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出会い

 滋賀県の湖北地方、長浜市木之本町で操業している山岡農機という会社に、高校を卒業して入社した上田 和樹(うえだ かずき)は、現場の作業員として主にディーゼルエンジンの組み立てを行っていた。この会社はその名のとおり、農業用の機械を作っている。工場の従業員は二百人程だが、近畿各地の工場を含めると数千人規模の大きな会社だ。
 
 二〇十七年の五月、和樹が入社してから三年が過ぎたある日のこと、彼は車を買ったので会社の駐車場に駐車の許可をもらうため、事務所を訪れた。そこの担当女性に声を掛けると「はい」と返事をして、和樹の前にやって来た。駐車の件を話すと「この届出用紙に記入してください」と言って、一枚の紙を渡された。記入していると、それを見ていた彼女は「あらっ」と言って、聞いてきた。
「上田さん、もしかしたら妹さんがいらっしゃるのではありませんか?」
「ええ、いますけどよく分かりましたね」
「いま書いてもらっている書類の住所が、高校で私の同級生だった子と同じだったので、そうじゃないかと思って聞きました。その子の村には上田という苗字が一軒しか無いと、妹さんに聞いていましたから。名前は確か真里菜さんですよね」
「そうです。あなたと高校の同級生だったのですか?」
「はい、よく喋っていましたわ」
「そうでしたか、それは偶然ですね」
 その女性の名札には田川と書いてあった。
「田川さんとおっしゃるのですね」
「田川 京子(たがわ きょうこ)といいます。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 そう言いながら書き終わった用紙を田川に渡した。彼女は上田和樹に駐車許可のシールを渡しながら言った。
「このシールをフロントガラスに内側から貼ってください」
「分かりました。お手数を掛けてすみませんでした」
 
 上田和樹は木之本町石道(いしみち)という村に、両親と妹の家族四人で暮らしている。戸数三十件ほどの小さな村だが、村内には十一面観音像があるので観光客が頻繁に訪れていた。彼の年齢は二十二歳で、体型は中肉中背といったところだ。身長は百七十三センチと決して高いとは言えないが、二重瞼で切れ長の目をしていて女性にもてそうな顔立ちをしていた。髪型は一般的な七・三分けで、少し長い髪をサラっと流している。和樹はもう一度、田川に礼を言ってから事務所を出た。
 
 それから半月後、仕事帰りの和樹は木之本駅の近くにある喫茶店、憩(いこい)に行くと、ボックス席に二人の女性が座ってお喋りをしていた。するとその中の一人が、入って来た和樹の姿を見て「あらっ」と言い、すぐに「上田さん」と声を掛けてきた。見るとその子は先日会社で話した田川京子だった。
「確か田川さんでしたね?」
「はい、上田さんはこの店によく来られるのですか?」
「ええ常連ですよ」
「そうですか、私達はたまにしか来ませんけど、ここで会うのは初めてですね。もっとも最近まで上田さんの顔は知りませんでしたけど」
「僕は週に二回ほど来ていますよ」
「そうでしたか、私は月に一回程度で友達と給料日後に来るだけです。そうそう彼女を紹介します。友達の愛(あい)ちゃんです。同じ高校出身で同じ会社です」
「吉岡 愛(よしおか あい)です。よろしくお願いします」
「上田です。こちらこそよろしく」
 
 挨拶を終えてカウンターに座った和樹がコーヒーを飲んでいると、空いていた隣の椅子に京子が来て座った。
「上田さん、失礼ですけど歳はおいくつですか?」
「二十二歳です」
「じゃあ私と三つ違いですね。私は十九になりました。仕事場はどちらですか?」
「エンジン組み立て課です」
「そうですか、大変でしょう?」
「もう三年以上していますので慣れました」
「じゃあ高校を卒業して、すぐに入社されたのですね」
「そうです。ところで田川さん、友達を放っておいてもいいのですか?」
「ちっとも構いませんわ。あの子とはいつでも話せますから。今は上田さんとお喋りしたいの」
「ははは、僕なんかと喋っても面白くありませんよ」
「いいえ、とても面白いわ。だって上田さんって、私の好きなタイプですもの」
 和樹は、そんなことをさらっと言う京子こそ、面白い女性だと思った。

 彼女は同じ木之本町の黒田(くろだ)という村に住んでいる。戸数は百軒ほどあって、それなりに大きな村で会社からだと歩いても十分以内の近くにある。家族は両親と弟の四人で、弟はまだ高校の一年生だ。彼女の身長は百六〇センチで、やや細身の体型をしている。髪は首の付け根付近までで、長くはない。顔立ちは丸いと言うより、やや卵型に近くて丸い目が愛らしく、可愛い顔をしていた。そんな京子が話を続けた。
「ねえ、近い内に車でどこかへ遊びに連れていってもらえないかしら?あそこにいる愛と一緒に。上田さんも友達を誘って四人のグループでどう?」
「それは構わないけど」
「じゃ決まりね。彼女に話しておくから」
「僕も友達に声を掛けてみるよ。決まったら連絡するから」
「だったら携帯の番号を交換しましょう」
 番号を教えあった二人は、しばらく喋ってから和樹が先に店を出た。
 後に残った京子が席に戻ると、愛が話し掛けてきた。
「今の上田さんのことを詳しく聞かせてよ」
「あの人は私の高校の時に同級生だった子のお兄さんなの。愛はクラスが違ったから、妹さんのことはあまり知らないでしょうけど。ただそれだけの知り合いよ」
「でもすごく仲良く喋っていたように見えたけど」
「そうかしら、上田さんと話すのは今日が二回目よ。最初は事務所へ用事があって来られた時に話したの」
「そうだったの、知り合って一年ぐらい経っているように見えたわ。それほど仲良く見えたってことよ。それに京子の話している横顔を見ていると、とても楽しそうだったし」
「楽しかったわよ。私は彼のようなタイプが好みなの」
「まあ京子ったら、よくずけずけと言うわね」
「だから愛は、あの人に手を出しちゃだめよ」
「分かっているわ、手も足も出さないから心配しないで。それより京子の応援をするわ」
「ありがとう。それでね、さっき話していたんだけど『近い内に私と愛と、上田さんの友達と一緒に、四人グループでどこかへ遊びに行きませんか』って。愛もいいでしょう?」
「それはいいけど、車で行くのでしょう。だったら一台に四人が乗ってということよね」
「そのつもりよ」
「別々に乗って二台だと、私も初対面の人と二人きりじゃ嫌だからね」
「上田さんの友達は、多分わたしも初対面だわ。同じ会社の人だと社内で見掛けたことはあるかもしれないけど。近い内に連絡があると思うから、あったら報告するわね」
「はいはい、楽しみに待っています」  

      二   京子の家 
 それから一週間が過ぎた頃、和樹から京子の携帯電話に連絡が入った。
「もしもし、田川さん元気にしているかな?」
「はい、いたって元気ですよ。上田さんはどうですか?」
「僕も元気です。職場が違うと同じ会社でも、ちっとも見掛けないね」
「ええそうね」
「ところで先日話していた遊びの件だけど、今度の土曜日でどうかな?僕の友達にも、その日で話をしてオーケーをもらったから」
「私はそれでいいわ。愛にも聞いてみるけど、もしダメだったら連絡するわ。後は待ち合わせの時間と場所を決めましょう」
 和樹と京子は、打ち合わせをして電話を切った。
 
 約束の土曜日、四人は会社の駐車場に集まると簡単に自己紹介を済ませた後、和樹の車に四人が乗って出発をした。彼の友人は名前を、高山 稔(たかやま みのる)と言った。車には男性二人が前の席に乗り、女性二人は後ろの座席に乗った。するとさっそく京子が和樹に話し掛けてきた。
「今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「一応は考えてきたけど、岐阜県の関ヶ原はだめかな?暑くなってきたので涼しい所を求めてさ、関ヶ原にある鍾乳洞とか伊吹山ドライブウェイに行こうかと思っているけど、どうかな?」
「私はどこでもいいけど、愛はどう?」
「私も任せるわ」
「じゃあそうするよ」
 そう言うと、最初に伊吹山へ車を向けた。

 伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあり、標高は一三七七メートルで滋賀県では一番高い山になる。車だと九合目まで登れて、そこから先は歩いて頂上まで登る。さすがに高い山の上は涼しくて気持ちが良い。それに高山植物も多くあり、たくさんの花がきれいに咲いている。
 九合目に着いた四人は車を降りてから、しばらく涼しい風に当たっていた。ただ四人とも歩いて山登りをするような靴を履いていなかったので、頂上へ行くのは諦めて周りに咲いている花などを見ながら三十分ほどの滞在後、山を下りた。
 
 次に向かった先は鍾乳洞だ。この鍾乳洞は全長が五百十八メートルあり、入り口から出口までは歩いて二十分ほど掛かる。洞内は常に十五度の温度で夏は涼しく冬は暖かい。
 入り口から入った四人は、少し暗い洞内をゆっくりと歩いていたが、そこで京子が「恐いわ」と言って和樹の手を握ってきた。本当に怖いのか、それとも単に手を繋ぎたかったのかは定かでなかったが。
 和樹も特に拒むことなく手を繋いで出口まで歩いた。そして明るい外へ出ると繋いだ手を、どちらからともなく離したのだった。後ろから付いて来ていた高山と吉岡の二人は、その光景に気付いたかどうか分からなかった。
 時計を見ると十二時を過ぎていたので昼食にしようと道路沿いのレストランへ入り、食べながら午後の行動を相談した結果、長浜へ戻って市内にあるボーリング場に行くことに決めた。土曜日の午後で、もっと混んでいるかと思ったが、意外にそうでもなくすぐに始められた。成績はともかくとして、女性の二人は投げるたびに「わーわー、きゃーきゃーと」はしゃいでいて、楽しそうだった。ひとり三ゲームずつを終えると、ボーリング場を後にして帰路に就いた。
 会社の駐車場に着くと高山と吉岡は車から降り、それぞれ自分の車に乗った。京子は車に乗っていないので、そのまま和樹の車に残り、彼に家まで送ってもらうことにした。時計を見ると時間は四時を少し過ぎていたが、若者には昼のような時間だ。そこで京子が言った。
「上田さん、まだ時間も早いので、家(うち)に寄っていきませんか?」
「君の家にかい・・・どちらでもいいけど」
「じゃあ寄っていってね」
 
