愛」と改めて。
「それって……」
「そうよ。吉原の花魁、愛の事。つまりあたしの前世」
 なんという因縁。その愛が今、古城ありすと名乗っている。前世の記憶を引きずったままに……。ちなみに愛が落とされた井戸があったところは現在、地下エレベータが出来ている自販機の場所となっているらしい。
 だが、まだ解決していない疑問が残っている。
「綺羅宮って百五十年前の人間だよな? そいつが幻想寺のお坊さんとして、まだ生きてるって事か?」
 しかし、時夫達が見た幻想寺の住職は、かなり若かったのだ。
「……それが、普通に死んだはずなのよ。私の記憶では。でもアイツは確かに綺羅宮だわ」
「それと、綺羅宮のいう繰り返される悲劇っていうのは?」
「前哨戦があったの。金時君に端を発した今回の事件の前に。それが、半年前の市の合併のときに起こったブルーベリー街の蜂起事件。その時も麻梨亜さんというアラフォーの女性が、悪徳政治家ののり・たまおに対して、恨み、復讐心から、自然霊、精霊の力を借って、呪った。そして、特殊能力が身に着いた。それは魔学だったんだ。元はごく普通の人間だったんだけどね」
 ありすも関わったという謎の事件。それは、昔起こった百姓一揆の繰り返しなのだろうか。古城ありすは色々な事件の中枢に居た。はっきり言って、この町でありす、お前こそ一番の不思議だ。
「なるほど。で、この町に災厄が訪れるとき……っていうのは?」
「大戦のとき、綺羅宮は空襲が襲うのを予言した。でも恋文町の人たちは、その予言を知っていたから防空壕をどこよりも深く掘って、誰も死ななかった」
 科術師・綺羅宮の予知能力はすさまじい。「火水鏡」は、未来に起こった恋文町の状況・展開を予想したような内容でもある。
「あたしは、その時代の関係者がそっくり現代に転生しているんじゃないか、って思う。そして過去に作った魂の傷、罪を償うために、あたし達、この時代に生まれ合わせたのよ」
 つまり、今の幻想寺の綺羅宮も転生者なのかもしれない。
「……俺もなのか?」
「うん。文献の中の誰っていう固有名詞はないんだけど、あたし、その当時、金時君にも、ウーにも会ったような気がする。とにかく必要な人間が、自然と集まってきているのよ」
 なんだかおセンチな話だ。
 吉原の愛はその後、一体どうなったのだろう……?
「あたし自身、あの時代以来、魂を落として、地下の古城にずっと住んでいた。地下の世界で愛は、精霊の正体たる蜂人と出会って、初代女王としてこの蜂人の王国に近代化の維新をもたらした。そうして洋風の城を建設したの。愛は地上の明治維新に倣って、地下でフランス人形のような格好で暮らしてた。地下であっても必要なものは地上から手に入れ、骨董品も収集した。地下の鉱物や珍しい漢方を売れば、お金は簡単に作れた。オシャレには手間を掛けていて、非常に凝っていた。地下でも漢方薬をはじめとし、科術の研究を続けた……」
 ゴスロリ少女ありすは、当時本物のドレスを着ていた。古より地下で繁殖していた蜂人たちは、急速に文明開化していった。科術の力で、地下世界に最初に文明を授けたのはサリーではなく、愛(ありす)だったのだ。地下の「古城」が明治期に建てられた西洋建築風なのはそのせいである。
 誰もが沈黙する。
「だからこの地下の国の古城は、あたしが昔住んでいた場所だったって訳。そうして、ようやく這い上がってこれたんだ。あは、あははは……」
「一体どうやって?」
 時夫はいつもありすを質問攻めにしてしまう。
「実は、そのいきさつは、まだあまり思い出せてないんだけどさ。きっと師匠であるうちの店長は、全部知ってるんだと思う」
 あの三連立方体の形で出てきた店長か。現在のところ、あまり頼りにはなってない。弟子で店員の古城ありすの方が、よっぽど活躍している。
