罠
「いいね。お前は人間として暮らすんだ。わかったね」
白蜥蜴が生後間もない赤子にそう話しかけている。赤子は眠ったままで、微笑みを浮かべているようだった。
蜥蜴はその爪で赤子を傷つけないように、そっと撫でる。水色の瞳が涙で濡れているように見えた。
がくんと、急に大きな揺れを感じ、アミアは地面に投げ出される
。
「王女様!」
振動とタラの声で叩き起こされた。
「白い蜥蜴。まったく気色悪い」
そう声を発したのはガズだった。人懐っこい顔は奥にひっこみ、唇は斜めに歪められている。地面に落ちたアミアを掴もうと腰をかがめていた。
「させるものか。裏切りものめ!」
タラは相手にしていた二人に痛恨の一撃を加え、ガズに体当たりをする。
「王女様!」
アミアを地面から拾い上げ、タラは走り出していた。
タラの心臓の音を体で感じる。
「王女様。俺が必ず守りますから」
タラは走りながら腕の中のアミアにそう誓った。
★
穏やかな夜が明け、再び旅が始まり、それは起きた。
ジネが用を足すと、一行から抜けた。ガズは後からついてくるはずだと、歩みを止めなかった。
「!」
背後に不意に感じた殺気、タラは剣先が触れる前に体を動かした。
襲い掛かって来たのはジネだった。
「不意打ちはだめだったか。じゃあ、正当法でいくしかないね」
信じられない台詞を吐いたのはガズ。その背後のペリが剣を抜いて構える。
「さあ、ワズリアンの親衛隊の実力見せてもらうよ」
それが合図になり、ペリとジネがタラに襲いかかった。
籠を庇いながら、タラは剣をふるった。相手は前日相手にした領民とは異なり、戦い慣れしていた。それでも通常の戦闘であればタラに有利だった。しかし二対一、しかも片手に籠を抱えている。直ぐに追い込まれ、切りつけられた。籠が手を離れ、地面に落ちる。
それを狙い、ガズが地面に放りだされたアミアを掴もうとした。
アミアが目を覚ましたのはそこからだった。
走るタラの腕の中で、状況は完全に把握できなかった。わかるのはガズ達に追われていることとタラが怪我をしていることだ。
「タラ。大丈夫?血が出てるじゃないの!」
タラの肩から血が流れ出ていた。止血しなければとアミアは叫ぶ。
「こんなのかすり傷です。早くあいつから遠くに逃げないと」
傷の手当てをしている時間はない。二人に傷を負わせた感触があった。しかし深手ではない。直ぐに追ってくるはずだと、タラは足を止めなかった。
★
静かな朝だった。
ケシは目を覚まし、ゆっくりとベッドから体を起こす。カーテンに遮られていたが、外の明るさは伝わってきた。
痛めた足を慎重に床につける。痛みはない。
体重を掛けて立ち上がろうとすると、ピリッと痛みが走った。
だが、堪えられない痛みではなかった。
ラズがその場にいたら叱り飛ばしていただろうが、ケシは構わず痛みを感じながらも歩く。
カーテンを開けて、違和感を覚えた。
妙に外が静かだった。
外にいる兵士の数が減っているような気がした。
日は正午に近づいているようで、かなりの高さに登っている。
ケシは痛む足を引きずり、部屋の外に出た。
「親衛隊長殿!」
ケシの姿を見かけて下男が慌てて駆け寄ってきた。
「歩くのはまだ早いです。何か御用ですか?私が代わりに承ります」
男――マニの様子にケシは眉を顰める。
妙に親切だった。昨日はケシに対してあからさまではないが、敵意を持っているようだったのに。
「……何を企んでる?」
怪我をしているとはいえ、この男を倒すことなど造作もなかった。ケシはどすの利いた声でマニを脅す。
「な、何も!私は何も知りません」
ケシの実力を知っているマニは悲鳴のような声を上げた。
すると使用人達が集まってきた。
ケシは戦う構えを取る。しかし昨日まで感じていた敵意を彼らから感じることはなかった。
★
「ちょこまか逃げやがって」
森の中ではぐれることを避けてか、ガズ達が別れて行動することはなかった。
そのことに少し安堵しながら、タラはできるだけ、森の地形を利用して逃げた。木が絡み合う場所、草の背丈が高い場所。そういう場所を選んで走った。