 家に着くと彼女は先に車を降りて、和樹が降りるのを待っていた。京子は玄関を開けると家の中に向かって「お母さん、ただいま」と言ってから、続けざまに「友達を連れて来たわ」と、少し大きな声で言うと母が小走りに出てきた。
「お母さん、こちら同じ会社の上田さん」
「初めまして、上田といいます」
「京子の母です、いつも娘がお世話になりありがとうございます」
 母は名前を康子と名乗った。四十台の半ばだろうか、上品でやさしそうな顔立ちをしている。特に目元は娘に似ていた。
「いえ、同じ会社といっても職場が違いますので、殆ど会わないのですよ」
「そうですか、さあどうぞ上がってください」
「お邪魔します」
 彼女は和樹を応接間に連れて行くと、自分は「お茶を入れてきます」と言って部屋を出た。キッチンへ行くと母がいて、カレーの匂いがしていた。
「お母さん、今日はカレーライスなの?」
「そうよ、それがどうしたの?」
「もし多めに作ってあったら、上田さんにも食べてもらおうかと思って」
「それは大丈夫だけど」
「じゃあそうするわ」
 京子は冷たいお茶を入れると、和樹の待つ応接間に戻った。
「上田さん、いま母と話していたんだけど、カレーを作ったから食べていってね」
「ええ~、それは困ったな」
「あら、どうして困るの?」
「だって、いきなり家に来てさ、しかも初めてだし」
「そんなの気にしなくていいわよ、今日のお礼よ」
「そう・・・じゃあそうさせてもらうよ」
 五時を少し過ぎた頃、母が応接間へ来て京子に言った。
「ご飯の用意ができたから運ぶのを手伝って」
「は~い、どこで食べるの?」
「今日は父さんもいないからダイニングで食べようか」
 京子の父は交代勤務をしていて、今日は午後からの勤務でいないそうだ。
「じゃあ、上田さん向こうへ行きましょう」
 彼女はそう言ってダイニングへ連れていき、椅子に座らせた。テーブルの上に食事を運び終えると部屋を出て、階段の下から二階に向かって、裕司(ゆうじ)ごはんよ」と弟を呼んだ。
 四人が揃うと、母が和樹に「息子の裕司です」と紹介した。
「こんにちは、上田です。よろしく」
「こんにちは、田川 裕司です。外に停めてある車は上田さんのですか?」
「そうだけど」
「すごくかっこいい車ですね。あれはホンダのオデッセイでしょう」
「そうだよ、よく知っているね」
「僕の好きな車ですから。あの~、また乗せてもらえませんか?」
「いいよ。いつでもどうぞ」
「じゃあ来週の土曜日はどうですか?」
「そうだね、天気が良かったらそうしようか。もし雨だったら、あくる日の日曜日にしよう」
 二人が勝手に話していると、横から京子が言った。
「裕司、乗せてもらうのは構わないけど、助手席に乗ったらダメよ」
「ええ~どうして?」
「助手席は私の専用席だからよ」
「いつそんなことを決めたの」
「たった今よ、いま決めたの」
「姉ちゃんずるいよ。僕も助手席がいいよ」
「ダメ、ダメったら絶対にダメ。裕司は後ろの席に乗りなさい」
 そこで母が言った。
「あなた達、そんなつまらない喧嘩をするから上田さん笑っているわ」
「いえ、お母さん違います。二人のやりとりが楽しくて笑っているんです」
 そう言って笑った。
「それと裕司が乗せてもらう時は、私も一緒に行くからね」
 京子が当然だとばかりに言うと、裕司は根負けしたのか京子に言った。
「もうしようがないな、まあ姉ちゃんの恋人の車だから、僕は我慢するよ」
 和樹と京子は裕司の言葉を聞いて、思わず大笑いした後、和樹が言った。
「裕司君、僕とお姉さんは恋人なんかじゃないよ。単に同じ会社の同僚だよ」
「ええ~そうなの。僕はてっきり恋人同士だと思ったよ」
 そこですかさず京子が言った。
「裕司、今はそうだけど近い内に恋人同士になるかもよ?」
「そうかなあ?姉ちゃんはもてないからな」
「もう~そんなこと言って、今に見てらっしゃい!」
 二人の会話に和樹と母は、ただただ唖然とするばかりだった。食事が済んでからしばらく四人で喋っていたが、そろそろ帰ろうと思い、母にお礼を言って立ち上がると京子が車の所まで見送りに来てくれた。
「上田さん、来週の土曜日に必ず来てくださいね」
「裕司君と約束したからね。多分十時頃には来られると思うから」
「じゃあ待っています」
「今日は、ご馳走になってどうもありがとう」
 京子は和樹の車が見えなくなるまで見送っていた。
 
 少し時間を遡(さかのぼ)り、先ほど会社の駐車場で和樹の車を降りた高山稔と吉岡愛は、今日のドライブ中に意気投合したのか、車から降りた後、自分たちの車に乗らず駐車場で話していた。
「今日はどうもありがとう。関ヶ原の鍾乳洞は暗くて怖かっただろう?」
 高山がそう言うと、吉岡は少し照れたような顔で答えた。
「でも手を繋いでくれたから安心して歩けたわ」
 和樹と京子の後ろを歩いていた二人も、ちゃっかりと手を繋いでいたのだ。
その行為は前を歩いていた二人には見えないので、気付かなかったのだった。
「まだ四時だし、僕の車でコーヒーでも飲みに行かないかい?」
 そう言って誘うと、彼女もそれに応えた。
「六時までなら構わないわ。日も長くて明るいから」
「そうしよう。どこへ行く?」
「どこでもいい、任せるわ」
 高山は和樹と高校も同じで、会社にも一緒に入社したのだ。身長は和樹より高くて百八十センチ近くある。体もがっしりとしていて、いかにもスポーツマンタイプだ。髪は短髪で歳の割には、あどけなさの残る顔をしていた。それだけに一見やさしそうにも見えた。
 吉岡は丸い顔と丸い目が印象的で、どう見ても十代だと分かる。身長も低くて百五十五センチしかなく、高山と並ぶと大人と子供のようだ。
 高山が助手席のドアを開けると、吉岡は「ありがとう」と言って乗り込んだ。どうやらここに、ひと組の新しいカップルが誕生しそうな気配である。
 
 それから一週間後の土曜日、天候は晴れで田川裕司と約束した「車に乗せてあげる」という日がやってきた。和樹は朝の内に車を洗い、中もきれいに拭くと車に乗り込み京子の家に向かった。玄関先に車を停めてドアのチャイムを鳴らすと、すぐに京子が出てきた。
「こんにちは、約束通りに迎えに来ました」
「いらっしゃい、お待ちしていました」
「じゃあすぐに出掛けようか?」
「弟を呼びます」
 
 三人は車に乗り、奥琵琶湖パークウェイに向かった。そのパークウェイは山を削って作られた所で開通当初は有料だったが、今では無料になっている。曲がりくねった山道を上っていくと頂上の駐車場から下に琵琶湖が見えて、とてもきれいだ。和樹は車をゆっくりと走らせながら風景を楽しんだ。
 かれこれ二時間ばかり掛けてドライブを終えた三人は、京子と裕司の自宅に帰った。家に着くとちょうどお昼で、母が昼ご飯を用意して待っていてくれた。それで和樹は再び京子の家で、ご飯を御馳走になるのだった。
「冷やし中華を作ったから食べてくださいね」
 母はそう言ってキッチンへ向かった。ほかの三人もダイニングへ行き、用意された昼食を食べながら車のことや、今しがた行ってきた奥琵琶湖の景色などを思い出して話をしていた。
 昼食が終わると、弟が和樹に「僕の部屋でテレビゲームをしよう」と言って、彼を部屋へ連れて行った。そして当然のことだが京子も付いて行った。
 彼が家に来たのは今日で二回目だが、裕司とはすっかり仲良くなった。三人でワイワイと騒ぎながら夕方までゲームをしていたが、そろそろ帰ることにした。ゆっくりしていると晩御飯まで食べていけと言われかねないからだ。裕司はゲームの相手ができて嬉しかったのか、帰り際に「また来週も来てね」と言っていた。

      三   付き合い
 月曜日になり、和樹が出社すると高山稔が話し掛けてきた。
「上田おはよう、少し話があるけどいいかな?」
「いいよ。何の話だ」
「このまえ四人で遊びに行った時のことだけど、一緒に行った吉岡愛さん、俺あの子とすっかり意気投合したと言うか、気が合っちゃってさ、それで昨日もあの子を誘ったんだ。もし嫌なら誘った時に断るだろうけど、断らなかったところをみると、少しは好感を持っていてくれるのかなと思うよ。それで俺の本音としては彼女と付き合いたいと思っているのだが、申し込むのはまだ早いと思って昨日は何も言わなかったけど、いつごろ言うのがいいかな。おまえはどう思う?」
「なんだ、おまえ達はいつの間にそんな仲になったのだ。全然知らなかったよ」
「四人で遊びに行った帰りに会社の駐車場で上田たちと別れただろう。その後、二人で喫茶店に行ってさ、話も弾んで楽しかったよ。その時に携帯の番号も教えてくれたので、昨日誘ったというわけだ」
「そうか、それは良かったな。まあお互いに好意を持っているのだったら、付き合えばいいじゃないか。申し込むのはタイミングもあるだろうから、何回か誘ってみて断られないようだったら、その場の空気を読んで話したらどうだ」
「じゃあそうするよ、ありがとう。ところでおまえ達はどうなっているんだ?」
「田川京子さんのことかい、彼女とはまだ何でもないよ。ただの友達っていうだけで、二人きりでは遊びに行ってもいないし」
「なんだそうなのか、俺はてっきり付き合い始めたとばかり思っていたよ」
「付き合ってなんかいないよ」
「それじゃあ彼女とは、これからどうするつもりだ?」
「それも別に何も考えていないさ。まあ成り行きに任せるよ」
「おまえの気持ちとしては、どう思っているんだ?」
「そうだなあ・・・あの子は明るくていい子だと思っているよ」
「そうじゃなくて好きとか嫌いとかだよ」
「う~ん、少なくとも嫌いじゃないな。好きかって言われると性格的には好きだな。でももっと話さないと分からないよ」
「あの子はおまえのことを、どう思っているのかな?」
「好きなタイプとは、はっきり言っていたけど、それ以上は聞いていないから分からないな」
「そうか、まあ二人とも若いのだから焦ることもないか。また何か進展があったら聞かせてくれよ。俺も話すからさ」
「分かったよ」
 和樹は高山と吉岡が付き合うのだったら、それはそれで喜ばしいことだと思った。話を聞く限り、二人は間違いなく交際をするだろうと感じた。
 
 その週の金曜日に和樹は京子の携帯に電話を掛けた。
「もしもし田川さん、上田です」
 携帯だから登録してあれば、名前が画面に出るから分かるだろうけど、一応名乗った。
「京子です」
「実は明日だけど、何か用事はありますか?」
「別に何もありません」
「だったら家にお邪魔してもいいかな?」
「もちろんいいわ。大歓迎よ」
「ははは、そんなに歓迎してくれなくてもいいよ」
「ううん、私は上田さんだったら休みの日でも仕事の日でも、昼でも夜でも大歓迎しますわ」
 そう言う京子を相変わらず面白い子だと思った。
「じゃあ明日、十時頃には伺うよ」
 和樹が電話を掛けた本来の目的は彼女に会いに行くのではなく、ご飯を御馳走になった母に何かお礼をしようと思ったからだ。
「はい、首を長~くして、お待ちしております」
 電話を切った後も、京子の言葉に笑いが止まらなかった。
 