「ありす、俺、気づいたことがある。聞いてくれないか」
 時夫は紅茶をひと飲みして言った。
「何よ?」
「君の店の名称だ。『半町半街』って、変な店名だよな。ずっとその意味を考えてたんだ。もしかして『ちょう』って蝶の意味で、『がい』は蛾……。店の名前は、実は『半蝶半蛾』っていう意味なんじゃないか?」
「どーいう事よ?」
「つまり君はまだ、半分蝶で半分が蛾って事だ。それに店長は気づいていて、お店の名前に隠したって事なんじゃないかって事」
「そうか。あたしの事か? つまり今はグレーゾーンの科術師……。前世は黒、今世は灰色。来世は白となるために。半白半黒。なるほどね。あたしは、いわば半人半妖って訳か」
 ありすは視線を落とし、顔に薄ら笑いを浮かべている。
「俺が、当時の関係者かどうかまだ分からない。もしかすると幕府側の侍だったりしてな。名前も時夫、トキオ=東京、江戸だし。でも、俺も大事な瞬間に立ち会ってるような気がしてならないんだ。その意味じゃ、俺たち全員、関係者なのかもしれない」
 時夫はウーを見た。
「へ? あたしも?」
 ウーが自分の顔を指差した。
「きっとそうかもしれません、ウー。僕もです。僕も幕末の頃の時代を考えると、なぜかいつも胸が締め付けられる想いがよぎるんです」
 マズルが賛同した。
「誰一人として、心に傷を持たない者はいない。この不思議の国のドラマは、あの時人を苦しめた者も、地下に落ちた者も、苦しめられた側も、皆一同に介して、魂の救済が行われようとしている。皆、この中空界へ来たことによって」
 マズルは謎めいた視線を皆に送る。
「……中空界?」
「はい。あの世とこの世の中間地点です。宇宙を構成する73%のダークエネルギーの一部です。それは様々な世界が、レイヤーとして折り重なっていることを意味します。皆さんが幻想寺で見た立方体の『半町半街』店長も、少し上のレイヤーの像でした。この中空界において、魂の決算をする。女王は未だ地下に囚われていますが、ありすさんも地下の古城に居た蛾の女王でした。本来は美しい蝶だったのに。サリーも最初は人間だったのでしょうが、きっといつの頃からか蜂の精に取り込まれた。サリーが操っている蜂人は、実はサリーを操っているのです。しかし全ては救われる。それが、今のダークネスウィンドウズ10アップロードの時期と重なっているんです」
「ホントかよ?」
 マズルの説明は出来すぎじゃないか?
「そうですとも。綺羅宮神太郎も、あの時誰も救えなかった。その魂の傷があるんです」
「じゃあ、ありすだけじゃなく、サリー女王も、雪絵もなのか? そもそも、この町の人々全員が……」
 全ては、あの幕末の時代の百姓一揆に関わった人々なのか。
「その通りです。みんな前世の苦しみや、恨みを超えなくてはいけません」
 きれいにまとめようとするよな、佐藤マズルは。
 綺羅宮神太郎は、将来、全員の魂を救おうと決意したのだという。
「で、サリー女王は、いつから地下に居たんだ? 一体いつ君と入れ替わったんだ」
「……それが、まだよくわからない。覚えてない。あいつは……あたしにとって一体何なのか」
「おそらく、あの『火水鏡』という本は、未完成なのです。しかしこれから、ついにありすさんは、未完成交響曲を完成させる事でしょう!」
 マズルは立ち上がって両手を広げ、天井を見上げた。
「だからきれいにまとめようとするなって!」
 綺羅宮神太郎没後、幻想寺はこの恋文町で細々と続いた。結界を作り出した綺羅宮の植えた箱柳の迷宮にかかって、ありすとウーは幻想寺界隈に幼少の頃より近づけなかったのである。
 しかしダークネスウィンドウズ10のアップロード・シークエンスによる、プレアップロード現象によって、幻想寺は当時の真新しい姿に再建され、さらに周囲の時空を巻き込んで増設を始めたのだった。

しおり