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 ぼくは長いストローになって、ベッドの上で彼の左腕を枕にしながら微睡《まどろ》んでいた。普段閉ざされているはずの出口からはファン・ヒーターの温風が入り込み、鼻口からは吸い込んだ冬のひんやりとした空気が食道を通り抜けていく。温度の違う上下からの気体が、ストロー中央部にあたる胃で混ざり合った時、ぼくのお腹の虫は小さく鳴った。
「俊人《しゅんと》、お腹が空いたのか?」
 頷きながらそっと吐き出した息にのせて、ぼくは「ああ」とだけ呟き、彼の頬に舌先をそっと這わせた。恵介と互いの胸を寄せ合ってゆっくりキスをすると、やがて二人の息づかいはぴったり重なり合う。ぼくの大好きな瞬間だ。
 彼の部屋で朝を迎えたこの平穏な一瞬にも、地球上のいたる場所では、幾千万もの人間がまた一人と産声を上げて誕生し、そしてまた一人と衰えた者たちが静かに息を引き取っていく。そんな当たり前の事実が、小学生の頃のぼくにとっては一大発見だったことをキスの最中にふと思い出す。
 当時、教室の丸い掛け時計の秒針が一つ進むごとに、その現実が絶えず繰り返されていると思うだけで、まだ幼いぼくには空恐ろしかった。すぐに休み時間になり、クラスメートたちにその発見をこっそり打ち明けると、彼らの反応はぼくと同様に驚き仰天するか、ただ笑って呆れるかだった。もちろん、大人になった今は、人間に限らず、様々な動物や魚、そしてその他すべての生きものがこの瞬間に生き死にしていると解る。
 恵介の方が先にキスには満足したようで、ぼくから離れてそのまま何も纏わない姿でキッチンへ行き、朝食の準備を始めた。仕方なく同じ格好のぼくも左手で股間を隠し、暗い部屋に光を取り込むべく起き上がった。
 時刻は午前七時半過ぎ。東の窓と、南に面したヴェランダのカーテンを開けると、遠く湾岸方面にまた一つ建設中の新しいオフィス・ビルが、もっと空に届けと言わんばかりにそびえ始めたのが目視できた。
 肝心の空はまだ青いというよりも白っぽく滲んでいるだけだったが、窓の外にはすでに年末らしい冬晴れの気配があった。低い朝の陽射しが床の上を這うように淡く照らす。ぼくらは厚手の毛布に包まりながらベッドに腰掛け、厚切りのバター・トーストとコーヒーで手早く朝ご飯にした。
 たいして若くもなく、かといってそれほど年老いてもいない裸の男二人が、キツネ色にトーストしたパンを黙々とつまみ、時折コーヒーを飲んでいる。ぼくは右手の人差し指でバターをパンの表面に塗り溶かしながら、その光景を天井から鳥のように俯瞰してみようと考えた。
 まず、この八畳の部屋に並んだぼくらの黒髪の頭頂部が見える。そして、肩回りのがっしりとしている彼のほうが一回り大きい。でも、ズーム・アウトしていってこの十階建ての単身向けアパートの屋上越しに透視すると、五階にいるぼくらの大きさに際だった差はほとんどなくなり、やがてぼくらは二つの小さな点になった。
「海苔もあるよ」
 ぼくらが半分ほどパンを食べ終えた頃になって、恵介が思い出したようにぽつりと言った。わざわざ冷蔵庫までダッシュして海苔缶を取ってきてくれたので、今度は磯の香りのする海苔バター・トーストが二人の胃の中へ吸い込まれていく。もうすでにぼくの俯瞰レンズは、遙か上空の大気圏外まで到達し、日本列島や東アジアの海岸線をも識別できた。もはやぼくらの姿は跡形もない。
 一体、この地球上でのぼくらのささやかな朝食のやり取りは、そんな果てしない宇宙の営みとどれだけの相関関係を持っているのだろうか?