 あくる日の土曜日、家を出ると町内の店に寄り、買い物をしてから家へ行った。
「おはようございます、上田です」
「いらっしゃい」
 すぐに出てきた京子は、嬉しそうな顔をして迎えた。
「あの~、これをお母さんに渡してください」
 そう言って、買ってきたばかりの袋を渡した。
「母に?」
「先日からご飯を御馳走になっているので、そのお礼です」
「そんなに気を遣わなくてもいいのに。じゃあ遠慮なく頂きます」
「君じゃなくて、お母さんに渡してよ」
「分かっています」
 少しふくれた顔をして言った。自分にも何か買ってきてほしかったのかもしれない。
「とにかく上がってね」
「お邪魔します」
 京子はキッチンへ行くと、すぐにアイスコーヒーを持って戻ってきた。彼が来るのが分かっていたので、用意しておいたのだろう。
「母に渡しておきました。すぐに来るそうです」
 母はすぐにやって来て和樹に礼を言うと、また出ていった。
「母に何をあげたの?」
「それはまたお母さんに聞けば分かるよ」
「そりゃあそうだけど、教えてくれたっていいじゃない」
「だったら言うよ、ハンカチとかハンドタオルが入ったセットだよ。これから暑くなるので使ってもらえるかなと思ってね」
「そうなの、お母さん、いいな・・・」
 母が羨ましそうに、少し沈んだ顔をしてそう言った。
 ほどなく弟の裕司がきて「今日もゲームに付き合って」と言うので「もう少し後からしよう」と言うと「はい」と言って部屋へ戻っていった。するとそこへリビングに置いてある電話が鳴ったので京子が出た。和樹のいる所とは離れていたので話し声は聞こえなかったが、電話を切って戻ってきた京子の顔が少し暗く感じた。
「どうしたの、なんだか元気がないようだけど?」
「今の電話だけど・・・同じ会社の人だったの」
「そう、誰からだったの?」
「資材課の山口さんという人だけど、上田さんは知っているの?」
「知っているよ、でも話したことはないな。それでその山口さんが何だって」
「明日だけど暇だったら遊びに行かないかって、お誘いだったわ」
「それでどう返事したの?」
「明日は用事があるからってお断りしたわ」
「用事があるのだったら仕方がないね」
「ううん用事なんかないわ、嘘をついたの」
「ええっ、どうして?」
「だって、あの人と遊びに行きたいとは思わないもの」
「それはつまり、君の好きなタイプじゃないからってことかい?」
「少なくとも私のタイプじゃないわ」
「そうか、それだったらはっきりと断ったほうがいいね。断り切れずに嫌でも誘いを受けると、却ってお互いのために良くないと思うから」
「私もそう思うの。でも用事があるって嘘をつくと、また電話が掛かってきそうでいやなの」
「そうだね、多分掛かってくるだろうな」
「今度掛かってきたら、私には付き合っている人がいますと言おうかしら。そう言えば諦めてくれるでしょうから。それも嘘だけど、嘘も方便って言うから構わないでしょう。上田さんはどう思う?」
「それでいいと思うよ。会社で顔を合わせる人に『迷惑だから、掛けないでください』なんて、言いにくいしさ」
「じゃあ次に掛かってきたら、はっきりとそう言います。でも上田さんが付き合ってくれたら、嘘じゃなくて本当の話だけど。ふふふ」
 京子は、また本気とも冗談ともつかない顔をしてそう言うのだった。
 それを聞いて和樹が言った。
「僕たちは、もう付き合っているじゃないか」
「ええっ、それってどういうこと?」
「それはね、僕が君の家に来たのは今日で三回目だろう。お母さんもよく知っているし、弟の裕司君とだって仲良くしているよね。家族ぐるみとまでは言えないけど、少なくとも僕は君を含めて、君の家族と付き合いをしているつもりだけど」
「上田さんの言っている意味がよく分からないけど、それって交際っていう意味じゃなくて、ただの近所付き合いと同じようなものでしょう?」
「そうかもしれないけど、付き合っていることに変わりはないよ。だから山口さんに『付き合っている人がいます』と言っても、一概に嘘をついたとは言えないよ『交際している男性がいます』と言うのはだめだけど」
「でも『付き合っている人がいます』と言ったら、普通は誰もが(交際している人)という意味に捉(とら)えるでしょう」
「まあいいじゃないか、どう捉えるかはその人の自由だよ」
 そんな話をしていると、母が来て「お昼にしましょう」と言った。和樹は午前中に帰るつもりをしていたのだが、裕司の「ゲームに付き合って」というひと言から予定が狂い始めたようだ。昼ご飯を食べてゲームをして、結局先週と同じように夕方まで京子の家で過ごしてから帰った。

       四   父との対面
 今日は二十五日、月に一度の給料日だ。しかも花の金曜日ときている。仕事が終わった和樹は友達の高山と一緒に行きつけの喫茶店、憩へ入った。カウンターに座りコーヒーを飲んでいると、そこへ京子と吉岡が入って来た。
「上田さん、高山さんこんにちは」
 京子と吉岡がそれぞれに挨拶をすると、和樹が彼女たちに聞いた。
「二人とも、今日は給料日だからここへ来たの?」
「そうよ。それと、もしかしたら二人に会えるかも、って思ったからよ」
 京子は答えながら和樹の隣に座り、吉岡は高山の隣に座った。
 コーヒーを注文すると京子が和樹の耳元に口をやり、小さな声で言った。
「高山さんと愛の二人が仲良くしているんだって、上田さん知っていた?」
 すると和樹も小さな声で答えた。
「少しは聞いているけど、詳しくは知らないよ」
「そうだったの、まだ深い付き合いじゃないようだけど」
 そこで横から高山が上田に言った。
「おまえら何をこそこそと話しているんだ?」
「明日の休みはどうするの、って聞いただけだよ」
 和樹はそう言ってごまかした。別に本当のことを言っても構わないのだが、今は吉岡もいるので、二人の件は知らん顔をしていたほうが良いと思ったからだ。
「そうだったのか、実は明日のことだけど、俺は𠮷岡さんとドライブに行く約束をしているよ」
「なんだそうなのか、そりゃあ楽しみだな」
 二人の話に吉岡も、にっこりと笑っている。
 その時、和樹の隣で会話を聞いていた京子が、少し不機嫌そうな顔をして言った。
「ねえ上田さん、あなた明日のお休みはどうされるのかしら?」
「田川さん、なんだか急に言葉が丁寧になったような気がするけど?」
「あらそうかしら。私はいつでも丁寧に話しているつもりですけど」
「だったらいいけど。僕は明日、家で法事があるから」
「じゃあ日曜日は?」
「日曜は青年団の集会があってね、奉仕作業をする予定だよ」
「そうなの、つまんないわね」
 京子はがっかりした顔をしてそう言った。どうやら丁寧な言葉遣いも一瞬で終わったようだ。
 
 月曜日になり、京子と吉岡は会社の昼休みに話していた。
「愛、土曜日のドライブは楽しかった?」
「まあまあと言ったところかしら」
「それで彼から交際とか申し込まれなかったの?」
「何も言われなかったわ」
「じゃあもし申し込まれたらどう返事するの?」
「それは申し込まれた時の気持ち次第かしら。もしそのときに好きだったら受けるわ。でもそこまでの想いがなかったら、返事を待ってもらうかもしれない」
「今の気持ちはどうなの?」
「よく分からないわ。嫌じゃないのは確かだけど。それより京子は上田さんと、どうなっているのよ?」
「上田さんね。彼は・・・どうかな、私も分からないわ」
「分からないって、彼も京子に何も言わないのね」
「言うどころか、二人で出掛けたこともまだないのよ」
「そうだったの、私はもう何度もデートしていると思っていたわ」
「ううん全然よ。彼は私の家に二度ばかり来てね、昼ご飯を食べてから弟とテレビゲームをしているだけよ。そして夕方になると『さようなら』と言って、帰っていくの。だから交際なんて話はしたこともないわ。私も遠回しにそれらしいことを言うのだけど、うまく話をはぐらかしてしまうのよ」
「でも京子は彼のことを好きなのでしょう?」
「好きといえば好きだけど、恋愛感情と言えるほどでもないわ。ただ別れたくもないの。だから当分の間は今の関係でもいいかな」
「そうね、彼が京子のことをどう想っているかは分からないけど、もし好きだったとしても安っぽく見られたくなくて、簡単に打ち明けたりはしないでしょうね。裏を返せば京子のことを、それだけ大事に思っているのかもしれないわよ」
「そうかしら?彼が家に来て話していても、そんな雰囲気は感じられないのだけど」
 そうこう話していると、お昼休憩が終わったので二人は仕事に就いた。
 
 特に何事もない一週間が過ぎ、また週休二日の土曜日がやってきた。京子は和樹と先週の金曜に喫茶店で会ってから話してもいない。またお互いに電話を掛けてもいなかった。それで土曜日の朝、思い切って彼に電話を掛けることにした。京子は割とあっさりした性格の持ち主で、普段だったら気軽に話したりするのだが、いざとなると何だか緊張してしまうのだった。今まではこんな経験がなかったので気付かなかっただけだ。
 京子は手に持った携帯電話を見つめながら(私もごく普通の女なのかな)と思ったのだった。
「もしもし上田さん、京子です」
「田川さん、元気ですか?」
「はい、いたって健康そのものですよ。上田さんは?」
「僕も元気ですよ。今日は何か?」
「いえ、暇だから電話をしてみただけです」
 京子は強がってそんな言いかたをした。
「そうなの、暇なんだ」
「ええ誰も私を誘ってくれないから、暇を持て余していますの」
「ははは・・・そうだ、誰も誘ってくれないといえば、このまえ君に掛かって来た電話で会社の山口さんだったね、彼からはお誘いの電話がないの?」
「昨日の夜、しっかりありましたわ。それであの日に話していたとおり、付き合っている人がいますと言いました」
「それで彼はどう答えたのですか?」
「がっかりしたような声で『そうでしたか』と言って、それで終わりました」
「じゃあもう掛かってこないでしょうね」
「おそらく昨日が最後だと思うわ。だから私はとっても暇ですわ」
「何が言いたいのかよく分からないけど、そんなに暇だったら家(うち)に遊びに来るかい?」
「それって本当に、でも行く足がないわ」
「それは僕が迎えに行くよ」
「わぁ~嬉しい」
 京子は和樹の言葉が、実に嬉しそうだった。
「じゃあ今から行くよ」
「着替えて待っているわ」
 