親衛隊では一番持久力に長けている。それでも、タラにも限界が来ていた。
「見つけた!」
頭上から声がかかり、ガズたちがタラの前に飛び出す。
「そろそろ観念しようか。もしその蜥蜴を渡してくれるなら、君の命を助けてあげてもいいよ」
剣を玩びながらガズは笑う。
蜥蜴と聞き、アミアの震えがタラに伝わる。
「引き渡すくらいなら死を選ぶ!」
タラは剣を構え、もう片方の手でぎゅっとアミアを強く抱く。そして突破するために三人に飛び掛った。
★
「デリ、この方向でいいんだな?」
「はい。森を抜けるにはこの道が一番早いです!」
ラズは兵士を率いて森に入っていた。案内するのは領民の中でもっとも森に詳しい男だ。
早朝、半分死にかけと表現してもおかしない状態で、森に送ったはずの部下一人が屋敷に戻ってきた。
「なんだと?」
男から報告を受けたラズは自分の耳を疑った。嘘を言っている、そう信じたかった。だが命がけで戻ってきた部下が嘘など言うはずはなかった。
「早朝ガズ様と二人の男に襲われました。キシは助かりませんでした。私は川に逃れ、なんとか生き延びましたが……」
なぜ、そんなことを。
ラズは動揺を隠せなかった。
だが、直属の部下を襲い瀕死に至らしめたのは事実だった。
狙いは王女で、今森にいる男達は王女を狙うものに違いなかった。
「トキ。お前は休め。よくぞ戻ってくれた。私は森に向かう。森に詳しいものを呼べ」
ラズの行動は早かった。しかし、ケシには話さず、事を進める。
一行が旅立ってすでに一日以上が経過していた。直ぐ追わないと取り返しのないことになる。
そうしてラズは今、森の中にいた。
ガズが小舟を持ち出しているのを思い出し、弟の計画を読む。森から逃げるには屋敷のほうへ戻ってくるか、川に出るしか道はない。
屋敷に戻ってくる危険を冒すわけがなく、弟は必然的に川へ逃亡するはずだと結論付けた。
川に出る最短の道を案内させ、足の速い兵士を連れ、ラズはガズを追っていた。
ワズリアンに連なる者であり、強力国境警備隊を抱えながら、ナアンの領地しか与えられない。ガズがそのことに対して不満をぶつけることがあった。その度にラズはなだめていた。
まさか、ワズリアンの王女に手を出すとは思わなかった。
弟の計画に気がつかなかった自分をラズは責めていた。
兄として、ナアン領主としてガズの計画を止める必要があった。
★
タラの力量は計り知れない。三人相手に立ち回りながら、逃げ道を切り開いた。
「この!」
地面に倒れされたペリが悔し紛れにナイフを投げた。それはタラのわき腹をえぐって落ちる。しかし足を止めるにはいたらなかった。
「タラ!タラ!」
「だ、大丈夫です」
タラは痛みに顔をしかめながらも、走り続けた。
「タラ!」
何もできない。自分はただタラに守られるしかないと、とアミアにかかった呪いを恨んだ。
★
「なんだと!」
無理やり使用人から事の真相を聞きだしたケシは、ぎりっと奥歯をかみ締める。
ラズの弟ガズが裏切った。
領民を賊に偽装させ、ケシを襲わせたのもガズの仕業であることがわかり、使用人達のケシへ敵意は消えた。領民と兵士は複雑な思いのようだ。
「いつ発ったんだ」
「正午くらいです」
「俺も後追う」
ケシは自分の状態も忘れて、力を入れた足を踏み出す。が、あまりの苦痛にその場にしゃがみ込んだ。足はまったく使い物にならないようだ。森など歩ける状態ではないだろう。
「くそっつ」
怒りを露わにし、拳を床に叩きつける。
木製の床が音を立てて、壊れる。だが、ケシの拳も痛み分けであった。皮がさけ、血が流れ出る。
アミア、無事でいてくれ。
ケシは血が流れ出る拳を抱えながら、祈るしかなかった。
★
「川が見えました!」
先を走らせていた兵士が報告する。
「しかし、ガズ様の姿はなく、舟はまだ置かれたままです」
「それでは、まだ森の中にいるわけか」
ラズは十人の兵士を引き連れ森に入っていた。
「よし。ここに五名残す。ネン、お前とその部下はこちらでガズに備えろ。あとの五人は俺について来い。森を探索する。デリ、先ほど通った野営の場所へ。そこからガズの後を追ってみる」
「はい」