「俊人は自分が生きていることに何らかの意味合いを持たせたいのかい?」
 恵介が海苔バター・トーストを一枚食べ終えて尋ねる。
「なんでだろうと世界を疑い出すと、最後はなんで自分は生きているんだろうかという問題に行き着いちゃうんだぞ」
 わざとからかうように彼は言ったが、ぼくは話を続けた。
「人間誰もがかけがえのない存在だといっても、それが太陽系や銀河系、さらにはもっと広大な宇宙全体とどんなつながりがあるのかなと思ったんだよ。仮にぼくが一人いなくなっても、宇宙はきっと痛くも痒くもないだろうしさ」
「俊人がいなくなったら、とりあえずおれは寂しくなるな。セックスの相手がひとりいなくなってしまうから。いや、真面目な話、宇宙があったから人間が存在するようになったんだ。その逆じゃない」
「そうだとしたら、ぼくらはまるでかつての恐竜と一緒だね。地球の歴史上にぽつんと存在しているだけで、長い目で見ればただの通過点を生きているに過ぎないんだ」
 ぼくの話を恵介は神妙な様子になって聞いていた。彼は半分残していたマグ・カップのコーヒーをゆっくりとまた一口含むと、ぼくに言った。
「君の言うとおり宇宙は広大すぎて、誰も全体の仕組みを知る人はいない。だから、君の疑問は火星人が本当にいるのかという問題と似ているかもしれないね。彼らは存在するのかもしれないし、しないのかもしれない。とりあえず人間はその謎を解明できていないけれど、おれたちはそのどちらともいえない可能性を所与の条件として、今を生きているんだ。わかるかい? 現在の人間の知識では、まだまだ宇宙は不思議なことだらけなんだよ」
「そうだとすると、人間が悩んだりすることと宇宙の営みとの間には、何の繋がりもないんだろうか?」
 そこまで言って、ぼくは急に正気づいて恥ずかしくなる。
「なんだかいい歳をして、ぼくはとってもセンチメンタルなことを言っているみたいだね」
「別におれといるときは気にすることはないさ。それはつまりどういうことかい?」
 ここでぼくは少し頭の中を整理する時間が欲しくなってしまった。一度そこでぼくらは会話を中断すると、おもむろに腕をぐいと伸ばして、ベッドの横に落っことしたままだった自分たちのボクサー・パンツを手繰り寄せた。すっかり小さくなったペニスを隠すように履き直したところで、また話に戻る。
「ぼくは理系の天才でもないし、科学者でもないから難しいことはよく知らないけど、百三十八億年経った宇宙の通過点にいるだけのはずの人間が悩んだりするなんて、ものすごく不思議なことじゃないか。ぼくらは宇宙そのものさえ何だろうと考えたりもするんだよ。宇宙はその定めにただ従うべく刻々と進化を続けているだけなのに、そこに生きている人間は日々答えの出ない問題に悶々としているなんて、何か相容れないような気さえするんだよ。たとえば、恵介は恒等式って覚えてるかい? 中学生の頃に習ったと思うんだけど」
「『x=x』みたいのだろう」
 ぼくはそれを聞いて頷く。
「たとえば、自分の抱えている悩みをxについての方程式になぞらえてを解いてみると、実はすべてのxについて成り立つ恒等式だったということが、ぼくには昔からよくあったんだ。答えがはっきりと一つにならないなんて、どうしていいか解らなくなるよ」
 何か困難にぶち当たった時、ぼくにとって最も怖いのは、自分が置かれている状況ではなく、むしろその現状を変える手立てがないことだった。
 恵介はしばらく考え込んだように、また少し残ったコーヒーを真剣な顔で啜り、マグ・カップを床の上に戻すと、謙遜しながら言った。
「おれだって別に科学や数学の専門家じゃないけど、俊人はきっと『x=7』のような一つの実数解を、ずっと探し求めていたんだね。そんな時はあまり思い詰めずにこう考えてごらん。すべてのxについて成り立つということは、その悩みには意味があるということかもしれないよ」
 ぼくは一瞬言われたことの意味がわからずにポカンとしたが、すぐにうれしさが込み上げてきて、彼をベッドの上にいきなり押し倒すやいなや、唇、頬、額と、恵介の顔中に余すところなくキスを浴びせてしまった。
「急にどうしたんだよ、俊人?」
「お願いだから、恵介の話をもっと詳しく聞かせてよ」
 そう彼の耳元で囁くと、恵介はこれまで付き合ってきた中で一番照れくさそうな表情を浮かべた。
「おれも君と同じように実数解の出ないような日常の問題に悩むことはよくあるさ。だけど、以前に比べたらそのせいで投げやりになることはかなり減ったような気がするなあ。それまでは消去法の人生だったのさ。自分が本当はどうしたいのかいつもわからず、これでもない、あれでもないを繰り返していたから……」
「ねえ、恵介」思わず叫んだ。「消去法って裏を返すと、不等式を増やしていくことに似ていないかい?」
「何か閃いたの?」
 恵介がこちらの眼を反射的に覗き込むようにして訊く。
「消去法で選択するにしても、自分の中で何らかの価値判断をしていることに変わりはないだろう? だとしたら、自分にとっての信条や経験、境遇なんかも、『1<x<6』や『y>-5』といった不等式に置き換えて一つずつ加えていけば、xとyの座標平面上に自分だけの領域を描けるんじゃないだろうか」
 言葉が溢れ出るまま喋りきって、ぼくは恵介の反応を待つ。
「その領域っていうのは、まるで誰もが内に秘めている可能性のフロンティアみたいだな」
 にこりと笑いながら彼がそう呟いた瞬間、ぼくはもう宇宙の果てからこの地球を俯瞰することを忘れ、もとの地上に舞い戻っていた。
 南東から差し込んでくる陽光は八時を回って輝きを増し、透かしの白いカーテンを通してぼくらが身を預けているベッドに光と影のアラベスクを作る。二人はそれぞれ違う細かな模様を体の表面に浮かべて横たわりながらも、同じ一つのキャンバスであるベッドの上で顔を向け合っている。自分の顔を自分では見ることができないように、自分の領域も自分では己の視界にその全部を捉えられないのかもしれない。そんな時、ぼくらは互いの不等式になって助け合うことができるのだろう。
 恵介とこうして寄り添っている間にも、この世界という座標平面上のどこかで、ぼくのフロンティアは微かな音を立てて蠢いているのかもしれない。ずっと燻ることに甘んじながらも、常に顔を上げて時が来るのを人知れず待っている。
 ぼくはゆっくりと彼を抱き寄せて、彼の短い癖毛の頭や背中を何度もそっと撫でた。二人が密接して身を寄せ合えば、ほんのりと熱を帯びた互いの皮膚の間《あわい》から一つの不等式が浮かび上がる。きっと今のぼくらなら、それをこの世の中に描き出す準備ができているはずだ。
                                      了
                                             

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