 ほどなくして迎えに来た彼の車に乗ると、京子は言った。
「ちょっと町内のお店に寄ってほしいの」
「どうしたの?」
「私も手ぶらで伺うわけにはいかないわ」
「そんなの気にしなくてもいいよ」
「いいえ、そんなわけにはいきません。私の人間性というものが疑われます」
 彼女はケーキ屋さんに寄ってショートケーキを買った。
 
 家に着くと彼の後に付いて、一緒に中へ入った。和樹の家族も京子と同じ四人で、両親と妹がいるそうだ。お父さんは仕事で妹さんは私用で、それぞれ留守とのことで母だけが家にいるとのことだった。
 彼女は応接間に通されると、母がお茶を持って入って来た。
「いらっしゃい、和樹の母で由美子といいます。どうぞよろしく」
「初めまして田川京子です。こちらこそよろしくお願いします。また今日はずうずうしく押し掛けてすみません」
「いいえ、遠慮しないでいつでも遊びに来てください」
「ありがとうございます」
 挨拶を終えると買ってきたばかりのケーキを母に渡した。
「あらあら却って気を使わせてしまい申し訳ありません。今からお昼の用意をしますから、二人で話でもしながら待っていてくださいね」
 
 今日は京子が彼の家でお昼を御馳走してもらうことになったのだった。そして三人で昼食を食べていると、母が息子の和樹に聞いた。
「本人を前にしてこんなことを聞くのも悪いけど、このお嬢さんとお付き合いをしているの?」
「ははは、田川さんは会社の同僚で仲良くしてもらっているだけだよ。僕も田川さんの家に行くと御飯を御馳走になっているから、たまにはお返しをしなければと思って今日は来てもらったのだよ」
「そうなのかい、母さんは二人が付き合っていると思ったよ。とても可愛い子だしね」
「母さん、そんなことを言うから田川さんが照れているよ」
「あらごめんなさいね」
「いえ褒めてもらって嬉しいです。ありがとうございます」
 京子は彼と母の会話を聞いて(会社の同僚、ただそれだけか)と思い、心の中が何か複雑な気持ちになった。もっとも母親に対して本当の気持ちを言ったかどうか分からないが。
 彼も嫌いな女だったら「家に来い」とは言わないだろうから、まあ多少は好意も持っていてくれのかもしれない。
 かれこれ三時まで、彼と母を交えて三人で話していたが、そろそろ帰ることにした。帰りも家まで送ってもらうのだが(家に寄ってもらうか、それとも何も言わずに帰ってもらうか)で、迷っていた。それで彼に直接聞いてみた。
「家に寄っていく?」
「いま何時かな?三時過ぎか・・・まだ早いね、じゃあ少しだけ寄ろうかな」
「少しと言わずゆっくりしていって」
 京子の顔が急に嬉しそうな顔に変わり、声も明るくなった。
「ははは、まあ時間の許す限りだね。君も僕の家に来て、これで本当に家族ぐるみの付き合いに近づいて来たかな」
「また呼んでね」
 
 京子の家に着くと、もう慣れたとばかりに家の中へ入った。すると彼女の母が挨拶に入って来た。
「今日はこの子が家におじゃまして、お昼まで頂いたそうでありがとうございました」
「僕のほうこそ、いつもご馳走になってすみません」
 母が挨拶を済ませて部屋を出ていくのと入れ替わりに、彼女の父が入って来た。和樹が驚いて立ち上がると「まあまあ座ってください」と言ってから、彼に話し掛けた。
「娘がいつも世話になっているそうで、ありがとう」
「上田和樹といいます。よろしくお願いします」
「申し遅れました。京子の父で孝弘といいます。こちらこそよろしく」
 眼鏡を掛けていて、きりっとした顔立ちのハンサムな人だった。やや痩身だが背が高くて百八十センチはあるだろう。父は続けて話した。
「家(うち)には、二・三回来てもらったと聞いていたが、私が交代勤務をしているので会えなくて、会うのは今日が初めてだね」
「いつも御馳走になってありがとうございます」
「いやいや君の口に合えばいいのだが。それに息子の裕司も遊んでもらっているそうで」
「僕もゲームは好きですから、一緒に楽しんでいます」
「上田さんと言ったね。君はお酒を飲むのかな?」
「付き合い程度には飲みます」
「そうか、それなら今晩一緒に飲まないか?この家は誰も酒の相手をしてくれる者がいなくて、私はいつも一人寂しく飲んでいるよ。ははは」
「でも僕は車で来ているので」
「だったら家(うち)に泊まっていけばいいよ」
 そう言ったので、和樹と京子はびっくりして顔を見合わせた。そんなことはお構いなしに、父は話を続けた。
「明日の日曜日は会社が休みだろうから、ゆっくりしていけばいいじゃないか」
「はい」と返事をしながら、どうしたらよいものかと京子の顔を見た。すると彼女は彼の迷いを察知したのか、すぐに言った。
「上田さん、お父さんの相手をしてあげてもらえないかしら。いつも寂しそうに飲んでいるから、たまには楽しくお酒を飲ませてあげたいわ」
 京子までそう言うので、和樹は腹をくくった。
「そうですか、それじゃお言葉に甘えてそうさせてもらいます」
「ありがとう、君は話の分かる男だね、私は嬉しいよ。じゃあ早速だが母さんに言って、何かおいしい物を作ってもらうよ、ははは」
 そう言うと、嬉しそうな顔をして部屋を出て行った。部屋に残った和樹は苦笑いをして京子に言った。
「田川さん困ったことになったよ」
「えっ、何が困ったの?」
「そりゃあ困るだろう。酒の付き合いはともかくとして、君の家に『泊まっていけ』だなんて。家から誰かに迎えに来てもらっても構わないのだから」
「でも迎えに来る家族も面倒でしょう、うちに泊まっていったほうが、みんなが楽よ。さあ早く家に電話して泊まっていくからと言いなさいよ」
 どうやら京子は事の成り行きを楽しんでいるようだ。それに彼と同じ屋根の下で、ひと晩一緒に過ごせるのが嬉しいのかもしれない。
 
 その夜、父は和樹と二人で楽しそうに笑いながら酒を飲んでいた。その途中の話で、別に説教というわけではないが和樹に言った。
「上田さん、どこで飲んでも飲酒運転だけは絶対にしてはダメだよ。もし事故でも起こせば取り返しのつかないことになるからね。自分や相手はもちろんだが家族や会社、それ以外にも多くの人に迷惑を掛けるから」
 和樹は父の話を、もっともだと思いながら聞いた。
 その話はすぐに終わり、後は和樹のことや家族のことなど、警察官の職務質問ではないが、色々と聞いていたのだった。京子は彼と話している時の嬉しそうな、父の顔を久しぶりに見たような気がした。普段はどちらかと言えば静かな父が、今日は饒舌(じょうぜつ)だった。二人の飲んでいる様子を見ながら、これから私と彼はどうなるのだろうと考えていた。
 
 翌日も和樹は家族と一緒に朝ご飯を食べ、それが済むと弟の裕司が「ゲームをしよう」と言って、彼を部屋に連れていってしまった。京子はどうしたものかと迷ったが、取り敢えず一緒に付いていった。
 和樹は昼前にゲームをやめて帰ることにした。このままいると昼ご飯までご馳走になりそうなので、それはまずいと思ったからだ。
 家族に挨拶を済ませると、父は「また一緒に飲もう」と言って、彼を見送った。京子は外へ出て見送った後、家の中へ入ると、すぐに父が聞いてきた。
「彼と付き合っているのか?」
「ううん、付き合ってなんかいないわ。なんだか分からないけど、いつのまにかこんなふうになっちゃったの。強いて言えば、仲の良い友達みたいなものよ」
「そうか、付き合ってはいないのか」
 父は京子の言うことを信じたのかどうか分からないが、それは本当の話だ。
 
 一方、自宅に戻った和樹に母が話し掛けてきた。
「本当にあの子と付き合ってなんかいないのだろうね」
「付き合ってなんかいないよ。昨夜はあの子のお父さんに初めて会って『酒に付き合え』って言われたから、断るのも悪いと思って飲んだ後、家に泊めてもらったけど、あの子とは友達というだけだよ」
「だったらいいの、おまえがあの子を好きになるのは仕方がないけど、あの子とお付き合いをしても幸せにはしてあげられないのよ。だったら最初から付き合わないほうがいいわ、あの子を悲しませないためにもね」
 母はそう話しながら、ハンカチで目頭を押さえた。
「それは僕も分かっているよ」
 和樹と母の会話が何を意味するのか、今の京子は知る由もなかった。

      五   好きの種類
 それからも和樹と京子は、お互いの家を月に一、二回程度は行ったり来たりの付き合いが続いていた。時には高山と吉岡を含めた四人で遊びに行ったり、仕事帰りに喫茶店で喋ったりしていた。だが二人きりでは外で会おうとしなかった。京子にはその理由が何故なのか分からなかったが、敢えて聞こうともしないまま月日は流れていった。
 
 二人が知り合ってから半年ばかりが過ぎ、季節は晩秋の十一月を迎えていた。そんなある日の日曜日、京子は両親と三人で木之本町内のスーパーへ買い物に出掛けた。駐車場に車を停めると、すぐ近くに和樹の車が停まっていた。ナンバーを知っているから間違いはない。このスーパーへ買い物に来ているのだろう。スーパーの中へ入ると和樹を探した。遠くに彼の姿を見つけたが、隣には若い女性がいて二人は笑いながら何か話をしていた。その光景を見た京子は和樹に声を掛けることはしなかった。いや、声を掛けられなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。その女性が誰なのか、彼とはどんな関係なのか分からないが、彼が自分以外の女性といるのを初めて見たので、心の中は穏やかでなかった。個人的に交際しているわけでもなく、好きとか愛しているなどという言葉を互いに口に出したこともない。彼は京子のことを、相変わらず他人行儀に田川さんとしか呼ばなくて「京子さん」とか「京子ちゃん」などとは、一度も呼んでくれたことはない。だから自分も上田さんと呼んでいる。そんな彼が誰と付き合おうと自由で、束縛できる関係ではない。京子だってそれは同じ立場なのだ。しかし今、彼と一緒にいる知らない女性を見た途端、心の中で何かが燃えるような熱いものが沸いたのだった。そう、それはまぎれもなく嫉妬だった。彼女に対して嫉妬をしたのだ。だから姿を見つけても、声を掛けることができなかったのだ。それと彼が仲良くしている女性は自分だけだと思っていたから、今までなんの不安もなく友達のような関係のままでも構わないと思って付き合っていたのだ。それがそうではないと分かると、心中穏やかではなくなる。両親との買い物も上(うわ)の空で、考え事をしながら付いて歩くだけだった。
 
 十一月半ばの金曜日に、京子は仕事が終わると和樹が喫茶店(憩)にいないかと思い、行ってみた。金曜日の仕事帰りは喫茶店に寄ることが多いからだ。彼とはスーパーで見掛ける前から話していなかったので、かれこれ二週間以上も話していなかった。電話をすればいつでも話せるのだが、あのスーパーの件があってから電話を掛けるのも億劫(おっくう)になっていた。
すると、やはり彼は来ていた。
「お仕事、お疲れさま」
「やあ田川さんも来たの」
「今日は金曜だから上田さんが来ていると思ってね」
「ははは正解だ。金曜日恒例の、行事のようなものだから」
「何か飲む?」
「ホットを」
「ママさん、この子にコーヒーをひとつね」
 和樹はママにそう言うと、京子に話し掛けた。
「なんだか久しぶりのような気がするね」
「そうよ、もう半月以上も話していないわ」
「そうか、そんなになるのか」
「私は長い間みんなから放ったらかしにされていますので、寂しく過ごしていますの」
「いやいや、誰も放ったらかしになんてしていないと思うけど」
「そうかしら?少なくとも上田さんは公私共々忙しくて、私の相手なんかしている暇がないのかと思ったわ」
「今日はやけに引っ掛かってくるけど、どうかしたの?」
「いいえ、どうもしていないわよ」
「だったらいいけど、何か怒っているように見えるから」
「別に怒ってなんかいないわ」
「そうだ、明日は暇かい?」
「用事はないけど。それがどうかしたの?」
「もし暇だったら、二人でどこかへ遊びに出掛けないかい?」
「えっ、それ本当なの?」
「ああ本当だよ、よく考えたら今まで田川さんとは一度も二人きりで出掛けたことがなかったよね」
「二人だけでは一度もなかったわ」
「じゃあそうしよう。僕もここしばらくの間、家の法事とか青年団の行事が詰まっていたので忙しくてね、そうそう、あれは確か二週間ほど前の日曜日だったかな、青年団の行事の一環で、お年寄りが入所されている福祉施設へ慰問に行ったのだけど、その時『お年寄りにプレゼントを渡す』からって、僕と団員の女の子に『何か適当な物を買ってきてくれ』と団長から頼まれて町内のスーパーへ行ったけど、何を買えばいいのか分からなくて困ったよ。まあ何とか買ったけどね。その後、駐車場へ戻ったら君のお父さんの車が、僕の車の近くにあったよ。お父さんとお母さんが買い物に行っておられたのかな?」
 京子はその話を聞いて(あっ、あの日のことだ)と思い出して(な~んだ、あのとき一緒にいたのは、同じ団員の女性だったのか)と知って、ホッとした。それと同時に、その時のことを問い詰めなくて良かったと思った。怒った顔をして問い詰めれば、嫉妬心が丸出しになるところだったからだ。もっとも彼がその女性となんの関係もない、ただの団員同士だという保証は何もないが。ただ私にそんな話をするくらいだから、多分なんの関係もないのだろうと思う。しかし彼はなぜ急に『明日二人で出掛けよう』なんて、言い出したのだろう?今まで半年の間、そんな誘い方は一度もしなかったのに・・・・だけど考えても分からないし、その理由を聞くのも嫌だったので、この場は素直に喜んでいようと思った。
 彼は話を続けた。
「田川さん、どこか行きたい所はあるかな?」
「別にないわ。どこでもいいわよ」
「じゃあ季節的には紅葉かな?東近江市にある永源寺が有名だから、そこにでも行こうか?」
「いいわね」
 
 翌日、彼は約束の十時に家まで迎えに来た。車に乗った二人を、母が「気を付けて」と言って見送ってくれた。彼女は何やら大きめの袋を持ち、後部座席に置いたので「何なの?」と聞いた。
「今日ね、少し早起きしてお弁当を作ってきたの。紅葉を見に行くのなら、きれいな景色の所で食べたらおいしいかなと思ってね。もっとも、お母さんに半分以上は手伝ってもらったけど。ふふふ」
 京子はそう言いながら、何やら照れたように笑った。幸いにも好天に恵まれ硝子越しの車内は暖かく、絶好のドライブ日和になった。永源寺までは、ここからだと一時間少々で行けるはずだ。初めて行く所だが、車のカーナビをセットしているので道に迷うこともなく、スムーズに目的地に到着した。
 駐車場に車を停めると、二人は入り口へと向かった。すでに入り口から道の両側に、もみじの木がたくさんある。こちらも天気が良くて多くの観光客で賑わっていた。若干遅いかもしれないと思った紅葉も、山もみじの木はまだ色付いていたのでとてもきれいだった。観光コースに入ると彼は京子の手を取り、二人は手を繋いで歩いた。初めて行った関ヶ原の鍾乳洞でも手を繋いだが、その時は暗い中で危険な場所もあったからだ。だが今日はそういうわけではない。彼がどんな気持ちで手を繋いだのかは分からなかったが、こんな私たちを他人が見ると二人は仲の良い恋人同士に見えるだろうな、と思いながら歩いた。きれいな紅葉を見ながらしばらく歩いていると、彼が話し掛けてきた。
「そういえば、僕は君の写真を撮ったことがなかったよね」
「上田さんの写真は一枚も持っていないわ」
「僕も君の写真は持っていないよ。じゃあ今日は良い思い出になるように、たくさん撮っておこうか」
 そう言うと、持ってきたカメラで京子を写した。彼女もそのカメラで彼を撮った。そして一度だけは見知らぬ観光客の人に頼んで、二人一緒に撮ってもらった。ここは一番奥まで行ったら、後は来た道を引き返すだけだ。途中で昼食をと考えていたが、観光客があまりにも多いので別の所で食べることにした。
 見学コースを出てから駐車場へと戻る道筋に御土産の店があったので、二人はそれぞれの家族に御土産を買って帰ろうと店に立ち寄り、永源寺で有名な蕎麦(そば)とこんにゃくを買った。
 車に戻ると、時計を見ながら京子に聞いた。
「昼食だけど、今から車の中で食べようか?」
「そうしましょう、じゃあ用意をするね」
 そう言って車の後部座席に置いた袋を取った。食べ終えて少し休憩した後、和樹は「まだ帰るには早いので、どこかに寄ろうか」と言いながら車のエンジンを掛けた。そしてちょうど帰る道筋にあった道の駅(あいとうマーガレットステーション)に寄っていくことにした。
 この道の駅は一年を通じて色々な催し物を行っている。季節ごとに咲く花を見るだけでなく、花摘みもさせてもらえる。また季節ごとに採れる果物の販売もしている。それにレストランもあるので食事も摂れる。
 
 二人はレストランへ入り、コーヒーを注文した。ガラス越しに外を見ると色んな花が咲いている。レストランを出ると売店があったので、和樹は京子に何か買ってあげようと思い、ひととおり見た後、キーホルダーを買った。彼女は車には乗らないが、会社のロッカーのキーや家の玄関の鍵を持っているはずだ。車に乗ってから、買ったばかりのキーホルダーを袋から取り出して言った。
「これ、ふたつ同じ物を買ったから、ひとつずつしよう」と言って渡すと、京子は嬉しそうな顔をして握りしめながら、彼にお礼を言った。
「ありがとう、大事にするわ」
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
 そう言って車のエンジンを掛けた。帰る道中に京子に話し掛けた。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
「いいえ、私も誘ってもらって嬉しかったわ」
「おいしいお弁当も食べさせてもらったし、二人一緒の写真も撮ったし、いい思い出になったよ」
「早く写真を見たいわ」
「そうだね・・・ところで君に少し聞いてほしいことがあるんだけど」
「なあに?」
「どこかに車を停めてから話すよ」
 そう言うと彦根の港方向にハンドルを切った。

 彦根港に着くと車のエンジンを切り、ペットボトルのお茶を少し飲んでから話し始めた。
「田川さんと知り合ってから半年が過ぎたね」
「ええそうね」
「知り合ってから今までお互いの家を行き来したり、高山たちと四人で遊びに行ったりしたけど、二人だけで行くのは今日が初めてだよね」
「そうよ、上田さんったらちっとも誘ってくれないから」
 京子は少しふてくされた顔をして言った。
「ははは、ごめんよ。僕も気にはなっていたけどね。それで聞いてほしいことだけど、僕は君と会って話していると楽しくて、それに君のことは好きだから出来れば今後も個人的な交際じゃなくて、今までと同じように良き友として会えたらと思っているんだ。高山や吉岡さん達と一緒に出掛けるのもいいし、たまにはこうやって二人で遊びにも行きたいとも思っているよ。君が僕のことを、どういうふうに想っていてくれるのか分からないから、僕の言っていることは君を傷つけるかもしれないけど、全ては自分勝手な話で僕の我儘(わがまま)だと分かっているよ」
 京子はフロントガラスから外を見ているような視線で、まっすぐに前を見て話を聞いていた。そして少し考えてから彼に言った。
「上田さん、私もあなたが好きよ。だからこうやって誘われたら付いて行くし、家に来ても大歓迎するわ。あなたも私のことを『好きだ』と言ってくれたけど、私の好きとあなたの好きは、どうも種類が違うようね。でも私はそれでも構わない。あなたがそう言うのだったら、言うとおりにするわ。これからも友達でいましょう」
 もちろん京子の本音は和樹と交際することを望んでいたのだが、彼がそう言うのなら仕方がない。交際を無理強いすれば去っていく可能性だってある。それでは元も子もなくなるので、今は会い続けているうちに彼の気持ちが変化することを期待するだけだった。ただ彼に愛されるように努力だけはしようと思った。
「ありがとう、僕の話を理解してくれて」
 京子は彼の話を決して理解したわけではなかったが、今はどんな形でも会えれば良いと思った。

       六  父の思いやり
 今年も間もなく終わりを迎えようとしていた十二月二十八日の金曜日、和樹の勤める山岡農機は午前中で仕事を終えて、午後は毎年恒例の大掃除を行う。昼食が終わると自分達の現場に集まり上司の指示に従って掃除を始めるのだが、その前に課長からの話があった。

「皆さん、この一年間頑張って仕事をしていただき、本当にご苦労様でした。今から年末大掃除をしていただくわけですが、今年一年間怪我もなく良い仕事ができたことに対して感謝の気持ちを持って掃除をしてください。そしてまた来年も安全で無事に勤められることを祈って、きれいにしてください。安全は美しい職場で作られ、良い製品も美しい職場だからこそ作れる、ということを忘れないでください。私の話は以上です。では掃除に取り掛かってください」
 和樹は常々、安全第一で仕事をしているつもりだが課長の話を聞き、改めて安全意識をもっと高めようと思った。
 
 掃除を終えてロッカーへ行くと、高山が話し掛けてきた。
「上田、今からいつもの喫茶店に行かないか?」
「いいけど、急にどうした?」
「実は愛ちゃんとそこで会う約束をしているんだ。それでおまえと田川さんも来ないかと思ってね」
 高山はいつの頃からか知らないが、吉岡のことを「愛ちゃん」と呼んでいるのだった。高山から吉岡との話は聞いていないが、愛ちゃんと呼んでいるところをみると、二人の仲はかなり進展しているのだろうと予測できた。
「そうか、おまえたちは待ち合わせているのか。僕は行ってもいいけど、田川さんは聞いてみないと分からないよ」
「愛ちゃんから伝えてもらうように俺から電話をするよ」
「そうしてくれるか、もし田川さんが行くと言ったら僕も行くから」
 高山はポケットから携帯を取り出して吉岡に電話をした。近くに京子がいたのか、一分と待たないうちに返事が返ってきた。電話を切ると和樹に言った。
「オーケーだ。田川さんも来るってさ」
「じゃあ行こう」
 そう言うと、着替えた作業服を洗濯に持ち帰るため袋に入れた。そして二人は喋りながら、車が置いてある会社の駐車場へと向かった。
 
 彼らが喫茶店に着いて十分ばかりすると、彼女たちもやってきた。
「お待たせ」
 吉岡は高山にそう言いながら、彼の隣に腰掛けた。京子も和樹に「お疲れさま」と言って隣に座った。四人はコーヒーを飲みながら雑談をしていたが、高山が話を変えて言った。
「みんな、正月休みはどうするの?何か予定はあるかな?もしなければ四人でどこか行かないか?」
 すると吉岡が真っ先に「京子、行こうよ」と言った。
 今年の正月休みは今日が金曜だから、二十九日の土曜から休みで、来年の六日の日曜日まで九日間の長い休みになる。カレンダーの巡り合わせで、例年よりも休みが三日間多い。
「そうだね、今年は休みも多いし家にばかりいても退屈だから、みんなで遊びにいこうか」
 和樹も高山の意見に賛同した。そして京子にも聞いた。
「田川さんもいいかな?」
「私も連れていって」
 嬉しそうな顔をして答えた。
「それじゃいつにしようか?」
 高山は話を進めた。
 四人で相談した結果、一月三日に行くことに決まり、行き先は冬らしく福井県敦賀市にあるスケート場(ニューサンピア敦賀スケートリンク)と決めた。十時に開くので九時半に会社の駐車場で待ち合わせて、今回は高山の車に四人が乗って行くことになった。
 話を終えた四人は喫茶店を出ると高山が和樹に言った。
「今から愛ちゃんとデートするから、おまえは田川さんを家まで送ってやってくれないか?」
「そうなのか、分かったよ」
 そこで高山たちと別れた和樹が京子を乗せて家まで送ると、彼女は「少し寄っていって」と言った。和樹は「年末の忙しい時だから、お母さんも迷惑だろう」と言って、断ったが「大丈夫だから」と言うので、少し寄ることにした。
 
 いつもの部屋に通されて今年の出来事など二人で話していたが、少し間が空いた時、彼女が話題を変えた。
「上田さん、三日は四人でスケートに行く約束をしたけど、他の日は私をどこかに連れて行ってもらえないの?高山さんと愛は、きっと二人で会うと思うわ」
 和樹は彼女の話を聞いて(高山たちと僕たちを比較するのはおかしいだろう)と思ったが、それは聞かなかったことにして答えた。
「長い休みだからもう一日、出掛けようか」
「わ~、嬉しい」
 彼女は本当に嬉しそうに喜んだ。どんな時でも自分の気持ちが素直に顔に出る女性なので、彼女のそんなところも好きだった。
「じゃあどこへ連れていってくれるの?」
「行くなら年が明けてからだろう、まだ日があるから考えておくよ。三日に行って四日も行くと疲れるから五日にしよう。そして六日はゆっくり休んで、七日からの仕事に備えようか」
 
 そんな話をしているところへ京子の父が帰宅した。そして和樹を見て言った。
「やあ上田さん、いらっしゃい。久しぶりだね」
「またお邪魔しています。年末の忙しい時にすみません」
「いやいや、そんなことは気にしないでいつでも来てください。ところで君の会社は明日から来年の六日まで正月休みだと京子から聞いたが、私も今年は三十日から三日まで休みでね、それでどうだろう年末の三十一日に、もし差し支えなかったら年越しそば、ならぬ年越し酒に付き合ってくれないかな?用事があるか君の家族がダメだと言ったら、仕方がないから諦めるけど」
「特に用事はありません。家族もダメだとは言わないと思いますが、田川さんのお家(うち)こそ、一家団欒のところへ僕なんかがお邪魔するのは却って迷惑でしょう?」
「私がいいと言っているのだから、それは大丈夫だ。なあ京子、おまえはどうだ?」
「私は以前から言っているけど、いつでも大歓迎よ」
 そう言うと、父も嬉しそうな顔をしながらすかさず言った。
「おまえもそう思うだろう。じゃあ上田さん、ここはひとつ是非とも今年最後の私の願いを聞いてくれないかな?」
「は分かりました、お付き合いできるほどは飲めませんが」
「うんうん、ありがとう。じゃあ三十一日の夕方には来てくれよ。もちろん泊まっていけばいいから」
 和樹は(そうか、飲んだら泊まるのだ)と思い(また京子と同じ屋根の下で寝るのか)と思うと、なにやら複雑な気持ちになった。
 
 和樹が帰った後、またしても父が京子に聞いてきた。
「彼とはまだ付き合っていないのか?」
「まだよ。個人的には付き合っていないわ。この前に会った時も『友達でいてくれ』って言われたの」
「そうか、そう言われたのか。おまえのことをどう想っているのだろうな?」
「分からないわ」
「こうやって度々家に来るのだから、好きなんじゃないかと思うのだが」
 そう言うと首を傾(かし)げて部屋を出ていった。
父の言った「好きなんじゃないか」という言葉は恋愛感情を指して言っているのに違いないと思ったが、彼の心の中は父に言ったとおり、京子にも分からなかった。
 
 年末の三十一日、和樹は肉屋さんへ寄り、肉を買って京子の家を訪れた。彼女の家にも肉は買ってあるだろうけど、もし重なっても冷凍しておけばいつでも食べられると思ったからだ。
 家に着いて玄関のチャイムを鳴らすと、すぐに京子が出てきた。
「こんばんは」
「いらっしゃい、待っていましたわ」
「これ良かったら食べてください」
「なあに?そんなことしなくてもいいのに。じゃあ遠慮なく頂きます」
 部屋へ通されると、すぐに父が挨拶に来た。
「上田さん、今日は無理をお願いして申し訳なかったね」
「いえ、僕も特にすることもなく暇ですので」
「いま母さんが用意をしているから、もう少し待っていてくれないか」
「ありがとうございます」
 しばらく雑談をしていると「食事の用意ができたから」と、母が二人を呼びに来た。ダイニングにはすでに弟の裕司も来ていて、入ってきた和樹に「こんにちは」と挨拶をした。
 テーブルの真ん中にはすき焼き鍋が置いてあり、カセットコンロの火で、ぐつぐつと煮えている。六人掛けのテーブルには和樹と京子が並んで座り、その正面に父と母が並んで座った。裕司は長方形の短いほうに座っている。
 皆が座ったのを見届けた父が「じゃあそろそろ始めようか」と言って、熱燗の徳利(とっくり)を手に取ると「上田さん、一杯どうぞ」と言って差し出した。和樹もその後、父に注ぎ返した。
 五人はすき焼きをつつきながら、しばらくあれやこれやと世間話をしていたが、少しばかり酒に酔ってきた父が和樹に話し掛けてきた。
「今日は本当にありがとう。お陰でおいしい酒が飲めたよ。これからもたまには付き合ってもらえるかな?」
「僕でよければいつでもお付き合いさせていただきます」
「そう言ってくれると嬉しいよ。ところで付き合いといえば、この京子のこともよろしく頼むよ。君のような青年だったら娘の相手として、何ひとつ不足はないからね。安心して任せられるよ」
 そう言う父の言葉に(お父さんは僕と彼女が交際をしていると、決めつけて話をしているのだ)と思ったが、この場は「はい」と言うより仕方がなかった。
 父は父で、二人が交際していないことを知っていたが、娘の意を汲んで和樹にそれらしきことを遠回しに話しながら、彼の反応を見たかったのだった。
 二人の交際のことに親が口をはさむわけにもいかないので、はっきりと「付き合ってやってくれないか」などとは言えない。娘の彼に対する気持ちは分かっていても、和樹の気持ちは聞かない限り分からないし、それを娘の前で聞くこともできない。もし悪い返事でも返ってきたら娘を泣かせることになるからだ。
 ゆっくりと時間を掛けて、食べたり飲んだりした楽しい晩御飯も終わり、酒に酔った父は早々に自分の部屋へと引きあげた。京子は母と一緒に後片付けをしているので、和樹は一人でリビングのソファーに座った。しばらくすると後片付けの終わった京子が隣に座り、彼に言った。
「今日は父の相手をしてくれてありがとう。却って疲れたでしょう?」
「そんなことはないよ。僕は普段お酒を飲まないから、たまに飲むとおいしくてね。お母さんの料理もおいしかったし、お父さんは色んな話をしてくれるから楽しく過ごせたよ」
「だったらいいけど『私のことをよろしく頼む』だなんて、変なことを言うから恥ずかしかったわ」
「それは親として、大切な一人娘を想ってのことだから仕方がないよ。お父さんは僕たちが交際していると思っておられるのだろうけど、先日も君に言ったように、出来れば良い友達として付き合ってほしいと思っているんだ」
「それは分かっているわ。友達だろうと恋人だろうと、大事なのはこうやって会うこと、会い続けることよ。恋人として付き合っても、すぐに別れたら意味がないわ。だから今は会えれば友達でもいいの。男女関係の最後は結婚するか別れるかのどちらかだから、恋人として交際しても結婚しなければ別れるだけよ」
 話を聞いて「今は会えれば友達でもいい」という言葉は嬉しかったが、裏を返せば「いずれ恋人になれるから」とも聞き取れた。どちらにしても京子の言うとおり、結婚しなければ別れるだけだ。そして別れたら誰かほかの人と結婚するのだろう。普通の男女なら・・・(普通の男女なら)と、心の中で呟いた和樹の顔が一瞬曇ったのを京子は気付かなかった。
 
       七   告白
 年が明けた二〇十八年の一月三日、高山たちと約束していたスケートに行く日がきた。福井県とはいえ、滋賀県の隣県なので敦賀市はこの木之本町から三十分あまりで行ける近い所だ。それにそのスケート場は屋内リンクなので天気が悪くても心配はなかった。
 
 十時過ぎに着いた四人はスケート靴を借りるとリンクへ入った。当たり前だが全員素人なのでエッジの厚いフィギュア用の靴にした。和樹は子供の頃から親に連れられて何度か来ているので少しは慣れているが、就職してからは来ていなかった。他の三人は一、二度来ただけなのでリンクに入ると、おっかなびっくりといった足つきで氷の上に立った。
 高山と吉岡は側壁に手をやり、ゆっくりと足を交互に出して滑り始めた。そして少し慣れると二人は側壁に当てていた手を離し、並んでそろそろと滑っている。一人で滑るのも恐々なのに、手でも繋ごうものなら二人ともすぐに転んでしまうに決まっている。それが分かっているのか、二人は手を繋がずに両手で体のバランスを取りながら滑っていた。京子も慣れていないので和樹は分かる範囲で教えながら、彼女の手を取り滑った。
 三十分ほどすると高山たちもけっこう慣れてきたようで吉岡の手を取り滑り始めたが、案の定二人そろって見事に転び、尻もちをついていた。それを見ていた和樹と京子は笑うのは失礼だと分かっていたが、我慢できずに笑ってしまった。いつも仲の良い二人だが転ぶのも同時だったので(何もそこまで仲良くしなくてもいいのに)と苦笑いしたのだった。
 
 三時間ばかり遊んでからスケート場を後にした四人は市内のレストランへ行き、少し遅い昼食を摂った。まだ時間も早かったので、これからどうしようと相談をしたが慣れないスケートで足が張っていたので、今日はこれで帰ることに決めた。
 
 会社の駐車場に着くと高山と片岡はまだ遊び足らないのか、それとも二人はもっと一緒にいたいのか、車に乗ってどこかへ行ってしまった。残った和樹と京子は「どうしよう」と言いながら迷っていたが、遠出をする時間でもないので、行きつけの喫茶店に行くことにした。
 中へ入るとママが年頭の挨拶をした後、二人に聞いた。
「今日は珍しく二人だけなのね」
 和樹が答えた。
「さっきまで高山たちと一緒だったけど、いま別れて僕たちはここへ来ました」
「そうなの、何か飲む?」
 二人はコーヒーを注文しながらカウンターに腰掛けた。ほどなくして出来たコーヒーを、ママは二人に渡しながら和樹に聞いた。
「あなた達は付き合っているの?」
「いいえ彼女は友達です。付き合ってはいません」
 そう答えると京子も頷いた。するとママは続けて
「そうなの、私はてっきり付き合っているとばかり思っていたわ。二人はどう見てもお似合いのカップルに見えるから」
 そう言ってほほ笑んだ。
 一時間余り喫茶店で過ごした後、京子を家まで送り、二日後の五日に会う約束を改めて確認して自宅へ帰った。そして五日の日、九時に迎えに行くと彼女はすでに外に出て待っていた。
「寒いのに外で待っていてくれたの?」
「いま出たばかりよ。上田さんは時間を守るから待たなくて済むわ」
 京子は上田が開けてくれた助手席から車に乗ると、彼に聞いた。
「どこへ行くのか決めたの?」
「天気予報を見ながら考えたのだけど、今年は今のところ雪も積もっていないので、福井県の東尋坊でも行こうかと思っているけど、いいかな?」
「私はどこでもいいわ」
「じゃあそうしよう」
 和樹はエンジンを掛けて車を走らせると、国道八号線へ出て北へ向かった。木之本町から二時間半ほど掛かるので、着くと昼前になるだろう。東尋坊は日本海に面しており景色が良いことで有名なのだが、切り立った高い崖と日本海特有の荒波で、もし崖から落ちたら絶対に死んでしまうような所だ。そして遺体も見つからないことが多いと言う。それで自殺の名所になっているのは非常に残念なことだ。
 
 東尋坊へ着くと二人は車から降りて、どちらからともなく自然と手を繋いで海のほうへと続く道を歩いた、道の片側には御土産を売っている店が並んでいた。崖の近くまで来ると日本海の荒波が白いしぶきをあげて、岩に打ちつけられている様子を怖々と覗いた。しかし一月の海から吹き付ける風は冷たくて、早々にこの場所を離れて暖かくしてある東尋坊タワーに入り、家族への御土産を買った。東尋坊を後にして昼食を摂るため、道路沿いに設けてある観光客が休憩できる駐車場に車を入れた。昼食は今日も彼女が作って持ってきてくれたので、ヒーターを掛けたまま車の中で食べた。出来れば外に設置されている椅子に座って日本海の景色を見ながら食べると、もっとおいしいかもしれないが、一月の気温では寒くて外では食べられない。昼食を終えると、まだ時間も早いのでどこかへ行こうと思ったが、空から白いものがチラチラと降ってきたので帰ることにした。事故を起こさないように、ゆっくりと安全運転で帰ったので彼女の家に着いたのは、夕方の四時近くになっていた。京子に「家に寄っていって」と勧められたが、空模様が怪しかったので今日はこのまま帰ることにした。
 
 月日の流れは早いもので新しい年が明けたと思ったら、もう桜の咲く季節が近づいて来て、地方の早い所では開花宣言も出されていた。そんな三月の終わりの日曜日に、京子の父が話し掛けてきた。
「最近上田君はどうしているのだ。家(うち)にも来ていないようだが?」
「別にどうもしていないわ、元気でいるわよ。家には滅多に来ないけど私たちは外で会っているわよ。二人で行くこともあれば、四人グループで遊びに行くこともあるけど」
「外では会っているのか、だったらいいのだが」
「お父さん、何か気になることでもあるの?」
「いや別に、それより上田君に一度家(うち)に来るように言ってくれないか。また花見酒に付き合ってほしいのだが、ははは」
「それだったら電話をして聞いてみるわ。一週間程後なら桜もきれいに咲くんじゃないかしら」
「そうだな。しかし真っ昼間から外で飲むのもどうかと思うので、夕方から家で飲むよ」
「そうなの、じゃあもし来てくれると決まったら、五時頃でいいわね」
「それでいいよ、すまないね」
「いいのよ。私も一緒にいたいから」
 そう言うと携帯電話を手に取った。そして次の土曜日に家に来る約束を取り付けた。
 
 土曜日、彼は約束どおり五時に来た。一旦応接間に入った彼のところへ父の孝弘が入ってきて和樹に挨拶をした後、呼び出した非礼を詫びてから言った。
「実は上田さんに聞きたいことがあってね、飲む前に少し私の話を聞いてくれないか?」
「分かりました」
 京子の父が何を話そうとしているのか分からなかったが(おそらく僕と娘についてだろう)と感じた。京子は父が彼にそう言ったことに対して何も聞いていなかったので、怪訝(けげん)な顔で父を見ていた。京子に「上田さんと二人で話したいから、しばらく席をはずしてくれ。おまえには明日にでも話すから」と言って、京子を部屋から出した。そして上田と向かいあって座ると、話を切り出した。
「話というのは他でもない、娘のことなのだが・・・・君と知り合って一年近くが経つそうだが、二人でどこかへ出掛けたり、こうやって家にも来てくれたりしているので、付き合いが続いているのは分かっているのだが、やはり今でも友達のままなのかな?」
「僕はそのつもりでお嬢さんと付き合わせていただいています」
「そうか・・・それならそれで構わないのだが、はっきり言って京子は君のことを好きなんだよ。好きという言葉には色んな意味があるが、娘の好きは恋愛感情を持っているという意味での好きなのだ。そこでひとつ聞きたいのだが、君も京子のことは好きだと思うが、君の好きはどのような意味での好きなのか、教えてくれないか?」
 
 和樹は父からそう言われて、返答に迷っていた。だが今日の父は親として娘を心配し、男二人だけで腹を割って話しているのだ。いい加減な返事をするわけにはいかないと思った。少し考えた後、話し始めた。
「お父さん、僕の京子さんに対する気持ちですが、それを話す前にひとつだけ聞いていただきたいことがあります。それで今から話すことは御家族以外の誰にも言わないと約束してください。この話は僕の家族以外は誰も知らないことです」
「分かった、必ず約束するよ」
「では聞いてください」
 そう言うと茶碗のお茶を飲んで話し始めた。
「実は、僕の体のことですけど・・・詳しい内容は言えませんが、ある病気を抱えています。その病気は現時点では生活に支障をきたすほどのものではありませんが、治療をしても完治しないという病気なのです。その病気は進行速度がとても遅くて当分の間は何も問題ないと思いますが、いずれはどうなるか分かりません。そのいずれとは五年後かもしれないし、十年後かもしれません。また二十年持つかもしれないし、もしかしたら五十年持つかもしれません。それに関してはお医者さんにも予測不可能だと言われています」
 そこまで話すと、またお茶を飲んだ。父は驚いた顔をしていたが、何も聞かずに話を聞いていた。そして彼は話を続けた。
「だから知り合って一年近く経っても、個人的な交際はしないで友達のままでいました。京子さんにも友達でいてほしいとお願いしました。もし愛し合って交際しても、二人には明るい未来がないと分かっているからです。爆弾を抱えているのと変わらない僕の体では、幸せにしてあげることはできないからです。でも人間というのは理性と感情の動物で、それをうまくコントロールできるのは強い人間です。弱い僕は理性で分かっていても感情のコントロールができませんでした。彼女とはずっと友達のままでいよう、二人きりで遊びに行くのもよそうと思っていましたが、自分の感情を抑えることができなくて、何度も二人で遊びに行ってしまいました。それはとても楽しかったし、いい思い出もできて嬉しかったけど、その反面少しばかり後悔しています。やはり誘うべきではなかったのではと。今さら後悔しても始まりませんが・・・・それで先ほど、お父さんが僕に聞かれた『好き』という言葉の意味ですが、正直に言いまして僕は京子さんのことを愛しています。愛しているからこそ遊びにも誘いますし、こうやって家にも来ます。愛してもいない女性を誘ったり、家に行ったりはしません。時にはどうしようもないくらい苦しくて辛くなります。愛してはいけない、個人的に交際してはいけないと分かっていても、感情が理性を上回ってしまうのです。今の僕は京子さんとのこれからを、どうしたらいいのか分からないのです。別れなければダメだという気持ちと、別れたくないという気持ちが心の中で葛藤しています」
 話し終えた和樹の目は心なしか潤んでいた。父は話を聞き終えた後、頭の中を整理しているかのように下を見て何かを考えていた。しばらくして顔をあげると、和樹の顔を見て話し掛けた。
「上田さん、とても話しづらいことを聞かせてくれてありがとう。まず君の娘に対する気持ちはよく分かったよ。やはり恋愛感情を持っていてくれたのだね。その気持ちを前提として病気のことだが、確かに君の言うとおり結婚しても何年後かは分からないが、その病気が原因で倒れるようなことでもあれば、娘が辛い思いをすることは明白だ。それもただ悲しむだけじゃなくて色んなことで苦労をするだろう。お爺さんになるまで体に問題が起こらず、寿命がきて亡くなるのは仕方がないが、十年後、あるいは二十年後にそんなことが起こる可能性があると分かっているのであれば、親としては娘の結婚相手として認めるわけにはいかないのが当然だよ。しかしお互いに愛し合っているのが分かっているし、君の人間性は私もよく分かっている。だからこそ無下に反対することはしない。今すぐに結論を出せる話ではないが、私がもし反対しても、京子が『はい分かりました、お父さんの言うとおりにします』なんて言うとは思えないよ。それでも私は基本的に二人の交際に反対をさせてもらうよ。但し、娘の気持ちを一番に尊重するつもりだ。君の体のことを知っても気持ちが変わらずにいて、今後起こるかもしれない最悪の状況を想定し、その覚悟を持って付き合いを続けるのだったら、それはそれで仕方がない。私は娘の泣いている顔をみたくはないからね」
 父は娘に理解があるのか、それとも心が広いのか分からないが、そう話した。しかし娘に理解があるのなら、逆に猛反対して別れさせるべきではないかと思った。一時的に娘を悲しませても、将来の幸せを優先するべきではないだろうか?もっとも別れた彼女の悲しみは一時的なもので治まるのか、いつまでも引きずるのか、それは分からない。それに自分と別れても彼女の将来の幸せが約束されるわけではない。ただいずれにしても父の心理というものが和樹には理解できなかった。しかし父の理解により、お互いの気持ち次第では交際も可能になり、結婚だって夢ではないというほどの進展が見えてきたのだった。
 
 二人の話し合いが終わり、ダイニングへ行くと夕食の準備が整っていた。五人が揃うと父はさっそく徳利を手に取り、和樹に差し出した。二人は飲みながら楽しそうに話をしているので、京子は二人の間にどんな会話があったのか早く知りたかった。ただ少なくとも悪い話ではないだろうと、二人の表情を見て読み取れた。
 
 あくる日、和樹は両親にお礼を言って自宅に戻った。京子は見送った後、家に入ると父に昨日の件を問いただした。
「さっそくだけど、昨日彼と話したことを教えてくれる?」
「いいよ、その前に母さんも呼んでくれないか。一緒に聞いてほしいので」
「分かったわ、ちょっと待っていてね」
 母を呼んだ後、父と向かい合って座った。
「じゃあ上田君と話したことを今から二人に話すからよく聞いてくれ。最初に言っておくが、今から話すことは絶対に他人に言わないと約束してほしい。私も家族以外は誰にも言わないと、彼に約束をしたから」
 妻と京子に約束を取り付けると、改めて話を始めた。和樹と話した内容を一語一句言い漏らさないように思い出しながら、ゆっくりと話した。妻と京子も聞き漏らさないようにと聞いていたが、二人の表情は話が進むに従って変化の度合いが大きくなっていったのだった。
「私は二人が交際することに反対だが、京子の気持ちを考えると頭ごなしに反対をするつもりはない。京子の気持ちも尊重したいと思っている」と自分の考えを言った後「母さんはどう思う?」と母に問い掛けた。
「そうね、お父さんの話を聞く限り京子の将来は不安だわ。親としては自分の子供が不幸になるかもしれないと分かっていて賛成なんてできないわ。でも幸せか不幸せかは本人が感じることであって、周りの者が決めることじゃないと思うの。今後も二人の交際が続き結婚をしたとして、その何年か後に上田さんの体に異変が起こって最悪の結果を迎えた時に、京子が自分は不幸だと思うかどうかよ。もちろん不幸には違いないけど、それまでの幸せだった日々を、その時の不幸以上に感じていたら、決して悔いのない不幸だと思うの。そりゃあ他人から見たら、すごく不幸な女に見えるでしょうけど。好きな人と別れたことを後悔しながら不本意な結婚をするほうが、よほど不幸だと思うわ。だから母さんも、彼と別れるほうが京子にとって幸せだとは言いたくない。それに京子も間もなく二十歳になるから、自分の行動や言動は全て自己責任を取らなければならない年齢だし、それを踏まえて自分で決めればいいと思うわ」
 母の思いも父と同じく、京子の気持ちを一番に尊重すると受け取れた。話を聞いた父が京子に言った。
「それじゃあ最終的にはおまえが決めればいいと思うが、時間を掛けてでもじっくりとよく考えてから結論を出しなさい。一時的な情熱に流されてはいけないよ。もしおまえが今は交際を続けるという結論を出しても、今後二人のどちらかに「気持ちが覚めたから」と言って、別れる可能性もないわけではないし、そうなればそれはそれで仕方がないのだから」
 両親の話を聞いて自分への愛情をひしひしと感じた。こんなに理解のある親を持って(私は幸せだ)と思った。彼の病気のことは初めて聞き、普段会っていてもそんなそぶりは少しも見せないのでとても驚いたが、今すぐにどうこうなるわけではないので安心した。そしてそれ以上に彼が自分のことを愛してくれていたことを知って、内心飛び上がりたいほど嬉しかった。自分の病気が原因で交際をしなかったことも、よく分かった。そこで大切なのは今後のことだ。父は「時間を掛けてゆっくり考えなさい」と言ったが、自分の気持ちは決まっている。もちろん交際を続けるということで、今は自分の気持ちを大事にしたい。自分の気持ちに正直でありたいと思っている。確かに父の言うとおり、今後いつ心変わりをして別れるとも限らない。しかし今は自分の感情を優先したい。そう心に決めたが、両親には「よく考えてから結論を出します」と答えておいた。

      八  幸せか不幸せかを決めるのは誰?
 一週間後の土曜日、和樹と京子は会う約束をしていた。当然だが二人とも彼の病気の話を含めて、交際の話がしたかったからだ。今日は京子の家ではなく車で出掛けて、どこかで話すことにした。和樹は近い所で町内の飯の浦(はんのうら)へ行き、レストランの駐車場に車を停めた。時間的に考えると話が終わった後、ここで昼食を摂れるから都合が良いと思ったからだ。
 最初に和樹から京子に話し掛けた。
「お父さんから話は聞いたと思うけど、今まで病気のことを黙っていてごめんよ。会うたびに言おうかどうか迷っていたのだけど、結局言えなかったよ。言えば僕から離れていきそうで怖かったんだ。でも本当はそうじゃなくて、病気のことを正直に話しておくべきだった。そしてその結果、自然に君のほうから離れていったとしても、それは仕方がないことなので僕は諦めるよ。僕が君を愛しているのなら、君の将来の幸せを一番に考えるべきだったと思う。もし交際が続いて結婚しても、僕は幸せにできる自信がないんだ。だから今日を最後にしてくれても構わないよ」
 和樹は本心から(今日を最後に)とは思っていなかったが、京子の将来を思ってそう言った。
すると話を聞いた京子がいきなり怒り出した。
「上田さん、私はあなたのことが好きです。あなたも私のことを想っていてくれると父から聞きました。あなたは自分の病気を理由に私を幸せにできないから別れたほうが良いと思っているのでしょうけど、あなたが言う私の幸せとは別れることなの?交際を続けることは私にとって不幸なの?それは誰が決めたのですか。あなたが自分で勝手に決めたことでしょう。何が幸せで何が不幸せかを決めるのは私自身です。あなたでもなければ、家族でもありません。この先いつの日か分からないけど、あなたにもしものことがあったら私は悲しくて泣くでしょう。でも悲しみは、イコール不幸ではありません。悲しい気持ちと不幸な気持ちは別のものです。今まで一緒に暮らせたことを、誰よりも私は幸せだったと、きっとそう思うでしょう。その反対に一緒に暮らせなかったら誰よりも不幸だと思うし、その不幸な気持ちは一生消え去ることがないでしょう」
 京子はいつになく強い口調で話した。話を聞いて、言っていることは十分に理解できると思ったが、現実問題として自分の病気のことを考えると、交際を続けて結婚をしても(彼女は本当に幸せになれるのだろうか?)と思った。ただ彼女も自分のことを愛してくれているからこその言葉なので話は嬉しかった。そして信じたかった。
 和樹は少し考えた後、言った。
「つまり君は僕との交際を続けることを、望んでいてくれるのだね」
「そうです。私は病気のことを知っても自分の気持ちが揺らぐことなど、ちっともありませんでした。それよりも、もしあなたに何かあったら私が支えてあげたいと思いました。それなのに別れるほうが私にとって幸せだなんて、思い違いも甚(はなは)だしいわ」
「そうですか、僕の思い違いですか。それはごめんね、そしてありがとう。そう言ってくれてとても嬉しいよ。君のことを幸せにするとは言えないけど、努力することだけは約束するから」
「私のほうこそ、そう言ってもらえて嬉しいわ。でもそのうちに気持ちが覚めたとか言って、別れようって話になるかもよ、ふふふ」
 京子は機嫌が直ったのか、いつものように軽く冗談を言った。
強い緊張感から解放された二人は、時計の針が十二時を指しているのを見ると車から降り、レストランへ入った。昼食後、京子の家に帰ると和樹は家の中へ入り、彼女の両親に先ほど二人が話したことを伝えて交際の許可をもらった。両親は時折笑顔を見せながら話を聞いてくれたが、やはり娘の将来を心配しているのだろう。それが顔の表情から伺えた。
 
 家に戻った和樹はこのことを両親に話した。すると両親共々「これから先のことは分からないけど、取り敢えず良かったね」と言ってくれた。ただ母は「そのお嬢さんを幸せにしてあげられたらいいのだがね」と言って、ハンカチで目頭を拭っていた。
 
 交際は順調に育まれ、二年の歳月が過ぎた。やがて二人の話題は交際から結婚へと変わったのだった。和樹の病気は発症することなく健康で、ごく普通の日常生活を送っていた。さらに半年が過ぎると結婚の話も具体的になり、二人と両家の両親を含めて日取りの相談が行われた。
 そんな折、和樹の元にひとつの朗報が舞い込んだ。それは彼が掛かっている病院の担当ドクターからで、つい最近だが病気に効く新薬が開発されたとの話だった。以前より研究されていて、その薬の効果を確認するのに何年もの日数が掛かったが、効果も十分に確認できたので発表にこぎつけたとの話だった。
 和樹の病気は今まで不治の病とされていたが、ドクターの話だと「その薬を服用し続ければ、必ず完治する」と太鼓判を押されたのだった。その話を聞いた和樹はもちろんだが、京子も両家の家族も大変喜んだのは言うまでもない。
 今すぐに治るわけではないが、将来の見通しが明るくなったのは事実だ。もし治ったら京子を幸せにしてあげられるかもしれないと思うと、そんなに嬉しいことはないと感じたのだった。
 彼女との結婚そして病気の完治、二つの幸せを同時に手に入れた和樹は、ただただ神に感謝するほかなかった。
 
 西暦二〇二二年の五月吉日、上田和樹と田川京子は多くの人に祝福されて、結婚式を挙げた。
  夫 上田和樹、二十六歳
  妻   京子、二十三歳。
    二人の未来に幸せが訪れますように。     
                                     完

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